My Personal Experience as a Little boy in front of the academic gate
of Medical Humanities
1157*651px 【ちょっと難しいけど子ども向けにしました】大阪大学と医療人文学の未来(56分版)ver.4.0 大阪大学COデザインセンター長の定年退職記念公演「大阪大学と医療人文学の未来」Ver.4.0です。1)澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)先生のはなし、2)中川米造先生のは なし、3)池田光穂のはなし、そして、阪大医療人文学の未来の4本立てです。ようやく1時間を切りました——目標は45分マックス。これは(1回の本番を 含む)5度目の発表リハーサルで、本人が話したいことをおおむね全部話しています。そしてこのヴァージョンは子ども向けとしました(2022年2月22日 の2回目の収録) 【YouTube映像リンク】 ・大阪大学と医療人文学の未来(フルス ロットル90分版)ver. 1.0 ・大阪大学と医療人文学の未来(80分 版)ver. 2.0 ・大阪大学と医療人文学の未来(67分 版)ver.3.0 ・大阪大学と医療人文学の未来(56分 版)ver.4.0【左の動画】 ・大阪大学と医療人文学の未来(50 分版)ver.5.0 ・2022年3月11日第41回大阪大学医療人文学研究会:基調講演:池田光穂「大阪大学と医療人文学の未来」 (44分)【正式オフシャル公式版ぢや!】 ・レジュメ(pdf: password is not required)20220311mikeda.pdf |
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大阪大学と医療人文学の未来 |
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• 死の受容にいたるプロセス(Elisabeth Kübler-Ross, 1969) • 否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容 |
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大変不遜であるが、澤瀉久敬(おもだか、ひさゆき;1904-1995)、中川米造(1926-1997)、そして私(b.1956)を大胆に比較考量検討する。偉大なるメン
ターたちの人生に、自分を重ねて、激動期や変動期そして静穏期を生きるとはどんなことかと考えてみたい |
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•澤瀉久敬(おもだか・ひさゆき)先生のはなし •中川米造先生のはなし •池田光穂のはなし •阪大医療人文学の未来 |
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久保秀雄と澤瀉久敬の敗戦前→「この間[1935年7月-36年12月—引用者]久保[秀雄]はかねて私淑していたパリ大学生物物理化学研究所のRene
Wurmser 教授の下へ留学した。……Wurmser教授は熱力学とくに酸化還元電位を生物学に導入し、名著 Oxydations et
Reductions
(邦訳「生体酸化還元」)で当時すでに高名であった。久保はここで生体酸化還元電位の研究を行い、生涯の研究の基礎となった細胞内標準酸化還元電位の存在
を発見した。……/久保の在仏中哲学者澤瀉久敬(現(1978年当時)本学文学部長)[原文は沢瀉—引用者、以下同様]が偶然同じパリに留学していたこと
は本学の歴史にとって忘れることのできない事実である。学生時代からポアンカレやベルグソンに親しみ、つねづね医学に哲学が必要であると痛感していた久保
は澤瀉と会い、医学の哲学について幾度となく語りあい、これが機縁となって後に全国にさきがけて本学に医学概論の講義が開講され、澤瀉がその担当者となる
のである」(百
史、p.79)「1941年(昭和16)4月久保のかねてからの尽力によって「医学概論」が全国に魁けて開講され、京都大学文学部講師澤瀉久敬がこの講義
の専任講師として招かれた。これが本学の医学概論の濫觴[らんしょう—引用者]である」(同、p.81)「1941年(昭和16)4月から「医学概論」が
開講され、1年次学生を対象として週1回澤瀉によって講ぜられた。この開講にあたり久保がいかに尽力したかの経緯は澤瀉の論説[『医学概論』三部作と思わ
れる—引用者]と医学概論研究史に詳述され
ているとおりである。澤瀉の講義には久保以下各教室員がよく出席し、当時昼食時には澤瀉、久保を中心に古武や各教室員が加わって、当時の講義の批判や科学
論、哲学論に談論風発するのが常であった。このように澤瀉の存在は単に医学概論の講義を通じてのみならず、より直接的に第一生理学教室員に対して強い影響
を与えた」(同、p.83)。『大阪大学医学伝習百年史』 |
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• 澤瀉久敬により書かれたと推測され[cf. 澤瀉
1981]かつまた実際には中川米造の手も入ったものと思われる「医学概論研究室」史の記述は以下のとおりである[百年史
1978:234-235]。「医学概論は、1966年(昭和41)から衛生学教室が「世話教室」になり、以来、教育、研
究に密接な関係をもつことになった。/本学(大阪大学——引用者)における医学概論の講義は、1941年(昭和16)佐谷医学部長時代、久保秀雄(第一生
理;
1902-1985)教授の努力によって創設されたもので、本学のみならず、日本の医学教育史上特筆されるべきものである。その趣旨は“科学の分類、方
法、論理および認識の意義を学生に理解せしめる科学概論と、医学の各領域における歴史を経とし、これに関連せる思想を緯として論述し、以って医学発達の根
底を把握せしめ、将来医学にたいする科学的精神を涵養せしめんとするもの”であった。/講師として招かれたのは、久保教授の友人澤瀉久敬(名誉教授、現南
山大学文学部教授)で、
1966年(昭和41)定年退官[ママ—引用者]するまで非常勤講師をつとめた。その間の講義は、科学論、生命論、および医学論の三部作からなる「医学概
論」となって出版され、医学界のみならず、哲学界にも反響をおこした。/1954年(昭和29)澤瀉講師は、本学文学部創設[ママ—引用者]にともない教
授となった
ので、医学部(梶原三郎学部長)は、医学概論の充実をはかるため京都大学医学部助手(耳鼻咽喉科)のかたわら、医学概論の研究をすすめていた中川米造を専
任講師として採用した。医学概論の専任講師の誕生も本邦ではじめてである。研究室は、衛生学の部屋を割愛して、これにあてたが、「世話教室」は第一生理学
教室であった」。 |
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• 「1954年(昭和29)澤瀉講師は、本学文学部創設[ママ—引用者]にともない教授となった
ので、医学部(梶原三郎学部長)は、医学概論の充実をはかるため京都大学医学部助手(耳鼻咽喉科)のかたわら、医学概論の研究をすすめていた中川米造を専
任講師として採用した。医学概論の専任講師の誕生も本邦ではじめてである。研究室は、衛生学の部屋を割愛して、これにあてたが、「世話教室」は第一生理学
教室であった。/1955年(昭和30)には医学部に新制大学院が発足し、医学概論も主科目の一つになった。主科目として受講するものは1971年(昭和
47)まで現れなかったが、副科目または選択科目として受講するものは毎年数人あり、これらの学生に対し、中川は特論として1962年(昭和37)まで毎
年講義、演習をおこなった。その標題は神経学の理論的問題(1955)、形態学と機能論の論理(1956)、病者論と医師論(1957)、社会医学の基礎
論的問題(1958)、健康の科学としての医学理論(1959)、理論生物学(1960)、医学思想史(1961)である。(1963年以降は大学院の講
義がなくなった。)/中川の研究は上述の講義表題[ママ——引用者]からうかがわれる通りであるが、着任当初から1957年(昭和32)ころまでは、主と
して医哲学と医学史に力点があり、ついで、医療社会学にも関心がむけられた。1964年(昭和39)の東パキスタン(現バングラデシ[ママ——引用
者])、1966年(昭和41)の東アフリカの調査旅行は、原始的生活[ママ]における医療形態の研究のためであった。このような医療社会学または社会医
療への関心は、基本的には医学論の研究の展開にともなって生まれたものであるが、大学院での医学概論の受講者が、衛生
学、公衆衛生学などで、いわゆる社会系に属する学生の多かったことも大きく影響したものと考えられる。/1966年(昭和41)、医学概論の「世話教室」
主任であった久保教授の退官にともない、「世話教室」は衛生学教室が後をついだ。ここに医学概論研究室の活動と衛生学教室との関係は密接化することにな
り、衛生学、公衆衛生学の講義や実習の一部
を分担し、教室研究での共同作業をおこなうようになった。/それらの共同研究としては、医学史研究会の設立とその運営、医学史研究会をバックに丸山博、中
川米造の共編として刊行された「日本科学技術史体系・医学編」の編集、日本衛生学会史などであり、社会活動としては森永ヒ素[原文はヒソ——引用者]ミル
ク中毒症の追跡調査、対策のための運動などがある。/ただし医学概論と衛生学教室の関係はこのように密接であるとはいえ、完全に一体のものではなく、医学
概論独自の任務もある。それを拡大発展させるためには、独立した講座になることが望ましい。これは澤瀉久敬教授がこの講義の主任をしているときか
ら一貫した主張があり、1968年(昭和43)退官に際しての最終講義においても強く訴えたところである。衛生学の丸山博教授が「世話教室」主任になっ
てからも、その主張はうけつがれ、運動も展開されてきたが、いまだ実現に至っていない」。 |
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ここからは中川先生のアルバム集 |
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植民地朝鮮生まれ |
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復員帰還船の中の偽医者とケサリード* *レヴィ=ストロース(オリジナルはフランツ・ボアズ)が描くケサリードについて35年後に中川先生は当時の自分もまたケサリードであったことを吐露する (スライド23で説明します) |
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ダンディーな教授 |
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視察・探検・訪問調査の時代 |
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ファシリテーション教師 |
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とにかくダンディーだった中川先生 |
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諸先輩の人生から何を学ぶか • 戦争のための医学の反省から医学概論(久保助教授と澤瀉講師の対話)が生まれる(→ただし、このエピソードは澤瀉久敬『わが師わが友』1984年にはない) • 中川先生の研究室には『ハバロフスク裁判記録』*があった。 |
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1955年森永砒素ミルク事件が発覚(現在の表記では、森永ヒ素ミルク中毒事件)1969年12月以降の裁判闘争を支援した丸山博研究室と関わることにな
る。丸山研究室 のこのサークルは「森永ヒソミルク中毒追跡調査会」と呼ばれる[百年史
p.232による]。丸山博は、衛生学教授に赴任してから4年後の1962年に、講義おいて森永ヒ素ミルク中毒事件を取り上げるようになる。[中岡
(2001:62-63)によれば、砒素ミルク事件へのコミットは、六全協ショッ
ク以降の科学史家としての生活と意識の建て直しであったと考えられると指摘]。「社会の中で病む個体の、感性的な救済への要請は、非合理的と言える」「こ
のような、非合理な人間の主体性を、科学の名の下に提出し、実践的に解決しようとするもの、それが社会的ないし社会学的ということに他ならない」(中川
1973:137)。そこから佐藤純一は、中川医学概論(医学哲学)は、患者中心の医療を説いたのではなく、「医学を語る・見る・関わる主体として患者側
に立っている主体」であると喝破している。1965年 助教授に昇進(衛生学講座)。医学概論の担当ポストは単独であったため研究室は、衛生学教室(丸
山博[1909-1996]教授)に附属するかたちで処遇される。丸山と共に「森永ヒ素ミルク中毒症」の追跡調査(=「14年目の訪問」1969年頃?)
をはじめる。『日本科学技術史体系・医学1』日本科学史学会編、第一法規、1965年 |
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• 東大インターン闘争(1965~1968年) • 1967年 日本科学史学会編集の『日本科学技術史体系・医学編1.2』第24・25巻を丸山と中川が編集担当し出版(第一法規) • 1967年 この頃、大阪大学医学部学生自治会・医学教育研究委員会は『医学教育』を発刊し続けていた • 1968年 澤瀉久敬・大阪大学を定年退官、南山大学教授に就任と同時に、澤瀉は日本学士院会員に推挙、承認される。 • 1969年 森永ヒ素ミルク中毒事件を、丸山教授とともに調査。 • 1970年 中川『医学をみる眼』(→治療者の類型論、時代にドミナントな医学の歴史的変遷タイプ)和田心臓移植を告発する会 編『和田心臓移植を告発する——医学の進歩と病者の人権』保健同人社。「本当は医学と科学は違うものなんですが、医師にはそれを、同じ次元で考えている傾 向があると思うんです」(和田心臓移植を告発する会 1970:218) • 1971年 学部内に新設された教育企画調整室の創設に関わり、5期10年間副室長を務める。教育企画調整室という医学教育カリキュラムの改革部局が設置 される背景には、1960年 末に絶頂を極める大学紛争を形成する流れのひとつに無資格医の医局労働搾取に関するインターン闘争[ca.1965-1968]があったからである。 |
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• 1956 6月16日大阪北逓信病院で生まれる。 • 1959 (3歳)この頃、小児結核に罹患 • 1978 鹿児島大学理学部学生時代:宮崎県日南市の京都大学霊長類研究所附属観察施設(幸島)でニホンザルの個体識別調査を開始する。メンターは鹿児島大学理学部 の柿沼好子教授と宮崎大学教育学部岩本俊孝講師 • 1980 鹿児島大学理学部生物学科卒業。大阪大学大学院医学研究科医科学修士課程に入学。同年夏から1981年春にかけて大阪大学たんぱく質研究所代謝部門にて ラットの視交叉上核の補酵素の代謝の可視化に関する光学的分析手法について研究する。 • 1981 年頭たんぱく質研究所から中之島にある中川米造研究室の門をたたく。 • 1982 大 阪大学大学院医学研究科医科学修士課程修了。修士論文「民間医療の医療人類学的研究—都市における信仰治療行動の事例」は前年から開始した日蓮宗治療儀礼 に関する社会調査をもとにしたもの。同年博士課程(社会医学専攻)に入学 • 1984 3月にホンジュラス共和国にJOCV派遣(同年4月より休学) • 1989 大阪大学大学院医学研究科博士課程社会医学専攻を単位取得済退学。日本学術振興会特別研究員(DC)として国立民族学博物館外来研究員として勤務を始め る。メンターは吉田集而教授 • 1991 4月民間のNGO医療文化研究センター主任研究員(センター長:中川米造大阪大学名誉教授)を名乗る。「文化現象としての医療」編集プロジェクトはじま る。 • 1992 東日本学園大学教養部助教授として就任 • 1994 熊本大学文学部地域科学科文化人類学講座助教授。2002年10月熊本大学文学部地域科学科文化表象学講座教授 • 2005 大阪大学コミュニケーションデザイン・センター(CSCD)・臨床部門・教授 • 2016 大阪大学COデザインセンター・社会イノベーション部門教授 • 2020 4月大阪大学COデザインセンター長 |
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医療人類学を通した「啓蒙」:疾病文明論 |
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医療人類学を通した「啓蒙」:病いと疾病 |
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医療人類学を通した「啓蒙」:人は多様に
病み、単純に治る/死ぬ |
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『暴力の政治民族誌』を舞台裏から読む |
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俺は渡世人という言葉が好き:研究渡世人 |
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1980年公刊された『医療的行為の論理』の「医療的人間論」において、人が医療者になっていゆく過程を、レヴィ=ストロースが引用するフランツ・ボアズ
の「ケサリード」を範にとり、科学的知識の習得ではなく、試行錯誤を繰り返しながら「ある範囲の治療法」に確信をもつ方途にしかないと述べる(佐藤
2011:127-128)。佐藤によると、このような確信は、中川が自分自身の臨床経験を語る時に、自分の研修医時代の経験はほとんど語らず、1946
年6月からの舞鶴とそこから往還した復員船乗船時代の「にせ医者」ばかりを語ることにきたのではないかと推理している。「医師は、自分がきちんと治療でき
ない、あるいは自分の力で患者が本復したという確信を持てないにもかかわらず、患者に科学的知識をもつように振る舞う間にジレンマがあることを指摘してい
る。そのため、科学的知識に強い信念をもつ医師が自分が病気になった時には(一般の人よりもなお逆に)「みじめさ」を感じるのではないと主張する」——同
じく「医療的人間論」より。/佐藤は、この時期(1980年前後)であるとは明示しないが、澤瀉が医学概論を Philosophy of
Medicine と翻訳していたが、中川はそれを Medical Humanities
あるいはそのまま外来語として「メディカル・ヒューマニティズ」と呼ぶようになったという。蒼穹社社主であった野島さんは、中川医学概論に共鳴して雑誌
『メディ カル・ヒューマニティ = Medical humanity』を発刊するが、その時期は1985年である。 |
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・俺は中川先生の出来の悪い弟子でもなく
門前の小僧にすぎない. ・マッカーサー将軍の発言:I shall return(1942); Old soldiers never die; they just fade away(1951)*に託す俺の気持ち ・1980年の医療人文学の提唱は全体論=ホーリズムの復権を目指していた.しかしその後は医療人文学の細分化がはじまった.医療人類学も同じ運命を辿 る.あとは皆さんのご存知のとおり. |
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今考えていることは「一般倫理原則」—「あらかじめ定まった普遍的で合理的な基準など存在しないのである」(ジジェク 2002: 203)に抗して • ここでは人類一般に関わる、一般倫理原則が可能であるのか、どうかについて検討をを考えている。先に見通しをのべておくと、「人間社会の時空間をこえて普 遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則(Ethics in general)は定義上存立しえない。しかしながら、『普遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則への人類史の探求の歴史を振り 返った時に』その共通点やより多くの人たちに合意を得ることことが可能な『倫理原則』を導きだすことは可能である」ということだ。そのためには、(a)人 と社会とのあいだにおける倫理(a.徳の倫理学 b.功利主義の倫理学 c.カントの義務論);(b)人と人の関係の倫理(コミュニケーション倫理);(c)個人の中の内面における価値や実践の倫理(アイデンティティと倫 理)。 |
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「この世に不正があるかぎり、おまえたちは立ち上がって闘わねばならない。迫害されるものを守らねばならない」——ティル・オイゲンシュピーゲルの妻が息
子たちに語ったことば • 「この世の弱きものが倒れるならば、破滅が傲慢な者を打ち据えるだろう」レイナルド・アレナス『めくるめく世界』 • イバン・イリイチは次のような趣旨の発言をユダヤの言い伝を捩っていう;「犠牲をはらいながら世界の破滅に抵抗する人びとがいる。そういう人びとによって 世界は支えられている。だが、彼(女)たちは、そのことを知らない。しかし、そのような人たちが倒れる時、世界もまた崩壊するのだ」。これは12人の賢人 が世界の12の支柱を支えるという逸話からきているという。賢人とは名も無き人びとのことだともいう。 • 後二者の因果関係の説明を転倒すればこんな表現も可能だ→「君よ、君の住むこの世を滅びさせたくなければ君の隣にいる弱きものを助けよ」 • ——「成し遂げられた」(テテレスタイ)(ヨハネ福音書 19:30) |
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大阪大学COデザインセンター長の定年退職記念公演「大阪大学と医療人
文学の未来」Ver.6.0、すなわち最終版です。1)澤瀉久敬先生のはなし、2)中川米造先生のはなし、3)池田光穂のはなし、そして、阪大医療人文学
の未来の4本立てです。収録時間44分。これは(1回の本番を含む)7度目の発表リハーサルで、本人が話したいことをおおむね全部話しています。
(2022年2月23日の2回目の収録)。これをもって最終版とさせていただきます。 |
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ここでは人類一般に関わる、一般倫理原則が可能であるのか、どうかにつ
いて検討をおこなう。先に結論をのべておくと、「人間社会の時空間をこえ
て普遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則(Ethics in
general)は定義上存立しえない。しかしながら、『普遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則への人類史の探求の歴史を振り
返った時に』その共通点やより多くの人たちに合意を得ることことが可能な『倫理原則』を導きだすことは可能である」ということだ。 |
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