宗教と医療の関係について
Unorthodox medicine, a bridge between religion and [modern]medicine
Saint Dominic Presiding over an Auto-de-fe, c. 1495, Museo del Prado, Madrid.
解説:池田光穂
[歴史的概観]非正統医療
宗教と医療は分離できない側面がある(波平恵美子「宗教と医療」論文)。
明治期、医制により(近代化の一環として考えられるのか?)宗教と医療の分離政策があり[認識論的に切断?/近代医療推進側に自分たちの やっている行為が宗教と深く関わると考えるものなどいなかったのでは?/むしろ、病気を治すという主張を一種の“領海侵犯”として嫌ったのではない か?]。したがって戦前は宗教が類似医療行為を行うことへの弾圧がみられる。
弾圧が強化された理由(仮説):非合法組織に対する政治的監視、近代合理的思想からの反科学イデオロギーへの糾弾(科学の代弁者=心理学 /他方、糾弾されるほうもむろん「科学」を標榜。今世紀初頭にみられたフランスのカルデシズムへの弾圧などと類似のパターン)。
戦後は、宗教団体に対する結社の自由の拡大(GHQの宗教政策)。治療と宗教の蜜月時代。この当時文化庁(?)による『日本の迷信・俗 信』調査研究の3巻本あり。世俗的な信仰を有害な<迷信>と美風 としての<俗信>に分ける。信仰の秩序付けの試み。
50年後半(?)〜60年代に始まる戦後の(新)淫祠邪教キャンペーン:宗教社会学者は高度経済成長期のひずみを見る/新宗教教団の急速 な発展。科学主義の発展(物理学者の対応、科学者による哲人政治の主張、日本科学者会議の発足など)。病気治療の、実際的側面は教団組織の「合理化」や指 導(?)によって、薬事法等に抵触する行為を形式的に回避した。医師法・薬事法に抵触する(無資格診療事犯)のは、むしろニセ医者および小集団カルトレベ ルにとどまる。
[備考]新宗教における治療の研究は、おもに宗教社会学のジャンルのなかで発達し、膨大な研究の蓄積がある。主な学派:個人や集団の治病 プロセスに心理学を援用するもの、教義や教えのなかに身体論やコスモロジーをみるもの、等等あり。
歴史的にみて「宗教」と「医療」を分離して考える見解は、科学の進歩史観が優勢であった時代の産物である。しかしながら1960年代以降 の宗教学や文化人類学における「医療と宗教」に関する研究によって、それまで医学史家たちが抱いていた「医療の宗教からの分離」による歴史的発展という見 解に疑問が投げかけられ、宗教と医療には互いに関係することが指摘されてきた。波平(1985:118)は「医学の発達や治療体制の整備は病気治療への宗 教の係わりを弱めると一般には考えられているようだが、必ずしもそれは一様ではなく直接的でもない」として都市部における水子信仰に触れ、むしろ「治療技 術が日進月歩で発達すればするほど病気への不安は増大」し宗教に深く係わる可能性があることを主張している(波平恵美子,1985,宗教と病気,『理想』 630:113-119)。
だが、現実には、明治維新以降、宗教と医療を分離して国家のもとで管理監督するという政策は今日にいたるまで変わることなく続いている。 この政策はまずシャーマニズム的な行為を「人民を眩惑」するという観点から禁止するという1873(明治6)年の教部省達第2号に始まった。具体的には、 その次年に教部省が府県ならびに神道諸宗管長に対しておこなった2種類の通知によってうかがい知ることができる。つまり府県におこなったのは、祈祷および シャーマニズム的行為によって「医療」を妨害するする者を取り締まることを通知したものであり、後者の神道諸宗に対しては祈祷行為等は容認されるが医療を 妨害してはならない、というものである。
1873年(明治6年)には教部省「梓巫市子並憑祈祷孤 下ケ等ノ所業禁止ノ件」「梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件/明治六年
一月十五日/教部省達第二号/府 県/従来梓巫市子憑祈祷孤下ケ杯ト相唱玉占口寄等之所業ヲ以テ/人民を眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地方官此旨相
心得/管内取締方厳重可相立候事」(→「シャーマニズム・シャーマン」)
近代医療制度と既成宗教には第2次大戦終結までのあいだには問題がほとんど表面化しなかった。しかしながら新宗教諸派あるいは、より宗教 色の希薄な民間の諸家のあいだでは無数の療法ならびに健康法運動がおこった。野口晴哉は1949年にこのような運動を振り返りおよそ次のような流れがあっ たこと述べている(田邊,1989:73-76)。
まず、明治中期に「催眠術」についての理論が海外から紹介され流行した。これは後の心理療法に受け継がれてゆくが、これにはメスメリズム の影響を受けた「霊気療法」と「暗示療法」の2つの流れに分けられる。「暗示療法」は、さらに催眠術をよりつよく継承した「精神療法」と、覚醒時における 暗示をおこなう「覚醒暗示」に分けられる。また心身鍛錬法なども登場するが、これは大正の初期から中期において、身体を強健にする健康法に受け継がれ、次 第に治療的色彩を濃厚にしてゆくという。またカイロプロティク、オステオパシー、スオンデテラピーなどの理論がこの頃に紹介され、以前の精神修養的な側面 が後退し、治療技術的側面が強調されるようになったという。大正末期から昭和初期にかけては、従前の「霊気療法」と物理的な治療器具を用いる「生理療法」 「物理療法」が流行する。全般的に治療行為ということが主張されて、精神療法よりも器具を利用する傾向が増加したという。
また、それらの「類似医療行為」に対する取り締まりも、それぞれに流行に呼応したかたちでおこなわれた。例えば、それは近代科学において 周縁化しつつあった「催眠術」行為への禁止(1908年)や代替科学的な色彩のあった治療行為に対する警視庁令「療術行為ニ関スル取締規則」(1930 年)の施行などである。取締の根拠は、法律で定められたもの以外の施術の実態を所轄警察が把握し、またその業務の停止や禁止がおこなえることを規定したも のであった。それに対して施術者側は種々の諸団体をつくり、その法制化に努めたが、相互の足並みが揃わず、また分裂なども重なり成功をみなかった。
医療における近代合理主義の浸透によって、新宗教の指導者およびそのクライエントたちは、精神医学者たちの恰好の批判の材料となった。中 村古峡らは『大本教の解剖』(1920)によって、森田正馬は『神経学雑誌』の論文(1915)や『迷信と妄想』(1928)を著し、新宗教の教祖を精神 病者とみなし、また祈祷などを自己暗示の結果生ずると批判している。精神医学者たちが、新宗教の隆盛を精神病理現象としてとらえ批判的にみる傾向は、戦後 も比較的長らく続いた。一部の例外的な研究を除いて、精神医学者たちの新宗教調査研究には、患者として接した者の中に信者がいたことから敷衍して新宗教全 体と論じるという傾向がつよく、その実態を公平に見ようとする姿勢が欠けていた。新宗教の集会に実際に参加し、その集団療法としての効果を積極的に評価す るような論文が登場するのはほとんど1970年以降である(例えば佐々木,1969)。
今日にいたるまで、新宗教あるいは新・新宗教とよばれる教団において、救済としての治病にほとんど関与しないものはないといってよい。と ころが、宗教における病気治療と現実の近代医療が、現実の生活のレベルにおいてとりたてて大きな衝突はおこっていない。その最大の理由は、教団組織がとり おこなう病気治療の実際においては、運営レベルにおける教理の解釈を近代医療と整合的に調整したり薬事法等に抵触する行為を具体的に回避しているからであ る。医師法(昭和二十三年法律第二百一号)や薬事法に抵触するような「無資格 診療事犯」は、個人経営のニセ医者や小集団のカルトにおいて偶発的に生じるのみにとどまっている(高田, 1989)。
——我 々は、未来の出来事を現在の出来事から推定することはできない。因果連鎖への信頼が迷信だ。(ウィトゲンシュタイン『論理哲 学論考』5.1361)
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