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カントの定言命法

Kategorischer Imperativ, categorical imperative, あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ

池田光穂

イマヌエル・カントの定言命法とは『人倫の形而上学の 基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten, 1785) において示され、1781年『純粋理性批判』Kant, Immanuel: Kritik der reinen Vernunft. Riga: J. F. Hartknoch 1781, 856 Seiten, Erstdruck.に、理論的に修正されたもの。『人倫の形而上学の基礎づけ』(じんりんのけいじじょうがくのきそづけ、独: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)は、1785年に出版されたイマヌエル・カントの倫理学・形而上学に関する著作。3年後の1788年に出版される『実践理性批判』と共に実践哲 学を扱っている。実践理性批判、人倫の形而上学と並びカント倫理学の主要著書の一つである。『道徳形而上学の基礎づけ』や『道徳形而上学原論』とも訳され てきた。

定 言命法 Kategorischer Imperativ, categorical imperative 定言命法[1](ていげんめいほう、独: Kategorischer Imperativ[2]、英: categorical imperative)とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に 「~せよ」と命じる絶対的命法である[3]。定言的命令(ていげんてきめいれい)とも言う。『人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) において提出され、『実践理性批判』において理論的な位置づけが若干修正された。『実践理性批判』の§7において「純粋実践理性の根本法則」として次のよ うに定式化される。

あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるよ うに行為せよ

Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die du zugleich wollen kannst, dass sie ein allgemeines Gesetz werde.-  Immanuel Kant: AA IV, 421

Act as if the maxims of your action were to become through your will a universal law of nature.

カントによれば、この根本法則に合致しうる行為が義務として我々に妥当する行為であり、道徳的法則に従った者だけが良い意志を実現させるということであ る。 他のあらゆる倫理学の原則は「~ならば、~せよ」という仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「~ならば」という条件が無い『無条件の行為』を要 求する。 一例として、「幸福になりたいならば嘘をつくな」という仮言命法を採用する場合の問題が挙げられる。ここでは「幸福になること」と「嘘をつかないこと」の 間に必然性が有るのか無いのかが問題となる。「嘘をつかないこと」は幸福になるための都合の良い手段にすぎない。従って、もし「幸福になること」と「嘘を つかないこと」の間に必然性が見出されない(つまり道徳で幸福を得られない)場合には、「幸福になることを目的にする人」は不道徳(嘘をつくこと)を行う ことになる。すなわち、カントは自身の意志を普遍的立法の原理と妥当するように行動することを求めているため、我々は一切の自愛の原理に基づく幸福への意 図を断ち切り、普遍的立法に合致する格率によって意志を確立しなければならないわけである。 また、仮言命法において何が道徳的かであるかの洞察は、行為(嘘をつくこと)と帰結(幸福)との間の自然必然性の洞察であり、経験論に属するものでしかな い。条件節を欠くカントの定言命法は、倫理学が経験論の範囲に陥ることを防ぎ、経験論から独立した純粋に実践的な倫理学の範囲を確保するのである。

The categorical imperative, which states that one must act only according to maxims which one could will to become a universal law.

●上掲の定言命法を根拠づける、カントの 論理あるいは理論(=自己正当化のための論理)——『道徳の形而上学の基礎づけ』第3部における最初の3つの節で、定言命法の可能性を導き出すための予備的な考察を提示した後、最後に結論を導き出している。カントは論理的に形式的な結論を意味しているのではなく、むしろ、かなり法律的な意味で、確立された事実からの導出を試みている。

  • 1)人間は、理性を備えた存在として自らを経験する。自己矛盾なくしてこれを否定することはできない。
  • 2)自由なくして実践理性の概念は存在しないため、自由意志、すなわち人間の自律性が前提とされなければならない。あらゆる意識的な行動は、決定に基づく。
  • 3)理解の世界の構成員として、人間はそれ自体が行為の原因となる意志を形成することができる。実践理性は行動を自律的に決定する。
  • 4)時間と空間と実体は、我々と独立し て存在するのではない。それらは、我々の直観や理性(つまり想像)の産物であり、それなしには捉えられない。
  • 5)人間は感覚の世界の構成員でもあるため、同様に自然的な因果律、すなわち欲望や傾向に従属する。
  • 6)人間が純粋に理性的な存在であるならば、道徳的にのみ行動するだろう。人間が純粋に感覚的な存在であるならば、本能のみに駆り立てられるだろう。
  • 7)理性の世界は感覚の世界を省察する ことができるため、欲求や傾向に影響を与え、人々が自発的に従う規則を定めることができる。「したがって、道徳的義務と は、理解可能な世界の構成員としての自己の必然的な意志であり、感覚的世界の構成員としての自己も考慮する場合にのみ、自己から離れた場所で義務として考 えられるものである」 (455) 。したがって、実践的な理由は行動の立法者となる。
  • 8)理性的で自律的な存在として、人間は道徳律(善と認識するものに従って行動する義務)を認識しなければならない。道徳律の概念的形態は、定言命法である。
  • 9)この関係における問題のひとつは、実際に行動する際に、人間は理性の世界に従って一貫して行動するのではなく、しばしば自分の衝動に屈してしまうことである。これが意志の弱さ(アクラシア)の問題であり、その重要性は古代から議論されてきた。

  • ※この続きは「『道徳形而上学原論』(Groundwork of the Metaphysics of Morals, 1785)」でおこないます。

    ●『道徳[あるいは人倫]の形而上学の基礎づけ』(Groundwork of the Metaphysics of Morals, 1785)

    人倫の形而上学の基礎づけ』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten)は、1785年に出版されたイマヌエル・カントの倫理学・形而上学に関する著作。3年後の1788年に出版される実践理性批判と共に実践哲 学を扱っている。実践理性批判、人倫の形而上学と並びカント倫理学の主要著書の一つである。

    How is a Categorical Imperative Possible?
    定言命法はどのように可能になるのか?
    Every rational being reckons himself qua intelligence as belonging to the world of understanding, and it is simply as an efficient cause belonging to that world that he calls his causality a will. On the other side he is also conscious of himself as a part of the world of sense in which his actions, which are mere appearances [phenomena] of that causality, are displayed; we cannot, however, discern how they are possible from this causality which we do not know; but instead of that, these actions as belonging to the sensible world must be viewed as determined by other phenomena, namely, desires and inclinations. If therefore I were only a member of the world of understanding, then all my actions would perfectly conform to the principle of autonomy of the pure will; if I were only a part of the world of sense, they would necessarily be assumed to conform wholly to the natural law of desires and inclinations, in other words, to the heteronomy of nature. (The former would rest on morality as the supreme principle, the latter on happiness.) Since, however, the world of understanding contains the foundation of the world of sense, and consequently of its laws also, and accordingly gives the law to my will (which belongs wholly to the world of understanding) directly, and must be conceived as doing so, it follows that, although on the one side I must regard myself as a being belonging to the world of sense, yet on the other side I must recognize myself as subject as an intelligence to the law of the world of understanding, i.e., to reason, which contains this law in the idea of freedom, and therefore as subject to the autonomy of the will: consequently I must regard the laws of the world of understanding as imperatives for me and the actions which conform to them as duties.
    理性ある存在は、知性という観点から、理解の世界に属しているとみな す。そして、その世界に属する能動的な原因として、自分の因果律を意志と呼ぶのである。一方で、彼はまた、自分の行動が示される感覚の世界の一部としての 自分自身を意識している。しかし、この因果関係から、その行動がどのように可能なのかを我々は見分けることはできない。その代わりに、感覚の世界に属する これらの行動は、他の現象、すなわち、欲望や傾向によって決定されていると見なさなければならない。したがって、私が理解の世界の構成員であるだけなら、 私の行動はすべて純粋な意志の自律性の原則に完全に適合するだろう。私が感覚の世界の一部であるだけなら、それらは必然的に、すなわち、欲望と傾向の自然 法則に完全に適合すると想定されるだろう。(前者は道徳を最高原理とし、後者は幸福を最高原理とする。)しかし、理解の世界は感覚の世界の基礎を含み、そ の結果、その法則も含み、それに応じて私の意志(これは完全に理解の世界に属する)に直接法則を与え、そうしていると見なされなければならない。したがっ て、一方では感覚の世界に属する存在として自分自身をみなさなければならないが、 他方では、私は自分自身を理解の世界の法則に従う知性、すなわち自由の概念にこの法則を含んでいる理性、そしてそれゆえに意志の自律に従う主体として認識 しなければならない。したがって、私は理解の世界の法則を私にとっての命令として、そしてそれらに従う行動を義務としてみなさなければならない。
    And thus what makes categorical imperatives possible is this, that the idea of freedom makes me a member of an intelligible world, in consequence of which, if I were nothing else, all my actions would always conform to the autonomy of the will; but as I at the same time intuite myself as a member of the world of sense, they ought so to conform, and this categorical "ought" implies a synthetic a priori proposition, inasmuch as besides my will as affected by sensible desires there is added further the idea of the same will but as belonging to the world of the understanding, pure and practical of itself, which contains the supreme condition according to reason of the former will; precisely as to the intuitions of sense there are added concepts of the understanding which of themselves signify nothing but regular form in general and in this way synthetic a priori propositions become possible, on which all knowledge of physical nature rests.
    そして、定言命法を可能にするのは、自由という概念が私を理解可能な世 界の構成員とするということである。その結果、私が他の何者でもなかったとしても、私の行動はすべて常に意志の自律性に適合することになる。しかし、同時 に私は感覚の世界の構成員であると直観しているため、それらの行動はそう適合すべきであり、この定言的「~すべき」は、感覚的な欲望によって影響を受ける 私の意志に加えて、 感覚的な欲求によって影響を受ける私の意志に加えて、理解力の世界に属する同じ意志の概念がさらに追加される。この理解力の世界は、それ自体が純粋かつ実 践的なものであり、前者の意志の理性に基づく最高の条件を含んでいる。感覚の直観には、それ自体は一般的な規則的な形式を意味する理解の概念が追加され る。このようにして、総合的ア・プリオリ命題が可能になり、物理的な自然に関するすべての知識がそこに基づいている。
    https://navymule9.sakura.ne.jp/Grundlegung_Metaphysik_Sitten.html


    リンク

  • カントの4つの疑問︎▶︎THE CRITIQUE OF PURE REASON ▶︎︎Kritik der reinen Vernunft▶︎The Critique of Practical Reason▶︎︎Fundamental Principles of the Metaphysic of Morals▶︎人倫の形而上学的基礎づけ(英訳フルテキスト)▶︎︎
  • 人倫の形而上学の 基礎づけ(著作紹介)▶リンク集:イマヌエル・カント︎▶︎︎▶︎▶︎
  • 文献

  • ヘーゲル入門 : 精神の冒険 / ピーター・シンガー著 ; 島崎隆訳, 青木書店 , 1995
  • ビーイング・グッド : 倫理学入門 / サイモン・ブラックバーン著 ; 坂本知宏, 村上毅訳, 京都 : 晃洋書房 , 2003
  • その他の情報


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