はじめによんでください

カント先生による悪についての講義

On Evil by I. Kant

池田光穂

■悪の原理が善に内在すること、あるいは人間の本性における根本的な悪について

■ 「世界は悪の中にある」というのは、歴史と同じくらい古く、より古い芸術である詩と同じくらい古い。黄金時代であれ、エデンでの生活であれ、あるいは天人 た ちとのさらに幸福な共同体であれ、世界が良い状態から始まったことは誰もが認めるところである。しかし、この幸福は夢のように消え去り、悪への堕落(肉体 的な悪と手を取り合った道徳的な悪)が人類を悪から悪へと加速度的に急き立てた。インドのある地域では、世界の審判者であり破壊者であるルドラ(シワまた はシヴァと呼ばれることもある)が、すでに君臨する神として崇拝されている——世界の維持者であるヴィシュヌは、何世紀か前に疲弊し、創造主であるブラフマンから受け継いだ最高の権威を放棄した。 この信念は、世界は着実に(ほとんど気づかないほどだが)悪い方向から良い方向へ、つまり悪い方向から良い方向 へと向かっている。しかし、この信念が道徳的な善悪(単に文明化の過程ではなく)に適用されるものであるとすれば、それは経験から導き出されたものではな いことは確かである。この信念は、セネカからルソーに至るまで、モラリストの善意の思い込みであり、私たちの中にある善の種を丹念に育てることを奨励する ためのものである人間が生まれながらにして健全な肉体を持っていることは当然として、魂も同様に健全で悪から自由であるべきである。それなら、自然そのものが、善に対する道徳的な素質を私たちに芽生えさせるために、力を貸そうとするのではないだろうか。セネカの言葉を借りれば 自然は、直腸(はらわた)の中に悪意を持っているのであり、それが健全であれば、悪意は取り除かれるのである。

■つまり、人間という種は善人でも悪人でもない、あるいは少なくとも、善人でも悪人でもあるということだ。しかし、私たちが人間を悪と呼ぶのは、彼が悪である(法に反する)行為を行うからではなく、それらの行為が、そこから私たちが彼の中に悪の極意が存在すると推測できるような性質のものだからである。 しか し、人の極意は、時にはその人自身の極意でさえも、このように観察することはできない。ある人間を悪人と呼ぶためには、その悪を自覚して行われたいくつか の悪行から、あるいはそのような一つの行為から、根底にある悪の極意を先験的に推論することが可能でなければならない。さらに、この極意から、すべての特 定の道徳的に悪である極意の根底にある共通の根拠、それ自体が極意であるものが、その行為者の中に存在することを推論しなければならない。

■ もしそれが(通常そうであるように)行為の基礎としての自由の反対を意味するならば、道徳的に善か悪かという述語と真っ向から矛盾することになる性質とい う表現に、すぐに困難が生じないように、ここで「人間の性質」というのは、人間の自由一般を(客観的な道徳的法則のもとで)行使する主観的な根拠のみを意 味していることに留意されたい。この根拠は-その性質が何であれ-感覚に明らかなあらゆる行為の必然的先行物である。しかし、この主観的な根拠は、やは り、それ自体が常に自由の表現でなければならない(そうでなければ、道徳法則に関する人間の選択権の使用や乱用は、人間に帰属することができず、また、人 間の中の善や悪を道徳的と呼ぶこともできないからである)。それゆえ、悪の根源は、傾倒によって意志を決定する対象にも、自然的衝動にもありえない。しか し今、この極意がその反対の極意よりもむしろ採用される主体的な根拠を人間に問うことは許されないと考えてはならない。もしこの根拠そのものが究極的には 格言ではなく、単なる自然的衝動であるならば、我々の自由の使用を完全に自然的原因による決定にまで遡ることは可能であろう。しかし、これは自由の概念そ のものに矛盾する。人間は生まれながらにして善である、あるいは人間は生まれながらにして悪である、と我々が言うとき、これは、善の極意あるいは悪の極意 (すなわち、法に反するもの)を採用する究極的な根拠(我々には不可解なもの)*が彼の中にあり、人間である彼はこれを持っている、ということだけを意味 する。

■ したがって、人間を他の理性的存在と区別する性格(善または悪)については、それは人間に生得的に備わっているものだと言おう。しかし、そうすることに よって、われわれは、(それが悪であれば)自然がその責めを負うべきでもなく、(それが善であれば)人間がその手柄を立てるべきでもないという立場をとる ことになる。しかし、われわれの公理を採用する究極的な根拠は、それ自体、自由な選択にあるはずであり、経験において明らかにされる事実ではありえないの で、人間における善または悪は、(道徳律に関連して、この公理またはあの公理を採用する究極的な主観的根拠として)この意味においてのみ生得的と呼ばれる のであり、それは、経験における(誕生にさかのぼる最も早い青年期における)あらゆる自由の使用に先立つ根拠として仮定され、したがって、誕生時に人間に 存在するものとして考えられるのである-ただし、誕生がその原因である必要はない。

■観察

■ 上記の2つの仮説の対立は、二項対立の命題に基づいている: 人間は(生まれつき)道徳的に善であるか、道徳的に悪であるかのどちらかである。しかし、この二項対立が妥当かどうか、また、人間は生まれながらにしてそ のどちらにも当てはまらないと主張する人もいれば、ある面では善であり、ある面では悪であると主張する人もいるのではないかという疑問は、誰にでも容易に 思いつくことであろう。実際のところ、経験は両極端の中間を実証しているように思われる。

■ しかし、倫理学一般にとって、行為(adiophora)であれ人間の性格であれ、道徳的に中間的なものを可能な限り認めないようにすることは大きな意味 を持つ。このような厳格な思考様式を好む人々は、通常、厳格主義者と呼ばれる(この名称は非難されることを意図しているが、実際には賞賛されている)。後 者はまた、無関心主義者と呼ぶべき中立の批評家か、シンクレティストと呼ぶべき協調の批評家である*。

■ 厳密主義的診断**によれば、問題の答えは、道徳にとって非常に重要な、意志の自由は、個人がそれを自分の最大公約数に組み込んでいる(それを自分の行動 規範としている)限りにおいてのみ、誘因が意志を行為に向かわせることができるという点で、完全に独特な性質を持っているという観察に基づいている。しか し、理性の判断によれば、道徳律はそれ自体インセンティブであり、これを自分の最大公約数とする者は道徳的に善である。仮に、この法則が、法則を参照する 行為の場合に人の意志を決定しないとすれば、法則に反する誘因がその人の選択に影響を与えなければならない。仮説によれば、このようなことは、人がこの誘 因(ひいては道徳法則からの逸脱)を自分の最大公約数に採用する場合にのみ起こりうるので(この場合、その人は悪人である)、道徳法則に関するその人の性 質は決して無関心ではなく、善でも悪でもないということになる。

■ 人間は、ある点では道徳的に善であり、同時に他の点では道徳的に悪であるということはありえない。それゆえ、もし彼が同時に、別の仕方で悪であったとした ら、彼の最大公約数は、本質的に単一かつ普遍的である義務への服従という道徳律に基づく普遍的なものでありながら、同時に特殊なものでしかないことにな る。

■ 先天的な自然体質として善または悪の気質を持つということは、ここでは、それを持つ人間が後天的に獲得したものではない、つまり、彼がその作者ではない、 ということを意味するのではなく、むしろ、それが時間の経過とともに獲得されたものではない(若い頃から常に善または悪であった)ということを意味する。 気質、すなわち、極意を採用する究極的な主観的根拠は、ただ一つであり、自由の使用全体に普遍的に適用されうる。しかし、この気質そのものは自由な選択に よって採用されたものでなければならない。というのも、そうでなければ、この気質そのものを帰属させることはできないからである。しかし、この気質が採用 された主観的な根拠や原因をこれ以上知ることはできない(しかし、それを調べることは避けられない)。それゆえ、私たちはこの性質というか究極的な根拠 を、時間的な意志の原初的な行為から導き出すことができないので、私たちはこれを意志の性質と呼び、それはもともと意志に属するものである(実際には、こ の性質は自由を根拠としているが)。さらに、私たちが「彼は生まれながらにして善である、あるいは悪である」と言う人間は、一個人としてではなく(そうで あれば、ある人間は生まれながらにして善であり、別の人間は悪であると考えることができるからである)、人種全体として理解されるべきである。私たちにそ のような権利があることは、人類学的研究が、人間に生まれつき備わっているこれらの性質の一つを帰属させることを正当化する証拠が、誰をも除外する根拠を 与えないようなものであり、したがって、その帰属が人種についても成り立つことを示すときにのみ証明できる。

出典:カント「たんなる理性の限界における宗教



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