はじめに よんでください

宗 教

Religion

池田光穂

宗教(Religion)は、超自然的、超越論的、 あるいは霊的な要素に人間が関わりをもつ、行動と実践、道徳、世界観、テキスト、聖なる場所、預言者たち、倫理、あるいは組織の社会文化的システムのこと であると、まず定義しておきます。しかし、現実には、社会人類学者ロドニー・ニーダム(1981)が言ったように「religion と翻訳できるような印欧語族の諸言語に共通する言葉はない」(Needham 1981)と言われており、それに対して大きな異論はありません。それでもなお、我々のまわりには宗教あるいは宗教的と言う用語でまと められるようなレッテルが存在する一方で、いったん、宗教的議論に入ると、みんな催眠にかかったように熱狂しているけど実際は、何も言っていないことが、 わかります。つまり宗教の通文化的研究なんて本当にできるのかと思ってしまう。さらには「私は宗教人類学者です」という連中の前になると、自分の眉に唾を つけて、そのような酷い呪文に自分が籠絡されないように、(僕は)警戒したくなるのであった。

宗教の実在を、それ自体で存在すると考えるのではな く、「信じる人」がいることから論証しようとする研究者がいる。アンリ・ユーベルとマルセル・モースの『供犠論』がそれである。かれらはその研究の結論の 部分でこういう:「宗教的観念は信じられているがゆえに、存在する。しかもそれを、それは社会的事実のように、客観的に存在するのである」(小関訳 1983:109)Les notions religieuses, parce qu'elles sont crues, sont ; elles existent objectivement, comme faits sociaux.

オーストラリア・アボリジーの信仰と儀礼に関する文 献研究である『宗教生活の基本形態』から、エミール・デュルケーム は、次の2つの要素を宗教なるものの本質であるとした:1)宗教の本質は、集団のメンバーが共有する表象すなわち集合表象 (représentations collectives)にある。 2)集合表象は「聖なるもの(être que le sacré)」に裏付けられている。 3)あらゆる宗教は、多かれ少なかれ統一した道徳的共同体をもち、そ れはしばしば「教会=共同体=共在空間=コミュニオン」と呼ばれる。 4)宗教が生まれるときには、集合的沸騰 (l'effervescence collective)という、集団の状態が観察できる。集合的沸騰は、世俗生活からみると異様ではあるが、その瞬間に参加のメンバー統一感を得られると いう利点をもつ。 5)西洋では既存の宗教的権威(=聖なるもの)の後退、集合的沸騰の 興奮の沈静化により、再 度、その復活が試みられた。その際に聖化されたものは個人であり、「個人を神聖化する宗教=人格宗教」(une religion qui a comme objet sacré l'individu)が誕生した。個人を神聖化する宗教は、フランス革命においてみられる。そこでは、理性信仰というものが登場するが、世俗的革命状況 においても、人間生活おける宗教性(=宗教の本質)は担保されているのである。(→「デュルケームの宗教に関する5つのテーゼ」)

ウィキペディアの情報はこうだ:"Religion is a social-cultural system of designated behaviors and practices, morals, worldviews, texts, sanctified places, prophecies, ethics, or organizations, that relates humanity to supernatural, transcendental, or spiritual elements.[Merriam-Webster] However, there is no scholarly consensus over what precisely constitutes a religion.[Morreall, John; Sonn, Tamara (2013). "Myth 1: All Societies Have Religions". 50 Great Myths of Religion. Wiley-Blackwell. pp. 12–17. ][Nongbri, Brent (2013). Before Religion: A History of a Modern Concept. Yale University Press. ]"

ギアーツに よる、宗教の定義とは、それは「(1)象 徴の体系であり、 (2)人間の中に強力な、広くゆきわたった、永続する情調(mood)と動機づけ を打ち立てる。(3)それは、一般的な存在の秩序の概念を形成し、(4)そして、これらの概念を事実 性(factuality) の層をもっておおい、(5)そのために情調と動機づけが独特な形で現実的であるようにみえる」(ギアーツ 1987:149-150)ものだということなる(→「ギアーツ「文化体系 としての宗教」」)——これはマックス・ウェーバーの定義に近い。

イオアン・ルイス(1977)はよりシンプルに、「信仰、儀礼、霊的体験——この3つが宗教の かなめ石である」という。

ウィリアム・ジェイムズにおける宗教の定義:宗 教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられ るものと自分が関係していることを悟る場合にだけ生ずる感情、行為、経 験である」『宗教的経験の諸相』(ジェイムズ1996:52);Religion, therefore, as I now ask you arbitrarily to take it, shall mean for us THE FEELINGS, ACTS, AND EXPERIENCES OF INDIVIDUAL MEN IN THEIR SOLITUDE, SO FAR AS THEY APPREHEND THEMSELVES TO STAND IN RELATION TO WHATEVER THEY MAY CONSIDER THE DIVINE. - W.James, "The Varieties of Religious Experience : a Study in Human Nature," Página 27 de 400= https://csrs.nd.edu/assets/59930/williams_1902.pdf .

カントでは、1793年04月 『たんなる理性の限界内での宗教』 Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft.では、「倫 理的共同体(ethisches gemeines Wesen)」のもとで、人間は道徳的に完成する。理 性信仰(→純粋実践理性)による理性宗教(=一種の宗教進化論)であり、(α) 恩恵を求める宗教は、不純な宗教:奇蹟や祭祀にかまける。迷信、(β) 啓示信仰は、文書や歴史にもとづく経験的な歴史的信仰(→スピノザに類似)。啓示宗教と理性宗教は完 全に合致するわけではないが、理性宗教に合致する部分もある、と主張。キリスト教はそれに価する。カントによればキリストが儀礼を理性宗教に導くために 「手段」として使った。(γ)理性信仰による理性宗教、完全な「道徳的宗教」。これらから、人 間の問題と神の問題の合致:我々の内なる神(Deus in nobis)=神の内なる人間(homo in Deo)ということになる。しかし、この思想は当時、危険きわまりなかったようだ。この『たんなる理性の 限界内の宗教』は、プロイセン宗 務当局によりキリスト教の教義を歪曲したものとして判定、フリードリヒ大王の詔令により国王が亡くなるまでは講義を禁止される(→『諸学部の争い』)(→ 「カントの宗教概念」)。

ウィルフレッド・キャントウェル・スミスは、「宗 教」という言葉が「定義不可能」であり、その理由は詞形(形容詞形の「宗教的(religious)」に対して「宗教(religion)」)が、現実を 歪めるからだと主張する。さらに、この言葉は西洋 文明に特有のものであり、他の文明の言語にはこれに対応する言葉はない、という。スミスはまた、この用語が「偏見を生み」「敬虔さを殺す」ことができると 指摘し ている。彼はつまりこの用語「宗教(religion)」がその目的を終えたとみなしている。

●宗教に関するいくつかのレクチャー(池田光穂) ——イケペディア(ローカルユニヴァーサル) で「宗教」とググってください

宗教と社会生活
Religion and Social Life
新宗教と癒し
Japanese modern new religions, SHIN-SHUU-KYO, and healing concepts
宗教社会学
Sociology of Religion
宗教人類学
Introduction to the Anthroplogical Studies of Religions
宗教と医学が出会うとき
Dialogue between Medicine and Religion
シンギュラリティ時代における宗教
Religion at the Technological Singularity
ギアーツ「文化体系としての宗教」
On Geertz's Religion as a cultural system
カントの宗教概念
Searching for God in Weltanschauung of Immanuel Kant
デンキウナギが教える宗教の発展
Jared Diamond's Two Book, "The world until yesterday" & "Gun, Germ and Steel"
トーテミズム
Totemism
アニミズム
animism
宗教研究と文化人類学(宗教人類学者一覧を含む)
Religion Studies and Cultral Anthropology
タラル・アサドの宗教人類学
Talal Asad, 1933-
文化進化論に関する議論
On Cultural Evolution Theories
〈病む〉ことの宗教人類学の可能性

マナイズム・マナ信仰
Manaism
非正統医療
Unorthodox medicine
シャーマニズム・シャーマン
shamanism, shaman
人類と宗教と人工知能体のトリアンギュレーションについて

文化の解釈
Introduction to Geertz' Interpretation of Culture, 1973
シンギュ ラリティの宗教研究のための11のテーゼ
Eleven thesis on AI Singularity Studies, 2020
癒し をうむ社会的文脈:宗教的側面
ホッ ブス「宗教について」
On religion of Hobbs' Leviathan chap.12
宗教的多元主義
宗教的多元主義とは、社会に共存する宗教的信念体系の多様性に関する態 度や政策のことである。
ジジェク派無神論
「『神学』と呼ばれる操り人形は、いつでも勝つこ とになっている。今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかも人目をはばからねばならない史 的唯物論の助けをうまく得られるならば、その人形は、誰とでも楽々と渡りあえるのだ」

The Meaning and End of Religion, by Wilfred Cantwell Smith, 1991.[1963]

Foreword (pp. v-xii), by John Hick
Wilfred Cantwell Smith’s The Meaning and End of Religion has already become a modern classic of religious studies. Such a work should be continuously available, both to students and the general public, and its reissue now is to be warmly welcomed. Although I can add nothing whatever to the book itself, I am happy to have the privilege of pointing out its very great significance for some of our most lively current discussions and debates.
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ウィルフレッド・キャントウェル・スミスの『宗教の意味と終焉』は、すでに宗教学の現代的古典となっている。このような著作は、学生にも一般市民にも継続 的に入手可能であるべきであり、今回の復刊は温かく歓迎されるべきものである。私はこの本自体には何も付け加えることはできないが、現在の最も活発な議論 や討論のいくつかにとって、この本が非常に大きな意味を持つことを指摘する特権を与えられたことを嬉しく思う。
CHAPTER ONE Introduction (pp. 1-14)
WHAT IS RELIGION? What is religious faith?
Such questions, asked either from the outside or from within, must nowadays be set in a wide context, and a rather exacting one. The modern student may look upon religion as something that other people do, or he may see and feel it as something in which also he himself is involved. In either case he approaches any attempt to understand it conscious not only of many traditional problems but also of new complications. Sensitive men have ever known that they are dealing here with a mystery. Some modern investigators have thought to...
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このような質問は、外からであれ内からであれ、今日では幅広い文脈の中で、しかもかなり厳密な文脈の中でなされなければならない。現代の学生は、宗教を他 人がするものと見なすかもしれないし、自分自身も関わっているものと見なし、感じるかもしれない。どちらの場合でも、宗教を理解しようとするとき、多くの 伝統的な問題だけでなく、新たな複雑さも意識することになる。感性豊かな人たちは、自分たちが謎を扱っていることを知っている。現代の研究者の中には、こ のようなことを考えた者もいる。
CHAPTER TWO ‘Religion’ in the West (pp. 15-50)
IT IS CUSTOMARY nowadays to hold that there is in human life and society something distinctive called ‘religion’; and that this phenomenon is found on earth at present in a variety of minor forms, chiefly among outlying or eccentric peoples, and in a half-dozen or so major forms. Each of these major forms is also called ‘a religion’, and each one has a name: Christianity, Buddhism, Hinduism, and so on. I suggest that we might investigate our custom here, scrutinizing our practice of giving religious names and indeed of calling them religions. So firmly fixed in our minds has this...
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人間の生活や社会には「宗教」と呼ばれる独特なものが存在し、この現象は現在地球上に、主に辺境の地や風変わりな民族の間にあるさまざまな小さな形態と、 半ダースほどの主要な形態で見られるというのが通例である。これらの主要な形態はそれぞれ「宗教」とも呼ばれ、キリスト教、仏教、ヒンズー教など、それぞ れに名前がついている。ここで、私たちが宗教的な名前をつけ、実際にそれらを宗教と呼ぶ習慣を精査してみることを提案したい。私たちの心の中にしっかりと 固定されている...
CHAPTER THREE Other Cultures. ‘The Religions’ (pp. 51-79)
THE CONCEPT ‘RELIGION’, then, in the West has evolved. Its evolution has included a long-range development that we may term a process of reification: mentally making religion into a thing, gradually coming to conceive it as an objective systematic entity. In this development one factor has been the rise into Western consciousness in relatively recently times of several so conceived entities, constituting a series: the religions of the world. This point has in our day become of dominating importance. Inquiry in this realm no longer concerns itself with only one tradition; our understanding of man’s religious situation, our meanings for...
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西洋における「宗教」という概念は進化してきた。その進化には、再定義の過程とでも呼ぶべき長期的な発展が含まれている。つまり、精神的に宗教をモノに し、次第に客観的な体系的実体として認識するようになったのである。この発展には、比較的最近になって、西洋人の意識の中に、このように考えられたいくつ かの実体が台頭してきたことが一因となっている。この点は、現代において圧倒的な重要性を持つようになった。この領域における探求は、もはやひとつの伝統 だけに関わるものではない。
CHAPTER FOUR The Special Case of Islam (pp. 80-118)
SO FAR we have not dealt with the Islamic situation. This particular case has been reserved for separate treatment because it is both unusual and intricate. It is in some ways different from the others, and in some ways similar. On both scores it is illuminating. We may take the differences first, since they lie closer to the surface. The first observation is that of all the world’s religious traditions the Islamic would seem to be the one with a built-in name. The word ‘Islam’ occurs in the Qur’an itself¹, and Muslims are insistent on using this term to designate...
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これまでのところ、私たちはイスラムの状況を扱ってこなかった。この特殊なケースは異例であり、かつ複雑であるため、別個に扱うことにした。他の事例と異 なる点もあれば、似ている点もある。その両方の点で、この事件は示唆に富んでいる。まず、表面的な相違点から見ていこう。まず第一に、世界中の宗教的伝統 の中で、イスラム教は名前が組み込まれているように見えるということである。イスラム」という言葉はコーランそのものに登場し¹、イスラム教徒はこの言葉 を執拗に使って...
CHAPTER FIVE Is the Concept Adequate? (pp. 119-153)
IF WE LOOK at the development of mankind’s religious life in some sort of total historical perspective, then, we recognize that an understanding of it may involve new terms of understanding. As the content of our human awareness grows in this realm in modern times, so also the forms of our awareness are undergoing, and should undergo, evolution. In particular, my argument so far has been devoted to bring into consciousness the fact that a use of the concept religion, the religions, and the specific named religions, has been one part of the whole process, and a particular, limited, and...
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人類の宗教的生活の発展を、ある種の総合的な歴史的観点から見るならば、それを理解するには、新たな理解用語が必要になるかもしれない。現代において、私 たち人間の意識の内容がこの領域で成長するにつれて、私たちの意識の形態もまた進化しつつあり、進化すべきなのである。特に、私のこれまでの議論は、宗教 という概念、宗教、そして具体的に名付けられた宗教の使用は、全体のプロセスの一部であり、特定の、限定された、そして...であるという事実を意識化す ることに専念してきた。
CHAPTER SIX The Cumulative Tradition (pp. 154-169)
THE MAN of religious faith lives in this world. He is subject to its pressures, limited within its imperfections, particularized within one or another of its always varying contexts of time and place, and he is observable. At the same time and because of his faith or through it, he is or claims to be in touch with another world transcending this. The duality of this position some would say is the greatness and some the very meaning of human life; the heart of its distinctive quality, its tragedy and its glory. Others would dismiss the claim as false, though...
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宗教的な信仰を持つ人間は、この世に生きている。彼はこの世の圧力にさらされ、この世の不完全さの中で制限され、この世の時間や場所といった常に変化する 文脈の中で特別視され、観察可能である。同時に、信仰ゆえに、あるいは信仰を通じて、この世を超越したもうひとつの世界と接触している、あるいは接触して いると主張している。この立場の二面性こそ、ある人は人間生活の偉大さであり、ある人はその意味そのものだと言うだろう。また、その主張を虚偽だと否定す る人もいる。
CHAPTER SEVEN Faith (pp. 170-192)
ON THE ONE HAND, great religious minds have regularly affirmed that faith cannot be precisely delineated or verbalized; that it is something too profound, too personal, and too divine for public exposition. And I myself have been at pains to stress throughout this study that men’s faith lies beyond that sector of their religious life that can be imparted to an outsider for his inspection. On the other hand, different men, at differing times and places, adherents of differing traditions, have differed conspicuously in whatever they have had to say on the subject. Again, our own study has not failed...
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一方では、偉大な宗教家たちは、信仰は正確に描写したり言語化したりすることはできない、信仰とは公に説明するにはあまりに深遠で、あまりに個人的で、あ まりに神聖なものである、と常々断言してきた。そして私自身、この研究を通して、人の信仰は、部外者に伝えられるような宗教生活の領域を超えたところにあ ることを、苦心して強調してきた。その一方で、時代や場所、伝統の違いによって、このテーマについて何を語るかは異なっている。繰り返しになるが、私たち 自身の研究は失敗していない...。
CHAPTER EIGHT Conclusion (pp. 193-202)
USUALLY WE SEE the world through a pattern of concepts that we have inherited. Sometimes these windows need cleaning: so much so that almost we may be seeing the windows that we have constructed rather than the world outside. Sometimes too on thoughtful examination we may come to recognize that by rearranging the windows as well as by cleaning them we could get a better view of the real world beyond. Certainly we may be grateful to our ancestors who have built these windows through which we see. Without them we should still be walled up within the confines of...
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通常、私たちは受け継いできた概念のパターンを通して世界を見ている。窓の掃除が必要なこともある。外の世界ではなく、自分が作り上げた窓を見ているよう なものだ。窓を掃除するだけでなく、窓の配置を変えることで、その向こうにある現実の世界をよりよく見ることができると気づくこともある。確かに、私たち は窓を作ってくれた先祖に感謝している。この窓がなければ、私たちはまだ...
Wilfred Cantwell Smithの単純なテーゼ ・ 地上にも天国にも宗教というものがないと考えれば、宗教がないわけであるから、宗教は真理でも、誤りであるという主張も無効である。宗教の真偽の議論は不 毛である。次に、もし、人が宗教という概念を諦めなければ(=固執すれば、とも取れる)、「宗教が真理であると言った場合、どのような言明が可能になるの か?」「宗教が誤りであると言った場合、それには(そのような前提条件とした場合)どのような言明が可能か?」それらについて探究すべきだろう。
・キリスト教(仏教でもいい)を可能なものにする条件は、それを自分のものとして我有し、実践している限り「真理」になることができる。
・宗教的生活は、抽象的なものではなく、具体的なものだ。つまり、宇宙大の宗教(例えばキリスト教)というものなどない。
・宗教に真理があるとすれば、それは各人の信仰の中にある。
・キャントウェル・スミスの宗教真理観は、アリストテレスの可能態のような議論であるともいえる——つまり未来に向かって拓いている。アリストテレス命題 の真理を含むとまで言う(スミス 1971: 82)。
・「神は人間を見ている」という主張は、無謬論として退けられている。
・宗教を人間生活の外側に外在化して研究するという態度ではなく、宗教を内在化した人間( "personalist" by C. Geertz)が、宗教をどのように考えるのかということが重要(葛西 1971:146-147)。
・人間は変化を伴侶として生きていかねばならない(=宗教に普遍性を信じない立場をこのように表現できる)

◎ベルクソン 『道徳と宗教の二つの源泉』合田正人・小野浩太郎訳、筑摩書房

ベルクソン は閉じた道徳と開かれた道徳、そして静的宗教と動的宗教という道徳と宗教を2つの論理で分ける。道徳は、社会的なるものなので、自ずと閉じた社会と開かれ た社会にわけられる。

閉じた社会・・・ 閉じた道徳・・・静的宗教

開かれた社会・・ 開かれた道徳・・動的宗教

章立て:第1章 道徳的責務(社会秩序と自然秩序; 社会のなかの個人 ほか) 第2章 静的宗教(理性的存在における不条理について;作話機能 ほか) 第3章 動的宗教(宗教という語の二つの意味;なぜ宗教という同じ語を使うのか? ほか) 第4章 最後の指摘 機械主義と神秘主義(閉じた諸社会と開かれた社会;自然的なものの存続 ほか)

ベルクソンが生きた時代のフランス社会学・民族学理 論では、エミール・デュルケーム 、ルシアン・レヴィ=ブリュルの議論が前提になる。

ベルクソンにおける神秘主義は、機械主義を補完する ような形で展開し、拡張した身体が魂による補完(補足)を必要とするところから導かれる(第4章)

閉じた社会・・・閉じた道徳・・・静的宗教 → 機 械的連帯(=圧倒的な集合意識のもとで没個性的な社会結合で結ばれている)=類似による連帯、個人に個性はなく無機分子のように結合し合う。環節的社会

開かれた社会・・開かれた道徳・・動的宗教 → 有 機的連帯(=個性的な異質の諸個人が特定の関係で結ばれる社会結合)……これは社会的分業により集合意識が弱体化し個人意識が増大している近代社会、アノ ミーを生む。

◎宗教と唯物論

「正真正銘の宗教すべてに共通するひとつの特徴があ ります。唯物主義がそれです。ですから悪魔礼賛も正真正銘の宗教なのです」——G.K.チェスタトン「イズレイル・ガウの誉れ」(『ブラウン神父の童心』 収載)

●カルトってなんだろう?- Wikipedia より

"In modern English, a cult is a social group that is defined by its unusual religious, spiritual, or philosophical beliefs, or by its common interest in a particular personality, object, or goal. This sense of the term is controversial, having divergent definitions both in popular culture and academia, and has also been an ongoing source of contention among scholars across several fields of study.[Zablocki, Benjamin David; Robbins, Thomas (2001). Misunderstanding Cults: Searching for Objectivity in a Controversial Field. University of Toronto Press. p. 473][Richardson, James T. 1993. "Definitions of Cult: From Sociological-Technical to Popular-Negative." Review of Religious Research 34(4):348–56.]:348–56 The word "cult" is usually considered pejorative. An older, and original, sense of the word cult involves a set of religious devotional practices that are conventional within their culture, are related to a particular figure, and are often associated with a particular place.[3] References to the "cult" of a particular Catholic saint, or the imperial cult of ancient Rome, for example, use this sense of the word. While the literal and original sense of the word remains in use in the English language, a derived sense of "excessive devotion" arose in the 19th century.[i] Beginning in the 1930s, cults became the object of sociological study in the context of the study of religious behavior.[4] Since the 1940s the Christian countercult movement has opposed some sects and new religious movements, labeling them "cults" because of their unorthodox beliefs. Since the 1970s, the secular anti-cult movement has opposed certain groups, and in reaction to acts of violence which have been committed by some of their members, it has frequently charged them with practicing mind control. Scholars and the media have disputed some of the claims and actions of anti-cult movements, leading to further public controversy. Sociological classifications of religious movements may identify a cult as a social group with socially deviant or novel beliefs and practices,[5] although this is often unclear.[6][7][8] Other researchers present a less-organized picture of cults, saying that they arise spontaneously around novel beliefs and practices.[9] Groups labelled as "cults" range in size from local groups with a few followers to international organizations with millions of adherents.[10]"- cult

「カルトとは、典型的にはカリスマ的な自称指導者が 率いる集団であり、その指導者はメンバーを厳しく管理し、逸脱した(社会の規範から外れた)とみなされる一連の信仰や実践への揺るぎない献身を要求する。 ほとんどの文脈では蔑称であり、宗教的、精神的、哲学的な異常な信念や儀式、あるいは特定の人物、対象、目標に対する共通の関心によって定義される新宗教 運動やその他の社会集団にも使われる。この語義は定義が曖昧で、大衆文化でも学界でも定義が分かれる。

蔑称ではない古い意味としては、その文化圏で慣習的で、特定の人物に関連し、特定の場所と頻繁に関連する一連の宗教的献身的実践がある。19世紀には「過剰な献身」という意味も生まれた。

1940年代以降、キリスト教のカウンターカルト運 動は、いくつかの宗派や新宗教運動に反対し、その異端的な信条から「カルト」のレッテルを貼った。1970年代以降、世俗的な反カルト運動は特定の集団に 反対し、暴力行為への反動として、それらのカルトをマインド・コントロールの実践者として頻繁に告発してきた。世界中には何千ものカルトが存在する。カル ト」と分類される集団の規模は、数人のメンバーからなる地域的なグループから、数百万人を擁する国際的な組織まで様々である。

宗教運動の社会学的分類は、カルトを社会的に逸脱し た、あるいは斬新な信念や実践を持つ社会集団と特定するかもしれないが、これはしばしば不明確である。他の研究者は、カルトのあまり組織化されていないイ メージを提示し、カルトは斬新な信念や実践を中心に自然発生すると述べている」- cult

Howard P. Becker's church–sect typology, based on Ernst Troeltsch's original theory and providing the basis for the modern concepts of cults, sects, and new religious movements


●日本で、宗教団体が布教活動するためには、宗教法 人法による登録が必要になります。

ただし「宗教法人法(昭和二十六年法律第百二十六号)」は、「宗教団体」「境内建物」およ び「宗教法人」の定義はしています。これは、日本国憲法による信教の自由を保証するために、まず宗教活動をおこなう法人を規定するものですが、敗戦以前に は、それに相当するものが「宗教団体法(昭和14年4月8日法律第77号)」 として存在しましたが、こちらは、宗教団体の国家管理を目的とする法律ですが、ア ジア歴史資料センターによると、この法律以前には、統一した(つまり成文化した)宗教法というものがなかったということです。以下にその経緯を引 用します。

宗 教団体法の施行以前は統一された宗教法というものはなく、時宜により必要に応じて発布された太政官布告や教部省達、内務省令、訓令、社寺局通牒、文部省令 など紛然たる諸法規による行政がおこなわれていた。このような宗教法規を統一整備して宗教行政を明確にしようとする機運が起こり、1899年(明治 32)、「宗教法案」が貴族院に上程されたが否決され、成立しなかった。1921年(大正10)以来、文部省宗教局では宗教制度調査費を設け、宗教制度制 定のために基礎資料の調査・研究をおこなっており、1926年(大正15)5月に宗教制度を審議するために宗教制度調査会が設置された。1927年(昭和 2)に「宗教法案」、1929年(昭和4)に「宗教団体法案」が立案されたが、いずれも成立しなかった。1935年(昭和10)末に「宗教団体法草案」と 「宗教団体法案要綱」を作成したが成案には至らず、1939年(昭和14)に「宗教団体法」(昭和14年4月8日法律第77号)がようやく成立し、翌年4 月1日から施行された。当時の国家主義的方針に則った統制法の性格が色濃く反映されたものであった。関連法規としては、1939年(昭和14)12月23 日に宗教団体法施行令、1940年(昭和15)1月10日に宗教団体法施行規則、3月8日に宗教団体法・同施行令及び同法施行規則施行に関し取扱方の件、 3月15日に教派、宗教及教団の報告に関する件、3月16日に宗教団体登記令、公衆礼拝用建物及敷地登記令、3月20日に宗教団体登記取扱手続がそれぞれ 公布され、役目を終えた宗教制度調査会は3月30日に廃止された。戦後、連合国軍最高司令部から「政治的、社会的及宗教的自由ニ対スル制限 除去ノ件」(昭和20年10月4日、SCAPIN-93)の覚書が出され、治安維持法などとともに宗教団体法も廃止するよう要求された。1945年(昭和 20)、宗教団体法は関連法規とともに廃止され、同時に国家神道ではなくなり、一宗教となった神社神道を含む「宗教法人令」(昭和20年12月28日勅令第719号)が緊急勅令として公布・施 行された。急場しのぎであった宗教法人令は1951年(昭和26)に廃され、「宗教法人法」(昭和26年4月3日法律第126号)が公布・施行され、幾度 の改正を経ながら現在に至っている」宗教団体法

私が教部省逹(第2号-1873「梓巫市子並憑祈祷 孤 下ケ等ノ所業禁止ノ件」)について記憶しているのは、明治維新後のプロセスのなかで呪術的宗教やシャーマニズムが禁止されたということです。

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