松本信廣
Nobuhiro MATSUMOTO, 1897-1981
1862 フランス政府は阮朝とサイゴン条約(壬戌条約)を締結
1884-1885 清仏戦争。1886 アンナンおよびトンキンは阮朝宮廷を護持しながらフランスの保護国になる。
1890 ホー・チ・ミン(グエン・シン・クン)=グエン・アイ・ クォック(阮愛國)生まれる。
1897 松本信広は明治30年(1897年)11月11日東京市芝区愛宕町(現在の港区)に生まれる。以下の情報は、ウィキペディア「松本信廣」ならびに『稲・舟・祭』の年譜より構成した。
1910 東京市鞆絵小学校卒業
1915 慶應義塾普通部卒業
1918 慶應義塾大学文学部二年生。慶應義塾で教鞭を取っていた柳田國男に私 淑して日本民族学を研究し始めた。清水保之教諭・橋本増吉教授引率の三田山岳会主催の朝鮮・満州・支那旅行に参加。
1919 貴族院書記長官を辞した柳田國男の東北・ 渡欧旅行に随行。この年、移川子之蔵、慶應義塾大学文学科講師(2年前にハーバードで学位)2年後に東京商科大学附属商学専門部教授兼予科教授。松本も移川の謦咳を受ける。
その後、「方言研究会」「郷士会」「南島談話会」 「にひなめ研究会」「稲作史研究会」など柳田が関係するほとんどの研究会に共に参加している。古代舟・稲作文化の研究などを通じて早くから『南方説』を唱 え、日本民族の基層文化の系統論的研究に貢献した。
学内に、東アジア諸国と中国語学習を目的として「東亜事情研究会」が慶應大学内に組織される。初代会長は、田中萃一郎、松本はのちに会長になる(すくなくとも1940年当時)
1920 慶應義塾大学文学科(史学)を卒業。普通 部の教員に採用
1924 東洋学研究のため、(義塾留学生として)フランスへ留学し、ソ ルボンヌ大学で学び、マルセル・グラネ(Marcel Granet, 1884-1940)やマルセル・モースらと交流。
1928
当初はグラネの指導を受けていたが、学位論文は、ジャン・プシルスキー(Jean Przyluski, 1885-1944)の指導による。7月に文学博士の学位を授与され9月に帰 国。慶應義塾大学文学部助教授兼予科教員に就任。
Essai sur la mythologie
japonaise / Nobuhiro Matsumoto.aris : Libr. orientaliste Paul Geuthner
, 1928. - (Austro-Asiatica : documents et travaux / publiés sous la
direction de Jean Przyluski ; t. 2)
1930 10月に教授に昇任
この頃(ca.
1920)から日本の植民地支配のあり方についても神話研究の立場から積極的に発言。さらに、日本神話と南方の神話との比較研究から、日本民族の血に南方
の民族の血が流れていると論じ、その点で南方への進出においては、当時政治的に支配していたフランス人などの白人たちよりも日本人のほうが有利であると主
張した。「大東亜戦争の民族史的意義」を唱え、南進論を主張。1930年代に、大日本帝国が南進政策を展開しはじめると、日本神話と南方の神話の類似を指
摘する松本の研究は、日本が南方に進出し、植民地支配を正当化する根拠を示すという点で、政治的な意味を持つようになる[1:平藤喜久子
日本神話と南方―松本信広の研究―]。
1932 古代文化論 / 松本信廣著 . 血液型と民族性 / 古川竹二著、東京 : 共立社 , 1932.10. - (現代史學大系 ; 10)
1933 8-10月慶應大学望月基金により、仏領インドシナに研究調査旅行。ハノイの極東学院、ユエの王宮と図書、その近郊の遺跡を調査。
1934 岩波講座日本歴史(1933-1935) / 國史研究會編輯、東京 : 岩波書店。松本は、日本神話に就いて を寄稿。
1934-1935
印度支那の文化 / 松本信廣 [著]、上,下. - 東京 : 岩波書店 , 1934.6-1935.11. - (岩波講座東洋思潮 ; . 東洋思潮の展開)/印度支那言語の系統 / 松本信廣 [著]、東京 : 岩波書店 , 1934.8. - (岩波講座東洋思潮 ; . 東洋言語の系統)
1935 印度支那民族 / 松本信廣 [著]、東京 : 岩波書店 , 1935.1. - (岩波講座東洋思潮 ; . 東洋の民族)
1936 4月1〜2日東京人類学会・日本民族学会の第1回連合大会が 開催(大会会長:小金井良精(→日本文化人類学史)。
1937 7-8月「南の会」主催の南洋群島民族調査団に参加し、約50日間、マリアナ、パラオ、ニューギニアの各島の民族学調査をおこなう。
1938 5-9月慶應義塾派遣の支那大陸学術調査隊の第三班を率い四ヶ月にわたり、南京、杭州方面の遺跡を調査。
1939 1月南京に赴き、文化遺産の整理をおこなう。フランス植民地政府がインドシナ共産党を非合法化。
1940 1940年に「民族問題研究会」を組織し て東南亜細亜の諸民族の実情と日本の対処の仕方について研究を開始。
「南方諸民族事情研究会」にもインドシナ研究の専門 家として委員に名を連ねた。戦後の松本は、戦中当時を軍人が「日本国民はアマテラスの一部分」と発言したのに対して、「聖と俗がわかれるのが宗教の本質で ある」として抗弁すると、陸軍勅語を知らないかと一喝された挿話を引いて、「嫌な時代だった」と述懐している[2:松本信広による自著解説『日本神話の研 究』平凡社東洋文庫、昭和46年、所収,245頁]。
東亜事情研究会が『東亜事情論文集』を公刊、この時の会長は松本である。
1941
大南一統志 / 松本信廣編、第1輯,第2輯. - 東京 : 印度支那研究會 , 1941.4/『江南踏査』東京 : 三田史學會 , 1
日本軍による南部仏印進駐
1942
「東亜及欧米ノ言語ヲ研究」するために慶應義塾大学語学研究所を西脇順三郎とともに開設した。第一部長に就任。
『安南語入門』文法篇,會話篇,讀本篇. - 東京 : 印度支那研究會 , 1942/『印度支那の民族と文化』 岩波書店 , 1942.11
「大東亜戦争の民族史的意義」『外交時報』893号→「我が国民は広大なる大東亜の文化的再建設の為には筆とペンとを武器として挺身的の文化戦、宣伝戦の闘士として立たねばならぬ。此処に我国学問の此の国家的大飛躍に応じての大変革が翅望せられる所以である」
慶應義塾圖書館所蔵南洋文獻目録 / 松本信廣, 保坂三郎編, 慶應義塾望月研究基金 , 1942.
印度支那の民族と文化 / 松本信廣著, 岩波書店 , 1942.
大東亜政策の諸問題 / 大日本拓植学会編、大東亜政策の諸問題 / 大日本拓植学会編、松本は「安南民族論」を寄稿。
7月「慶應義塾大学亜細亜研究所」開設とともに文化 部長就任。所長は塾長の小泉信三。研究所は、文化部(思想、文化政策、言語、土俗など)、民族部(民族運動、民族政策など)、法政部(法制、外交、植民地 行政など)、経済部、資源部、厚生部(医事、衛生、福利施設など)にわかれ、共同研究し、学部や高等部よりあつめた研究生を対象に、研究や教育をおこなっ た。1945年5月の空襲で施設は焼失。1946年3月に廃止。機関誌『亜細亜研究』12号。亜細亜叢書2冊。
11月前年出版の『印度支那の民族と文化』により、慶應義塾学事振興資金による表彰を受ける。
1944
東亞世界史 / 足利惇氏 [ほか] 著、2. - 東京 : 弘文堂書房 , 1944.5. - (世界史講座 ; 4)。松本は「南方地域」を寄稿。
夷蠻名義考 : 支那古代、東南に住せし民族の名稱に就て / 松本信廣 [述] ; 帝國學士院東亞諸民族調査室 [編], 帝國學士院 , 1944 . - (報告會記録, 第14號)
1945
日本軍はフランスでのパリ解放を受けて、3月9日
「明号作戦」を発動して[ナチスに協力的であったヴィシー政権の崩壊を受けて]
フランス植民地政府を武力によって解体し(仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝にベトナム帝国を独立(同期:3月12日にはカンボジアのシ
アヌーク国王にもカンボジア王国の独立を、4月8日にはルアンパバーン国王のシーサワーンウォン王にもラオス王国の独立を、それぞれ宣言)Coup de force japonais de 1945 en Indochine.
4月慶應義塾外国語学校校長に就任(〜1956年3月)。
8月敗戦。8月14日に日本政府がポツダム宣言を受
諾したため、ベトナムでは中国国民党軍が北ベトナムに、英印軍第20歩兵師団が南ベトナムに進駐して、日本軍の降伏を受け入れた。なお、広州湾租借地
(現・広東省湛江)は1945年8月、仏印からの中華民国軍撤収の見返りとして中
華民国へ正式に返還。9月2日までに、ベトナム八月革命によってハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、バオ・ダイ帝の退位を説得し、ポツダム
宣言調印と同時に9月2日大統領としてベトナム民主共和国の独立を宣言(→「べトナム独立宣言」)。
1949
日本文化の起源 / 有賀喜左衛門 [ほか] 著、野村書店 , 1949.1。松本は「神話より見た日本の上代 」を寄稿。
中華人民共和国成立。翌年から朝鮮戦争
n.d. ウィキペディア情報
「日本神話の一部に南方の神話の影響があることは、定
説として受け止められており、松本の成果も広く認められている。松本は日本における東南アジア研究の先駆者でもあり、その研究領域は歴史、民族、宗教、言
語、考古と多岐に渡る。日本の神話・昔話も研究の柱で、このほか中国江南における考古学調査も行っている。慶應義塾大学在職中、文学部長・言語文化研究所
長などを歴任」
1950 『史学』24(2,3)福沢諭吉五十年忌記念「民族学と福沢先生」
1951 4月慶應義塾大学大学院文学研究科が創設。大学院教授として東洋史、民族学を担当。11月前年出版された『史学』24(2,3)福沢諭吉五十年忌記念「民族学と福沢先生」論文により慶應義塾賞を受賞。
1952 11月「千葉県加茂における古代独木舟出土遺跡の研究」により慶應義塾賞を受賞。
1955
日本国内主要図書館所蔵欧文東南アジア文 献綜合目録 : 社会科学・人文科学篇 / 中村孝志 [他] = Union catalogue of books and pamphlets in Western languages on South East Asia kept in the principal libraries of Japan : social sciences and humanities / Society of Southern Asian Studies.に関わる。この時から、2年間東京都立大学大学院兼任講師(この時期に馬渕東一(1909-1988)が在職していたか。1953年教授)
フランス政府からOrdre des Palmes académiques(教育功労賞)を受賞。
1956
日本の神話 / 松本信広著、至文堂 , 1956.4. - (日本歴史新書 ; 17)。3月慶應義塾外国語学校校長を退任、その後、顧問。日本歴史学協会委員長
1957 日本民族学協会東南アジア稲作民族文化綜合調査団、団長として、タイ、ラオス、カンボジアに赴き、メコン河流域の調査をおこなう。
1959-1961 1959年10月〜1961年9月文学部長、大学院文学研究科委員長。
1960 ゴ・ジン・ジェム打倒クーデター失敗。南ベトナム国民解放戦線(NLF)の設立。翌年、フルシチョフ、解放戦線への支援を声明。
1961 ケネディ大統領、就任1週間で、ベトナムにおける反乱鎮圧計画を承認する。
1962 7月慶應義塾大学言語文化研究所が発足し、研究所長兼、第一部長に就任。
1963 1月日本学術会議第6期会員(第一部全国区)。1966年1月から1968年12月まで第7期会員。
1965
インドシナ研究 / 松本信広編集、横浜 : 有隣堂出版 , 1965.3. - (東南アジア稲作民族文化綜合調査報告 / 日本民族学協会[編] ; 1)。4月三田史学会会長。10月大学院社会学研究科委員長。
軍事クーデターで、グエン・カオ・キ(Nguyễn Cao Kỳ, 1930-2011)首相らとともにベトナム共和国の実権を握り、グエン・バン・チュー(Nguyễn Văn Thiệu, 1923-2001)は国家指導評議会議長(国家元首)に就任。
1966 日本の神話 / 松本信広著、増補版. - 東京 : 至文堂 , 1966.11. - (日本歴史新書)——1956年の改訂版
1967 日本政府から香港中文大学に日本研究講座開設を依頼され渡港。
1968
『東亜民族文化論攷』松本信廣先生古稀記念会編、誠文堂新光社 , 1968
Religious thoughts of the Bronze Age peoples of Indochina / Matsumoto Nobuhiro, The Keio Institut of Cultural and Linguistic Studies : Keio University , 1968.
Folk religion and the
worldview in the southwestern Pacific : papers submitted to a
symposium, the Eleventh Pacific Science Congress held in
August-September 1966 / N. Matsumoto and T. Mabuchi, editors ;
Jan van Baal, chairman of the symposium. Keio Institute of Cultural and
Linguistic Studies, Keio University , 1968.
1969
3月定年退職し同大学名誉教授(勤続49年、72歳)。言語文化研究所顧問。 『ベトナム民族小史』岩波書店 , 1969.5. - (岩波新書 ; 青-715)。4月〜1978年3月まで文学研究科・社会学研究科に出講。
1971 『日本神話の研究』東京 : 平凡社 , 1971.2. - (東洋文庫 ; 180)/民族学 / 松本信広編、1,2. - 東京 : 平凡社 , 1971.11-1984.4. - (論集日本文化の起源 ; 3-4)
1972 4月〜1979年3月国学院大学・大学院兼任講師。
1975 4月30日サイゴン解放。
1976 奄美・沖縄の民俗 ; 比較民族学的諸問題 / 大間知篤三 [ほか] 編、覆刻版. - 東京 : 平凡社. - 大阪 : 東方界(発売) , 1976.9. - (日本民俗学大系 / 大間知篤三[ほか]編 ; 第12巻)
1977 日本神話の比較研究 / 松本信広[ほか]著、東京 : 有精堂出版 , 1977.4. - (講座日本の神話 / 『講座日本の神話』編集部編 ; 11)
1978 『日本民族文化の起源』第一巻:神話伝
説、第二巻:古代の舟/日本と南方語、第三巻:東南アジア文化と日本
1981 3月8日心不全のため慶應義塾大学大学病院にて逝去(83歳)
没後、蔵書(漢喃本60点、洋書1908点、和漢書
1601点、洋雑誌35タイトル[3])は慶應義塾大学に寄贈され、同大学付属図書館松本文庫として公開されている(一部貴重書の閲覧には事前の申請が必
要)。
1982 稲・舟・祭 : 松本信廣先生追悼論文集 / 『稲・舟・祭』刊行世話人編、東京 : 六興出版 , 1982.9
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