かならずよんで ね!

電脳レリギオについて

On authentic Cyber-Religio

池田光穂井上大介

電脳レリギオ(Cyber-Religio)とは、池田光穂と井上大介の造語で、サイバー空間における宗教現象のことである。このページでは、池田と井 上大介氏との共同プロジェクト「シ ンギュラリティ時代における宗教」の下位テーマとして電脳レリギオについて取り扱う。「外在化された情報システムである宗教」を自分のシステムに取り込む「主体」は、人間ならびに知的オートマトン(人工知能)である。ここでは、とりわけ「サイバー空間における宗教 (Cyber-Religio)」における神義論を考察する。

宗教の定義:宗教(Religion)は、超自然 的、超越論的、 あるいは霊的な要素に人間が関わりをもつ、行動と実践、道徳、世界観、テキスト、聖なる場所、預言者たち、倫理、あるいは組織の社会文化的システムのこと であると、 ここでは定義しておこう。しかし、社会人類学者ロドニー・ニーダム(1981)が言うように「religion と翻訳できるような印欧語族の諸言語に共通する言葉はありません」(ニーダム、ロドニー「宗教の諸特性」『人類学随想』江河徹訳、岩波書店(岩波選書)、 1986年(原著1981))と、宗教あるいは宗教的と言う用語でまとめたからとしても、実際は、何も言っていないことが、宗教の通文化的研究のジレンマ ではある(→「宗教人類学」)。

さて、僕の最近の関心は、宗教がもたらす信頼性や安 らぎと、AIを含む現代科学技術がもたらす信頼性や安らぎは、根本的に違うんじゃないかな、ということ。そして、それらを比較することで、「信頼性」や 「安らぎ」という言葉の概念がいかに多様であり、言葉に対する厳密な分析態度と、それぞれの領域における、概念の確立が、このコロナパンデミックにおける 不安定でカオス的な人間の生き方になんらかの指針を与えるのではないかと思う日々です。

Timothy Samuel Shah (編集); Homo Religiosus?: Exploring the Roots of Religion and Religious Freedom in Human Experience (Cambridge Studies in Religion, Philosophy, and Society)

'In recent years, academic and policy debates over religious freedom have had the unexpected but welcome effect of encouraging researchers to revisit several long-neglected questions: just what we mean by 'religion', whether religion is universal, and the implications of religion's presence in societies for our understanding of human nature. Although these questions are being posed anew in many circles, Timothy Samuel Shah and Jack Friedman's Homo Religiosus? is the first book to bring together a multidisciplinary group of scholars to address the issues in a philosophically sophisticated and comparative manner. The result is a pathbreaking book. The exercise is also bracing: even as its contributors speak in varied voices, their shared effort highlights the most critical epistemological and ethical shifts underway today in the comparative study of religion and human freedom.' - Robert W. Hefner, The Pardee School of Global Affairs, Boston University.

● Homo Religiosus とは宗教的人間のことですが、ホモ・サピエンスと同様に「宗教的人間」あるいは「宗教的存在としての人間」という意味である。

 リサーチ・クエスチョン

a.人 類というものは「未来予測ではなく未来・現在・過去の再解釈か らなる論集(問題系)を作る」のであり、

b.この 研究における宗教研究とは「今日総動員できるメタファーの集積(知識デー タベース)をめざすもの(すべてではないがその主要な部分)」であり、

c.人 工知能を「人間存在(human being) と人工知能体(artificial intelligent agent)を「普遍的・本質的なものと してとらえずに、エコシステムに応じて、内的体制を変化させ、また集団として多様性を担保しつつ進化的に選択される存在」として考える。

人間と宗教と人工知能のトライアンギュレーション.

 ライシテ問題

ライシテ(仏: laïcité; 形容詞 ライック laïque)とは、フランスにおける教会と国家の分離の原則(政教分離原則)、すなわち、(国家の)宗教的中立 性・無宗教性および(個人の)信教の自由の保障を表わす。説明的に「非宗教性」という訳語が当てられることがあり、ライシテの成立過程につ いて (laïcisation の訳語として)「非宗教化 / 世俗化」(=社会における宗教の影響力の減少)※ という語が用いられることもある。また、日本のメディアでは「世俗主義」と訳されることもあるが、これは英語の secularism の訳語であり[2]、これらの概念の歴史的な成立過程から、基本的には別の概念である。日本語の「ライシテ」という言葉は、世俗主義やフランス以外の国の 政教分離と区別し、フランス法およびフランスの歴史に根ざした特殊な政教分離の意味で用いられ、ここ10年ほどで「ライシテ」という訳語が定着した。※ジャン・ボベロは、フランス社会における宗教の影響力の減少を意味する「セキュラリザシオン (sécularisation)」という意味は「ライシザシオン (laïcisation)」と異なるものではないが、あまりにも外延的すぎると批判しながら、フランスの世俗化は、紛争を調停するために、常に国家とい う外部の力によって推し進められたきた点に着目している(満足圭江 2004, ジャン・ボベロ=Jean Baubérot『世界のなかのライシテ宗教と政治の関係史』 ク・セ・ジュ, 2014)。ライシテ

「1905年の政教分離法は、カトリックと共和派の 「2つのフランスの争い」が最高潮に達した時期に制定されたが、その争いに終止符を打つだけの内実と射程を備えていた。政教分離法は当時の「右」からは、 カトリック的なフランスのアイデンティティを損ねるものだと批判されていた。その代表格であるシャルル・モーラスは、フランスが「ユダヤ人」「プロテスタ ント」「フリーメーソン」「外国人」に脅かされていると主張していた。ボベロの見るところでは、このような「他者」を「敵」に仕立てあげる力学が現在では ムスリムに向けられている。一方、政教分離法制定当時、共和国はカトリックに脅かされていると主張し、「左」の立場からカトリックの信教の自由を制限すべ きだと唱えたのがエミール・コンブである。ボベロの見立てでは、このように宗教を「管理」しようとする論理が現在ではイスラームに向けられている。/実際 に採択された政教分離法は、コンブの論理と手を切り、カトリックに自由を認めるものだったが、一般のフランス人のなかでは、同法は往々にして事態を鎮静化 させた法律というよりも、闘争の法律として記憶されている。他方、モーラス流のアイデンティティとしてのカトリシズムは、浮き沈みをしながら20世紀の歴 史をくぐり抜け、今また新たな状況のなかで回帰しつつあるとボベロは見ているようである。」訳者 による導入解説

フランス政教分離のアレゴリー (1905年): "La séparation" は "la séparation des Églises et de l'État" (教会と国家の分離) のほか、別離、(夫婦の) 別居の意(ライシテ)。

 知的オートマトン(人工知能)が宗教を自分の「経験」にするための社会的条件とはなにか?(審問)

●クレジット:(旧クレジット)「人類と宗教と人工 知 能体のトリアンギュレーションについて(Religion at the Technological Singularity)」

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Religion at the Technological Singularity

Georges Rouault (1871-1958)