マヤ文明遺跡観光
Heritage tourism of
Mayan "great" Civilization
一.紛争地域における観光客
一九九四年一月一日メキシコ、チアパス州におけるサパティスタ国民解放軍(EZLN)によ る武装蜂起は、NAFTA(北米自由貿易協定)に伴うメキシコの貿易自由化と南部の観光振興を期待する人びとに冷や水を浴びせた。サパティスタは同年暮れ の一二月一九日にも再度蜂起をした。この蜂起は一般には中央政府の農業政策の転換に対する農民の抵抗として位置づけられており、政府との交渉においてサパ ティスタ側は先住民の貧困や抑圧からの解放と、政府与党の汚職に対して政権の放棄を要求している(★)。
チアパス州にはユカタン州、キンタナ・ロー州とならんでマヤ文明の多数の遺跡がある。さら に隣接するグアテマラのほか、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルにもマヤ考古学上重要といわれている遺跡が数多くあり、主要な遺跡のいくつかは発掘 がすすみ現在、遺跡公園として年間を通して多数の観光客を受け入れている。その五ヶ国すなわちメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバ ドルの各政府あるいは民間機関が協力し、この地域を相互に結ぶ「ルータ・マヤ」計画、あるいは広域的な遺跡と民族の観光プロジェクト「ムンド・マヤ」計画 が推進されている。国際的な連携のもとで古代マヤ文明の遺跡と自然・民族・文化を売りものにし、成功には明るい見通しがもたれていた矢先のことであった (★)。
さて、マヤ遺跡を訪れる観光客にはほとんど知られることがないが、ユカタン半島の内奥の低 地は被抑圧先住民の解放を唱うゲリラの活動拠点もまた多い(★)。チアパス高地で蜂起したサパティスタも、その後「ラカンドンのジャングル」と呼ばれる後 背地に一時的に退き、代表を送って政府との交渉のテーブルについた。ところがこのラカンドンの人たちが住むジャングルとは、現代マヤ人(ラカンドンもそれ に含まれている)と古代マヤ遺跡を取り結ぶステレオタイプが生産され、またマヤ考古学におけるいくつかの重要な発見があった地でもある。
ジャングルの奥地の密林でのマヤ遺跡にたたずみ「伝統的な儀礼」をおこなうラカンドンの人 たちは数々の記録映画や『ナショナル・ジオグラフック』誌に代表されるような媒体を通して失われたマヤ文明の格好の表象となった(★)。その起源は今から 五十年以上も遡れる。一九四四年ユナイティッド・フルーツ・カンパニーはジャイルズ・ヒリーにラカンドン族の映画を撮影するように要請し、そのスポンサー となった。しかし、これがボナンパク遺跡のフレスコ画の発見の発端となる。発見された壁画には、従来のマヤ人のイメージである宿命論的な時間の概念に縛ら れ、司祭によって平和的に統治されていたような神権政治をする古代マヤ人のイメージとはかけはなれた像があった。すなわち、戦士が被征服民を斬首したり拷 問している絵が描かれていたのだ。にもかかわらずボナンパク遺跡の最初の報告書(一九五五年)には、その事実は過小に評価され、それまでのマヤ文明のイ メージを踏襲したものだった。
同様なことは一九世紀末マヤ学者アルフレッド・モズリーのヤシュチラン遺跡の石碑解釈にも あてはまる。彼は、自己供犠によって身体の一部を傷つけている人物像を模写するさいに意図的か非意図的かはともかく残酷にみえないように描いてしまった。 古代マヤ人があたかも平和で深遠なマヤ歴を刻む人たちであるかのようなイメージを専門的な考古学者たちは抱きつづけた。後のマヤ学の権威エリック・トンプ ソンですら、ピエドラス・ネグラス遺跡の碑文には王位継承に関することが書かれているというタティアナ・プロスクリアコスの主張の可能性を最終的には認め たが彼女の学説は受け入れなかった。 「ラカンドンのジャングル」は、そのようなマヤ文明のイメージの生産地であったがゆえに、過去三〇年間に多数の人たちがそこをめざしてやってきたのだっ た。宣教師、伐採の請負業者、映画制作者、そして魂の探求者すなわちヒッピーなどである。こうしたなかでは悪い冗談がおこっても不思議ではない。旅行作家 キャンビーはラカンドンのジャングルを訪れた際に、そこにいた男たちの一人をつかまえて、スペイン語で、ナハから来たのかと尋ねた。ナハというのはキリス ト教の布教が成功していなかった村、すなわち「ほんもんのマヤ文化」が残る地区だった。男は彼を見下すかのように「俺はカリフォルニアから来た」と言った (★)。
ここにあげたことは、古代マヤの遺跡を訪れる観光客には全く無関係なことであろうか。そう ではあるまい。古代マヤのイメージは考古学的調査や研究の成果が一般に膾炙されてできたものであり、それが観光を煽り、ガイドの説明やガイドブックではそ れらが誇張されて観光客に伝わる。血なまぐさいゲリラの蜂起というニュースがメディアを通して配信されたが、インターネット(コンピュータ通信網)を介し てサパティスタ自身のコミュニケや支援団体によるチアパスの情報をすぐ入手することが可能である。そして、その同じインターネットを介して米国の旅行代理 店は、すぐにチアパス州周辺の治安状況をつかみ顧客にこの地域への旅行を控えることを勧告することができた。実際、この年紛争地域から少し離れたパレンケ 遺跡の入場者は激減した。パレンケ市は、この観光地へ訪れたり、ラカンドンのジャングルの遺跡ツアーの中心地になっているのだが旅行業者は軒並み開店休業 の状況に追い込まれた(★)。報道関係者という特殊な観光客を除けば、ふつうの観光客は紛争地域には旅をすることはない。旅を安全に快適に過ごしたいとい う希望が叶えらえるように計画は立てられる。しかし、パールハーバーやアウシュヴィッツなどかつての忌まわしい場所が観光の目的地となることとは対照的 に、その時点での紛争地域が観光地に決してならないことの意味はより深く考えられてしかるべきである。現代の観光客は、紛争地域を避けるという行為を通し て消極的だが関わっている。戦争と観光は写真で言うネガとポジの関係にあり、相互に関連した現象なのである(★)。
二.文化遺産と文化の生産
文化遺産(heritage)には、モニュメント、動産財、土着文化やそれらにまつわる観 念などが含まれる。博物館や遺跡はそのようなもろもろの「もの」を収容したもの、あるいはその全体とふつう考えられている。そのため文化遺産観光の議論に は「なぜ人びとは遺跡や博物館を訪れるのか」と問いかけるものもある(★)。ここでは文化遺産の概念を広く取り、それと関連する問題のなかで遺跡観光を論 じよう。そのことを通してこの問題を矮小化させることなく、文化人類学でひろく論じられている議論へと節合させるのだ。
文化遺産としての遺跡(建造物)や遺物(石碑や土器、遺体や装飾品など)が人びとにとって どのような意味をもつのかを問うことは重要である。そして、文化がある種の価値をもつような「物」として対象化され、またそれゆえに操作可能な実体として 人びとに認識されるようになるという「文化の客体化」の議論は、遺跡観光を論じる際に有効な視点となる(★)。マヤの遺跡・遺物にまつわる「文化」をこの ように操作可能な実体としてとらえたさいに見えてくるものは何だろうか。経済活動にみられる表現をかりて比喩的に言えば、文化は「富や資源」であり、しば しば「生産」され「流通」し「消費」されている。
「富や資源」としての文化遺産(patrimonio cultural)は、国家の財産(国宝、tesoro national)や国のシンボルとして位置づけられ、修復された遺跡の光景やマヤの神々、あるいはスペインの征服に抵抗した先住民の首長のイコンが紙幣 や貨幣に使われている。政府の広報や公的な演説によると、国民はその文化遺産を保有し、また次の世代に継承してゆく主体となる。その主体は「スペイン語を 話すメスティソのメキシコ人たち」であり彼らは自分たちの祖先を「イベリア半島のカスティリア人征服者にではなく、なかば消滅したアステカ人、マヤ人、ト ルテカ人、サポテカ人にたどる」にもかかわらず、である(★)。各国によって複雑な経路こそあれ文化遺産という考え方はそれを担う主体が誰にあるのかとい う考え方と密接に結びついて発達してきた(★)。文化遺産の「価値」が計量できないにもかかわらず、実際には遺跡の規模や副葬品にもちいられた宝石や貴金 属の量や数からその価値は表現される。他方で国外の考古学発掘隊が調査する際に、近隣の住民からは遺物を隠密裏に国外に持ち出したのではないかとしばしば 嫌疑をかけられたりする。あるいは、国外の博物館に恒久的に陳列されている文化遺産を証拠にあげ一種の「植民地主義批判」が比較的教養ある人たちからなさ れることもある(★)。
遺跡の発掘・修復・保存に関して国際的な協力体制が必要とされるときに、文化を担う主体が イニシアチブをとるべきだという「文化主権」の概念が登場したのもこのような背景があるからだ。遺跡の発掘をめぐる国際協力は、文化を担う主体が「植民地 体制」のもとで進行していた「宗主国」による文化遺産の物理的および学問的収奪という忌まわしい過去のイメージを清算し、遺跡に表象される文化とそれを担 う主体のアイデンティティ(同一性)を確認する作業であると同時に、それをもとにした文化操作の分業体制を確立させようとする動きであると解釈できる。遺 跡に眠る文化遺産を固有の領土にむすびつけられた「資源」という経済的比喩により近づけるならば、遺跡の発掘のための交渉は、あたかも森林伐採権あるいは 石油採掘権(concession)の取り引きのようであり、文化主権を損なわず学術成果の共有し、かつ現地側への援助を誘導するというさまざな駆け引き を観察することができる(★)。
文化遺産の「生産」とは、過去の歴史が改竄されたり遺跡遺物の偽物が捏造されることではな い。文化遺産の「恒久的な価値」とは、過去についての現在の解釈が供給されているからこそ意味をもちつづけているのである。そのために「文化遺産」は現在 の権威ある正当な解釈、つまり科学的な考古学の研究成果のをつねに必要としている。そして学問の権威とは宙に浮いているのではなく、その成果がチェックさ れ、人びとの関心を通して社会の眼にさらされている。文化の生産とは、文化遺産の価値についての社会の同意が維持されているあり方のことである(★)。
そのことを古代マヤの碑文研究の第一人者であるリンダ・シールと彼女の学問的成果の「生 産」の例にみてみよう。彼女はプロスクリアコフと同様、いわゆる発掘屋ではなかった。また専門の考古学者として育ったのでもなかった。彼女は一九七〇年に ユカタン半島を旅行したついでにパレンケ遺跡によるまでは、アラバマの小さな大学で学部学生に「芸術入門」を教える職業画家にすぎなかったのだ。パレンケ 遺跡を初めて訪れることからシールはある意味での「マヤおたく」(Maya-phile)の道をあゆみ始めることになる。かくして三年後、パレンケで三五 名の参加したマヤ研究の小さな国際会議でカルガリー大学の学部学生だったピーター・マシューズと連名でパレンケの王家の即位と退位年を確認、発表するにま でいたった。この会議は、それ以降のマヤ碑文研究の流れをかえる枢要なものとなった。シールはその後、職を得て現在はオースティンのテキサス大学にいる。 彼女たちの一連の研究は、それまでフィールド研究の成果の上に、美術史の図像学と文化人類学の親族研究と王権の象徴研究を節合させたような新しい領域を開 拓した(★)。
このようなマヤ研究のラディカルな変化が『ナショナル・ジオグラフィック』誌などマスメ ディアを通して古代マヤ文明に関心をもつアマチュアの興味をさらにそそり、かつ結果的に、古代マヤ文明やマヤの人びとのイメージの内容を変化させることに 貢献した。つまり、天文観察に明け暮れる宿命論的でエキゾチックな民族から、戦争を指揮し王位継承をめぐって抗争したり王を戴き畑を耕作し神話にもとづく 儀礼を実践するよりリアルな人間へとである(★)。シールたちの研究とその大衆化は、シールがかって歩んだような知的好奇心旺盛なアマチュアを再生産して いるのである。また今日のパレンケ遺跡においてメキシコ国立人類学歴史学研究所の許可書をもって案内するガイドたちが語る、石碑の新しい読み方や王朝の歴 史の語り方にもシールたちの研究が投影されている。マヤ研究のルネサンスは、観光客のあいだにも受け入れられるようになったのだ。つまり新しい文化として 生産されたのである。
三.文化の流通
現代世界の人びとが直面している文化的事物をめぐる状況について考えたとき、もっとも目に つくのは文化の「流用」(appropriation)と言われるべき現象ではないだろうか。そこでは文化人類学者が理念的に把握してきた、それぞれの要 素が相互に連関し全体を形成するという「文化」の概念そのものが疑問に付される。文化の諸要素が断片化し、事物という媒体を介して浮遊することもそのひと つである。例えば、ショッピングモールやショーウィンドウにみられる異国風の飾り、テーマパークにみられる本物らしさの強調、あるいは家庭の居間を飾る トータル・デザインの鍵となる色調や象徴などである。このような事態は、すでにある種の文化要素の「越境」のなかに我々が生きて久しいことを気づかせてく れる。
マヤ遺跡観光のなかに、この種の文化の越境が起こっているとすれば、それは生産地を離れ商 品として流通している観光芸術や土産物の中に顕著に観察することができる(★)。あるいはすでに遺跡を訪れた/訪れている/訪れようとしている元観光客/ 観光客/将来の観光客の意識においてみられる。マヤ遺跡を訪れる観光客は、そこに一時的にしか逗留しないが、観光客は旅行に出かける前からマヤ文明につい てのイメージをもち、旅行後も経験によって加工されるもののイメージは失われることがない。旅行は一時的であるが、観光にまつわる現象はより持続的であ る。つまり、観光現象のほとんどの部分は脱コンテクスト化されている。この点は重要である。というのは「観光現象は研究対象になりにくい」という伝統的な 人類学の枠組みからおこなわれる批判は、人類学そのものがコンテクスト化された文化事象を中心に取り扱ってきたことをはからずも意味するからである。逆に 言えば、伝統的な人類学だけでは脱コンテクスト化された文化事象を取り扱うことはできない。それは現実の学問の生産現場での事実に照応する。たとえば、文 学批評家は、植民地をみる眼差しをその当時に書かれた旅行記の分析を通して試みることがあるが、現在の観光のイメージを理解するためには、文学批評が洗練 されてきたテクスト分析の助けを借りる必要もでてくるだろう。あるいはマヤをはじめ新大陸の考古学のデザインの流通には、その図像を適切に解釈したり、脱 コンテクスト化されたデザインが別の文脈においてどのような美的判断がなされているのかという学問的検討を要する。マヤ遺跡観光は人類学における異種の学 問の「流用」を可能にするような格好の素材を提供している。
越境し流通しているのは現代のマヤのフォークアートやそのコピーさらには古代マヤ文明にま るわるイメージにとどまらない。極端なものでは遺跡から盗掘された土器や副葬品などの流通がある。盗掘品の流通は、それが盗掘品と見なされていない時代か らはじまった。米国のジョン・ワイズはニューヨークのマディソン・アベニューのギャラリーで古美術などを扱う商人だった。一九三〇年代の初頭に、彼は先コ ロンビア期の土器や塑像などの「作品の見本」として輸入しはじめていた。この当時の「古美術品」すなわち盗掘品の相場は、もちろん商品の人気やニューヨー クにおける業者の審美眼から導き出されものから決定されてはいたが相対的安価であった。例えば、メキシコ西部コリマ出土とされる犬のテラコッタ像の価格 が、ニューヨークで二五ドル前後――ただしメキシコでの仕入価格は二ドルだったからこの時点で値段は十倍以上だった――になっていた。だが、それから二十 年も経たない四八年には価格はより高騰し、同等のものが、二五〇ドルから四百ドル程度で売られていた。マヤ圏の国々おいては一九〇〇年代のはじめごろから 文化財保護の法令が制定されはじめ四〇年代には各国において最初のものが出そろっている。それから三〇年後、つまり考古学遺物の流通が非合法だということ が十分に承知されるようになった一九七〇年代では、当然のことながらそのような「古美術品」はすでにギャラリーでは展示販売されることはなくなったが、限 られた顧客に情報が流され、バイヤーが顧客に直接販売するような形態が代わりに定着した。このような非合法的な業者の数はニューヨークでも五〇近くになっ ていたという(★)。
考古学上の遺物はそれが置かれるコンテクストで、その受け取られ方が全くことなる。研究室 では、研究を生産する素材そのものになるし、博物館においてはその利用者にとって一種の「礼拝的価値」をもつ(★)。また、同じ博物館でも展示するテー マ、例えば「先コロンビア期の社会」と「先コロンビア期の芸術」では、同じ出土品がまったく異なる意味を担う実体として扱われる、展示者の意図はそれをね らったものである。盗掘品はそれが掘り出された地域や出土状況(地層の位置や他の出土品との関係)といった考古学的なコンテクストから外れることによっ て、まったく別の意味をもち始める。現地の専門の盗掘屋(saqueador)は、掘り出す作業がいうまでもなく違法で――だだし文化財保護に関連する法 律は厳しくてもその運用はあまり厳格ではない――、国際的な仲買業者の手を経なければ価値をもたないことを知っている。脱コンテクスト化されればギャラ リーでも堂々と展示することが可能であり、複製と称して販売することも可能である(★)。また、パレンケ遺跡の通称パカル王のヒスイの仮面のように、一度 メキシコの国立人類学博物館から盗難されたのちに、あまりにも著名なために国際的な仲買のシステムに乗らずに、もとのところに返還された例もある。
このような遺跡と遺物とそれに関連する事物が、コンテクストによって多様な意味づけをもつ かということを整理したのが【図】である(次の論文を参照せよ池田光穂「物神化する文化」)。 この図はグレマスとラティエが、意味論研究において、特定のテクストのある項目に注目すれば、そのテクストに明示されていない項目が何であるかを予測発見 することを可能にするために考案された「意味の四角形」(semiotic rectangle)というアイディアを私が流用したものである(★)。縦軸の上方と下方はそれぞれ「考古学遺物に属する」「属さない」、水平軸 の左と右 はそれぞれ「遺跡に属する」「属さない」という項目を割り当てた。上下と左右の組み合わせは相互に矛盾する。意味の四角形は、各辺に相当する一方がコノ テーション(内包)の関係にあれば、残りの一辺は対立(反対)の関係となる。例えば遺跡と考古学遺物はコノテーションの関係(=同じ場所に属する)にある ならば、考古学遺物ではあるが遺跡(あるいは博物館)にないものは、本来の場所に属さないものであり反対の関係になる。
1.に相当する領域で典型的な例は、遺跡から発掘されて研究室ないしは博物館に収容されて いる彩色土器である。ここでは学問的鑑識眼によってその価値が決定される。
2.は文化遺産保護の良識に照らし合わせれば本来の場所である博物館にあるべき彩色土器 が、脱コンテクスト化された状況であるギャラリーに存在する例である。アナロジカルに言うと、身体の本来の場所に臓器がなく別の場所にあるとき異所性 (heterotopia)というがそれに相当する。ただこの価値判断は相対的である。例えば、場所は異常でも機能が保証されている場合――例えば国外の 博物館に一時的に貸し出された彩色土器――は否定的な価値をもたない。また考古学的の観点からではなく審美的な判断が優先されることがある。
3.の典型的な例は、観光客が記念に買い求める彩色土器の複製品や模倣としてのフォーク アートである。おみやげ品は、そこにしか売っていないという理由で購入されることが、それが遺跡(あるいはその空間領域)に属していることを証明する。
4.は脱コンテクスト化された彩色土器の複製品である。例えば、観光案内所や旅行代理店に 置かれている複製品は脱コンテクスト化された状況にあるが、遺跡観光を演出する重要な要素として機能している。より極端な例は遺跡にも考古学遺物にも属さ なくなった意匠が独立して商標として使われるケースである。
このようにしてみると、縦軸の上下は考古学という現代において遺跡の意味を定義するもっと も本質的な特性(essential)を弁別する特性であり、水平軸の左と右はそれが本来の場所=コンテクストにある(contextualize)か、 それから脱コンテクスト化されている(de-contextualize)かを弁別する特性になっていることがわかる。ここまで説明すれば明らかなよう に、遺跡と考古学遺物を語ることは、今日の人類学において文化を語ることと極めてよく似た作業になっていることがよくわかる。われわれ人類学者はあたかも 研究室の考古学者のように、文化を何か確固とした本質的なものとして裁定したいこと夢見続けてきた。しかし、そのような欲望は常に裏切られてきた。文化は その強力な同化作用によって、個々の文脈によって多様に語られる実体になったからである(★)。
結論
マヤ遺跡観光について、(一)マヤ遺跡の文化表象の変遷と現在の人びとの状況を概観し、 (二)文化遺産の正当化を文化の生産という視点からながめ、最後に(三)文化遺産の流通という観点から考察してきた。この論文には、文化を客体化する際に もちいた経済的アナロジーである「生産」と「流通」には言及したが、「消費」を論じることができなかった。文化の消費について語るときに最も重要になるの はフィールドワークにもとづくデータであり、消費の実態もまたより強力な概念装置の「流用」を必要とするだろう。そして、この部分は観光の文化人類学的研 究において中核的な部分になるだろう。
ここであらためて常識=良識的な結論を確認したい。マヤ文明遺跡観光をめぐる事象は、それ がおかれている世界でおこる事象と密接な関係にあること。したがって、観光をめぐる人類学の研究も民族誌学の伝統に倣って依然として全体論的な――ただし その概念は脱コンテクスト化への配慮をもって再考されなければならないが――視点が要求されること。そのためには、これまでの人類学の概念や用語法の適用 がどこまで可能かをわれわれの身のまわりにある事例と諸研究の「流用」をもって検証するほかはない、ということである。
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