適塾
Teki-jyuku
適塾(大阪市中央区北浜3丁目3‐8)と緒方洪庵先生肖像
☆ 適塾(てきじゅく、正式名称: 適々斎塾〈てきてきさいじゅく〉、別称: 適々塾〈てきてきじゅく〉)は、緒方洪庵が江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾。1838年(天保9年)開学。緒方洪庵の号である「適々斎」を由来 とする。幕末から明治維新にかけて福澤諭吉、大村益次郎、箕作秋坪、佐野常民、高峰譲吉など多くの名士を輩出した。正式名称は適々斎塾であり、緒方の雅号の一つである適々斎にちなんで名付けられた。
Tekijuku (適塾) was a
private school (Japanese: ja:私塾, Hepburn: shijuku) of Dutch studies
(Rangaku) in Osaka, Japan.[1][2] Ogata Kōan, a doctor and scholar of
Rangaku, established it in 1838 during the Tenpō era of the late Edo
period.[1][2] Its official name was Tekitekisaijuku (適々斎塾), named after
one of Ogata's art names, Tekitekisai (適々斎).[1][2] It was located in
Osaka's traditional merchant neighborhood of Semba (船場) on the main
trading route between Nagasaki and Edo. The foreign language curriculum focused primarily on medicine, but also taught astronomy and other western sciences. Tekijuku The school was one of the predecessors of Osaka University and Keio University, through the work of the most notable alumni Ogata Koan and Fukuzawa Yukichi, respectively. |
適塾(てきじゅく)は、江戸時代後期の天保年間(1838年)に蘭学者
であった緒方洪庵が設立した蘭学塾である[1][2]。
[1][2]正式名称は適々斎塾であり、緒方の雅号の一つである適々斎にちなんで名付けられた[1][2]。 外国語のカリキュラムは主に医学に重点を置いていたが、天文学やその他の西洋科学も教えていた。 適塾 この塾は、大阪大学と慶應義塾大学の前身のひとつであり、緒方洪庵(初代塾頭)最も著名な卒業生である福沢諭吉(10代塾頭)が、それぞれこの塾で学んだ。 |
年譜 1838年(天保9年) 洪庵が津村東之町(現:大阪市中央区瓦町三丁目)に蘭学塾を開く。 1845年(弘化2年) 過書町(現:大阪市中央区北浜三丁目)の商家を購入し移転。 1846年(弘化3年) 大村益次郎が入門。 1855年(安政2年) 福澤諭吉が入門。 1860年(万延元年) 除痘館が適塾の南へ移転。 1862年(文久2年) 伊東玄朴らの推挙により、幕府が強く要望したため、洪庵が江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任を受け入れて江戸に移住。西洋学問所では適塾式の授業が行われた。大阪の適塾塾生の教育には緒方拙斎(養子)が当たった。 1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。 1868年(明治元年) 適塾閉鎖。 |
|
初代 緒方洪庵 |
緒
方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 -
文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、
号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 |
2代 奥山静寂 |
|
3代 久坂玄機(久坂玄瑞の兄) |
久
坂 玄機(くさか げんき、文政3年(1820年) -
嘉永7年2月27日(1854年3月25日))は、幕末の長州藩士、蘭学家、医師。適塾塾頭。名は真(まこと)、静。天籟と号す。久坂玄瑞の兄。弘化4年
(1847年)6月に緒方洪庵の適塾に客分の処遇で籍を置く。翌嘉永元年(1848年)3月に適塾塾頭となる。しかし、翌年、召還の藩命が下り、好生館の
都講に任ぜられる。適塾塾頭は同じ長州の村田蔵六が継承した。長州藩初の藩内種痘実施に際して、引痘主任を命ぜられ、藩下で種痘を組織的に行った。嘉永3
年(1850年)6月に好生館の書物方を兼任し、また、最年少(31歳)の本道科教授となる。海外事情に通じており、西洋軍事学に関する藩内の評価も高
く、藩命により、『演砲法律』、『銃隊指揮令』、『新撰海軍砲術論』、『和蘭陀紀略内編』、『抜太抜亜志』、『新訳小史』など数多くの翻訳書を残した。こ
のような玄機の西洋学問研究は、弟の久坂玄瑞に相当の影響と感化を与えたと言われている。
そして、海防については、幾度も藩政府から意見具申を求められ、病床にありながら、藩主毛利敬親に上書建白した数日後の嘉永7年(1854年)2月27日
に逝去した。享年35。 |
4代 大村益次郎 |
大
村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日〈1825年6月18日〉[1][注釈 1] -
明治2年11月5日〈1869年12月7日〉[2])は、幕末期の日本の政治家、軍人、医師、学者。維新の十傑の一人。旧姓は村田(むらた)、幼名は宗太
郎、通称は蔵六(ぞうろく)、良庵(または亮庵)、のちに益次郎(ますじろう)。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は
丸に桔梗。戊辰戦争では東征大総督府補佐として勝利への立役者となった。太政官制において兵部省初代大輔(次官・長官の卿は皇族が就いたため、事実上の最
高責任者)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。兵部省は陸軍省・海軍省の前身であり、教え子からは伊藤雋吉ら海軍の重鎮も輩出しており、近
代日本軍全体に対する創業の功績も大きい。 |
5代 飯田柔平 |
|
6代 伊藤慎蔵 |
|
7代 渡辺卯三郎 |
|
8代 栗原唯一 |
|
9代 松下元芳 |
松下 元芳(まつした げんほう、1831年(天保2年) - 1870年1月10日(明治2年12月9日))は、江戸時代末期(幕末)から明治初期にかけての医師、慶應義塾の教員。福澤諭吉の書簡では「松下芳庵」。名は寿太郎。 |
10代 福沢諭吉 |
福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、 新字体: 福沢
諭吉、旧字体:福澤 諭吉、天保5年12月12日〈1835年1月10日〉-
明治34年〈1901年2月3日〉)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。揮毫の
落款印は「明治卅弐年後之福翁」[2]。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)[3]。 |
11代 長與專齋 |
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 |
12代 山口良哉 |
|
13代 柏原学而(孝章) |
柏原 孝章(かしわばら
たかあき、天保6年4月9日(1835年5月6日) -
明治43年(1910年)11月5日)は、江戸時代後期から明治期の蘭方医、啓蒙家、洋学者。江戸幕府15代将軍徳川慶喜の侍医。もともとは学介と名のっ
ていた。号は学而(がくじ)。字は子成。 『祇布斯繃帯書』(ぎぶすほうたいのしょ)、1867年(慶応3年) 『流行牛病予防説』、1873年(明治6年) 『箋註格到蒙求』(せんちゅうかくちもうぎゅう)、『牛病新書』1874年(明治7年) 『耳科提綱』、1876年(明治9年)。『羅斯古化学新書』(ラスコーかがくしんしょ)、この年から翌年にかけて出版。 『病者須知』(びょうしゃしゅち)、1880年(明治13年)9月。 |
特徴 適塾の開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。 塾生であった慶應義塾創設者・福澤諭吉が在塾中腸チフスに罹った時、投薬に迷った緒方洪庵の苦悩は親の実の子に対するものであったというほど、塾生間の信頼関係は緊密であった。 塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であった。「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。 適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。 塾生の多くは苦学生で、遊びはたまに酒を飲んだり、道頓堀川を散策する程度だった。「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」 (『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。後に卒業生は適塾時代を振り返り、「目的なしの勉強」を提唱している。塾生は立身出世 を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修行に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養ったのである [1]。 緒方の死後は、福澤諭吉と大鳥圭介が中心となって、6月10日と11月10日を恩師の記念日として同窓の友誼を深めるために毎年親睦会を開いていたようである。この親睦会には長与専斎や佐野常民など、同門の人物はほとんど参加していた。 |
|
閉塾後 関係者 1869年(明治2年)、後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、八丁目寺町(現在の大阪市天王寺区上本町四丁目)の大福寺に浪華仮病院および 仮医学校が設立される[2]。院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療 と医師に対する新治術伝習のために開かれた。半年で鈴木町(現在の大阪市中央区法円坂二丁目)の河内県庁跡(もと大坂代官所。のち南司農局。現在の大阪医 療センター付近)に移転した。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。浪華仮病院および仮医学校は、改組・改称を経て大阪帝国大学へと発展 し、現在の国立大学法人・大阪大学となっている。 |
|
建物等 適塾の建物等は、現在、適塾を前身とする大阪大学が管理している。 1901年(明治34年) 「洪庵文庫」が門弟らにより設立される。 1915年(大正4年) - 1920年(大正9年) 道路の拡張のため、建物の北側が2mほど軒切りされた。 1940年(昭和15年) 建物が大阪府の史跡に指定。 1941年(昭和16年) 建物が国の史跡に指定。 1942年(昭和17年) 建物が緒方家から大阪帝国大学に寄贈 1952年(昭和27年) 適塾記念会創立。 1964年(昭和39年) 建物が国の重要文化財に指定。 1972年(昭和47年) 大阪大学・適塾管理運営委員会が発足。 1976年(昭和51年) - 1980年(昭和55年) 文化庁により建物が解体修理された。 1980年(昭和55年) 一般公開開始。 1981年(昭和56年) 適塾周辺史跡公園化事業により東側隣接地に公園が完成。 1986年(昭和61年) 西側隣接地に公園(公開空地)が完成。 2013年(平成25年) - 2014年(平成26年) 建物の耐震改修工事が行われた。この間一般公開は休止されていたが、工事終了後一般公開を再開。 |
|
門下生 門下生の自筆による姓名録が残っており、1844年(弘化元年)から1862年(文久2年)までの636名の姓名・入門年・出身地が記載されている。現在 の都道府県で出身地を分けると、山口県が56名で最も多く、洪庵の出身地の岡山県が46名で2番目。その他、大阪府は19名、鹿児島県は7名となってい る。また、青森県と沖縄県を除いて、北は北海道から南は鹿児島県まで全国から入門している。 主な門下生 池田謙斎 - 東京帝国大学初代医学部綜理。日本では初となる医学博士号を受ける。 石阪惟寛 - 陸軍軍医総監。 石田英吉 - 海援隊隊士。貴族院男爵議員。 大鳥圭介 - 蝦夷共和国の陸軍奉行。明治後学習院院長。駐清公使。男爵。 大村益次郎 - 村田良庵という名で入塾。日本近代陸軍を創設。靖国神社創建を献策。 久坂玄機 - 塾頭を務めた。久坂玄瑞の兄。 佐野常民 - 日本赤十字社初代総裁。伯爵。 杉亨二 - 日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士。日本近代統計の祖。 高松凌雲 - 箱館戦争の際の蝦夷政府軍の病院長。 高峰譲吉 - 科学者、発明家、実業家。世界初のアドレナリンの発見。胃腸薬タカジアスターゼで巨万の富を築く。 武田斐三郎 - 五稜郭の設計・建設者。 手塚良仙 - 大日本帝国陸軍軍医。漫画家・手塚治虫の曽祖父。 所郁太郎 - 幕末の志士、外科医。塾頭伊藤慎蔵に勧められ、1860年入門。産経ニュースでは「秀才の誉れ高く塾頭にまでなった」と報じられている[3]とされるが、 誤解である。記事中「塾頭になった」と書いてるのは大村益次郎のことであり、塾頭のリストには所の名前はない[要出典]。萩藩京都藩邸医院総督。長州藩遊 撃隊軍監。暗殺者に襲われ瀕死の重傷の井上馨を、畳針約50針の縫合をし、救う。顕彰は、井上馨、品川弥二郎らによる。出身地の大野町での建碑は、井上馨 孫および井上三郎の支援による。 長与専斎 - 内務省初代衛生局長。衛生思想の普及に尽力する。 橋本左内 - 若くして安政の大獄で処刑。 花房義質 - 明治・大正期の外交官。宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長。男爵。 福澤諭吉 - 慶應義塾の創立者。 箕作秋坪 - 三叉学舎の創立者。 本野盛亨 - 日本の官僚、実業家、子安峻らと共に読売新聞社を創業。 柏原学而(孝章)- 最後の塾頭。緒方洪庵病没後、徳川慶喜の侍医となる。 |
緒方洪庵が登場するフィクション 登場作品 小説 司馬遼太郎『花神』(下で説明) 築山桂『緒方洪庵・浪華の事件帳』シリーズ(『禁書売り』〈2001年〉、『北前船始末』〈2002年〉) 漫画 手塚治虫『陽だまりの樹』 村上もとか『JIN-仁-』『侠医冬馬』 そにしけんじ『ねこねこ日本史』 テレビドラマ 花神(1977年・NHK、演:宇野重吉) 幕末青春グラフィティ 福沢諭吉(1985年・TBS、演:川谷拓三) JIN-仁-(2009年・TBS、演:武田鉄矢) 浪花の華〜緒方洪庵事件帳〜(2009年・NHK、演:窪田正孝) 陽だまりの樹(2012年・NHK、演:緒形幹太) 映画 洪庵と1000人の若ものたち(1963年・制作/MOMプロダクション 配給/共同映画 演 : 南原宏治)※緒方洪庵没後百年記念作品 舞台 蘭 〜緒方洪庵 浪華の事件帳〜(2018年・松竹、演:藤山扇治郎) 創作ミュージカル「緒方洪庵の妻」大阪桐蔭高等学校吹奏楽部 (2021年) |
https://x.gd/UmOP3 |
|
緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。 大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に大きく貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 |
|
文化7年7月14日(1810年8月13日)、備中国足守藩士・佐伯惟
因(瀬左衛門)の三男として生まれる。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は、豊後大神氏の分家の豊後佐伯氏の分家で、
佐伯惟定の弟・惟寛を祖とする[1]。8歳のとき天然痘にかかった。 文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出た。 文政9年(1826年)7月に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とする。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。 天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島のオランダ人医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。 天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。 弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。 嘉永2年11月1日(1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を得、古手 町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より要請があり「足守除痘 館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもらい、かつワクチンを関東から九州までの 186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められ るよう奔走した。 安政5年4月24日(1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。 万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。 伊東玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862年)に幕府の西洋医学所頭取として出仕の要請を受ける。一度は健康上の理由から固辞するが、幕府の度重なる要 請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を推薦した。12月26日「法眼」に叙 せられた。 文久3年6月10日(1863年7月25日)、江戸下谷御士町の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市北区同心 1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。戒名は「華陰院殿前法眼公裁文粛居士」[2]。明治42年(1909年)6月8日、贈従四位[3]。 |
|
人物 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせてしまい、牛痘法を学んだ。 洪庵の功績として最も有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。 日本最初の病理学書『病学通論』を著した(1847年刊行開始、1857年刊行完)。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817 年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては、西洋の医書を参考に『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を5、 6日で書き上げて出版し、医師らに100冊を無料配布[4]するなど、日本医学の近代化に努めた。 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い 稀れなる高徳の君子なり」と評している[5]。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭す やり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 塾生の生活態度や学習態度があまりにも悪い時は、破門や退塾の処置を下すこともあった。それは極めて厳格で、子の緒方平三と緒方四郎が、預けられた加賀大 聖寺藩の渡辺卯三郎の塾を抜け出し、越前大野藩に洋学勉強のために移った時、即座に破門の上、勘当したほどである(後日、復帰させた)。 語学力も抜群で弟子から「メース」(オランダ語の「meester」=先生の意味から)と呼ばれ敬愛された。諭吉は洪庵のオランダ語原書講読を聞いて「そ の緻密なること、その放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰て朋友相互(あいたが い)に、「今日の先生の彼(あ)の卓説は如何(どう)だい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話した」と評している[6]。原語をわ かりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を考案したりする能力に長けていたのである。洪庵はそのためには漢学の習得が不可欠と考え、息子たちにはまず漢学 を学ばせた。 福澤諭吉が、適塾に入塾していた時に腸チフスを患った。堂島新地5丁目(現・大阪市福島区福島1丁目)にあった中津藩大坂蔵屋敷で療養していた折に洪庵が 彼を手厚く看病し治癒した。諭吉はこれを終生忘れなかったそうである。このように他人を思いやり、面倒見の良い一面もあった。 洪庵は西洋医学を極めようとする医師としては珍しく漢方にも力を注いだ。これは患者一人一人にとって最良の処方を常に考えていたためである。 診察や教育活動など多忙を極めていた時でも、洪庵は、友人や門下生とともに花見、舟遊び、歌会に興じていた。特に和歌は彼の最も得意とするもので、古典へ の造詣の深さがうかがわれる。江戸に向かう時も、長年住み慣れた大坂を離れる哀しさから「寄る辺ぞと思ひしものを難波潟 葦のかりねとなりにけるかな」という悲痛な作品を残している。 江戸での洪庵は将軍徳川家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだ。さ らには蘭学者ゆえの風当たりも強く、身の危険を感じた洪庵はピストルを購入するほどであった。以上のことからくるストレスが健康を蝕んでいった。洪庵の急 死の原因として、友人の広瀬旭荘は、江戸城西の丸火災のとき和宮の避難に同行して炎天下に長時間いたことであると述べている。 人付き合いのうまい洪庵は、全国の医学者、蘭学者はもちろん、広瀬旭荘などの漢学者や萩原弘道などの歌人、旗本、薬問屋、豪商などと付き合いがあり、顔が 広かった。大坂城在番役を勤めていた旗本久貝正典は洪庵の人柄と学識に惚れぬき、江戸に帰ったのち洪庵の江戸行きを幕閣に勧めたほどである。また、ライバ ルであった華岡青洲一派の漢方塾合水堂とは塾生同士の対立が絶えず「『今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから』とワイワイ言った」と 福沢が述懐したほど犬猿の仲であったが、洪庵は、華岡一派とは同じ医者仲間として接し、患者を紹介したり医学上の意見を交換しあうなど懐の深いところが あった。 晩年の万延元年(1860年)には門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書二冊を購入し、英語学習も開始した。これは洪庵自身にとどまらず、門人や息子に英語を学ばせるのが目的であった。このように柔軟な思考は最後まで衰えなかった。 洪庵の人柄や適塾での教育は優れていたものの、洪庵を敬慕する福沢の『福翁自伝』で伝えられ、さらに司馬遼太郎の歴史小説で知られるようになったことで、理想化されている面があるとの指摘もある(住友史料館主席研究員海原亮の見解)[4]。 適塾を前身とする大阪大学では、学務情報システムに"KOAN(コーアン=洪庵)"の名が用いられている。また、卒業証書には洪庵直筆の書が用いられている。 |
親族 妻の八重は、夫との間に7男6女(うち4人は早世)を儲け、育児にいそしむ一方で洪庵を蔭から支えた良妻であった。洪庵の事業のため実家からの仕送りを工 面したり、若く血気のはやる塾生たちの面倒を嫌がらずに見たりして、多くの人々から慕われた。時に洪庵が叱責すると、それをなだめつつ門弟を教え諭すこと も多かった[4]。福沢は「私のお母っさんのような人」「非常に豪い御方であった。」と回想し、佐野常民は、若き日にうけた恩義が忘れられず八重の墓碑銘 を書いている。洪庵の死後は彼の肖像画を毎日拝み遺児の養育に力を尽くした。八重の葬儀には、門下生から明治政府関係者、業者など朝野の名士や一般人が 2000人ほど参列し、葬列は先頭が日本橋に差し掛かっても、彼女の棺は、2.5km離れた北浜の自宅から出ていなかったという。八重の甥に紙幣製造に貢 献した化学者の岸本一郎(1849-1878年)がいる[7]。岸本は緒方宅で育ち、幕府派遣の英国留学生に選抜され、日本の最初期の化学留学生としてロ ンドンで学んだ[7]。 次男緒方惟準(これよし、1843-1909[8]、幼名平三、のちに章、洪哉、字は子縄、通称は洪斎、号は蘭洲[9] ) 三男・緒方惟孝/緒方城次郎(1844-1905)。慶応元年幕府のロシア留学生となり、帰国後大蔵省入省、新潟県判事、帝国大学病院薬局取締を経て、退官後緒方病院薬局長を務めた[10]。 第10子で五男の緒方惟直(1853-1878)は早くからフランス語を学び、1873年のウィーン万国博覧会で通訳を務めた。1875年にイタリアへ渡 り、トリノで日本語教師となる。翌年当地の女性Maria-Giovanna Serotti(1855.8.14パドヴァ〜1890.10.27ヴェネツィア, 母ジョヴァンナ・ポレーゼ, 父ヴィンチェンツォ・セロッティ)と結婚。[11]長女エウジェニア豊(1877-1967年)が生まれる。惟直は1878年に25歳で死去。豊は 1890年に母親も亡くし、1891年に緒方家に引き取られ、加陽光太郎を婿養子に迎え二男三女をもうけた[12]。 第12子、六男の緖方收次郞(1857-1942)は、東京医学校を1881年に卒業し、東京大学雇及医学部眼科当直医となり、1883年東京大学御用 掛、1886年に東京帝国大学助手となるも翌年辞職して緖方病院副院長となり眼科及外科の診察を担当。1889年から3年間滞欧し、帰国後緖方病院の院長 を務めた[13]。その長男の緒方洪平は京都府立医科大学教授。三女・三重子は、横浜正金銀行役員のほか日本綿花監査役などを務めた平野珪蔵に嫁いだ [14]。五女・淑子の夫・福沢八十吉は福沢諭吉の孫(諭吉の長男・一太郎の長男)[15]。 第13子で八男の緒方重三郎(1858-1886) 四女の八千代は洪庵の弟子・緒方拙斎(1834-1911[16]、旧姓・西)を婿とした。拙斎は適々斎塾を継ぎ、緒方惟準らと1887年に緒方病院を設 立、1889年には大阪慈恵病院を設立した[17]。その長女・千重(1861-1914)は緒方正清(1864-1919、旧姓・中村)を婿に迎えた。 正清は帝国大学医科大学卒業後欧州に留学し、ベルリン大学ではロベルト・コッホに師事、帰国後、当時私立三大病院のひとつになっていた緒方病院の産婦人科 長となり、その後は独立し、大阪今橋に日本初の本格的な産婦人科専門の緒方婦人科病院を設立[18]。産婆に代わって助産婦という語を提唱し、助産婦教育 所、助産婦学会を設立するなどして産婦人科の発展に寄与した[19]。正清の病院は養子の緒方祐将が継ぎ、その子、孫と継承されている。 孫の緒方知三郎と緒方章はそれぞれ病理学者と薬学者である。 曾孫の緒方富雄は東京大学で血清学の研究を行い、日本の血清学の基礎を固めた。昭和23年(1948年)3月に財団法人血清学振興会を設立し、血清学領域 の基礎研究及び応用研究が行われてきた。その後、緒方医学化学研究所に発展し、血清学に留まらず広く医学・歯学分野などの調査研究(学術誌『医学と生物 学』)を行っている。また、同研究所では緒方洪庵や杉田玄白、石川大浪、小石元瑞などの貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有して公開している。 |
https://x.gd/fRrzw |
|
『花神』(かしん) は、司馬遼太郎の歴史小説。戊辰戦争で天才的な軍才を振るい、近代日本兵制を創始した兵部大輔・大村益次郎の生涯を描く。 『朝日新聞』夕刊紙上で、1969年(昭和44年)10月から1971年(昭和46年)11月まで連載された。 概要 周防国の百姓医に生まれ緒方洪庵の適塾で蘭学を学んで蘭学者として名を馳せ、やがて故国の長州藩に仕官して藩軍の改革に携わって長州征伐で奇蹟的な勝利を 成し遂げ、上野戦争に代表される戊辰の戦役で官軍の総司令官として幕軍を壊滅に追い込むものの、狂信的攘夷主義者の凶刃に斃れるまでを扱う。物語の合間に は、江戸後期の蘭学に多大な影響を与えたシーボルトの娘で、大村が蘭学を指導した楠本イネとの恋愛模様が描かれる。冒頭で司馬は、適塾出身者を祖父に持つ 大阪大学医学部教授・藤野恒三郎から受けた大村とイネとの関係は恋であったのかという問いが本作を執筆する動機になったと語っている[1]。 タイトルの花神とは「花咲か爺」のこと。枯れ木に花を咲かせるように、大村がその軍才で革命の花粉を日本全土に広めていった様を喩えている。司馬は本作 で、軍事的才能とは訓練や教育で育成することが不可能な天賦の才であり、戦術的天才を「人間の才能のなかでもっとも稀少」なものとし、いわゆる名将とは 「一民族の千年の歴史の中で二、三人も持てば多すぎるほど」と述べ、幕末には無数の人材が群がり出たものの軍司令官として相応しい戦術的天才は大村ただ一 人を除いてついに出なかったと評している[2]。 「大村益次郎永敏」とは、後年長州征伐(第二次)の直前に上士に引き上げられてからの名前で、元来は「村田蔵六」や医号の「村田良庵」を名乗っていた。 「蔵六」とは亀のことで四肢と頭と尻尾を甲羅に蔵(かく)した状態を意味し、司馬は己を韜晦しきったこの名を「なにやらかれにふさわしい」として、本作で の人称は冒頭から最後まで「村田蔵六」で著される[3]。 あらすじ 日本第一の蘭学塾と名高い大坂の適塾に風変わりな男がいた。その男・村田蔵六は周防国の百姓医の生まれで、抜群の成績を修めて塾頭にまで取り立てられた秀 才であった。が、その人柄は恐ろしく無愛想で、必要なこと以外は一切口をきかない。たまに口を開いても出てくる言葉は喜怒哀楽の片鱗も見せない小理屈ばか りで、達磨に似た珍妙な面相で四六時中黙り通す朴念仁ぶりは、他の塾生達を大いに閉口させた。そのような中、蔵六は塾の使いで赴いた旅先で偶然から碧眼の 混血婦人とめぐり逢う。イネというその婦人は、三十余年前に来日してこの国の蘭学を一変させた西洋人医師・シーボルトの遺児であった。 黒船来航は泰平の眠りを打ち破った。永く外敵の脅威に晒されることのなかった日本人の意識は大いに刺激され、海防の重要性が喧しく唱えられるようになっ た。蘭学者もにわかに引く手あまたとなり、蔵六も伊予国宇和島藩に招かれ軍学書の翻訳を任されることとなる。蒸気船の建造や砲台の建設にも携わる中、やが て蔵六は奇縁により宇和島に来たイネと再会し、彼女に蘭学を教授することとなる。蔵六はイネの聡明さと美しさに惹かれた。イネの方も蔵六の不器用で朴訥な 人柄を好もしく思い、卓抜した学識への敬意も相まって恋慕を抱くようになる。ついに二人は肌を合わせることとなるが、もともと人づき合いが苦手な蔵六は、 あくまでもイネとの間を単純な師弟関係にとどめておき、煩瑣な間柄になることを恐れた。折しも江戸出府の達示があり、蔵六はイネとの距離を置くため江戸へ 出ることにする。江戸でも蔵六の学才はたちまち評判となり、やがて蔵六の名声を聞いた長州藩から声がかかり、蔵六は長州藩士として藩の軍制改革に関わるこ ととなる。蔵六という男が凡庸な蘭学者と比べて特異だったのは、軍学書の内容を脳裏で克明に映像化できることにあった。瞼を閉じれば幾百の兵の姿をありあ りと思い浮かべ、一号の号令の下に躍動する様を思い描くことができる異能を、この男は備えていた。 世情はいよいよ「尊皇攘夷」の掛け声で沸騰し、過激志士達による騒擾事件が相次いだ。そのような中、長州藩は攘夷断行を主張する若手藩士の突き上げに揺さ ぶられ、あたかも攘夷思想の総本山となったかのように藩全体が先鋭化した。急進的藩士に引きずられた長州は外国船への無差別砲撃まで始め、同時に京で政治 工作を重ねて宮廷を牛耳り、偽勅を乱発して政情を攘夷断行へと誘導し始めた。ところが行き過ぎた行動は政治的反作用を招き、長州は八月十八日の政変によっ て京から追放される。長州は失った政治的地位を回復しようと蛤御門ノ変で京洛になだれ込むも惨敗し、幕府は勅許を得て長州征伐に乗り出すこととなる。恐れ をなした長州は穏健派が政権に就いて恭順を示そうとするが、しかしほどなく奇兵隊がクーデターを起こし、再び急進派が藩政を握った。事ここに至っては幕府 との全面対決は避けられず、長州藩は挙藩一致で戦の準備を始める。全軍の指揮官として白羽の矢が立ったのは、帰藩以来藩軍の改革を指導した蔵六であった。 百姓上がりの男に戦ができるかと反発もあったが、藩首脳は誰よりも西洋軍学に精通するこの蘭学者に賭けた。上士に取り立てられた蔵六は名を「大村益次郎永 敏」と改め、全長州軍を率いて幕軍との対決に臨むこととなる。 再度の長州征伐を決断した幕府は、諸藩に動員をかけ西下を始めた。三十余藩を従えた大軍勢で押し寄せる幕軍に長州兵達は震えあがるが、しかし蔵六には必ず 勝てるという自信があった。藩軍の改革を任されて以来、蔵六は軍の近代化を大きく押し進めていた。また、秘密裏に成立した薩長同盟により、薩摩藩の水面下 の支援を得て施条銃を始めとする新鋭兵器を可能な限り集めさせた。古めかしい戦国期の軍法を墨守する幕軍に対して長州軍は兵法も装備も合理主義に徹し、自 藩の存亡を賭けた戦いに土民までもが一致結束したこともあり、終始幕軍を圧倒した。泰平の世ですっかり懦弱になった幕軍は大将自ら敵前逃亡するという醜態 まで晒し、ついに停戦を申し出る他なくなった。三百年来天下を圧してきた幕軍が土民の混じった長州軍に敗北したという戦果は日本中を聳動させ、幕府の権威 を一挙に失墜させた。長州の奇蹟の戦勝に薩摩もついに倒幕を決断し、時勢は急湍の勢いを示して流れ始める。いよいよ始まる倒幕戦に先立ち、蔵六は下関を 訪ったイネに別れを告げた。蔵六という男はこれまでの人生においておよそ能動的に行動したことがない。蘭学を講義したのも軍務に携わるようになったのもみ な世間の求めに応じてのことであり、そのことに一抹の寂しさを感じていた。しかし、何やら人に追い使われるために生まれてきたような人生の中でただ一つ、 イネと共に過ごした時間のみがささやかながらも充足感を与えてくれた。しかし不器用なこの男にそれを口にできるような衒気はなく、仏頂面で形見の品を押し つけると、今生の別れを言い遺して倒幕戦へと臨んだ。 戊辰戦争が幕を開けた。鳥羽・伏見の戦いに辛くも勝利した薩長軍は、朝廷を擁して新政府を樹立した。官軍となった薩長が東征を始めようとする中、意外にも 幕府は錦旗の前に恭順を示し、江戸城も無血で開城された。江戸総攻撃の混乱は回避されたかに見えたが、そのような幕府の姿勢に不満を持ち降伏を是としない 勢力も存在した。徹底抗戦を叫ぶ幕臣達はそれぞれに徒党を組み東北や蝦夷地へ転進したが、上野寛永寺を根城にする彰義隊は官軍が江戸城に入った後も江戸に 残り、反抗活動を繰り返した。新政府の威信を忽せにせぬためには速やかにこれを討伐せねばならないが、戦闘により江戸の街が焼失してしまえば財政難に苦し む新政府にこれを復興させる余裕はない。討滅戦は街を焼くことなく行わなければならず、このような難事を成し遂げ得るのは魔術の如き軍配を振るう戦術的天 才のみであろう。全軍の指揮は、長州征伐を跳ね返して奇蹟の戦勝をもたらした蔵六に委ねられた。蔵六はさながら己を一個の精密機械に擬し、江戸の大火の歴 史を丹念に調べて研究を重ね、数式のように精妙な作戦を構築する。折しも梅雨を迎えたことを好機とした蔵六は、霖雨の中で敵部隊を巧みに誘導して寛永寺に 集中させ、街に損害を出すことなく鮮やかにこれを覆滅した。わずか一日で反乱を鎮圧したその采配は、軍神もかくやと言うべき神算鬼謀の業であった。 江戸の鎮定後、官軍は奥羽から蝦夷地へと転戦し、蔵六は最高司令官として江戸城の総督府より指揮を執った。蔵六の的確な指揮により各地の反乱は徐々に制圧 されていったものの、命令権限を一手に握り絶対者として振る舞うその姿勢は反発も招いた。やがて五稜郭の陥落により戊辰戦争が終結すると、蔵六は兵部大輔 に就任し近代軍の創設に着手する。しかし国民皆兵思想から身分制の廃止を主張する蔵六の果断な改革案は固陋な尚古主義者達の激しい憎悪を買った。持ち前の 愛想の悪さもたたって多くの敵を作った蔵六は、ついに出張先の大阪[注 1]で激徒の襲撃を受け、その凶刃に斃れ落命することとなる。あたかも時代の求めに応じるようにして彗星の如く現れたこの男は、日本全土に革命の花粉を撒 き散らすとその役目を終えたかのように静かに歴史の舞台から去っていった。まるで事務処理のようだった蔵六の生涯を、最後にかすかにながらも芳醇なものと してくれたのはイネの存在であった。イネは蔵六の遭難を聞くや、道中の疲労も厭わず遠路遥々駆けつけ、その後蔵六が息を引き取るまでの間、寝食も忘れて看 病を続てくれた。この男の常の癖で愛想のある対応はできなかったものの、蔵六にとって臨終までのイネとの時間ほど生涯で愉しかった時は他にない。「このイ ネばかりがおれの女だ」と叫び上げたいほどに思ったことであろう。 由来、人間が理性で生きる部分などわずかでしかなく、蔵六のみが人間の例外であるはずもなかった。 主な登場人物 村田蔵六(大村益次郎) 本作の主人公。周防国鋳銭司村の百姓医に生まれ、蘭学を学ぶために大坂の緒方洪庵の適塾に入り、抜群の成績を修めて塾頭に取り立てられる。家業を継ぐため に一旦郷里に戻るものの、優れた蘭学者を探していた宇和島藩に招かれて蘭学の教授を行い、その後江戸に出て蘭学塾「鳩居堂」を開塾し、幕府の要請によって 蕃書調所・講武所の教授となるが、愛郷心から故郷の長州藩に仕え、兵制の改革・士官学校の開設・西洋式砲台の建設など藩軍の近代化を押し進めた。第二次長 州征伐に臨んで長州の軍務を総攬する地位に就き、決して精強とはいえない長州兵を巧みな采配で進退させ、対幕戦で奇跡の戦勝をもたらした。続く戊辰戦争で は官軍の総司令官を任され、精妙無比な戦闘指揮によって旧幕軍の抵抗を見事に鎮圧した。 「火噴達磨」(達磨の形をした火おこし器)と仇名されたように額がせり出、眉が太く目がぎょろりと大きい醜男。面相が良くない上に異常なほど無愛想な性格 で、必要がなければ四六時中黙り通して一言も口をきかない。すべてを記号化する数学的視点で物事を捉えることを好み、非合理な言動・行動を好まない。時候 の挨拶も理解できないため百姓医であった頃は村人が近づかず、医院はまったく流行らなかった。その一方で、珍妙なことに長州藩や日本に対して強烈な郷土愛 を抱き、西洋人を無条件に嫌うという情念的ナショナリズムを濃厚に持つ。蘭学者には珍しい攘夷思想の徒であり、攘夷主義者を嘲笑する福沢諭吉からは散々馬 鹿にされた。 政略と戦略、および戦術について明快な定義を整え、近代的作戦家として確固とした識見を備えている。殊に戦略の中における戦術の位置づけについては、「タ クチーキ(戦術)を知ってストラトギー(戦略)を知ざる者は、ついに国家を過つ」として戦術の上位概念としての戦略の重要性を説いた。綿密な計算を立て立 案した作戦に確固たる信念を持つため、兵員も弾薬もたとえ前線から火のような催促があっても必要と認めた以上は決して送らない。人の心の微妙な機微を斟酌 することができず、人間関係についても数学的思考で捉える癖があり、この悪癖により無用の反発を招いて多くの敵を作った。そのため、軍人としては極めて優 れているが政治的才覚は乏しい。 明治初年、過激な攘夷主義者の襲撃を受け、その刀瘡がもとで落命した。 楠本イネ シーボルトの娘。物心つく前に生き別れになった父への憧憬から蘭学を修め、医師になることを志す。シーボルトの門人であり養育を託された二宮敬作から産科 を学ぶことを薦められ、同じくシーボルトの門下生であった備前国岡山の石井宗謙の元に弟子入りするも蘭語もろくに教えてもらえず、挙句に手篭めにされて子 を身籠る。しかし緒方洪庵の使いで宗謙を訪ねて来た蔵六と知り合い、ほどなく蔵六が蘭学講師として宇和島藩に招聘された際に宇和島藩に仕える二宮敬作の引 き合わせで再会し、たまさかその指導を受けることとなる。蔵六が江戸へ出た後はその後を追って開港間もない横浜で産科医院を開き、その後一旦長崎に戻って 幕府の招聘で来日していたオランダ人医師・ポンペについて本格的に西洋医学を学び、再び横浜で産科医として開業する。産婆ではなく、正式に医学を修めた日 本初の女医。 学問に対するその情熱や執心はすべて幼くして離別せざるを得なかった父に対する想いから出ているといってよく、さながら父の愛を渇望するように蘭学を学ん だ。蔵六に対してはその卓抜した学識を深く尊敬し、朴訥で不器用な人柄にも得も言われぬおかしみを感じ、恋慕を抱くようになる。蔵六もイネの深い知性に好 意を持ち、妻を娶りながらも生涯漂泊同然の暮らしをして鋳銭司村の自宅に居つくことが少なかった蔵六にとって、伴侶にも等しい存在となった。 蔵六が攘夷の激徒の襲撃を受けた際には、すぐさま横浜の医院を閉じて大阪まで駆けつけ、その後五十日間献身的に看病し、その最期を看取った。 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト ドイツ人医師。本作の時代から三十年ほど前、ヨーロッパにおいてほとんど未開拓の状態にあった日本学を開拓することを志し、オランダの軍医少佐の肩書で来 日した。幕府の公認の下で長崎郊外の鳴滝に塾舎を構えて多くの俊才を育成し、江戸後期の蘭学を一変させた。その傍ら、日本の自然や文物に関する資料を多岐 に渡って熱心に蒐集し、輸出禁制の品を持ち出そうとしたことから幕府より国外追放されることとなるものの(シーボルト事件)、滞日中に重ねられた研究は ヨーロッパで高い評価を受け、彼の地における日本学の祖となった。 オランダに戻った後も「美しい国に住む善良な国民」と日本への想いを忘れずに持ち続け、日蘭修好通商条約の締結により追放処分が解かれた後に再来日し、つ いにイネとの再会を果たす。しかし三十年ぶりに来日したシーボルトはすでに老齢でイネが少女時代から思慕を抱き続けた帯日時の精悍な青年医師とはかけ離れ ており、また父がオランダ人ではなく本来ドイツ人であったこともイネに衝撃を与え、父との再会はイネにとってあまり幸福なものとはならなかった。 緒方洪庵 大坂で日本第一の蘭学塾である適塾を主催する学匠。医学を私利私欲を求めず公のために尽くす仁術と心得る君子人で、生涯に渡って三千人にも及ぶ門人を育てた。その公正無私な人柄は大坂市民に大いに敬慕され、門人達からの信頼も篤い。蔵六(大村益次郎)も終生洪庵を敬愛し続け、後に暗殺者の凶刃に斃れた際には自身の骨を分骨して洪庵の墓の側に埋めることを遺言した。 晩年になって幕府の要請により、奥医師に就任する。元来病弱である上にすでに老齢であることを理由に固辞したが、再三の懇願を断り切れず要請を受け入れる。しかし御殿仕えの気疲れが重なり、江戸出府わずか一年ほどで結核により世を去った。 二宮敬作 シーボルトの高弟。宇和島の僻村の百姓の出で若くして蘭学を志し、折しも来日していたシーボルトの評判を聞き、長崎に出てその門を叩いた。シーボルト一門 を代表する俊才の一人で、殊に外科医としての腕前はシーボルトをも驚かせたほどで、その技術は日本一といっても過言ではない。シーボルト事件後に長崎を追 放され郷里に戻るが、学才を耳にした宇和島藩主・伊達宗城に準範士待遇で迎えられる。黒船来航後、優れた蘭学者を探していた宗城に蔵六を推挙し、蔵六が世 に出るきっかけを作った。 シーボルトの帰国の際にイネの養育を委ねられ、シーボルトを神のように尊崇することからイネに父の偉業を繰り返し語って聞かせ、イネのシーボルトに対する 憧憬心を育てた。長崎を追放されたために直接面倒を見ることはできなかったものの、蘭学に興味を持ったイネのために宇和島から様々な支援をした。少々過剰 なほどの情念の持ち主で、世間への慷慨やらイネの将来への不安やらに悩み続け、鬱積する憂憤のために常に酒を傍らから離せず、そのためやや酒乱の気があ る。 深酒がたたり、下関戦争の前年に脳溢血で斃れ世を去る。イネはさながら父親代わりとして面倒を見てくれた敬作を弔うために、自費で墓を建立した。 伊達宗城 伊予国宇和島藩藩主。「賢侯」として天下に広く知られた英君で、黒船来航以前より西洋文明に強い関心を持ち、藩の近代化を押し進めていた。蘭学の普及にも熱心で藩士に蘭学を奨励し、蛮社の獄で逃亡中だった蘭学者・高野長英を匿ったこともある。 黒船来航に際して蒸気船を目の当たりにし、西洋文明の象徴ともいえるその威容に感嘆し、自らの手で建造することを決意する。二宮敬作からの推挙で仕えることとなった蔵六に研究を命じ、蔵六は城下の提灯張り職人・嘉蔵と共に苦心の末に蒸気船建造を成し遂げた。 福沢諭吉 豊前国中津藩出身の洋学者。緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、抜群の成績を収めて洪庵に高く評価された。蔵六にとって同窓ではないが、塾の後輩に当たる。 行動力に富んだ性格で、世界の標準が英語であると知るやすぐさま蘭語を放り捨てて英語を身につけ、幕府に通訳官として召し抱えられて万延元年遣米使節や文 久遣欧使節で洋行も果たした。性格的に保守傾向の強い蔵六は福沢のやや軽薄なくらいの先進好みを快く思わず、福沢の方でも蔵六のいささか固陋な保守性を嫌 い、両者は何かとそりが合わなかった。 維新後は慶應義塾の主催者として啓蒙・教育活動に邁進した。 桂小五郎(木戸孝允) 長州志士の指導者の一人。藩の典医の家の出身で、藩校明倫館の講師をしていた吉田松陰によって勤王思想の洗礼を受け、志士活動を始める。書生じみた気焔を 吐く他の志士達と異なって、常に地に足を据えて物事を捉える冷静な思考を備えており、若手志士達のまとめ役として仰がれた。調整能力と交渉力に優れること から若年ながら藩政の中でも重用され、その政治力はすでに老熟した政治家の風韻がある。蛤御門ノ変の後に幕府の追捕の網を逃れて諸国を流浪したが、第二次 長州征伐の直前に帰国を果たし、藩政の実権を握った。 蔵六という逸材に目をつけ、長州藩に招いた人物。百姓出身ということで何かと動きづらい蔵六に様々な便宜を図り、藩政を掌握した後には藩の軍務長官に大抜擢した。寡黙な蔵六も桂の実直な人柄には信頼を寄せ、桂相手には熱心に政策論を語った。 維新後は「木戸孝允」と名乗り、新政府の顧問・参与の座に就いた。天才を発掘したという自負心から蔵六への思い入れは強く、新政府の中で重用して末には薩 摩閥に対する長州閥の首魁に育てようと考えていた。そのため蔵六が攘夷の激徒の凶刃で落命した際には悲憤慷慨し、身も世もないほどに慟哭した。 高杉晋作 長州志士の指導者の一人。吉田松陰の松下村塾の塾生で、師の感化を得て勤王活動を始める。藩の上士の出身であるが、急進的な若手志士達の頭目として担ぎ上 げられ、初の民兵組織である奇兵隊を創設する。攘夷の不可能性は理解していたものの、あえて過激な攘夷活動を行うことによって長州藩を幕藩体制を抜け出し た一個の独立国にするという「大割拠論」を唱えた。時勢を見極めることに超人的な眼力を備えており、一隅の好機を見定めるや雷電のごとく行動を起こして決 して逃さず、革命家としては不世出といってよい才覚の持ち主。 第二次長州征伐の直前に奇兵隊によるクーデターを成功させて再び藩政を急進派に取り戻し、関門海峡を渡った豊前国小倉藩との戦いでは自ら部隊を指揮して勝 利を得た。しかし戦役の終結後に肺結核に倒れ、若くして病没する。蔵六とは生涯疎遠であったがその軍才を見抜き、忌の際に奇兵隊士達に蔵六を大将に仰ぐこ とを遺言して息を引き取った。 西郷隆盛 薩摩志士の指導者。比類なき統率力で日本最強とされる薩摩武士団を束ね、戊辰戦争では官軍の筆頭参謀を務めた。同じく官軍参謀として参加した蔵六の軍才に 感服し、百姓医あがりの蔵六を嘲る者を諌め、戦役における軍事の全権を掌握させた。接する誰をも深く魅了してしまう人格を持ち、志士達の衆望を一身に掌握 して鮮やかに統率し、倒幕戦の実質的な総大将として指揮を執った。ところが蔵六はその魅力に対してまったくの不導体であり、参謀の一人として日常的に接し ながらも西郷の威望を理解できず、その人物を巨大な無能人としか見なかった。 純朴な理想主義者であることから、維新の成立後は革命の結果に納得がいかず、度々不満を漏らして慨嘆した。西郷の巨大な声望が同じく維新を承服できない不 平分子の不満と結びつくことを危惧した蔵六は、窮理学(物理学)的にその行方を考察して「いずれ九州から足利尊氏のごとき者が起こる」と断じ、およそ十年 後の西南戦争の勃発を予見した。 天野八郎 彰義隊の指導者。元来は上野国の富農の出で幕臣ではないが、深い教養を持つ上に雄偉な体躯を備えることから総大将としての風格に溢れ、正規の幕臣達からも 指導者として推戴された。耳を貸す誰をも陶酔させる弁舌の持ち主で扇動者として稀有な力があり、結成時に百人程度しかいなかった彰義隊を三千人にまで膨れ 上がらせた。 とはいえ戦略眼に乏しく、結束させた隊のエネルギーを方向づける展望を持たず、隊士達とともに己の口舌に酔うといった格好に留まった。軍事的な才覚も欠け ており、配下にもこれといった人材がいなかったため、上野戦争の火蓋が切られるや蔵六の巧緻な作戦の前にあっけなく敗退した。 海江田信義 薩摩藩士。薩摩藩の中でも最古参の志士で、黒船来航以前より西郷らとともに活動した華麗な閲歴を持つ。が、甚だ狭量な性格で人物が小さく、同郷の薩摩人の 間でも評判が良くない。戊辰戦争においては筆頭参謀の西郷から総督府を任され、江戸城で全軍の指揮を執っていたが、遅参してきた蔵六が自らを押しのけるよ うにして官軍の全権を掌握したことに強い不快感を抱き、軍議の席でも度々意見が対立し、蔵六を激しく憎むようになる。蔵六は海江田を喧しいだけの小人物と 見てまともに相手にせず、その愛想の悪さが災いしてさらに憎悪を掻き立てさせた。 蔵六との衝突を危惧した西郷によって戦役の後期から京駐在の閑職に飛ばされる。しかしそのことを執念深く恨み続け、かねてより蔵六をつけ狙っていた長州浪 人・神代直人ら狂信的攘夷主義者を焚きつけ、蔵六が軍施設建設の視察のために京坂に出張した際に襲撃させた。蔵六は辛うじて難を逃れるものの、この時受け た刀瘡がもとでおよそ二ヶ月後に命を落とすこととなる。 刊行書誌 新潮社 全4巻、1972年5月-8月 新潮文庫 上中下、1976年8月、改版2002年。電子出版、2021年2月 上 ISBN 4101152179、中 ISBN 4101152187、下 ISBN 4101152195(文庫新版) 新潮社 愛蔵版 全1巻、1993年12月。ISBN 4103097396 文藝春秋『司馬遼太郎全集30 花神 一』、『31 花神 二 斬殺・慶応長崎事件』1974年3月 30巻 ISBN 4165103004、31巻 ISBN 4165103101 |
リ ンク
文 献
そ の他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
☆☆