Why should we teach our kids mindfully and understandably in
classroom?
【なぜ学生にわかりやすく説明しなければならな いのか?】
俺達が、大学で「学生たちにわかりやすく説明しなさい(=教授しなさい)」とFDで、講師のアホづらした先生に訓育されるようになる系譜的 (genealogical)由縁は、意外と古いようだ。
アウエルバッハの言によると、神(キリスト)は自分の教えを智恵ある人にではなく、身分の低い市 井の人に説いたからだ。新約聖書の破壊力とは、そのような分かりやすい言葉で書かれているファンタジーめいた叙述の中に、おそるべき「至高の真理」が隠さ れていることを、【後に】異教の教養人たちが発見したことに由来するというわけだ。我々の大学教育には、その系譜を受け継 いでいる(genealogical tradition→"Mimesis: The Representation of Reality in Western Literature")。
つまり、知識による【信念の改宗】を可能にすることが、大学の本来の機能だからだ。だから真のFDとは、学生に分かりやすく説明することが自己 目的となすのではない。そうではなく、知識を身に付けた学生が、自分が学んだことを教授の耳もとで【信仰告白】する際に、それが他ならぬ自分が教えていた ことであり、その真理の崇高さに驚愕するための準備に備えることなのだ。
そこでは、知恵者は愚者に、愚者は知恵者であったことが明らかになる。大学という 空間は、表面的な上意下達を実践する場ではなく、知識の崇高さは下意上達にあるということを幾度も幾度も繰り返される場なのだ。
学生たちは、まず、自分たちが教室で《教師に監視さ
れている存在》であり、成績管理をとおして《大学と保護者に管理されている存在》であり、キャンパスの外を歩くと《警察と社会により監視されている存在》
であることをについて自覚するように、もっとも下級の看守である教師から教えられなければならない(→「情報リテラシー論」)
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文献
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