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一般倫理原則

Between Moral and Ethics in Modern Societies

池田光穂

「あらかじめ定まった普遍的で合理的な基 準など存在しないのである」(ジジェク 2002: 203)

【主要命題】

(1) なぜ倫理は必要なのか?——他者との関係性の構築

(2) 必要性はわかった、だが、決められたことを守れないのが人間ではないのか?という質問にどう応答するのか?

(3) 郷に入れば、郷に従う。所変われば品変わる。ということは、倫理規範は、社会によって判断が異なる。倫理の多様性と普遍性をどのように見分けるのか?

(4) 自分で考えることの重要性。自分で考えないという「誘惑」や「逃げ口」にどう抵抗するのか?:1)権威に従う、2)規則に盲従する、3)疑問に思わない

(5) 倫理を風通しよくするための工夫:1)創意工夫、2)選択肢を広げる、3)逆に課題や問題を再考したり、その背景にある基礎にたどりつく、4)予防を考え る

(6) あれかこれか?という罠にはまらない工夫:1)理論上の正しさ、2)立場の正当性、3)つねに普遍的であろうとする努力

(7) レトリックの罠について自覚的になる(→「不正論理入門」)

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ここでは人類一般に関わる、一般倫理原則 が可能であるのか、どうかについて検討をおこなう。先に結論をのべておくと、「人間社会の時空間をこえ て普遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則(Ethics in general)は定義上存立しえない。しかしながら、『普遍的(ユニヴァーサル)で静態的(スタティック)な一般倫理原則への人類史の探求の歴史を振り 返った時に』その共通点やより多くの人たちに合意を得ることことが可能な『倫理原則』を導きだすことは可能である」ということだ。

(a)人と社会とのあいだにおける倫理

まず、それを「倫理なんてクソくら えと思うココロがその入り口」か らその3つの必要性からまとめてみよう。

(1)徳の倫理学(Virtue ethics)
倫理をその人が持っている徳という属性 (一種の性格やタイプ)で判断して、どのような タイプのものが徳がある=人の道に叶っている=倫理的である、と判断するものです。古代ギリシャのアリストテレス(紀元前4世紀頃)は中庸(ちゅうよう) つまり他者や状況に対するその人の態度は両極端であるよりもほどほどがよいと言いました。危機的状況にあるときに、興奮して極端に野蛮になるのも、また萎 縮して臆病になりなにもしないのもアカンというわけです。その中間の冷静でありながらもやるべきことはやるような勇気が大切だというのです。この説明は分 かりやす過ぎますが、危機的な状況でどうふるまうのがいいのかは状況次第ですし、また事後的に後悔することもあれば、遺憾だけど仕方がないと思うこともあ ります。アリストテレスは状況で倫理が変わるということなどは想定していません。むしろ、人間には中庸という徳の状態や性質があり、そのような性格を備え ている人を徳のある人(=有徳の人)と言うのだと言います。理屈では説明できないけど、経験的に私たちも「あの人はいい人だ」というときに、その人の美徳 がなんであるのかある程度、抽象的に説明することができます。したがって、徳の倫理学は、日常的な体験として違和感のないものです。しかし、その理論的説 明においては、とりわけなぜか?という点においては困難さをかかえます。
(2)功利主義の倫理学 (Utilitarian Ethics)
Part 01:功利主義の倫理学は、ベンサム(後述)のものが有名でかつ重要ですが、その経験論的な考え方を理解するために、その先輩格の ディビッド・ヒューム(1711-1776)の議論が欠かせません。ヒュームは懐疑論(かいぎろん)者と言われるように、常識的な質問をしまくることで、 私たちが当たり前と思っている信念を片っ端からぶち壊して、実際には何も問題が起こらないために、それらは慣習的にそう思っているに過ぎず、論理的に説明 をもとめると困難になることを理詰めで突き詰めました。我々は「〜でなければならない」「〜すべき」つまり、原因と結果を必然性の関係で結びつけて考えま すが、実際は原因を結果をながめて「〜である」という習慣づけているだけで、「〜でなければならない」「〜すべき」を証明できたわけではないと言います。 ここから「〜である」——前項の有徳の人を思い出してください——という経験的事実から「〜でなければならない」「〜すべき」ということは導くことはでき ない、それらは習慣によって思い込んでいるだけということなります。ヒュームは、倫理は、理性から生まれるのではなく感情から生じるといいました。それど ころか理性は感情の奴隷だといって、理性を倫理の基礎にすることに反対しました。

Part 02:ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham, 1748-1832)は、ある行為が正しいと言えるのは、結果からしか判断しえないのでないかと考え、よりよい結果を生み出す行為が「正しい」と考えまし た。例えば増税で人が苦しんでもその税を使って医師を育てより多くの人の命を救うのならその増税という行為は正しいと考えるのです。ベンサムのこの論理に よると「増税で人が苦しむ」ということと「医師の養成により人命がより多く救われた」ということを、ハカリにかけて、前者よりも後者のほうが「重い」「大 きい」あるいは「より重要だ」という判断ができなくてはなりません。このような比較が可能になるのは、最初の行為と後の結果を、量という指標で比較対照 ——これは功利計算と呼ばれる——できなければなりません。ベンサムはそのような思考方法を、「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)というスローガンで表現し、多くの賛同者を得ることに成功しました。このような考え方を出てきた結果という「効用(utility)」から 功利主義(utilitarianism)と言います。これらはある意味で結果=オーライ、卑俗な言い回しだと「ごちゃごちゃ言わずに結果を出せばいいん でしょう?」という主張や、結果で正しさが保証されるために、より広い意味での帰結主義(Consequentialism)とも言われます。
(3)カントの「義務論 (Deontology)
Part 01:イマヌエル・カント(1724-1804)の義務論は、他の彼の哲学上の業績でもそうですがゴリゴリの精密な論証をおこなうために難解で分かりにく いものになっています。他方、その論証の「美しさ」のために、カントの議論にハマるとその手際の鮮やかさに舌をまき、皆を魅了するそうです。つまり、議論 のシステムがわかると、カントの主張による「正しい」行為を明証性——理屈としてすっきりする——をもって理解できるというのです。カントは、先に触れた イギリスの懐疑主義者ヒューム(1711-1776)とフランスの啓蒙思想家のジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)の影響を受けて、啓蒙主義 的伝統における重要な概念である理性(合理性=正しい論理=人間存在を超えたという意味で「物自体 Ding an sich」までレベルが上がる)に、倫理を考える際にもとても重要なあるいは特権的とも言える位置を与えます。物自体ということは全宇宙を通してすら普遍 的=一般的であるということですので、この理性の法則に、人間もまた従うべきだ——なぜなら宇宙の法則ならその成員である人間にも当てはまるから——と考 えます。そう考えると人間はデフォルトで法則にしたがっているから道徳など必要ないと思われるのですが、カントはそう考えません。彼は、啓蒙主義から受け 取った「自覚してかつ行動し前よりもよりよく成長する」人間観をもっていますので、その法則に人間を従わせる規則——道徳法則——を与えます。それが「君 が意志し自分自身で決めている規則や規約(=格率・格律[かくりつ]という)が、すべての人に妥当する普遍的法則になることを願うようなものになるように 行動しなさい*」(=君の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ——『実践理性批判』)というものです。格率・格律 (かくりつ)とはドイツ語のMaxime の訳語のことで、主観的=あなただけにのみ使える実践的な原則や規則(=例:寝る前に必ず歯を磨く人のその習慣)。これはあることを促していますが実際に は命令文に近いので、カントの「定言命法(ていげん・めいほう)」と呼ばれます。* Act only according to that maxim whereby you can, at the same time, will that it should become a universal law.

Part 02: このカントが命じる法則は「普遍的立法の原理」がわからないから格率と合致しているかどうかわかならい、と言い逃れできそうですが、こう考えるとど うでしょうか。普遍的立法の原理は、私にとっても正しいですが、他ならぬ他人においても正しいはずです。普遍立法をなにか難しい規則と考えずに、他人にも 共有可能な——より積極的には共有しなければならない——規則だとすると、他人が自分にやってほしいという行為(原則)は、自分が他人にやってあげる行為 (原則)と同じでなければならないし、他人が自分にやってほしくないことを、自分が他人にやってはならないことになります。他人が自分に対して正直であっ てほしいならば、自分もまた他人に対して正直でなければなりません。また、自分が他人からいじめてほしくないのであれば、他者をいじめてはいけないことに なります。この定言命法はカントが編み出したものですが、カントはこのような法則が導かれるのは、自分自身のオリジナルではなく、誰もが推論すれば、それ は人間の理性の働きによるもので、そのように我々は結論できるのだと言います。これを「意志の自律」と呼びます——ここから他者から意志を押しつけるられ る、つまり意志の自由が阻害される(=邪魔される)のはイカンという原理が見つけられます(だから意志の自律と意志の自由は、お互いがお互いを保証しかつ 人間にとって崇高なものだということになります)。というわけで、カントは抽象的な行為原則=義務法則をいっけん我々に対して要求しているように思えるの で、それを「〜しなければならない」理屈すなわち義務論(Deontology)と呼ぶようになりました——従ってカントによると真の義務とは人や社会か ら押しつけられるものではなくその人の自由を守りかつその自由の考え方から導きだされる行動の原理の一部だということになります。いずれにせよ、その抽象 的な義務論は、実際に日常行為のなかに当てはめてみると、不思議なくらい具体的に「正しい行為」を導くことができるので、この議論のやり方と実践原理を紡 ぎ出す方法というのもなかなか侮りがたい(=容易には批判しがたい)ものがあります。

これは、社会的存在としての人間が「世 間」を渡っていくときに、個人が社会ととり結ぶ関係性について考察するものである。しかし、これだけでは まだ足らない「倫理」や「道徳」という課題がある。すなわち、(b)人と人の関係と、(c)個人の中の内面における価値や実践の倫理(マルチン・ブーバー の用語だと「我」と「汝」、ジョージ・ハーバート・ミードだと、アイ(I)とミー(Me))の関係である。

(b)人と人の関係

人と人の関係を規定する倫理は「コミュニケーションの 倫理」(正確にはinter-personal communication)でもある。医療倫理の4原則というものがもっとも有名である。すなわち、1)自己決 定(Autonomy)2)善行(Benevolence)3)無加害(Nonmaleficence)、そして、4)配分上の正義(Distributive Justice)

(c)個人の中の内面における価値や実践 の倫理

個人の中の内面における価値や実践の倫理 (マルチン・ブーバーの用語だと「我」と「汝」、ジョージ・ハーバート・ミードだと、アイ(I)とミー (Me))の関係である

われわ れはみな、甲胃を身にまとい、われわれに生ずるしるしを近づけぬようにしている。 しるしはたえず生じている。生きていることは、語りか けられていることであり、われわれはただこのしるしに立ち向かい、これに耳を傾けることだけが必要である。しかしこの冒険はわれわれにとって非常に危険な ものである。音のない雷は、われわれに破滅の威嚇をなすごとく見え、それゆえ、われわれは世代ごとに防禦の備えを完全なものにしようとする。われわれの知 識は、つぎのような確信を与える〈落着きなさい、すべては必然的に起るべくして起る。何もあなたに向けられているのではない、あなたがねらわれているので はない。まさにこのようなのが世界である。あなたは自分で望むままに世界を体験することができる。しかしあなたが心の中でいつも思っていることは、すべて あなたから生ずるのである。あなたは何も要求されず、だれもあなたに語りかけず、すべては静かである〉と」(ブーバー 1979:189)。

●Casuistry(決疑法)

倫理学において決疑法(/ˈkæzjuɪstri/ KAZ-ew-iss-tree)とは、特定の事例から抽象的なルールを抽出または 拡張し、それらのルールを新たな事例に再適用することによって道徳的問 題を解決しようとする推論のプロセスである。また、この用語は、特に道徳的な問題に関連して(詭弁のように)巧妙だが健全でない推論 の使用を批判す るために侮蔑的に使用される。 決疑学の進歩は17世紀半ばに確率論の教義に関する論争によって中断された。 ある種の決疑は初期のプロテスタントの神学者たちによって批判され、それは彼らが改革しようとした多くの乱用を正当化するために用いられたからである。 18世紀半ばまでに、「決疑主義」は魅力的に聞こえるが、結局は誤った道徳的推論の代名詞となった。 G.E.ムーアは『プリンキピア倫理学』の1.4章で決疑を扱い、その中で「決疑の欠陥は原則の欠陥ではない。決疑学が失敗したのは、現在のわれわれの知 識状態では、決疑学があまりにも難解で適切に扱えないからにほかならない」と主張している。さらに、「決疑学は倫理的研究の目標である。決疑学は、研究の 始めに安全に試みることはできないが、終わりにのみ試みることができる」とのべている(→「決疑法」)。

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right, A 12th-century Byzantine manuscript of the Hippocratic Oath