さあ暴力について語ろう
On Culture of Violence, 2021

暴力にかんする理論的な考察は「暴力:その定義」「構造的暴力」「暴力の文化」でおこなっています。ここでは、日本ラテンアメリカ学会でのコ メンテーターとして、コメントしたことを通して、これまでの私の考察とは、少し異なった角度から暴力について考察してみましょう。
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Mitzub'ixi Qu'q
Ch’ij, Centro de diseño de CO*-?!, Universidad de Osaka Vamos a hablar sobre La violencia general qué no se puede hablar ¡さあ暴力について語ろう! 後ろ挿絵は、"The Far Side" シリーズでおなじみの、Gary Larson (1950- )によるもの。地獄に落ちた犬どもが、チリトリをもってフンを回収したり、郵便配達をしている(米国では郵便配達夫に噛む犬が伝統的に多く彼らにとって犬 は鬼門だったらしい) |
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クレジット: パネルD「政治暴力の後の日常性:終わりのない問いを生きる」 第42回日本ラテンアメリカ学会定期大会(オンライン)2021年6月6日 1)石田智恵:アルゼンチン失踪者の問いかけとその変化 2)内藤順子:軍政後のチリにおける社会運動:声を上げ始めた女性たち 3)柴田修子:和平合意後のコロンビア:暴力のなかの日常を生きる 4)狐崎知己:低強度ジェノサイドに抗するグアテマラ先住民女性たち 5)細谷広美:紛争後の先住民コミュニティにおける真実とリアリティ:バルガス=リョサ委員会後のウチュラハイ村 |
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1. ホラーは我を魅了す 「そしてその夫の前に結婚していた前夫 リ アムのことを懐かしそうに口にするのだった。リアムは優しく彼女に手を上げたことなど一度もなく、とても美男子だったという。いつたいリアムはどうなさっ たんですか、病気で亡くなったんですかとわたしは尋ねた。マリーは即座に答えた。『どうなったですって?爆弾で粉々に吹き飛ばされたのよ』。わたしが返す 言葉を見つけられないでいるうちに、彼女はなかば叫ぶように『リアムさえ生きていれば、私もあんな思いをしなくて済んだのに』と言い、あふれる涙をぬぐっ た。マリーの死んだ前夫リアムがIRAのメンバーであり、市街地に仕掛けるはずだった爆弾を移動中に誤って爆発させたことを知ったのは翌々日のことであ る」酒井朋子『紛争という日常:北アイルランドにおける記憶と語りの民族誌』人文書院、P.14、2015年 |
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2. パネリストと地球上のすべての政治的暴力についての犠牲者たちの物語について(自己紹介をかねて) ·池田光穂『暴力の政治民族誌:現代マ ヤ先住民の経験と記憶』大阪大学出版会、2020年の上梓しました。 ·1998年に最初の論文、その後、熊本大学·大阪大学で定期的に「政治的暴力の文化人類学」の授業をおこなっています。 ·医療人類学者としては、トラウマ経験とその回復理論において、ユダヤ人社会学者アーロン·アントノフスキー(1923-1994)のサリュートジェネシ スと「一貫性の感覚(SOC)」について大きな影響を受けました。 現在は、文化人類学の戦争協力の歴史研究で、ナチスドイツの組織的な最終解決にむけての「異様な目的行為論」とユダヤ人人体実験の「異様な功利主義」の共 存について研究中です。 |
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3. 私を研究に鼓舞する/させる写真 Two children on the streets of the Warsaw Ghetto. Credit: Photo Archive The Warsaw ghetto uprising began on April 19, 1943, after German troops and police entered the ghetto to deport its surviving inhabitants. By May 16, 1943, the Germans had crushed the uprising, deported surviving ghetto residents, and left the ghetto area in ruins. https://bit.ly/3pnUd8E |
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4)石田智恵:アルゼンチン失踪者の問いかけとその変化 ·暴力後の世界を生きる我々は、過去の 政治的暴力のことを解決済のものとして扱うことができない時代に生きている。 ·和平合意、国民的和解、多文化多民族多言語レジームへの転換、国際機関の勧告、真相究明員会、人権侵害に関する仔細な報告書の刊行、無処罰法の見直しと 訴追というこれまでの流れに対する、《不正義のバックラッシュ》 ·失踪者と加害に協力した人たちの間の《記憶をめぐる軋轢》 ·弾圧者の子どもたちが、自分の親たちを糾弾し、記憶の運動に参加すること ·【私の感想】スターリン体制や文化大革命の政治状況の下では、子どもたちが親を密告したり、人民裁判で告発したエピソードを思い起こす。 ·【私の質問】マスヒステリーや深層心理学(ないしは神話研究)における父親殺しを想起させるが、そのような「社会病理」に対して研究者としてどのような 態度表明をとるべきなのか?それとも歴史相対主義的な立場を貫いて観察と記述を貫徹すべきなのか? |
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5)内藤順子:軍政後のチリにおける社会運動:声を上げ始めた女性たち ·政治的暴力というものが女性に向けら れる時に性暴力として発露する。 ·PTSDに苛まれながら地獄の日々を生きる人々に寄り添い、調査を続けることの困難さに、正直に敬服する(あるいは社会科学者として、そのように振舞わ ねばならない) ·PTSDの歴史について医療人類学的分析を加えたアラン·ヤングによると、PTSDの公式的治療は「忘却」と「組換え」しか当時はなかったそうだ。 ·現代のケアワーカーの精神的ワクチンとというものはなく、ひたすら二次受傷を回避するしかないそうだ。ただ、アレハンドラの「覚醒」は人生の最後の最後 まで被害者のレジリエンス能力の可能性に一縷の望みという光を私に齎した。 ·【私の質問】無力でただ聞くだけという文化人類学者にも、誰しもがレジリエントである可能性をもつことを、別の苦しみをもつ女性に伝えることは可能で しょうか?ちょうど私が絶望の極みの少女たちの写真によって研究の気力を鼓舞されるように? |
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6)柴田修子:和平合意後のコロンビア:暴力のなかの日常を生きる ·悲しい町トゥマコをめぐる人々の苦境 の物語 ·コカの栽培地を「暴力的な」栄養にするFARCとパラミリタリー ·最後の手段(last resort)としての国内難民化 ·2014年以降のトゥマコの殺人発生率のサージ(急激上昇)はコカインの生産とパラレル ·世界各地の麻薬取引をめぐる殺人はエンデミックでかつパンデミック。国際社会の連携抜きに解決なし ·【私の質問】麻薬の取引に関する暴力事象の問題は全地球レベルの問題。それぞれの研究者の発言は小さいが、これらに対しての地域の人たちが声を上げ、そ して研究者たちがその媒介になり、さまざまな人道的な抗議の声をあげることができるでしょうか?それをおこなうために私たちは、まず何から始める必要があ るでしょうか? |
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7)狐崎知己:低強度ジェノサイドに抗するグアテマラ先住民女性たち ·グアテマラにおける統治の失敗を低強 度ジェノサイドとしてまとめる。リカルド·ファーリャによるこの用語はヨハン·ガルトゥングの構造的暴力とならんで我々に対して理論的な研究への意志を鼓 舞すると思います。 ·CEHの分析に従い、その原因を、1)オリガルキー経済の再生産、2)持続的なレイシズムイデオロギー、3)政治的強権政治に回帰するような権力の腐敗 構造としてまとめています。 ·権利ベースアプローチ(観念論)〈対〉EMV(プラグマティズム)とそのアウフヘーベンの可能性の示唆 ·【私の質問】そのような「失敗国家」グアテマラに対しても、日本の戦後の農村開発で使われた「生活改善アプローチ(EMV)」の有効性に未来への希望を 託されています。その有効性の確認は現在検証結果の待ちですが、狐崎さんの手応えはあるとの見解です。現時点でのスペキュレーションでかまいません。どの ような要因が効いているとお考えでしょうか?見解をお聞きしたい。 |
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8)細谷広美:紛争後の先住民コミュニティにおける真実とリアリティ:バルガス=リョサ委員会後のウチュラハイ村 ·ウチュラハイ村での1983年1月 26日の事件はとても印象的です。私はこれまで幾度も細谷さんの発表を聞いてきましたが、報告者が発表の度にさまざまな切り口で解説してくださるので何度 聞いても飽きることがありません。 ·今回の発表で私が再確認したの発表のタイトルにカッコ書きしてあった「真実」でも、カッコが付されていない「リアリティ」にもありません。細谷さんは、 この真理ゲームのプレイヤーの中で先住民側の代弁者として、その真相を解明されています。 ·外部からウチュラハイに向かっていたミスティの一度に殺された新聞記者8名と紛争の短くない期間に殺された135名の村人たちのインバランスです。アメ リカの歴史家のアーサー·シュレジンガーが揶揄していうには、ボティカウント(屍体の数=犠牲者数)で暴力の大きさを比較するのは我々の視座を曇らすとの ことですが、ウチュラハイのこのケースでは私は首肯できず、細谷さんもリョサの報告書の中にみられるレイシズムとオリエンタリズムを批判されています。 ·【私の質問】ペルーの社会のなかで、ミスティも先住民も、この命の価値の不均衡について異議を申し立てたり、怒ったりされる市井の人あるいは専門家(あ るいは人間)はおられるでしょうか?先住民の命が軽んじられているという(細谷さんを含めて)素朴な怒りの声のあげる現地の人たちです。 |
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最後に報告者のみなさま全員にメッセー
ジを 政治的暴力とその表象化には、その時代時代の支配者側の解釈がさまざまに投影されています。私たちも現地調査に赴き、そのような意図が一切ないにも関わら ず、どんな面をぶらさげてここにきたのか?と詰問されることも今後ともあるでしょう——その理由は我々の世界はまだポストコロニアルになっていないからで す。 ベンヤミンはこう言います。歴史はつねに滅ぼした側からしか書かれない。滅ぼされた側からの歴史(ショーレムは反歴史という)が甦えらせない限り歴史記述 は常に人間にとって不完全なままである、と。本日お聞きした話は本当に辛い話ですし、政治的暴力の再生産の危険性に、全世界の人々が脅威にされされている のはご存知のとおり。それでもなお、希望は失われたままなのでしょうか。暴力についての語りを通りすがりに聞いてしまい心が呪縛されたすべての人——我々 のことです——のみが反歴史を書く僥倖に恵まれていると思います。少なくとも私は、そう確信しています。 |
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ジル・ドゥルーズの生成変化
(Devenir)に倣って… 民族誌(ethnography)を書くことは生成変化だ。だが共感したり反発したりする人々(ethnos, folk)になることでは決してない。まったく別のものになること。「少数者が自分ために書くのでも、人が彼ら(ママ)を対象にして書くのでもない。反対 に、人は書くことによって、否応なく彼らの内に捕らえられるのである。少数者は、決して少数者のままで存在するのではなく。まさに彼らの前進と攻撃の仕方 でもある闘争の線上で形成されるのだ」。 ジル・ドゥルーズとクレール・パネ『ドゥルーズの思想』田村毅訳, pp.68-69, 1980年 |
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Two children on
the streets of the Warsaw Ghetto. Credit: Photo Archive
https://bit.ly/2Sbhhva |
★Uchuraccay(ウチュラハイ)
| Uchuraccay
is a village in the Peruvian province of Huanta, Ayacucho Region. It is
located 4,000 metres above sea level. The population as of the census
of 1981 was 470 inhabitants. In 1983, eight Peruvian journalists were
murdered in Uchuraccay, resulting in a presidential commission headed
by Mario Vargas Llosa to find the facts of the case.[1] Uchuraccay
community members (comuneros) were put on trial for the murders.[2] The
town was deserted in 1984 due to the Peruvian government's struggle
against Sendero Luminoso, but some families eventually returned. |
ウチュラハイはペルーのアヤクチョ県フアンタ県にある村だ。標高
4000メートルに位置している。1981年の国勢調査時点での人口は470人だった。1983年、8人のペルー人ジャーナリストがウチュラハイで殺害さ
れた。この事件の真相究明のため、マリオ・バルガス・リョサを委員長とする大統領委員会が設置された。[1]
ウチュラハイの住民(コミューネロス)は殺人事件の容疑で裁判にかけられた。[2]
ペルー政府によるセンデロ・ルミノソとの戦いのため、1984年に村は廃村となったが、後に一部の家族が戻ってきた。 |
| References 1. Mario Vargas Llosa, et al. Informe de la Comisión Investigadora de los Sucesos de Uchuraccay. Lima: Editora Perú 1983. 2. Cecilia Méndez, The Plebeian Republic: The Huanta Rebellion and the Making of the Peruvian State, 1820-1850. Durham: Duke University Press 2005, pp.1-5. |
参考文献 1. マリオ・バルガス・リョサほか『ウチュラハイ事件調査委員会報告書』リマ:エディトラー・ペルー社、1983年。 2. セシリア・メンデス『平民の共和国:ワンタ反乱とペルー国家の形成、1820-1850年』ダーラム:デューク大学出版局、2005年、pp.1-5。 |
| 2.4. EL CASO UCHURACCAY |
https://x.gd/wDQDY |
| https://en.wikipedia.org/wiki/Uchuraccay |
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| Uchuraccay
(pronunciado /uchurajái/, en quechua: Uchuraqay) es un centro poblado
peruano del distrito homónimo, ubicado en la provincia de Huanta, al
norte del departamento de Ayacucho. El pueblo está situado entre 3900 a 4010 m s. n. m. en la región de puna. |
ウチュラハイ(発音:/uchurajái/、ケチュア語:Uchuraqay)は、ペルーの同名の地区にある集落で、アヤクチョ県北部のフアンタ県に位置している。この村は標高3900~4010メートルのプナ地方にある。 |
| Historia Guerra de Iquicha (1825-1828) Artículo principal: Guerra de Iquicha (1825-1828) Durante los inicios de la República peruana, un grupo de indígenas de las punas de Huanta no aceptaron someterse al nuevo régimen, y comandados por Antonio Huachaca protagonizaron 3 fallidas rebeliones. Uchuraccay fue el principal "fuerte" de los rebeldes, donde se refugiaban y planeaban sus operaciones militares. Fue conocido como el "Palacio de Huachaca". En dicho contexto, el 25 de marzo de 1828 se produjo el Combate de Uchuraccay, en el que las fuerzas republicanas triunfaron sobre los rebeldes e incendiaron los principales edificios. Reforma agraria en Uchuraccay En 1918, pasa a ser parte del distrito de Santillana, provincia de Huanta.[1] La división administrativa de Uchuraccay ha cambiado varias veces en su historia. Pertenecía a una sola hacienda, pero debido a los matrimonios ocurridos dentro de la familia dueña, fue dividida en dos haciendas.[2] La hacienda a cargo de Teresa Urbina de Santa Cruz fue expropiada en 1972 por la reforma agraria, y la población solicitó convertirse en comunidad campesina, con un presidente elegido por elección comunal. La otra prefirió seguir perteneciendo al hacendado José Arguedas y organizada por el varayoq. Pacificación Nacional (1980-1984) Artículo principal: Época del terrorismo en Perú El censo del año 1981 dio como resultado 470 habitantes, de los cuales el 30% sabía leer y escribir.[3] Se consideraba que había una sola familia de religión evangélica.[4] Existía una escuela primaria multinivel hasta tercer o cuarto grado con 40 a 50 alumnos.[3] También, había dos tiendas para consumo de productos envasados, medicamentos y telas.[2] Según las investigaciones del antropólogo Del Pino, muchas familias tenían tocadiscos, escuchaban huaylas de Huancayo, se dedicaban al comercio interprovincial y trabajaban temporalmente en la selva de Ayacucho. Es decir, era parte del circuito económico regional.[4] El poblado estaba dividido en pagos, dispersos en el territorio, que eran Wachwasaqa, Uchuraccaypata, Huantaqasa, Tikllaqocha y Wachubamba.[3] En 1980, el grupo terrorista Sendero Luminoso inicio su "lucha armada", por lo que Uchuraccay sufrió de cerca la actividad de este grupo subversivo. El presidente Belaúnde declaró estado de emergencia en Ayacucho, por lo que la Marina de Guerra instaló una base militar en Huanta desde diciembre de 1982[4] y llegó a Uchuraccay en helicóptero. Así, se le sumó el abuso de las fuerzas del gobierno. Masacres de Uchuraccay (1983) Artículo principal: Masacre de Uchuraccay El 26 de enero del 1983, diez peruanos, entre ellos ocho periodistas, fueron asesinados cerca de este pueblo por los campesinos locales al confundirlos con "terroristas", lo que fue investigado por una comisión presidencial encabezada por Mario Vargas Llosa para encontrar los hechos del caso. Miembros de la comunidad de Uchuraccay fueron llevados a juicio por los asesinatos. Meses después, en el mismo año, se produjeron nuevas masacres por parte de Sendero Luminoso durante las fiestas del Día del Espíritu Santo (Fiesta de la Cruz) en mayo y la fiesta del Carmen en julio.[2] El pueblo tuvo que ser abandonado en 1984 debido al acoso de los dos bandos, de Sendero Luminoso[5] y de los militares de la Marina de Guerra. Se refugiaron en la selva del río Apurímac, de Tambo, Challhuamayo y Qano, en las comunidades andinas cercanas Chaca, Pampalca, Huaychao y Carhuahurán, y en las ciudades de Huanta, Ica, Huamanga y Lima.[4][3] Repoblamiento de Uchuraccay (1993) Bajo la promesa de apoyo del gobierno de Fujimori, algunos dirigentes desplazados plantearon retornar el 20 de junio de 1993, desde la base militar de Castropampa, en la ciudad de Huanta. Sin embargo, nadie se presentó. Luego, el 10 de octubre de 1993, retornó un grupo de 26 familias, de las 86 inicialmente registradas, apoyadas por el PAR (Programa de Apoyo al Repoblamiento y Desarrollo de Zonas de Emergencia).[2][4] El 40% de la población se reconocía evangélica.[4] Fue la primera comunidad de la zona en retornar. Para el año 1994, vivían 90 familias comuneras. Es así que es reconocido como centro poblado en enero de 1994.[6] Desde esa fecha, se celebra cada 10 de octubre como el Día del Retorno, la fiesta más importante de la comunidad. Siglo xxi (2000-actualidad) Con la Ley № 30221 del 11 de julio de 2014, se reconoce al centro poblado con el título honorífico de Capital Histórica del Heroísmo Campesino y del Periodismo Nacional.[7] Pertenece, desde la promulgación de dicha ley, al distrito de Uchuraccay. |
歴史 イキチャ戦争(1825年-1828年) 主な記事:イキチャ戦争(1825年-1828年) ペルー共和国成立当初、フアンタのプナ地方に住む先住民の一団は、新政権への服従を拒否し、アントニオ・ワチャカ率いる3度の反乱を起こしたが、いずれも 失敗に終わった。ウチュラハイは反乱軍にとって主要な「要塞」であり、彼らはここに避難し、軍事作戦を計画した。この場所は「ワチャカの宮殿」として知ら れていた。こうした状況の中、1828年3月25日にウチュラハイの戦いが起こり、共和国軍が反乱軍に勝利し、主要な建物を焼き払った。 ウチュラハイの農地改革 1918年、ウチュラハイはフアンタ県サンティージャナ地区の一部となった。[1] ウチュラハイの行政区分は、その歴史の中で何度か変更されている。かつては単一のアシエンダだったが、所有者一族内の結婚により、2つのアシエンダに分割 された。[2] テレサ・ウルビーナ・デ・サンタ・クルスが経営していたアシエンダは、1972年に農地改革によって収用され、住民は、共同体選挙で選出された議長を擁す る農民共同体になることを求めた。もう一方のアシエンダは、アシエンダ主ホセ・アルグエダスに属し、バラヨクによって組織されることを選んだ。 国家平和化(1980年~1984年) 主な記事:ペルーのテロリズム時代 1981年の国勢調査では、住民数は470人、そのうち30%が読み書きができると報告されている。[3] 福音主義の家族は1つだけとされていた。[4] 3年生または4年生までの多学年制の小学校があり、40人から50人の生徒が在籍していた。また、包装食品、医薬品、布地を販売する2つの店があった。人 類学者デル・ピノの調査によると、多くの家族はレコードプレーヤーを所有し、ワンカヨのフアイヤを聞き、州間の取引に従事し、アヤクチョのジャングルで季 節労働者として働いていた。つまり、この村は地域の経済圏の一部であった。[4] この集落は、ワチュワサカ、ウチュラッカパタ、ワンタカサ、ティクラコチャ、ワチュバンバという、地域内に点在する地区に分かれていた。[3] 1980年、テロ組織「光輝の道」が「武力闘争」を開始したため、ウチュラハイはこの反体制組織の活動を間近で経験することになった。ベラウンデ大統領は アヤクチョに非常事態宣言を発令し、海軍は1982年12月からワンタに軍事基地を設置[4]、ヘリコプターでウチュラハイに到着した。こうして、政府軍 による虐待も加わった。 ウチュラハイ虐殺事件(1983年) 主な記事:ウチュラハイ虐殺事件 1983年1月26日、この村の近くで、8人のジャーナリストを含む10人のペルー人が、地元の農民たちに「テロリスト」と間違えられて殺害された。この 事件は、事実関係を明らかにするため、マリオ・バルガス・リョサが率いる大統領委員会によって調査された。ウチュラハイのコミュニティのメンバーは、この 殺人事件で裁判にかけられた。その数か月後、同年5月の聖霊降臨祭(十字架の祭)と7月のカルメン祭の期間中に、センデロ・ルミノーソによる新たな虐殺事 件が発生した。この村は、センデロ・ルミノーソと海軍軍部の双方からの迫害により、1984年に放棄されることとなった。住民たちは、アプルイマック川流 域のタンボ、チャルワマヨ、カノのジャングル、近くのアンデス地域のチャカ、パンパルカ、ワイチャオ、カルワウランのコミュニティ、そしてフアンタ、イ カ、ワマンガ、リマの都市に避難した。 ウチュラハイの再定住(1993年) フジモリ政権の支援を約束され、一部の避難民指導者は1993年6月20日に、フアンタ市のカストロパンパ軍事基地から帰還することを提案した。しかし、 誰も現れなかった。その後、1993年10月10日、当初登録されていた86世帯のうち26世帯が、PAR(緊急地域再定住・開発支援プログラム)の支援 を受けて帰還した。[2][4] 人口の40%が福音派キリスト教徒であると公言していた。[4] この地域では最初に帰還したコミュニティだった。1994年までに、90世帯のコミュニティ住民が暮らしていた。こうして1994年1月に人口集中地域と して認定された。[6] それ以来、10月10日は「帰還の日」として、コミュニティの最も重要な祭日となっている。 21世紀(2000年~現在) 2014年7月11日の法律第30221号により、この集落は「農民の英雄的行為と国民ジャーナリズムの歴史的首都」という名誉称号を授与された。[7] この法律の施行以来、ウチュラハイ地区に属している。 |
| Referencias 01. «Caso Uchuraccay | CDI». lum.cultura.pe. Consultado el 8 de julio de 2025. 2. Hosoya, Hiromi (2022). Afectación de testimonios y jerarquía de víctimas: los sucesos de Uchuraccay como “zona de contacto”. pp. 213-237. ISSN 2523-112X. Consultado el 30 de mayo de 2025. 3. CVR (2003). Informe Final - Tomo V. Primer parte. El proceso, los hechos, las víctimas. Comisión de la Verdad y Reconciliación. ISBN 9972-9742-4-3. 4. Ponciano Del Pino H. (2001). «Uchuraccay: memoria y representación de la violencia política en los Andes». Seminario Internacional, "Memoria y Violencia Politica en el Perú". Consultado el 30 de mayo de 2025. 5. Igue, José Luis (2006). «The Plebeian Republic: The Huanta Rebellion and the Making of the Peruvian State, 1820-1850». Íconos: Revista de Ciencias Sociales (24): 177-179. ISSN 1390-1249. Consultado el 14 de julio de 2019. 6. «Comunidades campesinas en la región Ayacucho Allpa». CONTEXTO SOCIAL, ECONÓMICO E INSTITUCIONAL DE LA REGIÓN AYACUCHO. Consultado el 30 de mayo de 2025. 7. Diario El Peruano (11 de julio de 2014). «LEY DE CREACIÓN DEL DISTRITO DE UCHURACCAY EN LA PROVINCIA DE HUANTА, DEPARTAMENTO DE AYACUCHO». El Peruano. Consultado el 7 de julio de 2025. |
参考文献 01. 「ウチュラハイ事件 | CDI」 lum.cultura.pe. 2025年7月8日閲覧。 2. 細谷博美 (2022). 証言の影響と犠牲者の階層:ウチュラハイ事件を「接触地帯」として。pp. 213-237. ISSN 2523-112X。2025年5月30日閲覧。 3. CVR (2003)。最終報告書 - 第V巻。第一部。過程、事実、犠牲者。真実和解委員会。ISBN 9972-9742-4-3。 4. Ponciano Del Pino H. (2001). 「ウチュラハイ:アンデスにおける政治的暴力の記憶と表現」. 国際セミナー「ペルーにおける記憶と政治的暴力」. 2025年5月30日閲覧。 5. イグエ、ホセ・ルイス(2006)。「平民共和国:フアンタの反乱とペルー国家の形成、1820-1850」。Íconos:社会科学雑誌(24):177-179。ISSN 1390-1249。2019年7月14日閲覧。 6. 「アヤクチョ・アルパ地域の農民コミュニティ」。アヤクチョ地域の社会的、経済的、制度的背景。2025年5月30日閲覧。 7. エル・ペルーアノ紙(2014年7月11日)。「アヤクチョ県フアンタ県ウチュラハイ地区創設法」。エル・ペルーアノ。2025年7月7日閲覧。 |
| https://es.wikipedia.org/wiki/Uchuraccay |
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