はじめによんでね!

倫 理なんてクソくら えと思うココロがその入り口

Introduction to Ethics in/of Science , or Bullshit Ethics!!

池田光穂


倫理という一般概念とそれにまつわる蘊蓄

倫理学とは「人として守るべき道」すなわ ち倫理に関する学、であると辞書には書いてありますが、これはあまり適切な解説ではありません。倫理学 がどのような組み立てかたをされているのかが不明瞭だからです。倫理学がエシックスという西洋の学問に対応する言葉(翻訳語)というポイントが重要です。 だから倫理学は、西洋のエシックスを解説するものでなくてはなりません。

もし明治期以前の「日本倫理学」や東洋倫 理学、あるいはイスラム倫理学というものを理解しようとすれば、自ずから近代的な倫理学の体系分類から 類推される学問の定義づけから影響を受けているので、こちらの場合も、西洋起源の倫理学あるいは西洋倫理学というものが、どのようなものであるのかを頭に 入れてから、眺めると、西洋倫理学を反省的にながめる可能性が広がり決して損にはならないと思います。

では、西洋倫理学はどのような構成になっ ているのでしょう。ウィキペディア(英語版)をみると、アホみたいに細かく分類されています。これでは 全く頭が痛くなりますので、ズバリ大切な三本柱を抽出することにしましょう。

まず最初に、古代からの倫理である「徳の 倫理学」(Virtue ethics)と近代的な——啓蒙主義以降の——倫理である「功利主義の倫理学(Utilitarian Ethics)」。そしてみなさんも名前を聞いたことがるかと思いますが哲学者イマヌエル・カントの「義務論(Deontology)」です。どうしてこ の3つが重要かというと、西洋の倫理学は、この3つの倫理の主張のタイプがそれぞれ相入れなく、あるいは説明する時に、それぞれがライバルになり議論や推 論がしやすくなるからです。

つまり、そこで考える3つの倫理のタイプ ——すべて規範倫理学(Normative Ethics)の範疇に入ります——には癖があり、明確で覚えやすいという特徴があります。また、この倫理の説明のタイプを覚えておくと、皆さんが抱えて いる日常的の道徳的課題やジレンマ——たとえばカンニングをするのは悪いことに決まっているが状況においては躊躇しないのは何故か?、お釣りを本当よりも 大目にもらった時はボケをかましたほうがいいのか?、カンニングをやっている親友を学校当局にチクるべきか?などなど——の解消とまではいかずとも、これ らの議論を使うことで納得し、もやもや感に悩むことがなくなるからです。では以下に簡単に説明しましょう。以下の解説はあくまでも入門のその手前ですの で、これで終わってはいけない内容ですので、あくまでも参考ということで!


(1)徳の倫理学(Virtue ethics):倫理をその人が持っている徳という属性(一種の性格やタイプ)で判断して、どのような タイプのものが徳がある=人の道に叶っている=倫理的である、と判断するものです。古代ギリシャのアリストテレス(紀元前4世紀頃)は中庸(ちゅうよう) つまり他者や状況に対するその人の態度は両極端であるよりもほどほどがよいと言いました。危機的状況にあるときに、興奮して極端に野蛮になるのも、また萎 縮して臆病になりなにもしないのもアカンというわけです。その中間の冷静でありながらもやるべきことはやるような勇気が大切だというのです。この説明は分 かりやす過ぎますが、危機的な状況でどうふるまうのがいいのかは状況次第ですし、また事後的に後悔することもあれば、遺憾だけど仕方がないと思うこともあ ります。アリストテレスは状況で倫理が変わるということなどは想定していません。むしろ、人間には中庸という徳の状態や性質があり、そのような性格を備え ている人を徳のある人(=有徳の人)と言うのだと言います。理屈では説明できないけど、経験的に私たちも「あの人はいい人だ」というときに、その人の美徳 がなんであるのかある程度、抽象的に説明することができます。したがって、徳の倫理学は、日常的な体験として違和感のないものです。しかし、その理論的説 明においては、とりわけなぜか?という点においては困難さをかかえます。

(2)功利主義の倫理学(Utilitarian Ethics)パート・わん:功利主義の倫理学は、ベンサム(後述)のものが有名でかつ重要ですが、その経験論的な考え方を理解するために、その先輩格の ディビッド・ヒューム(1711-1776)の議論が欠かせません。ヒュームは懐疑論(かいぎろん)者と言われるように、常識的な質問をしまくることで、 私たちが当たり前と思っている信念を片っ端からぶち壊して、実際には何も問題が起こらないために、それらは慣習的にそう思っているに過ぎず、論理的に説明 をもとめると困難になることを理詰めで突き詰めました。我々は「〜でなければならない」「〜すべき」つまり、原因と結果を必然性の関係で結びつけて考えま すが、実際は原因を結果をながめて「〜である」という習慣づけているだけで、「〜でなければならない」「〜すべき」を証明できたわけではないと言います。 ここから「〜である」——前項の有徳の人を思い出してください——という経験的事実から「〜でなければならない」「〜すべき」ということは導くことはでき ない、それらは習慣によって思い込んでいるだけということなります。ヒュームは、倫理は、理性から生まれるのではなく感情から生じるといいました。それど ころか理性は感情の奴隷だといって、理性を倫理の基礎にすることに反対しました。

(2) 功利主義の倫理学(Utilitarian Ethics)パート・つー:ジェレミー・ベンサム (Jeremy Bentham, 1748-1832)は、ある行為が正しいと言えるのは、結果からしか判断しえないのでないかと考え、よりよい結果を生み出す行為が「正しい」と考えまし た。例えば増税で人が苦しんでもその税を使って医師を育てより多くの人の命を救うのならその増税という行為は正しいと考えるのです。ベンサムのこの論理に よると「増税で人が苦しむ」ということと「医師の養成により人命がより多く救われた」ということを、ハカリにかけて、前者よりも後者のほうが「重い」「大 きい」あるいは「より重要だ」という判断ができなくてはなりません。このような比較が可能になるのは、最初の行為と後の結果を、量という指標で比較対照 ——これは功利計算と呼ばれる——できなければなりません。ベンサムはそのような思考方法を、「最大多数個人の最大幸福」(the greatest happiness of the greatest number)というスローガンで表現し、多くの賛同者を得ることに成功しました。このような考え方を出てきた結果という「効用(utility)」から 功利主義(utilitarianism)と言います。これらはある意味で結果=オーライ、卑俗な言い回しだと「ごちゃごちゃ言わずに結果を出せばいいん でしょう?」という主張や、結果で正しさが保証されるために、より広い意味での帰結主義(Consequentialism)とも言われます。


(3)カントの「義務論(Deontology)」パート・ わん:イマヌエル・カント(1724-1804)の義務論は、他の彼の哲学上の業績でもそうですがゴリゴリの精密な論証をおこなうために難解で分かりにく いものになっています。他方、その論証の「美しさ」のために、カントの議論にハマるとその手際の鮮やかさに舌をまき、皆を魅了するそうです。つまり、議論 のシステムがわかると、カントの主張による「正しい」行為を明証性——理屈としてすっきりする——をもって理解できるというのです。カントは、先に触れた イギリスの懐疑主義者ヒューム(1711-1776)とフランスの啓蒙思想家のジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)の影響を受けて、啓蒙主義 的伝統における重要な概念である理性(合理性=正しい論理=人間存在を超えたという意味で「物自体 Ding an sich」までレベルが上がる)に、倫理を考える際にもとても重要なあるいは特権的とも言える位置を与えます。物自体ということは全宇宙を通してすら普遍 的=一般的であるということですので、この理性の法則に、人間もまた従うべきだ——なぜなら宇宙の法則ならその成員である人間にも当てはまるから——と考 えます。そう考えると人間はデフォルトで法則にしたがっているから道徳など必要ないと思われるのですが、カントはそう考えません。彼は、啓蒙主義から受け 取った「自覚してかつ行動し前よりもよりよく成長する」人間観をもっていますので、その法則に人間を従わせる規則——道徳法則——を与えます。それが「君 が意志し自分自身で決めている規則や規約(=格率・格律[かくりつ]という)が、すべての人に妥当する普遍的法則になることを願うようなものになるように 行動しなさい*」(=君の意志の格率が、常に同時に、普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ——『実践理性批判』)というものです。格率・格律 (かくりつ)とはドイツ語のMaxime の訳語のことで、主観的=あなただけにのみ使える実践的な原則や規則(=例:寝る前に必ず歯を磨く人のその習慣)。これはあることを促していますが実際に は命令文に近いので、カントの「定言命法(ていげん・めいほう)」と呼ばれます。* Act only according to that maxim whereby you can, at the same time, will that it should become a universal law.

(3)カントの「義務論(Deontology)」パート・ つー:このカントが命じる法則は「普遍的立法の原理」がわからないから格率と合致しているかどうかわかならい、と言い逃れできそうですが、こう考えるとど うでしょうか。普遍的立法の原理は、私にとっても正しいですが、他ならぬ他人においても正しいはずです。普遍立法をなにか難しい規則と考えずに、他人にも 共有可能な——より積極的には共有しなければならない——規則だとすると、他人が自分にやってほしいという行為(原則)は、自分が他人にやってあげる行為 (原則)と同じでなければならないし、他人が自分にやってほしくないことを、自分が他人にやってはならないことになります。他人が自分に対して正直であっ てほしいならば、自分もまた他人に対して正直でなければなりません。また、自分が他人からいじめてほしくないのであれば、他者をいじめてはいけないことに なります。この定言命法はカントが編み出したものですが、カントはこのような法則が導かれるのは、自分自身のオリジナルではなく、誰もが推論すれば、それ は人間の理性の働きによるもので、そのように我々は結論できるのだと言います。これを「意志の自律」と呼びます——ここから他者から意志を押しつけるられ る、つまり意志の自由が阻害される(=邪魔される)のはイカンという原理が見つけられます(だから意志の自律と意志の自由は、お互いがお互いを保証しかつ 人間にとって崇高なものだということになります)。というわけで、カントは抽象的な行為原則=義務法則をいっけん我々に対して要求しているように思えるの で、それを「〜しなければならない」理屈すなわち義務論(Deontology)と呼ぶようになりました——従ってカントによると真の義務とは人や社会か ら押しつけられるものではなくその人の自由を守りかつその自由の考え方から導きだされる行動の原理の一部だということになります。いずれにせよ、その抽象 的な義務論は、実際に日常行為のなかに当てはめてみると、不思議なくらい具体的に「正しい行為」を導くことができるので、この議論のやり方と実践原理を紡 ぎ出す方法というのもなかなか侮りがたい(=容易には批判しがたい)ものがあります。

科学することに関する道徳(Morality of science)の12項目

学業不正(Academic dishonesty)
学業不正とは、みなさんが勉強をする時 に起こる、またしばしば、陥りがちな不正(=決して真っ正直でないこと)のこと一般をまとめる概念です。さあ、皆さんの身の回りで考えられる不正の事例を 考えみましょう?(例:カンニング、宿題やレポートを他の人にたのんでやってもらうこと、減点計算ミスの答案を正直に深刻しないこと、などなど、いっぱい 出てきます。しかし、その中には、正答を知っているのに、先生に「わかりません」と言って虚偽の報告をすることなど(=コンプライアンス不遵守)珍しいも のもあります)
科学の歴史
科学は、真理探究と失敗、そして飽くな き真理探究により現在のような「正しい科学的知識」を我々が得ることができる!—— うーん、こんなことは中一レベルまでの素朴な「科学の真理進歩観」といって、今日の科学者は誰も信じません。なぜなら科学の歴史を紐解けば、これまでの科 学者は、真理探究と失敗のほかに、学業不正ならぬ、科学的不正、実験データの捏造、法螺、騙しなどおびただしいことがわかります。また、その時は正しいと 思われた数式や公式が後に改良されたり、まったく異なった見方(例:地動説ver.1.0.→天動説→地動説Ver2.0)を科学者集団が採用するため に、別に間違った意識をもっていなかったにもかかわらず、インチキの体系が明らかに見方になり、新しい真理探究がはじまることがあります。科学の歴史を学 ぶことは、科学の不正の歴史を学ぶことでもあるのです。
宗教ぬきの道徳
これまでの人類の歴史のなかで、久しく 人間の道徳の考え方について教えてくれたのは、ズバリ「宗教」です。世界の大きな宗教には、共通して、人を殺すな、嘘をつくな、人間同士は信頼せよ、不倫 はまずいぞ、などという道徳的基準を示しています。それはそれでよいのですが、困ったことは、それぞれの宗教は独自性をもっているのに、この道徳には共通 性がありますが、その「理由」を説明できないことです。先にあげたカントの義務論は、宗教的な教えぬきに、人と人の間の道徳的普遍性、すなわち「倫理」を 宗教なしに、みずから考えまくって(=これを観念論といいます)、それを読む人に納得できる説明を与えたという点で、洋の東西を問わず、高く評価されてい ます。また、それは、宗教みたいに理屈が教えられないものではなくて、カントの定言命法はじっくり考えれば、その人がどのような宗教をもっていても、その 理解に到達できることが重要になります。というわけで、西洋の倫理学というものは、この宗教ぬきの道徳をいかにひねり出すのかという論理的なガチの格闘と いう面をもっています。それゆえに面白く、これにハマる人も多くいます。そして、それは「なぜカントの格率が正しいといえるのか?」というさらなる宿題を 私たちにもたらしているからです。
オッカムのカミソリ
オッカムは中世の修道僧哲学者の名前 で、オッカムのカミソリとは「真理に到達するためには複数の経路があるだろうが、もっとも『よい説明』とは、それを最短距離で成し遂げることだ」という原 理です。ある現象を説明するのに、3つの公式で説明するよりも、2つの公式で説明できるほうがシンプル(=最短距離)ですし、さらに一つの公式でより多く のことが説明できればもっとよいことになります。君たちの数学の先生はしばしば、授業のなかで「君の証明のやり方はうつしくしいね」と褒めてくれる時、そ の先生は、オッカムのカミソリの原理で、君の問題解法の説明を評価してくださっているからですね。
科学哲学
このように科学の進歩には、その原理を 説明するさまざまな方法があります。それらを総合する学問が科学哲学といいます。科学哲学は、科学の進歩を手放しで喜ぶだけではなく、その進歩がもたらす マイナスの面(例:原子力の平和利用)にも、仮想の質問や状況をぶつけてみて(=それを思考実験という)あらゆる可能性を考えます。これも、やり始めると 複雑ですが、なかなか面白そうとは思いませんか?
宗教と科学
先に「宗教ぬきの道徳」で、道徳が宗教 を使わなくてもよいようになった時点で倫理学が生じた、と言いました。しかし、道徳を説明する面で宗教なしで我々はなんとかいけるようになりましたが、人 間がもつ宗教という現象にはさまざまなものがありますし、また、その深遠さを科学は合理的に説明したとはいえません。科学は人間の幸せを考えるためには、 宗教が提供する豊かな概念と語彙をいまだ持っているとはいえません。ということは、科学と宗教の間にはまだまだ、対話が必要だということになります。かつ て宗教は科学をも制御する大きな人間の知恵の塊でした。それゆえに、人類史のなかで宗教が特定の科学を否定したり禁止することもあります。興味のある人は 「ガリレオ裁判」という言葉を調べてください。
科学の制御
科学の知恵には限界がありませんが、科 学を使う人間は道徳的に問題含みですね。核兵器、殺人ドローン、自白を強要する薬の利用、遺伝子組み替えなどには、科学の進歩がもたらすヤバイ面も多くあ ります。そのため20世紀の後半ぐらいから、ずっと国際社会は、科学者が暴走しないように、倫理的にかなった研究をして、人間およびこの地球の平和のため に、時には科学は抑制する必要があるとおいう合意に到達しています。現在では、科学研究をおこなう人は、このような制御について知り、また、自分でも自覚 する教育がなされています。
研究倫理
いくら人類を幸せにすると言っても、実 験動物で犠牲にする時には、人道的に扱う必要があることは、いまや世界の常識になりつつあります。犠牲動物の苦痛を最小限にし、そこから得られる人類への 貢献を最大にする必要があると言っても過言ではありません。
科学的懐疑主義
科学の歴史で説明したように、科学には つねに不正義やまちがったことをする落とし穴があります。また、これまで正しかった説が覆ることがあります。それを可能にするのは、科学者は、なんでも自 分で正しいと証明したり理解するまでは、いつも未知の問題のように疑ってかかることが重要だと言われています。それを懐疑主義といいます。
科学主義
科 学主義とは、なんでもものごとを科学的合理性で説明し、納得のいくまで調べまくろうという態度のことです。しかし、わかっていることを、不安になってなん どもやってみるという、誤った科学主義もしばしば見受けられます。また、宗教における神秘的な態度を、その当事者と対話することなしに、頭 ごなしに否定して、相手にしないことも誤った科学主義です。では、健全な科学主義とはなんでしょうか?それは、専門家だけにしか知識を占有せず、一般の人 にもわかりやすく説明する努力をして、つねに社会の人を見方につけて、支援してもらう公平で平等な科学主義が、健全な科学主義と言えるでしょう。
世俗倫理
世俗倫理とは、科学の世界の外側で、ふ つうの日常生活で必要とされる倫理的行為とその考え方のことです。ここで重要になる考え方とは、1)世俗倫理と研究倫理は同じ原理で説明できるのか?ある いは、2)世 俗倫理と研究倫理はそれぞれ別物かという、考え方です。現代社会の倫理学者たちは、次のように説明します。たしかに、現場を調べると、2)の現象がしばし ばみられるが、先にいった倫理は「普遍性共通性」をもつほうが、より真理に近いと考えられるので、1)のように統一した説明ができるほうが、より真実に近 いのではないか、そして、もしそれをうまく説明できなかったら、それらの間の「橋を掛けるような」理論で説明するように努力すべきだと。
時代精神(Zeitgeist
Zeitgeistは、ドイツ語でツア イトガイストと発音します。ある時代の哲学や文学、芸術における支配的な、すなわち多くの人たちが今日にもつことが多いココロのあり方や特徴のことを指し ます。この時代精神とは、別の時代精神が到来したときには、前の時代のそれは何だったんだろうという気持ちになります。つまり、それぞれの時代精神の中で は、人は、支配的なココロのあり方に縛られて、他も可能性が見えない(=理解できない)ことですが、同時に、それは今自分たちが当たり前と思っている常識 も、別の時代には非常識になるかもれない、と私たちに気づかせてくれました。その意味で、時代精神はそれぞれの時代に固有のものであるが、それを事後的に 複数並べることで、物事に熱中しすぎで周りのことがみえなくなることを防ぐという、役にたつこともあります。

そして研究倫理への道

研究倫理とは,研究活動が何らかの社会性 をもち,かつその成果が社会に影響を与える時に,社会がその成員とりわけ科学者集団に対して,何らかの 規範を与えて,それを適切に制御することを意味します。通常,人が考えたり,研究したりすることは,研究する人の独自で自由な活動であり,それが外部から 何らかのかたちでコントロールされることは,一見理不尽なことと思われます。しかし,研究が社会の他の成員に何らかの危害を及ぼすことは,その量や数の多 寡,その質の多様さにかかわらず,常に起こりえるのです。研究倫理は,そのような危険性に対する介入であるので,なんらかの未来予測や,それを踏まえた 「危害の予防」が必要になります。さらに,研究が「人類を幸せにする」という社会的使命を標榜し,社会から承認され研究費や声援——モラルサポート——を 受けている場合においては,研究倫理上の規範を,研究者自身あるいは研究集団が作り,それを遵守し,その姿勢を社会に示してゆくことは、いままでそうでし たし、今後も続いてゆくでしょう。

研究倫理を習得するために特別の奥義—— とっておきの秘密の知識や技法——があるわけではありません。単純に次の3つの約束について考えてみま しょう。つまり、A.研究者どうし信頼すること。B.専門家に与えられた規範を遵守すること。C.公衆に奉仕すること、です。これらは経験的に研究倫理上 の公理(axiom)を構成します。

では、なぜそれが重要なのでしょうか?そ のことを考える近道(=オッ カムのカミソリ)は、この3つのうち一つでも欠けてしまったり,逆のことが おこったりすると研究上の倫理が保証できなくなると考えられているからです。つまり、Aがないと.研究者間での疑心暗鬼のみならず,研究者に対する社会的 信頼がなくなってしまう。Bがないと.嘘や不正(あるいは不正確)な情報が社会に流布する余地を作ってしまう。そして、Cがなくなると.人々に害が及び, 研究の実践および研究の成果を社会が承認してくれなくなる、からです。

さて、このことを踏まえて「研究倫理入門」を勉強しましょう。これらは 自分自身で勉強できるように工夫がこら されています。ここでは、理解にもとづいて、自発的に勉強することが、勉強のための倫理に適っているとみされています。

レクチャーは以上です。

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