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ジジェク派による根源的悪レクチャー

Lecture on Zezekian Radical Evil

池田光穂

根源的な〈悪〉に対するジジェクのレクチャーとコメンタリー

★"Radical evil (German: das radikal Böse) is a phrase used by German philosopher Immanuel Kant, one representing the Christian term, radix malorum. Kant believed that human beings naturally have a tendency to be evil. He explains radical evil as corruption that entirely takes over a human being and leads to desires acting against the universal moral law. The outcome of one's natural tendency, or innate propensity, towards evil are actions or "deeds" that subordinate the moral law. According to Kant, these actions oppose universally moral maxims and display self-love and self conceit.By many authors, Kant's concept of radical evil is seen as a paradox and inconsistent through his development of moral theories." https://en.wikipedia.org/wiki/Radical_evil

★「根源的な悪(ドイツ語:das radikal Böse)とは、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが用いた言葉で、キリスト教用語のradix malorumを 表す言葉である。カントは、人間には生まれながらにして悪の傾向があると考えた。彼は、根本的な悪とは、人間を完全に支配し、普遍的な道 徳法則に反して行動する欲望へと導く堕落であると説明する。悪に向かう自然的傾向、すなわち生得的傾向の結果は、道徳律に従属する行為、すなわち「行い ("deeds")」 である。カントによれば、これらの行為は普遍的な道徳法則に反し、自己愛と自惚れを示すものである。多くの著者は、カントの急進的な悪の概念は逆説であ り、彼の道徳理論の発展を通して矛盾していると見ている。」

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【根源的〈悪〉:01】
象徴的な傷が〈悪〉の 究極のパラダイムであるかぎりにおいて、同じことが〈悪〉と 〈善〉のあいだの関係にもまた当てはまる。根源的〈悪〉は、空虚な言葉が、充満した言 葉のために空間を開くのとまさに同じ仕方で、〈善〉のための空間を開く。われわれがこ こでまのあたりにしているのは、もちろん、カントがその『理性の限界内の宗教』で初め て定式化した「根源的〈悪〉」の問題である。カントによれば、人間のうちに〈善〉へと 向かう彼の性向に逆行する実定的な力が現前していることの究極の証拠となるのは、主体 が彼自身のうちなる道徳〈法〔則〕〉を、彼の自尊心や自己愛を踏みにじる耐えがたいト ラウマ的なプレッシャーとして経験することである。つまり、〈自己〉の本性そのものの うちにある何かが道徳〈法〔則〕〉に抵抗するのでなければならない、いいかえるならエ ゴイスティックで、「病理的」な傾向を、道徳〈法〔則〕〉にしたがおうとする性向より も優位に置く何かが存在するのである。カントは、〈悪〉に対するこの傾きのア・プリオ リな性格を強調している(これは後にシェリングによって展開される契機である)。私が 自由な存在であるかぎり、私は、私のうちで〈善〉に抵抗する何かをただ単に客体化する ことはできない(たとえば、それは私には責任のとりようのない私の本性=自然の一部で あるということによって)。私が自分の悪に対して、道徳的に責任があると感じるという、 まさにその事実こそが、私が非時間的な超越論的行為において〈善〉よりも〈悪〉のほう を好む性向を与えるというかたちで、自分の永遠の性格を自由に選んだに違いないという ことを証拠立てているのである。これがカントが考えるところの「根源的〈悪〉」である。 それは、あるア・プリオリなのであって、人間本性の、〈悪〉へと向かう経験的-偶然的 な性向にすぎないものではない。しかしながら、「悪魔的な〈悪〉」の仮説を退けることで、 カントは根源的〈悪〉の究極の逆説から後退してしまっている——その内容に関しては 「悪」であるにもかかわらず、倫理的な行為の形式的基準を完全に満たしてしまうような 行為の不気味な領域から。そのような行為はいかなる病理的な考慮によっても動機づけら れていない、つまりその唯一の動機づけの根拠は原理としての悪であり、それゆえに自分 の命を犠牲にすることさえ厭わぬほどの、自分の病理的な関心=利害の根源的な破棄を遂 行することができるのである。pp.184-
・カントは、人間には〈悪〉を感じる何かがあると確信している。それだからこそ、人間は道徳(=倫理)や法というものを受容する心のどこかにスペースがあると考えるのである。
・根源的悪とは、「私が自分の悪に対して、道徳的に責任があると感じるという、 まさにその事実こそが、私が非時間的な超越論的行為において〈善〉よりも〈悪〉のほう を好む性向」の存在を認めざるをえない。そのような心のあり方が、カントのいう「根源的悪」なのである。
・「根源的悪」とはアプリオリであり、性善/性悪という性向の問題ではない。
・この世に、残虐なもの、自らの悪により滅びるものが存在すること自体が、このアプリオリ性を支えている。
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【根源的〈悪〉:02】

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のことを思 い起こそう。コメンダトーレ(騎士 長)の石像との最後の対面の場面で、ドン・ジョヴァンニは、彼の罪深い過去を悔い改め、 否認することを拒むとき、根源的な倫理的な立場としか呼ぶ以外にはない何かを完成させ るのである。そのときの彼の頑強さは、カント自身が『実践理性批判』で挙げた、代償が 絞首台であると知るや否やすぐさま自分の情熱の満足を断念する覚悟を決めるリベルタン という例を、嘲笑いながら転倒させるかのようなのだ。ドン・ジョヴァンニは、彼を待ち 受けているものが、ただ絞首台のみであって、いかなる満足でもないということをはっき りと知っているまさにそのときに、自らのリベルタン的態度に執着する。つまり、病理的 な利害の立場からするなら、なすべきことは改悛の身振りをかたちばかりしてみせるとい うことであったはずだ。ドン・ジョヴァンニは死が近いことを知っている、したがって自 らの行いを悔い改めたところで失うものは何もなく、ただ得るばかりである(つまり、死 後に責め苛まれることを避けることができる)。しかし、彼は「原理にしたがって」リベ ルタンの反抗的なスタンスを一貫させることを選ぶ。石像に対する、この生ける死者に対 する、彼の不屈の「ノー」を、その内容が「悪」であるにもかかわらず、非妥協的な倫理 的態度のモデルとして経験しないことなど、どのようにしてできようか。pp.186-
・倫理という有無を言わさない強制性(→「イデオロギーとしての倫理」)
ドン・ジョバンニと絶対悪.
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【根源的〈悪〉:03】
もしもわれわれがこのような「悪」である倫理的 態度の可能性を受け入れるとするなら ば、根源的〈悪〉を、〈善〉への性向と同様に主観性の概念そのものに内属するものとだ け捉えるのでは不十分である。さらにいま一歩歩みを進めなければならず、根源的〈悪〉 を〈善〉に存在論的に先立って、それ〔〈善〉〕のための空間を開く何かとして捉える必要 がある。いいかえるならば、正確なところ〈悪〉とは何であるのか。〈悪〉とは、「死の欲 動」に対する別名、つまりわれわれの通常の生の循環を脱線させてしまう〈モノ〉への固 着に対する別名なのだ。〈悪〉によって、人間は動物的な本能のリズムから自らを引き剥 がす。つまり、〈悪〉は「自然」な関係に対する根源的な転倒を導入するのである。した がってここにおいて、カントとシェリングの標準的な定式の不十分さが明らかになる。こ の定式は、人間の選択の自由のうちに、〈悪〉の可能性が基礎づけられるものとしている。 その自由によって、人間が彼の超感性的な本性を利己主義的な性向に従属させることで、 理性の普遍的諸原理と彼の病理的な本性〔自然〕との「正規の」関係をひっくり返すこと ができるというのである。ヘーゲルが『宗教哲学講義』において、人間への生成の行為、 動物から人間への移行の行為を、まさに罪への〈堕落〉として捉えるとき、彼はより一層 深い洞察を示している。〈善〉の可能性の空間は、有機的実体的な〈全体〉のパターンを 破壊する根源的の原選択によって開かれるのである。〈善〉と〈悪〉のあいだの選 択は、このように、ある意味では真の根源的な選択ではない。真の意味で第一の選択とは 自分の病理的な性向にしたがうこと(とあとで認識されること)と、根源的な〈悪〉を選 ぶことのあいだの選択である。すなわちその選択とは、生の循環を宙吊りにするという純 粋に否定的な身振りによって、病理的な自然な衝動の支配を克服して、〈善〉のための 「場所をつくる」、自殺的利己主義の行為である。あるいは、キルケゴールのいいまわしを 借りるなら、〈悪〉とは「生成状態にある」〈善〉それ自体である。それは、生の循環の根 源的な破砕として「生成する」。〈善〉と〈悪〉のあいだの差異は、「生成状態」から「存 在状態」への、純粋に形式上の転回に関わっている。これが、「おまえを傷つけた槍だけ がその傷を癒すことができる」ということである。傷は、〈悪〉の場所が「善の」内容に よって満たされるときに癒される。「〈モノ〉の(つまり、根源的〈悪〉の)仮面」(ラカ ン)としての〈善〉は、このように失われたバランスを再び確立しようとする、存在論的 には2次的で代補的な目論見なのである。社会領域でのその最良の範例は、社会を調和的、 有機的で、敵対関係のない構造体として(再び)構築しようとするコーポラティスト〔共 同団体主義者〕の試みであるといえよう。pp.187-
・根源的な悪を、自らの自由意思で選び取ること。
・「おまえを傷つけた槍だけ がその傷を癒すことができる」ワーグナー「パルジファル
〈善〉と〈悪〉のあいだの選 択は、このように、ある意味では真の根源的な選択ではない
〈悪〉とは「生成状態にある」〈善〉それ自体である
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【根源的〈悪〉:04】
ヘンリー八世が自分の離婚を承認するように求め て圧力をかけてきたのに対して抵抗し たカトリックの聖人、トマス・モアのことを思い起こせば十分だろう。今日のわれわれに とって、彼のことを「時勢におもねらない人物」として称賛し、厳正さに対するその不屈 の精神と、その代価が自分の命であるにもかかわらず自分の信念を守りぬいた態度に感嘆 することはたやすい。より困難なのは、彼の頑なな態度が、彼の同時代人の大多数に対し て与えたにちがいない衝撃がどのようなものであったかを想像することである。「共同体 主義的 communitarian」な立場からするならば、彼の厳正さは、社会体の生地を切り 裂き、王権の安定を、それゆえ、社会秩序全体の安定を脅かすという意味で「」である ような、そんな「不合理」で自己破壊的な身振りだったといえる。したがって、トマス・ モアの動機が疑いようもなく「善」なるものであったにしても、彼の行為の形式的構造そ のものは「根源的に悪」だったのである。彼の行為は共同体の〈善〉をないがしろにする、 根瀕的反抗の行為だったのである。このことはキリストその人にも、同様に当てはまるの ではないだろうか彼の行動は、伝統的なヘブライ共同体にとっては、その生活の基礎 づけそのものの破壊と映っていたのだから。キリストが来たのは、「分かっためにであっ て、統一するためにではない」のではなかったか、息子を父に刃向かわせ、兄弟どうしを 敵対させるためではなかっただろうか。pp.188-
トマス・モア
コミュニタリアニズム(共同体主義)
・「
・トマス・ モアの動機(個人主義)〈対〉ヘンリー8世(コミュニタリアニズム)
・イエス・キリスト(個人主義)〈対〉ヘブライ共同体(コミュニタリアニズム)
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【根源的〈悪〉:05】
いまやわれわれは、その諸述語へと移行すること によって、いかにして「実体は主体 〔主語〕となる」のかが理解できる。資本主義の例を取り上げて見よう。前資本主義的な 団体的社会の観点からするならば、資本主義とは悪であり、破壊的なものである。資本主 義は前資本主義的な閉鎖経済の微妙なバランスを崩してしまうのであるしかし正確な ところ、なぜそうなのか。それは資本主義が、一種のヒュブリス〔傲慢〕に取り憑かれて 狂ったように走り回り、自らを〈目的それ自体〉にまで持ち上げてしまう「述語」という ものの一例——社会的全体性の二次的で従属的な契機(貨幣)——を提示しているからで ある。しかしながら、ひとたび資本主義が、自己再生産の循環の新しいバランスを達成し、 それ自身の媒介する全体性となるや、いいかえるならば、資本主義がそれ自身を「自分自 身の諸前提を措定する」システムとして確立するや、「〈悪〉」の場所は根底的にその位置 を変えるのである。いまや、「悪」とみなされるのは、かつての〈善〉の残滓にほかなら ないー〈資本〉という〈善〉のこの新しい形式の円滑な循環をかき乱す、前資本主義の 抵抗の小島である。実体という内的な本質が、それ自身を疎外化し、ついでその「他 者性」を、自己媒介化によって内在化するという、「弁証法的過程」についての標準的な イメージは、これまで見てきたように、とんでもなくひとを誤らせるものである。脱線し た過程を最後に再び「全体化」する実体は、最初の脱線によって解体される実体と「同じ もの」ではないのである。新たなバランスが達成されるのは、もともとは有機的全体性の 従属的な契機であったものが、それ自身を新しい普遍性の媒体として、媒介する新たな全 体性として確立するときなのである。当初、疎外されない実体的統一性であったものが、 「脱疎外化」において「それ自身へと回帰する」のではない。そうではなくて、最初の統 一性においては部分的でしかなかった要素から成長した新しい全体性の従属的契機へと、 それ〔最初の統一性〕は変化しているのだ。pp.189-

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【根源的〈悪〉:06】
〈悪〉を選ぶ可能性が主観性の概念そのものに内 属しているのだというテーゼは、一種の 自己反射〔自己反省〕的な転倒によってラディカル化されなければならない。そのものと しての主体のステイタスは悪なのである、つまり、われわれが「人間」であるかぎりで、 ある意味では、われわれはつねに-すでに、〈悪〉を選んでしまっているのである。ヘー ゲルヘの直接の参照以上に、「否定の否定」のこの論理を具体化するレトリックの特性を 示すことによって初期ラカンのヘーゲル的立場を確認することができる。たとえば、フラ ストレーションを耐える能力としての自我の「成熟」という、自我心理学上の概念に対す るラカンの応答は、「自我なるものは、その本質においてフラストレーションである」と いうものである。自我というものが、同時に自分のライヴァルであり、潜在的には自分の パラノイア的な迫害者であるような、自分の鏡像的分身との想像的な同一化によって出現 するのであるかぎり、鏡像的分身の側から生み出されるフラストレーションこそが、自我 を構成するのである。この転倒の論理は、厳密にヘーゲル的である。自我が満足を得よう として行う努力を妨げ、フラストレーションを引き起こす障害として、最初、現われたも のがすぐに、その〔自我の〕存在の最終的な支えとして経験されてしまう。pp.190-
・インディヴィデュアルは悪:主体のステイタスは悪なのである、つまり、われわれが「人間」であるかぎりで、 ある意味では、われわれはつねに-すでに、〈悪〉を選んでしまっているのである
「自我なるものは、その本質においてフラストレーションである」と いうものである
・自我というものが、同時に自分のライヴァルであり、潜在的には自分の パラノイア的な迫害者であるような、自分の鏡像的分身との想像的な同一化によって出現 するのであるかぎり、鏡像的分身の側から生み出されるフラストレーションこそが、自我 を構成するのである。
・自己というものを持つ限り、悪からは逃れられない。
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【根源的〈悪〉:07】
ジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』は、普 通はノスタルジックなキッチュとして おとしめられているが、倫理的態度としての〈悪〉を、ノスタルジーのまなざしそのもの のうちに位置づけている。画面にかぶさる声によって導入される、フラッシュバックの語 りにおいて、ウエールズの炭鉱町からアルゼンチンに向けて出発しようとしている主人公、 ヒュー・モーガンが、家父長的な大家族という安全な避難所に守られた彼の牧歌的な子供 時代を回想している。「進歩」によって破滅させられた幸福な過去のこの光景に、彼のま なざしは取り憑かれている。閉鎖的なコミュニティでの生活、そこでは、日々の仕事が儀 礼の地位を獲得している(竪坑での仕事を終えての帰宅、土曜日の家族でのランチ)、そ ういった光景に。まさにこの点において、このフィルムは観客に罠をかける。物語をヒュ ーのパースペクティヴから語っているために、「緑の谷」の衰退の真の原因が巨大な経済 的宇宙の抗いがたい論理にあるのではなく、炭鉱夫たちのコミュニティが自分たちの伝統 的生活様式に耽溺していたことにこそあるのであり、それが新しい時代の要求に彼らを合 わせることを妨げたのであるという決定的な真実が、あまりに可視的になると同時に包み 隠される。いいかえるならば、衰退に対する責任、〈悪〉の真の源泉は、この物語が語ら れる視点、外在的な〈運命〉の決定的なインパクトしか〈悪〉の源泉として知覚できない ノスタルジックな視点そのもののうちにあるのである。ここで問題なのは、それゆえ、物 語が語られるパースペクティヴそのものを問題化し、「疎遠なものとする」ようなフィル ムのユニークな一例なのである。 pp.191-
物語をヒュ ーのパースペクティヴから語っているために、「緑の谷」の衰退の真の原因が巨大な経済 的宇宙の抗いがたい論理にあるのではなく、炭鉱夫たちのコミュニティが自分たちの伝統 的生活様式に耽溺していたことにこそあるのであり、それが新しい時代の要求に彼らを合 わせることを妨げたのであるという決定的な真実が、あまりに可視的になると同時に包み 隠される
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【根源的〈悪〉:08】
なぜ、それでは、カントは根源的〈悪〉について の彼のテーゼの諸帰結すべてを明らか にすることを差し控えたのだろうか。その答えは、逆説的ではあれ明白である。この動き を妨げるものは、根源的〈悪〉のテーゼの定式化をまず第一に彼に強いる論理そのものな のである。つまり、「現実的対立」の論理であり、モニク・ダヴィド=メナールが示唆す るように、それはカントの思考の究極の幻想の枠組みを構成しているのである。〈善〉と 〈悪〉とを対立物として、二つの対立する実定的な力として捉えることで、カントは、実 定的な存在論的一貫性〔無矛盾性〕を欠いたものとしての〈悪〉、つまり、〈善〉の単なる 不在としての〈悪〉という、〈悪〉についての伝統的な概念(この概念の最後の偉大な支 持者はライプニッツである)を切り崩すことをもくろんでいる。もしも〈善〉と〈悪〉と が対立物であるなら、〈善〉に対立するものは何か実定的な対抗力であるはずであって、 われわれのただの無知、われわれの〈善〉の真の本性に対する洞察の欠如ではないはずで ある。このような反対力の実在の証拠となるのは、私は自分の自己同一性の核そのものに 対して耐えがたい圧力をかけ、そうすることで私の自尊心を完膚なきまでに打ち砕く、ト ラウマ的な審級として私のうちなる道徳〈法〔則〕〉を経験するという事実であるそ れゆえ、「私」の本性そのもののうちに、道徳〈法〔則〕〉に抵抗する何か、すなわち、 「病理的」な利害を道徳〈法〔則〕〉よりも選好するという思い上がりがあるに違いない。 このことはカントが「根瀕的〈悪〉」をどのようなものと捉えていたかを示している。つ まり、あるア・プリオリな、ただ単に経験的ー偶然的なのではない、人間本性の性癖とし てである。それは自分自身を三つの形式、度合いにおいて表現するのであり、そのどれも が、主体の一種の自己欺瞞によって支えられている。pp.192-
・カントは根源的〈悪〉について の彼のテーゼの諸帰結すべてを明らか にすることを差し控えたのだろうか。
〈善〉と 〈悪〉とを対立物として、二つの対立する実定的な力として捉えることで、カントは、実 定的な存在論的一貫性〔無矛盾性〕を欠いたものとしての〈悪〉、つまり、〈善〉の単なる 不在としての〈悪〉という、〈悪〉についての伝統的な概念(この概念の最後の偉大な支 持者はライプニッツである)を切り崩すことをもくろんでいる
・ このことはカントが「根瀕的〈悪〉」をどのようなものと捉えていたかを示している。つ まり、あるア・プリオリな、ただ単に経験的ー偶然的なのではない、人間本性の性癖とし てである。それは自分自身を三つの形式、度合いにおいて表現するのであり、そのどれも が、主体の一種の自己欺職によって支えられている。(=根源的悪は人間の必然?)
主体の一種の自己欺瞞
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【根源的〈悪〉:09】
〈悪〉の第一の、最も穏やかな形式は、「人間本 性の弱さ」への訴え掛けを通じて自己を 表現する。私は自分の義務が何であるかを知っている、私はその義務を完全に承認してい る、しかし私はその呼び掛けにしたがい、「病理的」な誘惑に屈せぬほどには強くないの だというわけである。このポジションの誤りは、もちろんその底にある自己客体化の身振 りにある。私の性格の弱さは、私の所与の〔持って生まれた〕本性の一部ではない。私の 本性が何を許容しているのかを確証することができるような、メタ言語のポジション、自 分自身の客観的な観察者のポジションに立つ権利は私にはないのだから。私の「自然な傾 向性」が私の行動を決定するのは、自由で、自律的な存在として私がそれを承認するかぎ りにおいて、それに対して私が一切の責任を負うかぎりにおいてである。この責任こそ 〈悪〉の第一の形式が回避するものなのである。pp.193-
・悪〉の第一の、最も穏やかな形式は、「人間本 性の弱さ」への訴え掛けを通じて自己を 表現する。私は自分の義務が何であるかを知っている、私はその義務を完全に承認してい る、しかし私はその呼び掛けにしたがい、「病理的」な誘惑に屈せぬほどには強くないの だというわけである。
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【根源的〈悪〉:10】
第二の形式は、比べものにならないほど危険であ るのだが、第一の形式の転倒を行う。 〈悪〉の第一の形式では主体は、自分の義務が何であるのかについての十分な概念をもち ながらも、自分にはそれを実行する能力がないことを告白するのであった。ところが、こ の第二の形式では主体は、実際には病理的な動機づけによって導かれているのにもかかわ らず、義務のために行動し、ただ倫理的関心にのみ動機づけられていると主張するのであ る。典型的な例は、実際には自分のサディスティックな衝動を満たしているだけなのに、 子供たち自身の道徳的な向上に資するものと自らは信じて生徒をいじめる厳格な教師であ る。この自己欺職は第一の形式よりも深い、というのは主体が誤認しているのは義務の輪 郭そのものなのだから。pp.194-

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【根源的〈悪〉:11】
第三の最悪の形式は、特殊な道徳的な作用因とし ての義務に対する内的感覚、内的な関 係の一切を主体が失ってしまい、道徳を利己的な「病理的」利害の追求を抑制するために 社会が設けた単なる外在的なルールの一式、障害物の一式としか捉えなくなってしまうと いうものである。このようにして「正しい」「間違い」という概念そのものがその意味を 失う。主体が道徳的ルールにしたがうとしても、それは、ただ単に苦痛を与えるその諸帰 結を回避するために過ぎない。しかしもしも、彼が捕まることなく「法を曲げることがで きる」なら、彼にとってはその方がずっといいのだ。この態度をとる主体が、何か残酷な、 あるいは不道徳なことをしたといって非難されるときによく用いるいいのがれは、「法を 破ったわけじゃない。難癖をつけるのはやめてくれ!」というものである。pp.194-

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【根源的〈悪〉:12】
しかしながら、カントによっては排除されている 第四の可能性がある。彼が「悪魔的 〈悪〉」として言及しているものの可能性である。それは、〈悪〉がその反対物の形式をと るとき、つまり〈悪〉がもはや〈善〉に外在的に対立するのではなく後者〔〈善〉〕の形式 の内容になるときのヘーゲル的な矛盾の契機である。この「悪魔的〈悪〉」をカントの第 二の形式と混同しないように注意しなければならない。第一一の形式の場合も、〈悪〉が 〈善〉の形式をとる。しかし、そこで問題になるものは、病理的な動機づけの単純な例に 過ぎない。それは、自己欺覇によって自分自身が義務を果たしているものと誤認している のである。それに対して、「悪魔的〈悪〉」の場合、私の活動を促すものは、実際には「非 病理的」であり、私の利己的な利害に抗うものなのだ。ここで思い浮かぶのは、右翼の腐 敗した権威主義体制と左翼の全体主義との違いである。右翼権威主義体制の場合、誰も蝙 されてはいない。愛国主義的レトリックがその背後に隠しているのは権力と富へのあさま しい欲望であるということを誰もが知っている。それに対して、左翼全体主義者を、徳の 衣の下に隠された利己的な利害の一事例としてかたづけてしまってはならない。なぜなら 彼らは本当に、自分たちが徳であると考えるもののために行動しているのであり、すべて のものを、彼ら自身の生命も含めて、その徳のために危険にさらす覚悟なのだから。その 典型的な例がジャコバンの「徳の独裁」であるのは、もちろんアイロニーである。カント は政治的にはジャコバン派に対立していたにもかかわらず、その道徳哲学において彼らに 基礎づけを与えてやったのである(カントの倫理が持つこのテロリズム的ポテンシャルを 最初に見破ったのはヘーゲルである)。それゆえ、カントには「悪魔的〈悪〉」を除外する に足る理由があったのである。彼の哲学を構成する変項のうちで、それ〔悪魔的〈悪〉〕 は〈善〉と区別しえないのだから!pp.195-

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【根源的〈悪〉:13】
ということで、われわれの議論を要約するとこう いうことになるだろう。道徳的な闘争 が、互いに相手を消滅させようとする、二つの対立する実定的な力のあいだの闘いである とすると、その力のうちのひとつ——〈悪〉——が、他方と、それを消滅させようと努力 しながら対立しているばかりではなく、それを内側から、まさに反対物の形式をとって切 り崩そうとしている、ということが考えられなくなってしまう。カントがこの可能性に接 近するとき(実践哲学においては「根源的〈悪〉」、法理論においては君主に対する裁判) はいつでも、彼はすぐさまそれを思考不可能なものとして、究極の嫌悪の対象としてかた づけてしまう。ただヘーゲルの否定的自己関係化の論理によってのみ、このステップは完 成させられるのである。p.196

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【根源的〈悪〉:14】
カントが「悪魔的〈悪〉」と呼ぶもの(倫理的原理としての悪)はカントの「根源的 〈悪〉の概念の必然的帰結であるということの証明、つまり、カントが「悪魔的〈悪〉」の 仮説を拒むとき彼自身の発見の諸帰結を回避しているのであるということの証明は、カン ト自身によって与えられている。『理性の限界内の宗教』で、カントは、本当に悪い人物 に関して、〈悪〉は彼の永遠の性格そのものに属しているのだと指摘している。この人物 は悪い環境の影響のもとで〈悪〉に走ったというのではない。〈悪〉は彼の「本性」その もののうちに存する。同時に、もちろん、彼は——他のすべての人間と同じく——自分の、 「性格」に対して根源的に責任を負う。これが必然的に含意しているのは、ある「永遠の」、 無時間的な、超越論的行為において、彼は〈悪〉を自分の存在の根本特徴として選んだに ちがいないということだ。この行為の超越論的でア・プリオリな性格が意味するのは、そ れが病理的な環境によって動機づけられたはずがないということである。〈悪〉の根源的 選択は純粋に倫理的な行為、〈悪〉を倫理的原理にまで高める行為でなければならなかっ たのである。p.197





ドン・ジョバンニと絶対悪

リ ンク

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