健康の概念と医療人類学の再想像(解説)
池田光穂
→この文章の原型は、民族学会でのシンポジウムへの参加 (「ポストコロニアル批判と文化人類学の再想像」)で発表されたものである。このシンポジウムの主宰者であった太田好信さんには、ほとんどひょう窃まがい のタイトルになってしまったことを心苦しく思う。そのシンポジウムで私が学んだことがこの文章に反映されていることを期待するばかりだが、同時に彼の海容 をそれ以上に期待している。
私は八〇年代に中米ホンジュラスにおいて青年海外協力隊に参加し、村落における保健衛生教育に従事した。私 は具体的な実践を通して人びとが「健康」についてどのように考え行動しているか調査し、帰国してそれに関する論文を執筆した(「ヘルスプロモーションとヘ ルスイデオロギー」『日本保健医療行動科学会年報』五巻、一九九〇)。
→これは投稿当時にその掲載誌がヘルスプロモーションの 特集をすることを事前に知り、掲載されるであろう保健の「行動科学者」たちに大いなる皮肉を込めて書いたのである。論文の理論そのものは即席でしあげたイ デオロギーと実践に関する粗雑な議論だった。つまりヘルスプロモーションとはイデオロギーの宣教にほかならない、ということ以上を述べたものではない。言 うまでもなく「業界」からの反響もなく、そのままほうっておかれたのだが、私の中では皮肉をこめて相手の無知をそしる文章が、長い間に自己の洞察の甘さを くり返し反省させてくれる「マイナスの里程表」になってくれた。だから、私は仮想敵であり無知な連中である「行動科学者」が私にとってのグレートマスター (偉大なる師匠)になってくれたことを、今では皮肉抜きに感謝している。私はまた現在では行動科学が保健研究の分野において一定のシェアを占めるように なったのかという人類学的かつ科学社会史的な興味を抱いている。
そこでわかったことは、現地の人たちは「健康」をたんに病気のない状態として意味づけるだけで、 我々が教育されてきたような積極的な意味をそのことばには持たせなかった。「健康」の概念が外部から導入されるときに、そこではさまざまなレベルで の抗争がおこるというのが、その論文の主旨であった。しかし、なにか重要なことを忘れていたのではないか。
→健康の概念というのは病気の概念よりも新しいといこと は、どの社会でも経験的に言えそうである。もちろんそれを証明することは不可能であるが。
→健康は人間の身体のゼロベースであり、疾病などの問題 が起きたときに、それが相対的にプラスの価値観として我々の認識上に突然浮上するのである。
→この健康=ゼロベースという仮説は、V・ターナーのい うドミナント・シンボルとしての現代社会における健康という見方を保証する。つまり、ドミナントシンボルはその社会の構成員の感情に著しく訴えかけるシン ボルではあるのだが、その中身はどちらかというと空虚で、それぞれの構成員がさまざまな思い入れをそそぎ込むことができる器(あるいはヴィークル)のよう なものだからである。
村落の人びとにとって、保健計画を通して、健康は積極的に求めるものだというイデオロギッシュな教化は、人 びとが健康を消極的な価値としてしかみないという認知的なバリアーによって阻止された。また保健省の職員から「無知」と呼ばれる人びとが当局の考えるよう には行動を変容させなかったことによって、その計画が無力化されていた。しかし当の本人たちは、それを抵抗とは自覚しておらず、たんに不便なだけ、馴染ま ないだけと表明していた。
→これを松田素二にならって「ソフトな抵抗」と格好良く 言うこともできる。だけど抵抗の実践と言っても本人達が抵抗している自覚がないわけだから、やはりこれは松田流の革命用語を使うとするならばサボタージュ の一種と解釈できる。もちろん抵抗という語のアイディアは松田も依拠するJ・スコットの「抵抗の日常的形態」からきていることは言うまでもない。
ただし外部から持ち込まれる薬の配分や簡易便所設置のための無償や低金利の補償金は、そのような「無知」か ら逃れ「学習」した啓蒙的な住民に与えられるために、その教化の軍門に下るという御しがたい魅力も当然のことながら生じる。古い考えは終わり、新しい考え 方に馴染むことが開明的だとみる人も登場する。
→言うまでもなく近代化の戦略をとることによってみんな が平等に便益を受けるのでは決してない。ブルデュの言うように近代化の計画が村にもたらされた時点において、すでにそれに適合する人達とそこから排除され る人達は「あらかじめ」選別されている。もちろん、こう書くと決定論的なディスタンクションがあり、人々が運命論としてそれを受け入れていることになるの だが、現実はそのような冷酷なものだけではない。資本主義とリンクした近代化のプログラムは気まぐれに、ルンペンプロレタリアートにも上昇の機会を与える し、如在がまったくない彼らにとって冷酷な機械というわけでもない。保健のプログラムによって注射の方法を憶えたり、助産のためのピカピカのアルミの処方 箱が治療の権威に変わりうるという「波及効果」をもつのである。
→もちろんこの波及効果は、保健省にとって予期しない事 象であり、場合によっては無視できない状態(OTCの濫用問題)をも生じさせる原因となる。だが、これもまた言うまでもなく近代化のアイロニーや隘路では なく、実は合理化の正当な副産物、言わば毒(=必要悪)であることは確かだ。
しかし、大多数の人たちがおこなう「無知」というサボタージュは、健康の言説を普及させようとする外 部の人たちにとって、露骨な彼らへの挑戦と映る。ようやく設置したモダンな簡易便所を人びとは受け入れようとしないし、作っても使わない。このこ とは、保健省当局にとってはゆゆしき問題である。なぜなら、そのプロジェクトは外国政府の借款によって運営されているからであり、プロジェクトの成否は、 今後の援助のインセンティブにも影響する。
→このような事態が何を生んだかご存じだろうか? 運用 の事後評価の体制であり、それをより効果的に次のプロジェクトにフィードバックするシステムが洗練されるようになったのである。愚かなODAを阻止するた めに動員された数々の批判は、いまでは「より以上に効率的で人道的な援助」を推進させるために「有効利用」されているのである。
→「援助」ではなく「協力」なのだという現象は、たんな る言葉をソフトに置き換えた反動なんていう甘っちょろい皮相的な現象なのではなく、援助のシステムがより大きく、そして細部に毛細血管のように普及する現 状を表象しているのである。
啓蒙を通しての合意という形態をとりながら、その背後には、強制的に他者の主体を形成することが試み られること。このような言説の構図を外部からのマイルドな強制として理解したい。人びとのサボタージュが抵抗の実践として見えてく るゆえんである。
→これは先の松田流のソフトレジスタンス論を強烈に意識 して書きました。つまり我々の廻りにあるのはソフトなレジスタンスの余地しか与えない、マイルドな強制なのだと。この相補性によって希望を語るには、悲惨 な現状を認めざるを得ないということをね。そして、学問の機能としては私はむしろ、ここでは後者のほうを強調したいということである。
だが、外部から導入される健康の言説に対抗する住民という図式の描き方には限界がある。この 対抗図式というのは、実は土着的な概念を尊重しながらプロジェクトを遂行していかねばならない保健省職員としての私の臆見の産物ではなかったのか。あ る対立した概念を立て、一方の概念を他方の概念に優越化させながらも、最終的にプロジェクトをより洗練した場として止揚できる概念装置として医療人類学の 効用を説こうとすることではなかったのか。だからこそ、この図式は「啓蒙」にもとづく住民の合意形成をうながす有益な理論的根拠となりえたのであ る。では、この場合の医療人類学の使い方は、はたして強制ではなく同意によって人びとを導く道具になりうるだろうか。
→調停としての学問です。学問が超越論的な調停者として ふるまうことはべつに珍しいことではない。だけどここでの私の経験から生じたことは、学問が調停者として振る舞う瞬間が見えたということであり、見えた (あるいは感じた)瞬間に、もはや調停者として振る舞うことの欺瞞(疑問?)を感じざるを得ないということである。
私には、そうは思われない。「土着」と「近代」の調停者として振る舞い、一方的に近代医療の浸透と展 開を許してしまう医療人類学の言説は住民を教化し良導する植民者のそれとかわらない。この批判は、医療人類学それ自体が、どのような社会状況のも とで生まれてきたのかということを思い起こさなければ、論点をより明確にすることはできない。
→この起源を問い直すという<退行>がどれだけ正当化さ れるのか、今では疑問に思います。もちろん歴史的構成にしびれるほどナイーヴなものはありません。同様に医療人類学の<哲学的反省>というレトリックも同 様の理由で排除されます。ただし、一言でも弁明するならば、植民地という比喩をポスト植民地の時代に考えてみることは、現在もまた植民地的状況なのかもし れないという教訓をここでは考えてみたいということであり、歴史に審級を委ねるということでは決してありません。そして歴史に審級を委ねるということがい かに愚かであるか、ぐらいは認識しているつもりです。
【以下では医療人類学者のダブルバインドが語られます】
医療人類学は二つの反省的動機から六〇年代後半に生まれてきたと言われる。一つは西洋近代医学を批判し改良 することである。そこで、土着医療から学ぼうとした。このモーメントは、新しい医療を想像する自己の主体の確立のために、そのモデルを土着医療に求 めることであった。もう一つは、土着社会に対してより適切に西洋近代医療を広めることができるのかという現実の要請に応えることであった。これは 国際公衆衛生運動の中で生まれてきた動きである。新しい西洋医療を受容する他者の主体をどのように外部から形成できるかということを試みたの である。一方で自己の主体形成に他者をモデルにすることを求めておきながら、他方で他者の主体の改造を夢見る。これらの主体形成をめぐるモーメントは最初 から分裂していたのである。
→医療人類学の米国での爆発的流行はこのダブルバインド の問題をいよいよ深刻化させ、今では臨床人類学と批判的人類学はほとんど対話の糸口がみつからないほど分枝している(→バーチャルクラスルームの拙稿を参 照)
近代的な主体の担い手として私は、ホンジュラスの村落民の保健活動を通して、彼らのきわめていい加減な主体 のあり方——ひとときの餌にはありつくが、それを持続的なものとして受容しない態度、場当たり的でその場かぎりの反応など——を改造しようと試みていた。 このような私の自画像が最近になるまで見えなかったのは、変わるのは彼らで、人類学者としての自分自身ではないという信念を私が保持していたからで ある。しかし、外部からのアンビバレントな脅迫にも屈しない——サボタージュに似た——柔軟な彼らの西洋近代医療の「健康」の言説に対する 身のこなし方こそが、医療人類学がその誕生の時期に抱えていた反省的動機のひとつ、すなわち西 洋医療を批判的に乗りこえる主体形成のモデルにふさわしい。
→このあたりになるとフーコーの晩年の脱アイデンティ ティ論みたいなものを私が理想にしているように思えます。イメージしにくい方のために補足的に説明しますと、べつにフーコーは何々というアイデンティティ を持てと主張したのではなく、近代が要求するアイデンティティの枠組みから逃れる(逃げるとしか表現できない)ことを主張したのです。(→抑圧の言説を脱構築する)
→このような処方せんは、世界システム論的な主張からみ ると、まあ世界システムの先進地域住民のアイデンティティであると批判されそうです。そして、もう一人の私もその考え方に深く賛同します。我々はただの現 在に過ぎないとね。
内部と外部という対抗図式を導入し、そこに立つことで調停者としての位置を確保してきたこれまでの医療人類 学者の自画像を私は拒否し、医療人類学運動がもっていた批判的な反省作用を救出することのきっかけとしたい。 私が仲間とともに志向した医療人類学の目的はそこにあり、それをここに再確認したのである。
→結局何が言いたいのだ?と疑問に思われますか? そう ですね、批判的な反省作用の復権とは、おかしいと思うことにつねに異議を申し立てることです。ちょっとふた昔前の実存主義みたいですけど、その確認と連帯 に大きな意味を見いだします。
→だから私の運動論はさほど目新しいものはないですし、 ミリタント人類学ほど先鋭化してませんけどね。
【初出】『医療人類学』第21号、p.1、1996年