Nakamatsu Yashuu's an ideal
communities in Rukyu
仲松弥秀(なかまつ・やしゅう)2008-2006;写真は『古層の村』公刊の頃か?(1978年:70歳ごろか?)
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「沖縄研究が実証主義のままでよいかどうかも問題だろう。知識論からするなら、研究
者の知識のありかたが今後はもっと問われてよいのではないかと思ってい
る」(渡邊欣雄 1991:339)
仲松弥秀(1908-2006)は沖縄の 民俗学者。
1972 年に出版された日本民族学会編『沖 縄の民族学的研究 : 民俗社会と世界像』に所収の仲松弥秀「本島:祭祀的世界の反映としての集落構成」において、仲松弥秀は、沖縄の村落を「愛 と信頼の村落」と名付け、その地理空間原理と信仰イデオロギーをオソイとクサテ(腰当)という概念で説明している。その骨子は、琉球処分など、沖縄の外来 の共同体とその信仰が、「愛と信頼」のユートピア状態から変容が加えられ、変質しつつあり、それらの民俗データの収集を促す趣旨で書かれている。同書『沖縄の民族学的研究』に収載されている他の論文に くらべ、いささか変法いささか異様ではあるが、沖縄出身のネイティブ民族学者(もともとの専攻は文化地理学である)による、共同体の変質に対する(名宛人 不明の)抗議だとすれば、このネーミングの意味は深いものに思える。しかしながら、仲松じしんの自己検閲によるのか、それとも同僚の研究者や学術界による ものかは不詳であるが、その後、仲松の論文からは「愛と信頼」は見られなくなる。1972年の「本島」の論文に近いものが1990年に彼の単著『神と村』 を出版した際に、それに所収の論文「世界観の知的表現としての民家と村落」には、その用語と解説は登場しない。しかしながら、その直後のエピローグに相当 する文章「神は遠くへ!」の中では、オソイとクサテ(腰当)の二つの要素が、まだ残っていることが米軍統治下の1960年のアメリカの若い研究者の弁をと おして「文明」という言葉を変えて再登場する。
こ のページが、仲松弥秀が、1972年に大胆にも表現した伝統的沖縄村落の構成原理「愛と信頼」が、どうしてその後の彼の著述の中で消えてし まったのかについて考察する。
●「愛と信頼」以前
仲松弥秀「琉球列島における村落の構造的 性格」人文地理、16(2):113-138, 1964. https://doi.org/10.4200/jjhg1948.16.113
「1) 琉球列島内の村落の大多数は,発生以来たいした攪乱を受けることなく存続してきているようである。したがって,この地域の村落を究明することによって,古 代日本民族の村落のあり方がうかがわれるのではないかと思う。 2) 家の配置を見ると,旧家群が村落の背面に位置し,分家群がその前面左右に展開していて,あたかも旧家群が分家群を見守るがごとき態様をなしているのが通例 である。 とくに,祖先神を伴なう村落創始家は一段と最上位の位置に立地している。 3) ノロ家の位置を見ると,発生当時は必ずしも上位の位置を占めてはいない。それが村落移動の機会をつかまえて,村落創始家と同等,ときにはそれ以上の上位に 位置するようになってきた。これはノロの権力が他の旧家よりも祭祀上上位になったことを現わしていると見ることができる。 4) 家屋の位置について,上位,下位の地位が村落内にあることが知られる。そして旧家,とくに村落創始家と後世ノロ家がこれに加わって,これら両家が最上位の 位置に配置され,分家は下位の位置に配置されなければならない。この地位思想・家屋配置思想は村落内の神事と固く結ばれて発生しているようである。すなわ ち神事管掌家を核として村落共同体が成立していることが知られるであろう。 5) 琉球各村落には“お嶽”と称されている最高聖杜がある。これは太古その村落の祖先の共同墓地であったものが聖所化したものと筆者は考えている。このお嶽を 拝する者は,たとえ血縁は異なっていても,お互いに“同一お嶽の子”という思想によって結ばれるようになる。このような思想によって結ばれている集団とそ の村落が“マキ”ではなかろうか。 6) “同一お嶽の子”思想は,やがて,お嶽を管理し,祖先神を伴なっている村落創始家とノロ家を村落の最上位の位置に配置し,次に神事に関係する他の旧家を次 位に配置するようになった。すなわち祭祀することによって維持されていく祭政一致の村落社会が成立したのである。 7) 沖縄本島には現在マキ名を残している村落が相当数存在する。その分布は首里・那覇から遠隔で交通的にも不便な地域と離島であり,この分布によって消失過程 を知ることができるとともに,まだ古代マキ社会をうかがうことのできる地域の存在を知ることができる。 8) 現琉球列島村落は,単一マキから発展したのもあるとは思うが,そのほとんどは複合マキから発展したもののようである。沖縄本島付近の村落にはお嶽・殿が 数ヶ所あるのが多く,八重山においては数ハカで1村落が,また奄美大島にはグンギンを2以上もつ村落が多いことで,そのことが知られる。 9) 複合マキから成立している村落においては,各マキ集団の居住地域が明らかな村落もあるが,多くの場合は混在しているようである。しかし,その場合において も殿と旧家の配置によって,旧マキ地域が見当づけられるものが多い。 10) 沖縄戦後の移動村落における家屋配置は,旧家・分家の差別がなく,各家思い思いに宅地を選定し,あるいはクジ引で宅地配当が行なわれ,そこには上・下位の 地位思想も全く見出せない状態になっている。 このことは,たとえ村落背後に旧家が配置されている村落においても,すなわち外見上古代的態様を呈している村落においても,その内部社会構造が瓦解してい るということを表現していると見ることができる。ただし,このような村落社会の近代化も場所によって異なることは当然であって,奄美大島と八重山にはなお 相当古代性がふくまれている村落が比較的多い。」
https: //www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/16/2/16_2_113/_article/-char/ja/
●「愛と信頼」が出現する箇所の引用
「沖 縄本島を中核としている沖縄諸島には、自己の内部から自ら産まれた「愛と信頼」に基いて発生した村落がその ほとんどであると思われる。これは単に、村落内部の精神的面のみにとどまっているのではなく、地表に如実に表現 されているものが多い。/ この「愛と信頼」に基ずいて発生した村落は、ひとり沖縄諸島のみではなく、北の奄美諸島、南の先島諸島も同じ ような村落であったと推定される。/ ところが奄美諸島においては、長年島津藩の支配下に属したことから村落内部が撹乱されたと考えられ、沖縄諸島に見られるような村落は僅かに残っているのみ である」(仲松 1972:2)。
「(撹 乱要因について述べた後に——引用者)このようなことから、祖先以来連綿と心に宿ってきたかつての愛と信頼に基ずいた村落共同体の思 想が破られ、現在としては沖縄諸島に見られるような村落が見られなくなったと考えられる。/ただし、全然先島諸島に沖縄型の「愛と信頼」に基ずいて発生し たと思われる村落が見出せないというわけではない。/ 比較的に内部攪乱が無かったと思われる村落、すなわち宮古諸島の狩俣や大神島などは、今だに良く沖縄型の村落 として生き残っている。とくに大神島の村落は、むしろより原形型が残っていると言ってもよいであろう。 今まで述べてきたことは、発生当初から比較的平穏な過程を辿ってきた村落は、愛と信頼とによる村落パターンが 地上に表現されている。/ これに反して内外の諸事情によって攪乱された度が強ければ強いほど、また各地からの植民によって新らしく発生 した村落などは、この種の村落型をなしていない」(仲松 1972:3)。
オ ソイとクサテの機能から、それは生成した。
「と ころで、愛と信頼の村落共同体は何に基ずいて発生したのかというと「オソイ」と「クサテ」という思想が、そ の村落から自ら発生したからと言える。/ そこで沖縄村落の精神的、これは信仰的とおきかえたほうがむしろ良いのではないかと思うが、「オソイ」と「クサ テ」の思想について述べ、その思想が村落、それに村の旧家にも表現されているものが現在でも多く見られることに ついてのべたい」(仲松 1972:3-4)。
●「愛と信頼」以降
「と
ころで明治以前までは、このようなことは滅多になかったであろうと推定されるのである
が、社会の変化と、それに幸か不幸かは知らないが学校教育の在り方などによって、村の信仰を
原始的な軽蔑すべきもの、迷信以外の何物でもないと考える者が次第にふえてきて、神が軽蔑さ
れるようになり、神の力に拠った村の行政、団結が、官公吏や知識人に移るにつれて、村の神事
が忘れ去られるようになった。/
神はいよいよ遠く去りつつある。奄美諸島においては、瀬戸内地方以外の地域や島々では、す
でに、消滅寸前の状態に瀕し、沖縄本島やその他の島々においても年々失われつつある状態であ
って、このままではその消滅はただ時を待っばかりと思われる。/
今、早急に、各島各村落を踏査して宗教的、民俗的な調査をしなければ、後世億円を積んでも、
再び死者は舞い戻ることはないだろう
」(仲松 1990:10-11)。
◎オソイとクサテの語源論
「ク サテ」は、「ヤマトグチの腰当(こしあて)は、座った時に背中に当てて姿勢を楽にするものを意味しますが、ウチナーグチではクサティと 読み、「頼りにする者」の意味になります。例えば、母親にとって長男はクサティ。」と表現するとのことだ(出典:「沖縄の風景」)。
ま た集落の構造については「集 落の成り立ち」おきなわ郷土村 おもろ植物園)に説明があり、小高い丘「腰当て(クサテ)の森」=神が鎮座する場所、とされている。
す なわち、「オソイ」と「クサテ」は、「保護/支配」と「安寧/従属」を意味している、したがって、仲松は、「オソイ」と「クサテ」を統治者と被統治者の間 の、感情的紐帯を指しているのではないか。そうすると、この紐帯は、理想的、あるいはユートピア的観念にならざるを得ない。
●調査に関する思い出
「このマラリア病についての論文はハワイ奇襲前に書いたものであるが、それが活字にされた時は、
すでに太平洋戦争は勃発していた。この勃発期に「糸満町及び糸満漁夫の地理的研究」を発表した。
ただしこの書においては「糸満漁夫の形成と発展」と改題しておいた。/
地理学的研究には、とくに地形図は必要欠くことのできないものである。にもかかわらず、当時琉
球列島の地形図は国防上の見地にもとずいて、そのいかなる小島のものといえども入手不可能であっ
た。このことが琉球列島の学問的研究を後らした―つの大きい原因をなしていた。/
ところが地形図の入手が不可能のみではなかった。それに加えて日・米関係の悪化が進むにつれて
ついには見取図を作製することも、調査をすることにも官警の阻止介入が行われるようになった。
多くの研究者が多かれ少なかれの差こそあれ経験したことと思われるのであるが、私も嘉手納で若
い特高警官に、糸満海岸でも私服警官にいまいましい尋問をうけ、なお某氏と共作の首里の地図は憲兵に
に没収された。/
沖縄県立第二中学校から朝鮮大邸師範校に転勤したのであるが、そこでは一そう厭なことがあった[。]
教員養成を目的とした学校であったことから上級生に対して訓練の必要上郷土調査を課したことがあ
る。ちなみに郷土調査の訓練は、時の師範教育令細目にも実施するように記されていたものである。
驚いたことには、この課題を命じたのは国家機密を冒した疑があるとして大邸警察から再三にわたる
尋問をうけた。尋問の末に取調べに当っていた上級警官曰く、「調査させた理由が明白になった。
ところで貴方がもしも朝鮮人教官だった場合は、理由の如何を問わず、ただでは済まなかったでしよ
う……。」この言に対して私は憤りと悲しさで胸ふさがる思いをした。/
このような状況によって、朝鮮在職中はほとんど研究らしいものを為すことができなかった。
ただ一つ、大邸周辺に山頂が平担になっている山岳があちこちに見られ、しかもその山頂にあたか
も人間社会から逃避したような集落と耕地の存在を見出したことから、休日には通訳上朝鮮人学徒を
伴って可能な範囲の踏査を行なった。敗戦後にこの調査をまとめたのが「南朝鮮における平頂峯上の
土地利用」であるが、この論文はこの書の題名には副わないので収録しなかった。」(仲松弥秀『古層の村』 1979,自序、ページ番号なし)
★仲松弥秀年譜(仲松弥秀先生卒寿記念論 文集刊行委員会 1991)[pdf with password]
1908 明治41 沖縄県国頭郡恩納村 字南恩納6085番地に生まれる。
1915 大正04 恩納尋常高等小学校 入学(大正―二年三月同校卒業)
1924 大正13 沖縄県師範学校本科 一部入学(昭和四年同校卒業)
1929 昭和04 沖縄県師範学校専攻 科入学(昭和五年同校卒業)
1930 昭和05 沖縄県国頭郡今帰仁 小学校訓導
1935 昭和10 沖縄県国頭郡宜野座 小学校訓導
1938 昭和13 1/10 文部省地理科教員試験検定合格
1938 昭和13 3/21 沖縄県国頭郡久辺小学校首席訓導
1939 昭和14 1/09 沖縄県真 知志大道国民学校訓導
1939 昭和14 1/09 沖縄県女 子師範学校教授嘱託
1939 昭和14 8/25 沖縄県立 第二中学校教諭
1942 昭和17 朝鮮大邸師範学校教 諭
1944 昭和19 朝鮮大邸師範学校助 教
1946 昭和21 愛知県立常滑工業学 校教諭
1947 昭和22 愛知県田原町立田原 中学校教諭
1950 昭和25 愛知県岡崎市立岡崎 高等学校教諭
1951 昭和26 4/16 愛知県岡 崎市立葵中学校教諭、勤務は岡崎市立岡崎高等
1951 昭和26 9/30 愛知県岡 崎市立岡崎高等学校に戻る
1952 昭和27 4/01 愛知県立 岡崎北高等学校教諭
1952 昭和27 9/01 東京都大 田区立東蒲中学校教諭
1953 昭和28 東京都大田区立糀谷 中学校第二部主事
1956 昭和31 東京都中野区立第六 中学校教諭
1959 昭和34 琉球大学文理学部地 理学科助教授
1963 昭和38 琉球大学文理学部地 理学科教授
1964 昭和39 琉球大学内に沖縄文 化研究所設立、第一期所長となる
1969 昭和44 沖縄県史編集審議会 委員
1970 昭和45 沖縄県文化財専門審 議会委員
1975 昭和50 4/01 琉球大学 を定年退職
1975 昭和50 4/01 沖縄国際 大学文学部非常勤講師
1976 昭和51 01/27 第三回 伊波普猷賞受賞
1978 昭和53 琉球大学教養部非常 勤講師
1982 昭和57 日南島地名研究セン ター設立、代表となる
1990 平成02 第7回東恩納寛惇賞 受賞
1990 平成02 ︎琉球大学教養部非 常勤講師▶︎南島地名研究センター代表▶︎︎沖縄県民生活協同組合理事長▶沖縄平和の創造委員会会長代行︎▶︎︎沖縄国際大学文学部非常勤講師▶︎
2006 平成18 逝去(99歳)
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