宮沢賢治の明治大正昭和
Kenji Miyazawa, 1896-1933, and modern Japan
Kenji MIYAZAWA, in 1920s, 1896-1933.
宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字: 宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日 - 1933年(昭和8年)9月21日):「仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、 イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に 高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者が存在」
宮沢賢治(ウィキペディアによる) | 西暦 |
宮沢賢治が生きた時代や世界(ウィキペディアなどによる) |
1870 |
明治3年7月10日(1870年8月6日)、盛岡藩は財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出、旧領には明治政府により盛岡県が設置された。盛岡県成立時の管轄地域は陸中国岩手郡、稗貫郡および紫波郡、和賀郡の一部のみで、新政府に敗れる前の盛岡藩より大幅に縮小 |
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1872 1875 |
明治5年1月8日(1872年2月16日)には盛岡県から岩手県に改称 1875「樺太千島交換条約」サハリン全島がロシア領に。 |
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1876 |
第2次府県統合で磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入したが、前者はおおむね旧仙台藩領であり、旧藩が分断された状態は是正されず。1月に最初の県議会が開かれ、5月に岩手県が成立した。県名はそれまでの県庁所在地の郡名を採って付けられた。 |
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1896年(明治29年)8月27日、
父・宮澤政次郎と母・イチの長男として生まれる。5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生。イチは賢治を収容したエジコ
(乳幼児を入れ守る籠)
を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという[5]。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた。 |
1896 |
前年、1895年下関条約締結、三国干渉 |
1897 |
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1898 |
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婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していた | 1899 |
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1900 |
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1901 |
八幡製鉄所を建設(清から賠償金) |
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赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなる |
1902 |
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花巻川口尋常小学校(2年後に花城尋常小
学校へ改名)に入学。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川の翻案によるマロ作『家なき
子』)や『海に塩のあるわけ』(民話『海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた[9]。後に賢治は八木と再会した折に
「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている |
1903 |
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1904 |
日露戦争。ポーツマス条約。樺太の北緯50度以南の日本への割譲。日本政府の樺太経営がはじまる。 |
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1905 |
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1906 |
樺太民政署は、11月17日には竣工、12月1日にはコルサコフ(大泊)-ウラジミロフカ(豊原)間43.3kmで鉄道の営業を開始する。 |
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11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした |
1907 |
金田一京助、樺太に最初のフィールドワーク。 3月15日樺太民政署に代わって樺太庁が発足。 |
・綴り方「遠方の友につかはす」 ・綴り方「皇太子殿下を拝す」 |
1908 |
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岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学
校)に入学。。寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。
家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく[13]。鉱物採集や星座に熱中、岩手山、南昌山、鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大
量の岩石標本を集めた ・綴り方「冬季休業の一日」 |
1909 |
伊藤博文、ハルピンで安重根に殺害 |
1910 |
日韓併合条約締結 |
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1911 |
関税自主権を回復 |
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3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作。「歎異鈔」を読み感動。 |
1912 |
[7月29日] 明治天皇崩御 護憲運動がおこる ・花巻に電燈がつく |
4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する |
1913 |
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1914年(大正3年)3月、盛岡中学卒
業。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染
して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚し
たいと申し出たが「若すぎる」という理由で反対される[17][18]。政次郎は「あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ…」と困惑した
[17]。実家で店番や養蚕の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は盛岡高等農林学校への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、
受験のため猛勉強に励んだ[19]。同時期に、島地大等訳『漢和対照 妙法蓮華経』を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受ける |
1914 |
・第一次世界大戦開戦 |
盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)
に首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮。16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読した。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土
壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる |
1915 |
岩手軽便鉄道開通 |
特待生に選ばれ授業料を免除。 |
1916 |
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7月、保阪、小菅健吉、河本義行(河本緑石)らと同人誌『アザリア』を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿 「銀縞」で短歌「雲ひくき峠等」を発表 短歌「みふゆのひのき」短編「『旅人のはなし』から」 |
1917 |
ロシア革命 |
卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生と
して農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』[2]を提出し、検査延期を拒否。化学工
業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった[28]。3月13日、保阪嘉内が『アザリア』に発表し
た作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった[27]。15日に農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる
[29]。これは関からの推薦によるものであった[26]。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった
[30]。またこの頃から5年間、菜食生活をする[31]。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除[27]。6月30日、岩手病院で
肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。このため退学を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した[32]。7月4日、花巻に帰省する際、見
送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという[33]。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している。
12月26日、東京に進学した妹のトシが東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館「雲台館」
に泊まる。3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する[34]。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断される ・断章「復活の前」 ・短編「峯や谷は」 ・童話「蜘蛛となめくじと狸」「双子の星」 |
1918 |
(8月)・シベリア出兵(~1922) スペイン風邪が全世界で大流行(~1920年) |
1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また国柱会館で田中智学の講演を聞き、盛中同級生の阿部孝(当時は東京帝大文学部在学、後に高知大学学長)から萩原朔太郎の『月に吠える』を借りる[36]。
父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反
対[37]。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた「便利瓦(布にアスファルトのようなものを塗っ
たトタン板の代用品)」が良く売れ、賢治はその儲けでレコードや浮世絵を購入した[38] ・無署名「手紙」 |
1919 |
朝鮮で三一独立運動 |
5月、農林学校研究生を卒業。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する[39]。田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破、国柱会に入信。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く[40][41]。また浄土真宗の門徒である父を折伏しようと激しい口論を繰り返した[42][43]。 ・短編「猫」「ラジュウムの雁」「女」 |
1920 |
国際連盟発足 |
1月23日夕方、東京行きの汽車に乗り家
出。翌朝、上野駅に到着して鶯谷の国柱会館を訪ね、「下足番でもビラ張りでもする」と頼みこむが、応対した高知尾智耀になだめられ、父の知人の小林六太郎
家に身を寄せる[44]。本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所「文信社」に勤める[注釈
4]。高知尾の勧めで「法華文学」の創作に取り組む[注釈
5]。1か月に三千枚もの原稿を書いたという。食事はじゃがいもと豆腐と油揚げで、夜は国柱会館の講話を聞き、昼間の街頭布教にも参加した[46]。保阪
嘉内には入信を勧める手紙を度々送った。心配した父の政次郎が小切手を送ったが送り返した[45]。4月、政次郎と伊勢、比叡山、奈良を旅する。政次郎は
法華経と国柱会への固執を見直させようとしたが、賢治の心は変わらなかった[47]。7月、保阪と決裂、以後は疎遠になる。8月中旬、「トシビョウキスグ
カエレ」の電報を受け取り、原稿をトランクに詰めて花巻に戻る[48]。家族には原稿を「童子(わらし)こさえるかわりに書いたのだもや」と語ったという
[49]。12月3日、稗貫郡立稗貫農学校(翌年に岩手県立花巻農学校へ改称)の教諭となる。地元では「桑っこ大学」と呼ばれた小さな学校だった
[50]。雑誌『愛国婦人』12月号に連載。 ・童話「あまの川」 ・童話「雪渡り」 ・「竜と詩人」「かしはばやしの夜」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」「月夜のでんしんばしら」「注文の多い料理店」「狼森と笊森、盗森」 |
1921 |
(11月)原敬暗殺事件 |
・1月号に「雪渡り」掲載。この時受け取った原稿料5円が生前唯一の原稿料という[51]。農学校の給料80円はレコード、書籍の購入、飲食などにあてた。
下宿代として家に20円入れていたが、それも何かと理屈をつけてまきあげる。それでも3日ももてばいいほうで、本屋でツケで買った上、現金を借りることも
あった。同僚の奥寺五郎(1924年死去)が結核になると毎月30円送っている[52]。また花巻高等女学校の音楽教師・藤原嘉藤治と親交を結び、レコー
ド鑑賞や飲食を楽しんだ。 ・11月27日、結核で病臥中のトシの容態が急変、午後8時30分死去。賢治は押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号泣[54]、亡骸の乱れた髪を火箸 で梳いた[55]。『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』を書く。29日の葬儀は真宗大谷派の寺で行われたため賢治は出席せず、出棺の時に現れて棺を担ぎ、 持参した丸い缶にトシの遺骨半分を入れた。この遺骨は後に国柱会本部に納めた[56]。それから半年間、賢治は詩作をしなかった。 ・『永訣の朝』 ・『松の針』 ・『無声慟哭』 ・心象スケッチ「屈折率」、「くらかけの雪」を書き、『春と修羅』制作開始。「水仙月の四日」創作。「小岩井農場」「イギリス海岸」 |
1922 |
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7月、農学校生徒の就職依頼で樺太を旅行。『青森挽歌』『樺太挽歌』などトシを思う詩を書く。 ・「北の果てサガレンとは?」を『岩手日報』に11回にわたって掲載。 『やまなし』 『氷河鼠の毛皮』 『シグナルとシグナレス』 ・詩「青い槍の葉」——国柱会機関紙『天業民報』 ・「土神と狐」(推定) |
1923 |
[9月1日] 関東大震災 ・北海道稚内市の稚内駅から大泊港駅の間を結ぶ稚泊連絡船が開かれる。 |
2月童話「風野又三郎」の原稿筆写を教え子に依頼。「空明と傷痍」を書くことにより詩集『春と修羅』第二集の作品が始まる 4月20日、『心象スケツチ 春と修羅』刊行。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した(定価2円40銭)。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関 根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという[59][60]。本は売れず、賢治も ほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が『読売新聞』に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌『日本詩人』12号で若い詩人 に「宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう」と例に挙げた[61]。中原中也は夜店で5銭で売っていた『春と修羅』のゾッキ本を買い集め、知人に配っ ている[62]。 ・8月「飢餓陣営」「植物医者」「ポランの広場」「種山ケ原の夜」を上演 同年12月1日、『イーハトヴ童話・ 注文の多い料理店』刊行(定価1円60銭)。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用 の工面に苦労しながら東京で印刷・製本した。出版社「光原社」の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った [63][64]。本の挿絵を担当した菊池武雄は『赤い鳥』主宰の鈴木三重吉に『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』を送ったが「あんな原稿 はロシアにでも持っていくんだな」と返された[65]。 ・「銀河鉄道の夜」初稿 ・「 注文の多い料理店」 |
1924 |
第二次護憲運動 |
1月、『赤い鳥』に『注文の多い料理店』の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった[62]。7月、詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加する。 11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ(クルミの古種)化石の学術調査に協力。 この場所を賢治は「イギリス海岸」と名付けていた[66]。4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意。 | 1925 |
(4月)治安維持法 (5月)普通選挙法が制定 |
3月31日、花巻農学校を依願退職。弟宛
ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いている。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾し
て畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップやヒヤシンスの花を咲かせた。賢
治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう[68]。野菜を勝手に持っていかれて
も笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている[69]。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩
に残している[70]。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6
月『農民芸術概論綱要』起稿[71]。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。
また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている[72]。12月2日、上京。
タイプライター、セロ、オルガン、エスペラント語を習い、観劇をする。資金は父親頼みだった。18日、高村光太郎を訪ねている。年末帰花[73]。 ・『農民芸術概論』 ・『オツベルと象』 ・『ざしき童子のはなし』 ・『猫の事務所』 |
1926 |
(12月25日)大正天皇崩御 |
2月1日、『岩手日報』夕刊二面で「農村
文化の創造に努む/花巻の青年有志が/地人協会を組織し/自然生活に立ち返る」の見出しで賢治の活動が紹介される。これが社会主義教育と疑われ、花巻警察
の聴取を受ける。以後、羅須地人協会の集会は不定期になり、オーケストラも一時解散した[74]。この頃、小学校教員の高瀬露(1901
-1970)という女性が協会にしばしば通ってくるようになる。高瀬は賢治の身の回りの世話をしようとしたが、賢治は居留守を使ったり、顔に灰を塗って出
てきたりするなどして彼女の厚意を避けようとした。協会に人が集まった時、高瀬はカレーライスを作ってもてなしたが、賢治は「私には食べる資格がありませ
ん」と拒否。怒った高瀬はオルガンを激しく引き鳴らした[75]。その後、彼女は賢治の悪口を言って回るようになったが、父の政次郎は「はじめて女のひと
にあったとき、おまえは甘い言葉をかけ白い歯を出して笑ったろう」と賢治の態度を叱った[76]。 ・「ポラーノの広場」執筆時期 |
1927 |
(3月)南京事件 |
6月、胆沢郡水沢町(現在の水沢市)の豪 家出身で、伊豆大島に住む伊藤七雄を訪問。伊藤は結核療養のため大島に移り、ここに園芸学校を建設するにあたって賢治の助言を得るため相談していた (1931年伊藤の死去に伴い学校は消滅した)[77]。この訪問は伊藤の妹・チヱとの見合いの意味もあったが、チヱの回想によれば賢治は結婚について全 く眼中にない様子だったという[78]。肥料相談や稲作指導に奔走していたが、8月10日、高熱で倒れ、花巻病院で両側肺湿潤との診断を受ける。以後、実家で病臥生活となる。 | 1928 |
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実家で病臥生活 | 1929 |
世界恐慌 |
体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる[82]。5月、東磐井郡の陸中松川駅前にあった東北砕石工場主の鈴木東蔵が来訪。鈴木は石灰岩とカリ肥料を加えた安価な合成肥料の販売を計画しており、賢治も賛同する[83]。 |
1930 |
ロンドン海軍軍縮会議 |
森荘已池を訪ねた賢治は「伊藤さんと結婚
するかもしれません」と話している[79]。2月21日、東北砕石工場花巻出張所が開設。父の政次郎は病弱な賢治を外に出すのを心配し、工場に融資を行っ
て花巻に出張所を作り、仕事をさせようとの考えだった[84]。しかし技師となった賢治は製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り・販売などで東奔西走
する[85]。農閑期、石灰は売れなくなる。そこで賢治は石灰を壁材料に転用することを考え、9月19日、40キログラムもの製品見本を鞄に詰めて上京す
る。翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」[注釈
6]に泊まるが高熱で倒れ、死を覚悟して、家族に遺書を書く[87]。27日、最期の別れのつもりで父親に電話をかける。政次郎は東京の小林六太郎に頼
み、翌日賢治は花巻に戻って、すぐ病臥生活となる。11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く[88]。冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎
じたものを飲むだけ ・『雨ニモマケズ』 ・「風の又三郎」執筆時期 |
1931 |
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高瀬露、4月11日、神主の小笠原牧夫と結婚し、小笠原姓となる。3月、『児童文学』第二冊に「グスコーブドリの伝記」発表。挿絵は棟方志功[注釈 7]。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む[90]。 ・「グスコーブドリの伝記」 |
1932 |
(3月)満州国を建国 五・一五事件 |
9月17日から19日まで鳥谷ヶ崎(とや
がさき)神社のお祭りが行われ、賢治は門口に椅子を出して座り、神輿や山車を見物した。翌日の朝、昨夜賢治が門口にいるのを見た農民が相談に来た。話をし
た後、賢治は呼吸が苦しくなり、往診した医者から急性肺炎の兆しと診断される。その夜、別の農民が稲作や肥料の相談にやって来る。賢治は着物を着換え1時
間ほど丁寧に相談に乗った後、すぐ二階の病室に運ばれた。心配した清六が付き添って一緒に寝たが、賢治は「この原稿はみなおまえにやるから、もし小さな本
屋からでも出したいところがあったら出してもいい」と話した[93]。
9月21日、午前11時半、突然「南無妙法蓮華経」と唱題する声が聞こえたので家族が急いで二階の病室に行ってみると、賢治は喀血して真っ青な顔になって
いた。政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」「私の一生の仕事はこのお経をあなたの御
手許に届け、そしてあなたが仏さまの心に触れてあなたが一番よい正しい道に入られますようにということを書いておいてください」と語った。政次郎が「おま
えもなかなかえらい」と答えて階下に降りると、賢治は清六に「おれもとうとうおとうさんにほめられたものな」と言った。病室に残ったイチが賢治に水を飲ま
せ、体を拭いてやると「ああいい気持ちだ」と繰り返し、午後1時半、呼吸が変わり潮がひくように息を引き取った。没時年齢は満37歳[93][94]。葬
儀は宮沢家の菩提寺で営まれた。 |
1933 |
(3月)国際連盟脱退 |
『宮沢賢治全集』文圃堂(1934年 - 1935年)全3巻 |
1934 |
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1935 |
天皇機関説事件 |
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1936 |
二・二六事件 |
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1937 |
『のらくろ総攻撃』が公刊。 |
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1938 |
(4月)国家総動員法が制定 |
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『宮沢賢治全集』十字屋書店(1939年 - 1944年)全6巻別巻1 |
1939 |
(9月1日)第二次世界大戦開戦 |
1940 |
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1941 |
(12月8日)真珠湾攻撃→太平洋戦争開戦 |
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1942 |
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1943 |
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1944 |
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1945 |
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1946 |
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1947 |
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1948 |
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1949 |
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1950 |
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1951 |
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1952 |
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1953 |
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1954 |
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1955 |
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『宮沢賢治全集』筑摩書房(1956年 - 1958年)全11巻別巻1 |
1956 |
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1957 |
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『雨ニモマケズ』 - (1958年の映画)監督:蛭川伊勢夫 |
1958 |
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1959 |
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1960 |
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1961 |
リンク
文献
その他の情報
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