はじめによんでください

日本はどの程度、近代国家なのか?

Is Japan of part of Western type of modern state?

E. Herbert Norman, Unknown, Library and Archives Canada, PA-134317

池田光穂

エドガートン・ハーバート・ノーマン Egerton Herbert Norman, 1909年9月1日 - 1957年4月4日)は、カナダの外交官。日本史の歴史学者」。

在日カナダ人宣教師のダニ エル・ノーマンの子として長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 - 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くしたが、ハーバート自身はシェリー酒を嘗めながら雑誌を読むタ イプだった[3]。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。1933年に ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で 活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で 「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定。 1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学明治新聞雑誌文庫(宮武外骨 が創設)を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深めるなど、充実した日々を 送っていた。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために、日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年日米間で運航された交換船で帰国。太平洋 問題調査会などで活動した[2]。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、アメリカからの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分 析課長として出向し、同年9月27日からの昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作 成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄や徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした。また、政財界・言論界から20万人以上を 公職追放した民政局次長のチャールズ・L・ケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴す るための「戦争責任に関する覚書」を提出した。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、 渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。特に重要なのの1946年にGHQが戦前の日本の政党の活動を禁止した中で日本共産党だけは ノーマンの助言でこの禁止を受けなかった。これが学生時代の左翼活動と相まってその後のソビエトスパイの容疑に大きく影響する。1946年8月には駐日カ ナダ代表部主席に就任する。その後1951年9月にはサンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員を務め、その後カナダ外務省本省に戻る。その後、 第二次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけられ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受 ける。 そのようなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、……

「1953年には駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大 使兼レバノン公使に栄転する。同年に起きたスエズ動乱勃発では、盟友のレスター・B・ピアソンを通して現地の平和維持と監視のための国際連合緊急軍導入に 功績を残し高い評価を得た。しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ合衆国上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけら れ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた[5]。 実際に学生時代に共産主義者であった事実は確定しており、学者としてもかなり左寄りの論調を主張した事実はあった。しかし、ベノナも含めてノーマンがスパ イであったとの証拠は見つかっていないが、スパイの疑いを受けて自殺を遂げた事に疑問は残る。 なお、カナダ政府は生前からノーマンのスパイ説を否定し続けており、なお、カナダ外務省はノーマンの「功績」を称えて、2001年5月29日に東京都港区 赤坂にある在日カナダ大使館の図書館を、「E・H・ノーマン図書館」と命名した。2014年7月、イギリス国立公文書館が所蔵する英国内のスパイ摘発や国 家機密漏洩阻止などの防諜を担うMI5などの秘密文書のうち、「共産主義者とその共感者」と名付けられたカテゴリーに「ノーマン・ファイル」(分類番号 KV2/3261)があることが公表され、ガイ・リッデルMI5副長官からカナダ連邦騎馬警察(RCMP)ニコルソン長官に宛てた1951年10月9日付 の書簡内で「インド学生秘密共産主義グループを代表してインド人学生の共産主義への勧誘の責任者を務めていたノーマンが1935年にイギリス共産党に深く 関係していたことは疑いようがない」と記されていたことが明らかになった[4]。 また、同ファイルには、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だったアメリカの外交官、ジョン・エマーソン(英語版)がノーマンの共産主義者疑惑に関連 して米上院国内治安小委員会で証言した記録が含まれており、その中で、GHQの対日工作として行なった「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム (WGIP)」(軍国主義者と国民を二分化することで日本国民に戦争に対する贖罪意識を植え付け、アメリカへの戦争責任批判を回避するための戦略)は、中 華民国の延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行なった思想改造のための心理戦(洗脳)の手法を取り入れたと証言したことが明らか になった[6]。エドガートン・ハーバート・ノーマ ン

資料:大窪愿二訳『日本における近代国家の成立』時 事通信社、1947年。原著1940年、岩波文庫1993年

1.序論

2.明治維新の背景

3.明治維新

4.明治初期における工業化

5.土地改革のその社会的帰結

6.政党と政治

7.結論

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1.序論

2.明治維新の背景

3.明治維新

4.明治初期における工業化

5.土地改革のその社会的帰結

6.政党と政治( EHNorman_meiji_politics_1940.pdf with password)

自由党 (日本 1881-1884)は10月末に解党したが、不満分子たちは 武器弾薬を携行して大阪を船出して朝鮮半島に渡り半島に民主主義政権を樹立して日本に自由主義を確立しようと画策する。しかし、大阪で警察に捕まり(=大阪事件)、この計画は鎮圧される(ノーマン 1993:282)。

"The first Liberal Party of Japan was formed on October 18, 1881, by Itagaki Taisuke and other members of the Freedom and People's Rights Movement (League for the Establishment of a National Assembly) to agitate for the establishment of a national assembly, with a membership based on the ideals of liberal democracy under a constitutional monarchy. It attracted a wide following of former samurai who were discontent because they were no longer an elite class and no longer received stipends from the government. The Jiyūtō also aimed for suffrage for samurai and an elected assembly in each prefecture. Itagaki was party president, with Nakajima Nobuyuki as vice-president. Other notable members included Gotō Shōjirō, Baba Tatsui, Tetchō Suehiro, Ueki Emori, and Nakae Chōmin. The Meiji government viewed the growth of the Jiyūtō with misgivings, suspecting it of harboring tendencies towards republicanism. The party was also made vulnerable due to peasant uprisings in rural areas led or inspired by local Jiyūtō members. The Jiyūtō voted to dissolve itself on October 29, 1884, on the eve of the Chichibu Incident. In 1887, Gotō Shojirō regrouped some members of the former Jiyūtō into a proto-party called the Daidō Danketsu Movement. This group split into two groups (Daidō Club led by Kōno Hironaka and Daidō Kyōwakai led by Ōi Kentarō and Nakae Chōmin ) in March 1889. In 1890, they were merged by Itagaki Taisuke to form the Constitutional Liberal Party, which was later renamed the Liberal Party. Some politicians who supported Gotō didn't join this party and formed National Liberal Party."

7.結論

︎「思うに日本社会のいくつかの特徴を述べることは やさしいが、それらが社会全体 に対してもつ意義を説明することはそれほど容易ではない。たとえば、官僚について、財閥につい て、軍部について、政党について、簡単な説明を与えることはさまでむずかしくないが、各集団に それぞれの正当な位置づけを与え、他の党派との関係を規定し、これら集団の相違を識別し、これ を主とし、あれを従とすること——これは果てしない徒労のようにも恩われるが——それにもかか わらず、当然負わねばならない仕事である。本書を読んで、解答を得た疑問よりも新しく起った疑 問の多いことがわかったとしても、失望すべき筋合のものでは全くない」(ノーマン 1993:319)

●GHQの組織図

連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)組織図(国立国会図書館より

「キャノン機関(キャノンきかん、the Canon Unit)とはGHQによる占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関。名称は司令官であるジャック・Y・キャノン(Jack Y. Canon)陸軍少佐(のち中佐に昇進)の名前から来ているが、当時GHQ内での正式名ではなく、後に日本のマスコミが付けた名称と言われる。Z機関(Z -Unit)、本郷機関などとも呼ばれている」

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文献

その他の情報

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