東洋医学
TOYOO IGAKU, Japanese-Chinese Traditional
Medicine, "oriental" medicine
東洋医学とは、「古い時代に中国から導入された医学が、長い時代を経て日本的な修飾を経つつ体系化された医療体系のことである」(大塚 1996:i)。
東洋医学の同義語は、漢方である。漢方(かんぽう)あるいは漢方医学とは、中国医学の大きな影響をうけて日本で発達した独自の伝統医学・伝統医療のことである。漢方 (KANPOO)とは、16世紀にオランダ医学(蘭方)が導入された後に、それと区分されるためにはじめて「漢方」という用語が使わ れたと興味ふかい解説を、大塚 (1996)は、おこなっている(「漢方医学の独自性の相対化」)。つまり「16世紀以降は西洋医学が日本に導入されてきた。当初はポルトガル・ス ペイン系の医学を南蛮医学あるいは紅毛医学と呼んでいたが、西洋系医学をオランダ人がほぼ独占するにいたって、これを蘭方あるいは洋方と呼び、これに対して従来の中国系の医学を漢方と呼ぶにいたったのである」(大塚 1996:i)と。
では、東洋医学はいつ頃から使われるようになったのか? 明治25[1892]年6月11日開催の第三回帝国議会衆議院議事速記録第25号(『官
報』号外、明治25[1892]年6月12日発行、578(11)-591(15)ページ)に、医師免許規則改正法律案を提案した議員の代表である塩田
(鹽田)奥造が、明治新政府が西洋医養成により新たな漢方医の養成に国家制度を保証しなかったために、あらたに「東洋醫術」の医師をあわせて認証しようと
するものである。この際に、塩田は、発言中に、東洋醫術を皇漢醫術と同義として使っており、発言の内容の比重も後者のほうが若干多い。この議案は可決に至らず、小委員会でさらに審議されるが、最終的に明治28年2月6日の本会議で76〈対〉105で否決され、廃案となる(第8回)。後者では、木暮武太夫(Budayū Kogure, 1860-1926)が廃案のための反対演説をして、次のような論難をおこなう:「又此醫術なるものは病に対するの武器である、然るに東洋醫術は弓矢の如きものものである、日進醫術は鉄砲の如きものである、強敵たるの所の——吾々同胞が襲撃される所の強敵に向かって弓矢を以って防ぐというは実に怪しからぬのである……又此を船に譬えて見ますればです、今の東洋醫術なるものは和船と同様のものである、西洋醫術はしっかりした堅牢なる汽船と同じものである……東洋醫術であれば、裁判医学と云うものがないのである、それ故に裁判の証人となることの権利を欠くのである。又国家有事の時に方ッて
軍医と為ることができないので、漢方醫であれば外科醫と云うのは切口を焼酎で洗って卵を附ける位のもので、さうして此節柄何をするのであるか、則ち軍事
——国家有事の際に方ッて軍醫を為すことの能力を欠くと云うことである」(速記録第25号、明治28年2月6日、403ページ)
東洋医学の歴史は「漢方、漢方医学」を参照のこと。
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