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  実践理性の二律背反

Aninomie of Pure & Practical Reason

解説:池田光穂

「実践理性の二律背反(アンチノミー)

「(204)われわれにとって最高で実践的な、すなわち、われわれの 意志によって現実とされるべき善の中で徳と幸福とは必然的 に結びつけられたものと考えられるから、一方は、他方がそ れについているのでなければ、実践理性によっては受けいれ られない。ところで、この結合(すべての結合が一般にそう であるように)は分析的であるか綜合的であるかそのいずれ かである。この与えられた結合は(たったいま示されたよう に)分析的ではありえないから、綜合的でなければならない。 しかも原因と結果の結合と考えられねばならない。というの は、それは実践的な善、すなわち行為によって可能なものに 関係するからである。それゆえ、幸福への欲求が徳の格率の 動因であるかそれとも徳の格率が幸福を動かす原因あるか そのいずれかでなければならない。前の場合は絶対に不可能 である。というのは(分析論において証明されたように)意志 を規定する根拠を意志が幸福を求めることの中におく格率 は全然道徳的ではなく、いかなる徳の基礎ともなりえないか らである。とはいえ、後の場合もやはり不可能である。なぜ ならば、世界における原因と結果との実践的結合はすべて、 意志規定の結果として、意志の道徳的意向に向かうもので もなく、自然律の認識とそれを自分の目的のために用いる自然 的能力とに向かうものであり、したがって、世界における幸 福と徳との必然的な、最高善にとって十分な結合はいずれも 道徳律の最も忠実な観察によって期待されうるものではない からである。(205)そこで、その概念の中にこのような結合を含ん でいる最高善を促すことはわれわれのア・プリオリに必然的 な対象であり、道徳律と結びついて離れないものであるか ら、前の場合の不可能は後の場合の誤りをも証明せねばなら ない。だから、もし最高善が実践的な規則の上で不可能であ るならば、最高善を助成するように命令する道徳律も空想的 なものであり、想像された空しい目的に向けられており、し たがってそれ自体誤りでなければならない」」カント「第二篇 純粋実践理性の弁証論(pdf_with_password)」『実践理性批判』(→カント『実践理性批判』ノート

●ウィキペディアの『実践理性批判』の項目の引用とその注釈

純粋実践理性(reine praktische Vernunft)は、経験(Erfahrung)からは独立して意志(Wollen)を規定する普遍的な道徳法則をわれわれに与える。すなわち、「汝の 意志の格律(Maxime deines Willens)がつねに普遍的立法の原理(Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung)として妥当しえるように行為せよ(sollen)」(定言命法(der kategorische imperativ))。カントはこの定言命法が自由(Freiheit)の表明であるという。
なんじの意志の格率が常に同時に普遍的 立法の原理として妥当しうるようにおこなえ」(Kant 1787, S.54: 1969:30)——『実践理性批判』 樫山欽四郎・坂田徳男訳、河出書房新社〈世界の大思想〉, 1969年※格率(Maxime)とは、カントの規定によると、意欲の主観的原理、もしくは行為の主観的原理であり、個人が自らの行為の指針として自らに 設定する規則のこと(有福孝岳ほか編『カント事典』弘文堂より)
・すべての人に妥当する普遍的法則になることを願うようなものになるように行 動しなさい」(=君の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ——『実践理性批判』)
思弁的理性は、実践理性の理念が感情に与 える影響に対しては理由を示しえない。同情から善(Gute)をなすことは好ましいが、義務(Pflicht)と責任 (Verantwortlichkeit)とは道徳的法則と我々との関係に対してのみ与えられねばならない。また快楽と義務とは峻別される。偉大にして崇 高な名である義務は、威嚇によって意志を動かすのではない。かえって法則を定めるのみである。しかしわれわれはこれを尊敬せざるをえない。その根源は、機 械的自然から独立した自由な人格性(Persoenlichkeit)にほかならない。純粋実践理性によってわれわれは感性界と知性界に同時に属する。将 来における人間の行為を正確に予見できても、なお人間は自由(frei, Freiheit)である。また法則に反する行為の弁護者は、彼自身の内なる告訴者である良心をけっして沈黙させることはできない。

魂の不滅、あるいは永世の前提のみが、無 限の進歩を可能とする。道徳論を幸福論とも名づけうるためには、宗教だけがわれわれに与えるところの最高善を促進すべき希望が必要となる。したがって認識 理性の対象ではなく、したがって証明もされなかった神は、いまや実践理性によってそのような不死なる魂へ報償を与えるものとして要請され、体系のなかへ位 置づけられる。自由・魂の不死・神、これらはみな証明されえず、認識の対象ではないが、しかし実践理性はこれらの概念を前提し、その上に己の法則を立てる のである。したがって次のようにいうことができよう―これらの概念は物自体に他ならない。

原則はあくまでも概念の基礎の上に立てら れねばならない。気まぐれは何ら人格に道徳的な価値を与えず、自己への確信を強めない。しかしこの確信なくしては最高善は実現され得ない。「わが上なる輝 ける星空とわが内なる道徳律(Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir)」に対しては、つねに新しくされる感嘆と尊敬の念とがある。動物的な被造者としての私は、短い生命を与えられた後、自らを構成する物質を星に返さ ねばならない。しかし人格性においては、道徳律は動物性および全感性界に依存することのない生活を開示する。

章立て

序言
序論  実践理性批判の理念について
第一部 純粋実践理性の原理論
第一篇 純粋実践理性の分析論
第二篇 純粋実践理性の弁証論
第二部 純粋実践理性の方法論
結語

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