★「史的唯物論的分析は、今日、それ本来 の名前で呼ばれることもないまま、いわば人目を避けるように 実践され、表舞台から姿を消している。それに対し、神学的な次元は、脱構築による、「世俗化以後の」 メシア的転回という意匠のもとで息を吹き返している。ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学の第一テー ゼが次のように反転される時代が到来したのである。「『神学』と呼ばれる操り人形は、いつでも勝つこ とになっている。今日では周知のように小さく醜くなっていて、しかも人目をはばからねばならない史 的唯物論の助けをうまく得られるならば、その人形は、誰とでも楽々と渡りあえるのだ」。
※ 「「史的唯物論」 とよばれている人形は、いっでも勝つことになっているのだ。それは、だれとでもたちどころに張り合うことができる——もし、こんにちでは周知のとおり小さ くてみにくい、そのうえ人目をはばから ねばならない神学を、まあそれが助っ人として助けてもらえば(野村訳、一部、徳永訳を採用)」ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学の第一テー ゼ)。
宗教が、もはや特定の文化的生活形態に完 全に組み込まれたり、それと同一化したりするのではなく、 自律性を獲得し、その結果、様々な文化にまたがる同じひとつの宗教として生き残ることができるよう な社会体制これは、近代のありうべき定義のひとつである。宗教は、このように蒸留されることに よって、みずからをグローバル化できるようになる(今日、キリスト教、イスラム教、仏教は、いたる ところに存在する)。一方、そうなるためには犠牲も必要で、宗教は、社会全体をまとめるという世俗 的な機能の面においては、補助的な付随現象に格下げされる。この新しいグローバルな体制において、 宗教が担いうる役割は二つある。治療的役割と批判的役割である。宗教は、既存の体制のなかで個人が よりよく役目を果たせるように手助けするか、もしくは、この体制そのものの不備なところを、不満の 声のための空間を表現する批判的な力としてみずからを肯定するか、そのいずれかである——ちな みに後者の場合、宗教一般は、異端の役割を引き受ける方向に向かう。この行き詰まりのあらましは、 ヘーゲルによってすでに説明されている。われわれはときに、ヘーゲルの作品のなかに『下向きの綜合」 と呼んでみたくなるものを見出すことがある。そこでは、二つの対立する立場のあとにくる第三の立場、 すなわちその二者の止揚 Aufhebungが、二者の維持すべき価値をひとつにまとめる高次の綜合ではなく、 ある種の否定的な綜合、最低点での綜合になっている。明快な例を3つあげよう。
(A)「判断の論理」において「存在判断」の最初の三幅対(肯定判断—否定判断—無限判断)は、「無限 判断」に帰結する。神は赤くない、バラはゾウではない、悟性はテーブルではないこうした判断は、 ヘーゲルがいうように「一般人がいう意味で正確あるいは真実であっても、無意味であり、悪趣味である」。
(B)『精神現象学』には二例ある。ひと つは、骨相学に関するもの。そこでは、「観察する〈理性〉」の弁 証法全体が「〈精神〉は骨である」という無限判断に帰結する。
(C)もうひとつは、〈理性〉の章の最後 にある、歴史としての〈精神〉への移行。そこには、「法を与える 〈理性〉」、「法を吟味する〈理性〉」、法のもつ計り知れない基盤を受け入れる〈理性〉という三幅対が ある。われわれが本来の意味での歴史へと移行するのは、法が現にあるという事実を、法に与えられた究 極の背景として受け入れるかぎりにおいてである。本来の意味での歴史への移行が起こるのは、〈理性〉 はひとびとの生活を統制する法を反省的に基礎づけることができないということを、われわれが受け入 れたときである。」(ジジェク 2004:8-10)
☆「神なき時代における宗教の役割とは何 か。真のラディカリストたらんとするならば、普遍性を確立したキリスト教の倒錯的戦略は無視しがたい。ラカン派精神分析を駆使する弁証法的唯物論の立場か ら、高度資本主義社会変革の可能性を、“愛”を体現するキリスト教の革新性に求める大胆で刺激的な考察。」
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