On
misleading Kantian Ethics
01. カントのデオンロジー(義務論)というのはとてもダイナ
ミックなものである
標準的な『実践理性批判』の読み方とは、人間は合理的な道徳律に従うことができるが、同時に肉体的な欲望(=カントは「非合理だ」と考え
る)により、道徳律から離反しやすいものだという。そのために、カントに従うと、人間が道徳的にふるまうのは常に闘争そのもの(=アニメ漫画の天使と悪魔
の葛藤を思い出してほしい)である。人間は「道徳律を尊重する感情」——これがクセもの——を除いて、欲望を抑圧して、この闘争に勝利しなければならな
い。そのために、道徳律は、それ自体で、我々に義務として押し付けてくるものだ、というものだ。他方で、『判断力批判』が提示する、美的評価においては、
人間の理性が要求するのは(道徳律をめぐる)闘争的なものではなく、「悟性」——感覚対象に対してこれを構成する能力——と想像力の調和的統一を含むよう
なものとしての「美的評価」を描いた。つまり、カントでは理性が我々に要求するダイナミクス(動態)が『実践理性批判』と『判断力批判』では異なるのであ
る(→「人倫の形而上学の基礎づけ」)。
02. フリードリヒ・フォン・シラーの『判断力批判』批判
シラー「人間の美的教育について(Über die ästhetische Erziehung des Menschen, 1795)」では、シラーもまた「悟性(Verstand)」——感覚対象に対してこれを構成する能力——と想像力の調和的統一を含むよう なものとしての「美的評価」を採用する。だが、『実践理性批判』のように人間の本性を、理性(=道徳律)と情念(=肉体的な欲望)のせめぎあいとしてみるのは「敗北主義」だと批判する。シラーは古代ギリシ アでは(理性と悟性のあいだの)そのような統一的調和があったので、美的感覚の復権が、道徳的判断の葛藤を回避できるのではないかと考えた。今からみれば ずいぶん、ナイーブな発想であるが、『実践理性批判』と『判断力批判』の統一的読解を提示した点では、カントよりもカント的である。(→ヘーゲル『大論理 学(Wissenschaft der Logik)』)
03. ジジェクの『実践理性批判』の読 みには、理性をして道徳律に従わせる力を、ヘーゲル流の「法」の概念をもちいて説明する
「カントの倫理学に対する標準的な誤読は、カントの倫理学を次のような理論へ還元してしまう。その理論とは、行為の倫理的特徴を判断する唯 一の 基準として主体の意図という純粋な内面性を措定するものであり、そこではあたかも、真の倫理的行為と単なる法的行為との差異は主体の内面的姿勢にのみ関 わっているかのようなのだ。すなわち、法的行為において、私はパトローギッシュな配慮(罰への恐怖、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛……)から 法に従うが、もし私がただ純粋に義務を尊重することから同じ行為を行うのなら——もし義務がその行為を成し遂げる私の唯一の動機であるならば——同じ行為 は本来的な道徳的行為にもなりうる、というわけである」(ジジェク 2002: 202)。
「この意味からいえば、本来的な倫理的行為は、二重に形式的である。つまり、倫理的行為は、ただ法の普遍的形式に従うだけではなく、この普 遍的 形式がその行為の唯一の動機でもあるのだ。しかし、もし法の新たな「内容」そのものがそうした形式のあらたな二重化からのみ現れうるとしたら、どうだろう か。もし(形式的な法的規範の)形式主義の枠組みを現実にうち破る真に新しい内容が、形式の自己反省性を通じてのみ現れうるとしたら、どうだろうか。つま り——法とその侵犯という観点からいえば——倫理的行為とは、まさに法的規範の侵犯である。それは単なる法律違反とは対照的に、法的規範を破るだけはな く、法的規範とは何であるかをあらためて定義し直す侵犯行為である。道徳律は〈善〉に従うものではない。それは、〈善〉とみなされるものの新たな形態をつ くりだすのである」(ジジェク 2002: 202-203)。
「したがって、行為は、あらゆる合理的な基準をのがれる不合理な身振りという意味で「底知れぬ」ものなのではない。行為は、普遍的で合理的 な基 準によって判断されるべきものだし、されうるものである。重要な点は、行為は自らが判断される際の基準そのものを変える(作り直す)、ということにすぎな い。ひとがある行為を成し遂げるときに「適用」できるような、あらかじめ定まった普遍的で合理的な基準など存在しないのである」(ジジェク 2002: 203)。
04. ムーアのカント倫理学批判は、もっと単純に言語の語用論的解釈に由来する
ムーアは、カント流の倫理学、すなわち人間存在において 「なに なにである(be)」という事実から、「なになにすべきである(ought)」を 導くようなやり方を、自然主義的誤謬であると批判したその人である。ムーアのカント批判はこのページの引用者にとってはまったく妥当な主張であり、また、 「ムーアのパラドックス」にウィトゲンシュタインが気づいたことも、共にさすが自然主義 的誤謬を指摘した哲学者たち、ならでは指摘であると思いました。(→「自然主義的論法に ついて」)
番外. 『判断力批判』第1部の誤読につ いて
冒頭にひっぱってきたこの Guy Bourdin (1928-1991) の写真作品の京セラ美術館(京都市美術館)のサイトのスレに、この写真の作品が「きもちわるい」とか「わかんない」という
コメントを寄せていた市井の人がいた。それでいいのです。その蓼食う虫も好き好きを「容認」するポイントが、カント『判断力批判』第1部のテーマなんです
ね。「きもちわるい」人でも、そんな趣味の人がいることを、人は承認している。ここが美的判断の多様性に道を開いているので、ハンナ・アーレントが、それこそが政
治的判断だと喝破(ないしは異様解釈)するところなんです(出典:https://bit.ly/3s5Gqq5)。
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