イデオロギーとしての倫理
Ethics
as Ideology
イデオロギーとしての倫理を検討 することは、倫理を 載せる乗り物である主体の同一性(アイデンティティ)を相対化する試みのことである。イデオロギー(ideology)とは「ある特定の観念についての理 論体 系」のことであり、それが明文化されていようがいまいが「観念に権威を与え、理解し、それに 基づいて何かの実践を引き出すことができるもの」とここでは定義することができる。したがって、イデオロギーはその渦中にいる人にとって は良い/悪い、 正しい/間違っているという価値の判断を(とりわけ深く考えなくても)もたらすことができる。善悪についても、論者によっても時代や社会環境においても多 様性がある。したがって、イデオロギーの定義は、現在では主要な思想家の数だけあると言っても過言ではない。
以下は、Alain Badiou, L’éthique, essai sur la conscience du mal, Paris, éd. Hatier, 1993 (réédition NOUS, Caen).[pdf]./ アラン・バディウ『倫理:「悪」の意識についての試論』長原豊・松本潤一郎訳、河出書房新社、2004年、の書物の検討である。
目次:アラン・バディウ『倫理』 |
1.人間は実在するか?
L'HOMME EXISTE-T-IL ? |
2.他者は実在するか?
L'AUTRE EXISTE-T-IL? |
3.倫理——ニヒリズムの形象
L'ÉTHIQUE, FIGURE
DU NIHILISME |
4.諸真理の倫理
L'ÉTHIQUE DES VÉRITÉS |
5.〈悪〉の問題 LE
PROBLÈME DU MAL |
1.人間は実在するか?
2.他者は実在するか?
3.倫理——ニヒリズムの形象
4.諸真理の倫理
5.〈悪〉の問題
+++++
バディウは、生命倫理や、安楽死/優生学がもたらす
「倫理」を批判するが、複数の真理の倫理の概念は擁護する。つまり、倫理概念は温存させて、その定義を転換しようとするように思われる。そこで問題化されるのは、通俗化された「他者への寛容」「生命-倫理」「根源的悪」などである(→「使徒パウロ」)
1.人間は実在するか?
2.他者は実在するか?
3.倫理——ニヒリズムの形象
4.諸真理の倫理
5.〈悪〉の問題
+++++
【テキスト邦訳】
「私たちは、「倫理という」イデオロギーとその社会化された亜種、すなわち人権の教義、〈人間〉を犠牲者と捉えるものの見方、人道的介入、生-倫理、「混
乱に陥っている民主主義原則」、さまざまな差異の尊重にもとづく倫理、文化相対主義、道徳という姿を採って現れた異国趣味などへの、根源的な批判から出発
した」
「私たちは、この時代における倫理をめぐる知的諸傾向が、せいぜいモラリスト的で宗教的な布教の亜種、最悪の場合は保守-保全主義と死の欲動の恫喝的な混
請であることを明らかにした」
「絶えることなく「倫理」を喋々する世論の流れに、私たちは、人間という種を人間もまた同類である生ける捕食者から区別する唯一の点の断念、すなわち永遠
なる複数の真理の構成とそれらへの生成変化へ参入する力能の断念といった、深刻な兆候が潜んでいることを見た」149-150)
「こうした視点から私たちは、次の点を指摘することに何ら跨踏しなかった。すなわち、「倫理という」イデオロギーとは、私たちの社会にあっては、それがど
のようなものであれ、思考することへの権利を航りだそうと努力しているあらゆる人びとに敵対する原理(過渡的とはいえ)である、と」
「次いで私たちは、その格律が複数の真理への生成変化の許にある倫理についての容認できる概念の再構成に素描を与えた。この格律は、その一般的形式におい
て、次のように宣言する——「継続せよ!」と。この「任意の何者か」であることに踏み留まれ。他の者たちとしての人間という動物、とはいえ真理の出来事的
な過程に捕獲され置き換えられているみずからを発見する人間という動物であることに踏み留まれ。僥倖
--偶発的に私たちの許を訪れ、私たちを生成変化させる、ひとつの真理のこの主体の受取人であることに踏み留まれ」
「〈善〉(複数の真理)に凭(もた)れ掛かかりながら三種の形式を採って現れる〈悪〉の真の形象に遭遇したのは、まさにこの格律のさまざまな逆説の核芯に
おいてであった。すなわちシミュラークル(偽の出来事の恐るべき追随者)、裏切り(みずからの利害--
関心を名称(=口実のルビ)に真理に背を向けること)、名づけ得ぬものへの名称の強制、あるいは災厄(真理の潜勢力は全体的だ、と信じること)の三つであ
る」150-151)
「〈悪〉とはまた〈善〉との邂逅によってのみ開かれる可能性である。私たちがそうであるこの「任意の何者か」に存立を与えるためだけに到来し、真理の主体
が示す時間とは無縁に永続する固執をみずからの動物的な固執の裡に持続させねばならないことに気づかせてくれる複数の真理の倫理とはまた、真理の過程への
その実効的で粘り強い包含によって、〈悪〉に備えるものでもある」
「倫理は、こうして、「継続せよ!」という定言命法の許に、識別(シミュラークルに引っかからないこと)、勇気(諦めないこと)、留保(全体性の極限に身
をゆだねないこと)を撚り合わせる」
「複数の真理の倫理は、世界を〈権利--法〉といった抽象的な支配に従属させることも、外的で根源的な〈悪〉に抗して闘うことも、その責務としない。反対
にそれは、みずからの複数の真理への固有な忠実さによって〈悪〉に備えよう、と試みるのである。この倫理は認めた——〈悪〉とは、これらの真理の裏側、影
の顔である、と。」
++++
最初に結論:LE PROBLÈME DU MAL 部分から(→「遡上的読解」)
頁149 |
パラグラフ番号1 | 【テキスト邦訳】 「私たちは、「倫理という」イデオロ ギーとその社会化された亜種、すなわち人権の 教義、〈人間〉を犠牲者と捉えるものの見方、人道的介入、生-倫理、「混乱に陥っ ている民主主義原則」、さまざまな差異の尊重にもとづく倫理、文化相対主義、道徳 という姿を採って現れた異国趣味などへの、根源的な批判から出発した」 |
【池田コメント】 倫理のイデオロギー性——、人権、人間観、人道介入、バイオエシックス、民主主義の 「原則」論、多様性の倫理、文化相対主義、道徳が塗り込まれたエキゾティシズム。 |
||
149 |
2 |
「私たちは、この時代における倫理をめ
ぐる知的諸傾向が、せいぜいモラリスト的で
宗教的な布教の亜種、最悪の場合は保守-保全主義と死の欲動の恫喝的な混請で
ある
ことを明らかにした」 |
|||
3 |
「絶えることなく「倫理」を喋々する世
論の流れに、私たちは、人間という種を人間
もまた同類である生ける捕食者から区別する唯一の点の断念、すなわち永遠なる複数
の真理の構成とそれらへの生成変化へ参入する力能の断念と
いった、深刻な兆候が潜
んでいることを見た」149-150) |
・倫理という言葉の、連呼やインフレー
ション。「永遠なる複数
の真理の構成」や「生成変化へ参入する力能の断念」は
害悪だというのか? ・「ニコマコス倫理学」 |
|||
150 |
4 |
「こうした視点から私たちは、次の点を指
摘することに何ら跨踏しなかった。すなわ
ち、「倫理という」イデオロギーとは、私たちの社会にあっては、それがどのような
ものであれ、思考することへの権利を航りだそうと努力しているあらゆる人びとに敵
対する原理(過渡的とはいえ)である、と」 |
・
「倫
理という」イデオロギー ・「倫理」がイデオロギー化するときに、真理という暴力の中であえて思考するという契機が失われてしまう、というのか? |
||
5 |
「次いで私たちは、その格律が複数の真理
への生成変化の許にある倫理についての容
認できる概念の再構成に素描を与えた。この格律は、その一般的形式において、次の
ように宣言する——「継続せよ!」と。この「任意の何者か」であるこ
とに踏み留ま
れ。他の者たちとしての人間という動物、とはいえ真理の出来事的な過程に捕獲され
置き換えられているみずからを発見する人間という動物であることに踏み留まれ。僥倖
--偶発的に私たちの許を訪れ、私たちを生成変化させる、ひとつの真理のこの主体
の受取人であることに踏み留まれ」 |
※「その格律が複数の真理
への生成変化の許にある倫理についての容
認できる概念の再構成」カントの定言命法のパロディ。 ・カントの定言命法のようには決して普遍化せず、いつも個別の何者かであることに踏み留まれとおっしゃるわけです。 ・我々は主体などではなく、(私たちを生成変化させる)主体の受取人である。 |
・「カントの定言命法」 |
||
151 |
6 |
「〈善〉(複数の真理)に凭(もた)れ掛
かかりな
がら三種の形式を採って現れる〈悪〉の真の
形象に遭遇したのは、まさにこの格律のさまざまな逆説の核芯においてであった。す
なわちシミュラークル(偽の出来事の恐るべき追随者)、裏切り(みず
からの利害--
関心を名称(=口実のルビ)に真理に背を向けること)、名づけ得ぬものへの名称の強制、あるいは災
厄(真理の潜勢力は全体的だ、と信じること)の三つである」150-151) |
悪の三様式とは、「偽の出来事の恐るべき追随者としてのシュミュラークル」「みずからの利害--
関心を名称(=口実のルビ)に真理に背を向ける裏切り」そして「名づけ得ぬものへの
名称の強制=真理の潜勢力は全体的だと信じること」 |
||
7 |
「〈悪〉とはまた〈善〉との邂逅によって
のみ開かれる可能性である。私たちがそうで
あるこの「任意の何者か」に存立を与えるためだけに到来し、真理の主体が示す時間
とは無縁に永続する固執をみずからの動物的な固執の裡に持続させねばならないこと
に気づかせてくれる複数の真理の倫理とはまた、真理の過程へのその実効的で粘り強
い包含によって、〈悪〉に備えるものでもある」 |
・〈悪〉とはまた〈善〉との邂逅によって
のみ開かれる可能性 ・「複数の真理の倫理とはまた、真理の過程へのその実効的で粘り強 い包含によって、〈悪〉に備える」こと |
・「悪」 |
||
8 |
「倫理は、こうして、「継続せよ!」とい
う定言命法の許に、識別(シミュラークル
に引っかからないこと)、勇気(諦めないこと)、留保(全体性の極限に身をゆだねな
いこと)を撚り合わせる」 |
・単一の普遍的な真理ではなく、複数の真理の倫理を求めよ ・そのための戦術:シミュラークル に引っかからない「識別」、諦めない「勇気」、全体性の権限に身を委ねない「留保」の精神。 |
|||
9 |
「複数の真理の倫理は、世界を〈権利--法〉といった抽象的な支配に従属させること
も、外的で根源的な〈悪〉に抗して闘うことも、その責務としない。反
対にそれは、
みずからの複数の真理への固有な忠実さによって〈悪〉に備えよう、と試みるのであ
る。この倫理は認めた——〈悪〉とは、これらの真理の裏側、影の顔で
ある、と。」 |
複数の真理の倫理(を生きることから)か ら導かれる我々の禁じ手は次のようなものである→「世界を〈権利--法〉といった抽 象的な支配に従属させること」、そして「外的で根源的な〈悪〉に抗し て闘うこと」 |
序言 INTRODUCTION
頁 |
パラグラフ | 池田光穂コメント |
|
7 |
1 |
突然の時代の寵児になった倫理(バディウ
のいう「老けた乙女」表現はもはやまずいよね) アリストテレス『ニコマコス倫理学』 |
・倫理という言葉のインフレーションは、
たしかにある |
8 |
2 |
・古代ギリシャにおける倫理:存在の佳き
あり方、行為知の探求 |
|
3 |
・ストア派 |
||
4 |
・デカルト以降は、主体が位置を占め、倫
理=実践理性。そこでは、普遍的な法との関係がテーマになる。倫理は「〈主体〉とのさまざまな実践にとっての判断原理」 |
||
5 |
・ヘーゲルや、人倫と道徳のあいだに、微
妙な区分をする。 |
・ヘーゲルの人倫と道徳の概念は、要
チェック。 |
|
9 |
6 |
・今日的な倫理への回帰は、ヘーゲルの
「決定の倫理」ではなく、カントの「判断の倫理」に近いのでは? |
|
7 |
・今日倫理とは、目の前でおこなわれてい
ることと、私たちがどのように関わるのかについての議論である。つま
り、歴史的状況=人権の倫理、科学技術的な状況(安楽死問題のように生ける者の倫理、バイオエシックス)、社会的状況(それぞれの部分集合間の間の議
論)、メディアの状況(コミュニケーションの倫理) ・「事実、倫理は、今日では、「いま目の前で起きていること」と私たちがどのように 関わるかについての原則、つまり歴史的諸状況(人権の倫理)、科学ー技術的な諸状況(生ける者の権利、生倫理)、「社会的」な諸状況(総体--存在/全体 集合ー存在l'etre-ensemble の倫理)、メディアの諸状況(コミュニケーションの倫理)などについて私たちが加える註釈に秩序を与える、暖昧なやり方を指すに到っている」 (9) |
1. 歴史的状況=人権の倫理、 2. 科学技術的な状況(安楽死問題のように生ける者の倫理、バイオエシックス)、 3. 社会的状況(それぞれの部分集合間の間の議論)、 4. メディアの状況(→「コミュニケーションの倫理」 「よい臨床コミュニケーション」) "En vérité, éthique désigne aujourd'hui un principe de rapport à « ce qui se passe », une vague régulation de notre commentaire sur les situations historiques ( éthique des droits de l'homme), les situations technico-scientifiques (éthique du vivant, bio-éthique), les situations « sociales » (éthique de l'être-ensemble), les situations médiatiques (éthique de la communication), etc."(16-17) |
|
10 |
8 |
・今日倫理を管理しているのは、国家に
よって管理された「倫理に関する委員会」 ・だが、しばしばエスカレートして、人権の倫理の名目を軍隊を派遣することもある。 |
|
9 |
・倫理への凭れかかりが溢れかえるため
に、「二重の」目的を本書はもつ |
・「倫理」に委ねようという発想が、その
国家管理の制度のもとで、倫理委員会や倫理コードに委ねればよいという安易な発想に転落してしまう。 |
|
10 |
・1)「哲学」が、世論を調整することを
期待される。だが、哲学に対して期待することは(市民にとっては)真のニヒリズムである。 |
・バディウの「真のニヒリズム」は、かな
り否定的な表現であり、人々が専門家や哲学者に委ねることのデカダンスを表現しているように思える。 |
|
11 |
・2)このような傾向から、倫理という語
の意味を救い出し、完全にことなった意味を与える(プロジェクト)ことに着手しよう。 ・その方法論は、倫理を抽象的範疇に結びつけるのではなく、さまざまな状況に差し戻す。 ・特異な状況に耐え忍ぶ格律をつくりだすこと。 ・保守-保全的な良心ではなく、倫理がたどる複数の運命から出発する |
・「倫理という語の意味を救い出し、完全
にことなった意味を与える」 |
1.人間は実在するか? L'HOMME
EXISTE-T-IL ?
頁 |
パラグラフ | ||
11 |
1 |
・倫理は人権あるいは、生ける者たちの権
利に関わる |
|
2 |
・人権の普遍性は、現在ではインペラティ
ブになっていて、要件を遵守させようというトレンドがある。 |
||
12 |
3 |
・このような人権概念への古びた教義=ド
クトリンへの回帰は、マルクス主義などの政治的関与(アンガージュマン)の崩壊と関連する。 ・古びた「人権」の教義に、再度改宗する会衆は、資本主義経済と議会制民主主義の下に結集しようとしている。 |
|
4 |
・このような会衆のイデオロギーの美学の
哲学は、かつての敵のそれであった。 ・それは、既存の西洋の秩序の格律の維持である。 |
||
12 |
5 |
・それは1960年代状況の対する、暴力
的反動である。 |
|
13 |
6 |
1. 人間の死? ・フーコーの「人間の死」 ・権利や普遍的な倫理を、歴史とは無縁に人間が構築できるようなものではないと主張 |
|
7 |
・アルチュセールは、歴史は、ヘーゲルが
考えたような、精神の生成や実体のとしての主体の到来ではないと主張する(=精神現象学) ・ヒューマニズムは、想像的な構築物なのであるから、むしろ、人々は、理論的な反ヒューマニズムに着目する(つまり考察する)必要があると主張 |
||
14 |
8 |
・ジャック・ラカンは、自我を主体から完
全に切り離せと提案する。 ・主体は実質も生得的本性などなく、言語の偶発的でしかない法に依存し、また、欲望の対象も特異的でしかない歴史に依存すると主張。 |
・ジャック・ラカン理論のスコラ的解釈 |
9 |
・フーコー、アルチュセール、ラカンら
は、人間のアイデンティティ=同一性への理念への告発をおこなった。 ・その帰結として、人間の欲求、生や死に関わる合意にもとづく法の制定、つまり「倫理」の教義そのものを告発しているのだ。 ・言い方を変えると、人間の本質にそぐわないと思われている悪について人間が誰にも明確で普遍的に線引きできる(=境界確定できる)発想をアラン・バディ ウはこの3名に仮託して批判する。 |
・まったくもって、渋いな、70年代の偉
人たち ・こういう文書に出会うと、文に触れた甲斐がある。そして、人生の些事を忘れる。 |
|
10 |
・だからといって上掲、3者は人々にシニ
シズムを受け入れろとは吹聴していない。 ・むしろ、現代にはびこる「倫理」や「人権の諸権利」の護民官に対して、別の論理=価値体系をもって勇気をもって対決した——これは彼らが到達した見解と は正反対の「実践」である。 ・フーコーは、現実の囚人に対する管理体制に、抵抗した。 ・アルチュセールは、解放の政治について再定義を試みた。 ・ラカンは、アメリカ的生活様式への同化という従属機能に成り下がった北米大陸での精神分析に対して論争的な理論と議論をもって闘った。 |
||
15-16 |
11 |
・「倫理」というイデオロギーへの自覚 ・上掲3者とも通底する批判的自覚の時間性は、1965年から1980年にかけての出来事に負うているのだ |
「倫理」というイデオロギー、という表現 が登場する |
12 |
・フーコー的な「人間」の死という指摘の
裏では、倫理と人権が、西洋の金持ちの自己満足や権力の維持にために動員されていたのだ |
||
17 |
13 |
・このような現在流布しているような「倫
理」についての考え方の基盤を試練に晒す必要がある |
|
14 |
【2.人権の倫理的基盤】 ・倫理への回帰というスローガンはカントへの回帰につらなる |
||
15 |
・カントや自然権の主張者たち ・定言命法は、違反、犯罪、悪の事例に適用されている ・人道的介入の権利、法的介入の権利という用法のなかにも |
||
16 |
・ここでの倫理は、悪をみわけるアプリオ
リな能力を措定する ・法-権利は、(悪に対する)法-権利とみなされるのだ。 ・法治国家は、悪をみなせるのは国家だけという権能付与がある。つまり「司法的予防措置の装置」として。 |
・バディウは〈悪〉とギュメつきで表現 ・装置(アパラートス)の用語の登場 |
|
17 |
・すなわち、まで…… |
||
19 |
18 |
(1)この人間主体は、悪を普遍的に特定
できる能力をもつ主体である——それを公式見解と呼ぶ。 ・受動的主体は、反省能力をもつ主体であり、決定を能動的に担う主体でもある。苦しみを特定し、停止させることができる主体である。 |
苦しみを特定し、停止させることができる 主体とは、安楽死の臨床医だろう、この隠喩は。 |
19 |
(2)これを可能にする条件とは、政治が
倫理の支配下にあることを想定する。 |
||
20 |
(3)悪は、そこから出発して、善が配備
することが可能になる。 |
||
21 |
(4)人権とは、悪ならざるものへの権利
である。また、生、身体、文化的同一性の観点から、攻撃や虐待を受けない権利である(ことを想定する)。 |
||
20 |
22 |
・このドグマは、その自明性の中に力をも
つ。 ・18世紀の理論家は、憐憫を他人との関係性をたもつ原動力と考える ・善とは何かについて考えるよりも、悪とは何かについて考えるほうがコンセンサスを得やすい。 ・また「してはならないこと」は「しなければならない」よりも決めやすい。 ・政治は、人びとの生きることの権利に根ざす、という確固とした考え方がある。 |
・政治は、人びとの生きることの権利に根 ざす、という確固とした考え方がある、ということに疑問符を付すべきと読み取れる。 |
21 |
23 |
・政治は、人びとの生きることの権利に根 ざす、という確固とした考え方がある>>それが倫理=政治の見方であり、包括的に合意し、自由に自らのその力能をになう身体の存在が自明化される。 | ・「責任をもつ身体」という理念化もま た、イデオロギーということだ。自己決定権は、イデオロギーとしての力能として行使すべきで、自己決定権の獲得(誰がそれを与えるのか?-それはお前自身 だ)を目的としてはならない。 |
24 |
・「倫理」は首尾一貫していない、そして
その現実はむき出しで、暴力に満ち、矛盾だらけ |
||
25 |
2.〈人間〉——生ける動物か、不死の特
異性か? ・普遍的な人間〈主体〉の概念の前提を問え |
||
22 |
26 |
・倫理は、人間を犠牲者として定義する。 ・あるいは、「人間とは自らを犠牲者として承認することができる存在である」 |
「人間とは自らを犠牲者として承認することができる存在である」 |
27 |
・その理由は以下の3点。 | ||
28 |
(1)犠牲や衰弱や瀕死を倫理の基盤にす
ることは、人間を動物的状態に同化しているからだ。 ・ビシャは、生とは「死に抗うさまざまな機能のアンサンブル」と定義したではないか! ・人間は、動物に対して捕食者=加害者であり、また、動物レベルの被害者でもある。 ・被害者である限り、何も優れていない。これは犠牲者がながく語ってきたことだ。 ・加害者は、犠牲者一般を動物化することで虐殺や拷問を可能にする。 ・だが、犠牲者の側からみれば、犠牲者一般などというものはありえない。犠牲者が抵抗の主体になるためには、犠牲者はつねに固有性、個別の中で一般化に抗 う必要があるのだ。 ・抵抗のなかに〈人間〉がある |
犠牲や衰弱や瀕死を倫理の基盤にすること
は、人間を動物的状態(ゾーエ)に同化しているからだ。 la vie comme le dit Bichat , n'est que« l'ensemble des fonctions qui résistent à lamort » Badiou(2003:26) |
|
24 |
29 |
・死に向かう存在ではないことを、その存
在のなかに踏みとどまること ・そのためには〈不死〉を希求しなければならぬ ・人権が、死に抗う権利であってはいけない。人権は〈不死なるもの〉への権利である。 ・〈無限なるもの〉への権利である ・人間は不死であることを耐え忍ぶ存在である |
|
25 |
30 |
・人間は複数の真理によって織りなされる
存在である。 ・犠牲者の役割は、憔悴しきった動物としてスクリーンに映し出される存在である。 ・慈善家には、そのような人間に介入することを責務として掻き立てることが役割なのだ。 ・世界に凭れかかった倫理(こそが大問題の本質だ) |
|
26 |
31 |
・〈人間〉の背景には、よき白人の存在が
あり、野蛮は「人権」の視点からしか考慮されない。 ・文明化の使命は、ここに由来する。 ・犠牲者の侮蔑が織り込まれる、人道的介入。 ・第三世界は無能という前提が見え隠れする、だからこそ介入が必要なのだ。それをドライブすることが倫理という言葉だ。 ・それはさもしい西洋の自己満足の変奏だ。 |
・第三世界は無能という前提が見え隠れす る、だからこそ介入が必要なのだ、という主張はフランツ・ファノンを思い起こす。 |
27 |
32 |
(2)倫理的合意が、悪の承認によると見
せば、善の理念に人を集わせ、人間(という目的を)プロジェクトそのものとする。だが、それは悪の源泉でもある。 ・これがユートピアや革命を希求することが全体主義の悪夢として反転すると(思想的予防接種)みなされる。 ・正義を希求するものは、悪に踏みこまざるをえない、と言いくるめられる。 |
|
33 |
・前項のパラグラフは欺瞞である。そのよ
うな悪に必ず転落するものだとすれば、どのように、革命やユートピアを希求すればよいのか? ・思考を抑圧する、このような思想的予防接種は、欺瞞だ。人間はポジティブなものから出発するからだ。 ・人間は不死なるものとして出発すれば、世界は計算説明ができないもの、所有不能なものだらけであることは明白だ。 ・善に向けて力を組織することを抑圧することは、この不死なるものとしての人間の理念に反する。 |
||
34 |
(3)倫理は、善との関係のなかで、否定
的なものをアプリオリに想定するが、そのことは(悪から出発するかもしれない?)状況の特異性への思考を自ら禁じることになる。 ・医師たちは、患者の病気を治す使命を当たり前のように信じているが、他方で、その患者が保険により治療費がカバーできないと、容易に治療対象として除外 することになんの衒いもない。 ・そこには医療という(一般化された)状況しかなく、患者は医療者に対して、徹底的に治療して欲しいと要求しているだけで、それを(医療者の)倫理に訴え ようとしているのではない。 |
||
35 |
35 |
・「倫理委員会」「保健支出」「管理責
任」など、倫理に関するイシューを外在化されているような態度こそが問題なのだ。 ・(倫理とは)人間の肯定的な態度を十全に引き出すという原則である。不死たることを追求する各人の道徳的立場なのだ。 |
|
36 |
・「管理的」「責任ある」「倫理的な」と
いう名辞がついた国家保健体制には要注意だ |
||
37 |
4.いくつかの原則 ・「倫理」というイデオロギーを拒絶しよう ・人間を犠牲者とする態度にノーを ・なぜそれらが問題か?——それは統計性にもとづいて、さまざま状況のさまざまな人間の特異性、多様性を抑圧するからだ。 |
||
38 |
・保守保全主義に対する3つの抵抗のテー
ゼ 1)人間の肯定性、人間を不死なるものによって定義しよう 2)善のポジティブな力能を肯定せよ。保守主義の忌避にもとづくことにより、はじめて悪が定義される。 3)人類は、特異な状況についての思考との同一化により、自己の根拠を得る。固有で偶発的なことは、多様な可能態に対処する倫理の過程だけなのだ。 |
||
39 |
・主体の同一性に関すること |
主体の同一性に関する、この男の発言内容 について、私は何をいいたいのか、理解できない。 | |
40 |
・上記の発言の足取りを検証する。 |
||
** |
2.他者は実在するか? L'AUTRE
EXISTE-T-IL?
3.倫理——ニヒリズムの形象
L'ÉTHIQUE, FIGURE DU NIHILISME
頁 |
パラグラフ | |||
55 |
1 |
「倫理の支配とは、必要なものへの諦念と 純粋に否定的さらには破壊的ですら ある意志との特異な結合によって支配される世界の徴候なのだ。こうした結合こそ、 ニヒリズムと呼ぶに相応しい」(55) | ||
2 |
・ニーチェならびにニヒリズムの提示 |
|||
56 |
3 |
1.倫理——必然性の従者 ・経済への言及 |
||
4 |
・議会政治への批判=諦念を伴った合意 |
|||
57 |
5 |
・
「「現代的な主体性を(「公共の見解/世論」として)構成する第一の契機から観れば、倫理は主体が構成されるにあたっての同伴者という役割を演じている。
というのも、倫理は、あらゆるプロジェクト、あらゆる解放の政治、あらゆる真の集団的大義の不在といった仮定をいかなる困難もなく当然のものとして裁可・
確認しているからだ」57) |
||
58 |
6 |
・倫理への「回帰」が、イデオロギーの終
焉に重ね合わせて主張される |
||
7 |
・合意にもとづく倫理 |
|||
60 |
8 |
・「他者への配慮」批判 |
||
9 |
・ヴィシー政権下でのユダヤ人への身分規
定 |
|||
10 |
「(経
済的)必然/必要という諦念は、倫理が打ち固める公共精神の構成要素における唯一のものでも最悪のものでもない、ということを。というのも、ニーチェの格
言が私たちに次のことを考慮するよう促しているからだ。すなわち、あらゆる非意志(あらゆる不能)は無への意志によって作用し、その他なる名称とは死の欲
動である、と」61) |
|||
61 |
11 |
2.倫理——死の西欧的統御 ・人権、倫理、ヒューマニズムによる介入——このようなことが声高に主張されるのは、悪の存在を基調にするからだ。 |
||
62 |
12 |
・
「倫理というイデオロギーは、文明——市民化され安全な避難所の城門にほど近いところから、(クロアチア人、セルピア人、そしてボスニアの謎めいた「ムス
リム」たちといった)いまや複雑に入り組んだ〈他者〉とそこで公然と行われている〈悪〉との悼(おぞま)しいとはいえ甘美でもある結びつきを恣(ほしいま
ま)に弄んでいる。倫理の糧は、〈歴史物語〉によって、宅配されるのだ」62) |
||
13 |
・悪と他者を貪り食らう倫理 |
|||
63 |
14 |
・人間の真理を死に還元する思考=倫理の
ニヒリズム |
||
15 |
3.生=倫理 ・安楽死に関する果てしない議論 |
バイオ・エシックス批判 |
||
64 |
16 |
・死に向かう存在と尊厳との結びつきが、
尊厳ある死の観念を構成する |
・「死に向かう存在と尊厳との結びつき が、尊厳ある死の観念を構成する」がフェイクだという主張 | |
17 |
・それを正当化するのは、委員会、報道、
裁判屋、政治屋、僧侶、医師 |
|||
65 |
18 |
・苦痛や衰えは、尊厳とはみなされていな
い ・バディウが批判してやまない倫理とは、幸福と生によって定義するものであり、死に 魅せられながらも、みずからの思考に死を刻むことができない、そのような倫理のあり方である。 ・このような倫理言説は、宿命論的であると同時に非ー悲劇的である |
||
65 |
19 |
・
「国家による「生—倫理」と安楽死へのこだわりはいずれもナチズムの範疇に属してい
たことが明らかだ、と。つまりナチズムとはとことん〈生〉の倫理だった
のだ。ナチズムはそれ独自の「尊厳/ある生」についての概念を有しており、またそうした基準から、尊厳に値しないと見倣された生に無慈悲な
終わりを与える
ことを引き受けたのだ。ナチズムは、いったん「倫理」が有する傾向がたんなるお喋りとは異なる政治手段を身につけるや、そうした「倫理」の配置が有するニ
ヒリスト的核芯をただちに分離抽出し、それを究極的な有り様にまで純化させた。こうした点から観ても、わが国に「生—倫理」を所管する大規模な国家委員会
が出現したことは不吉な徴候である」65-66) ・「いずれ次のような抗議の声があがるだろう。科学の急激な進歩が私たち一般市民にもあらゆる類いの遺伝子操作を実践するに必要な手段を委ねた以上、ナチ の恐怖から生とその尊厳の権利を守る法こそが制定されるべきだ、と。だが私たちはこうした叫びに動かされてはならない」66)。 ・倫理と生の連辞符は、それ自体で恫喝的だ。 ・優生学のeuと安楽死のeuは、同じ意味の接頭辞である。 ・よく死ぬということは、よく生きる(生きよ)ということと思想的には同根なのだ。 |
・このよく生きるということが、バディウ
の批判してやまない倫理なのだ。 ・「ナチズムとはとことん〈生〉の倫理だった のだ (une éthique de la Vie)」 |
"Notons,
car ce sont des faits, que « bio-éthique » et obsession d'État de
l'euthanasie ont explicitement été des catégories du nazisme. Au fond,
le nazisme était de part en part une éthique de la Vie." (56) |
66 |
20 |
・倫理委員会という防護壁 |
||
21 |
・
「……フランスのさる首相(=ミッシェル・ロカール)が、フランス国家は「世界のすべての悲惨を受け入れることなどできない」と宣言したが、そのとき彼
は、注意深くも、私たちに次の点に言及することを差し控えたのだ。それは、私たちが歓待するさきに触れた悲惨な世界のある部分と、自分の死に場所——おそ
らくは各地の留置所であろう——をどうぞ取り戻して下さいとばかりに私たちが懇請するであろう世界のもうひとつの部分とを識別することができ、その結果、
すでに察しがついているとは思うが、幸福と私たちの「倫理」の条件をともに与えている私たちが独り占めした豊/かさを享楽し続けることができるようにする
ための何らかの基準や方法について発言することを差し控えたのだ」67-68) |
|||
22 |
・
「厳密でいかなる例外があってもならない臨床現場での治療にこびりつく偶然、生をとりまくさまざまな事情、良心的意識の惑いは、生—倫理当局の——こうし
た倫理が施行される地平は、その名称に到るまで、ひどい悪臭に充ちていたのだが——倣慢でメディア受けがよい徴用よりもはるかに価値あるものなのだ」
68) |
|||
68 |
23 |
・4.倫理的ニヒリズム——保守-保全主
義と死の欲動のはざま ・保守-保全主義的な欲望=西洋的価値が地球上いたるところで承認されること ・面目を潰された者が感じる欲望。これは生に対する完全な統御を促進させようとしながらも、その身振りで、それを隠そうとする欲望がある。 |
||
69 |
24 |
・この倫理はギリシャ語を話そうとする
(寓意的表現)欲望は、安楽/優生=幸福主義(eu-ondenose)つまり、満ち足りたニヒリズムである |
||
25 |
・満ち足りたニヒリズムの倫理に対峙され るのが、バディウの考える倫理の存在形式である | |||
26 |
・どの時代でも固有のニヒリズムの形態が
ある。(この時代の)倫理はニヒリズムのひとつだ。 ・その倫理は、保守-保全主義と結びついている。 |
|||
27 |
・このような保守-保全主義は、不可能で
あると宣言して、複数の真理を肯定することから、のみ、このニヒリズムから逃れることができる。 ・よく生きることの倫理に抵抗し、複数の真理の倫理を支える原理(を想像したまえ) |
|||
* |
||||
* |
4.諸真理の倫理 L'ÉTHIQUE DES
VÉRITÉS
頁 |
パラグラフ | ||
71 |
1 |
・プラトンにおける正義の概念の確立の努
力 |
|
2 |
・プラトンのやり方にならって倫理という 語の保全をおこなう——バディウは前の部の最後で、ニヒリズムの倫理の場合を「倫理」と括弧付きで表現する。 | ・プラトンのやり方にならって倫理という 語の保全をおこなう——バディウは前の部の最後で、ニヒリズムの倫理の場合を「倫理」と括弧付きで表現する。——しかし引用者である池田は区別しない。 | |
72 |
3 |
1.存在、出来事、真理、主体 ・「倫理「一般」などないとすれば、それは倫理「一般」で自己を武装せねばならない抽象的な主体などないからだ。あるのは、さまざまな情勢によって主体に なることへともに呼び掛けられる特殊な動物だけである。あるいはそれをむしろ主体を構成することへ入ってゆくことが呼び掛けられている、と言ってもよいだ ろう。この意味は、ひとつの真理がそれみずからの過程を経ることを可能にするためには、ある与件の許で、この動物であることすべて——すなわち、その身 体、そのさまざまな力能——が 要請されるということである。人間なる動物が自分がいまだそうではなかった〈不死なるもの〉へと呼び掛けられるのは、まさにこの瞬間である」 |
・ほとんどレトリックだけの文章のようで
もある。だがなぜか惹かれる。 |
4 |
・主体を構成するとは過剰なることを意味
する。 ・このダイホは、出来事であり、多存在である。——これに対峙するのが我々に要求される新たな存在様式。この後者をバディウは批判。 ・事例にあがつているのが1792年の革命、エロイーズとアベラールの出会い。物理学(天文学?)におけるガリレオの創造、ハイドンの音楽形式、トポス理 論、シェーンベルグの12音階など |
||
74 |
5 |
・いかなる「決定」からひとつの真理の過
程は始まるのか? ・決定的な代補という視点から自らを出来事以降の状況へと関連づけてゆく決定からだ——池田は理解できない。 ・出来事に忠実=出来事に即して…… ・「この出来事が代補した状況の内部をみずから動くこと」 |
|
6 |
・「愛に充ちた出会いの効果の許で、また 私がこの出会いに本当に忠実であろうとする限りで、私が自分の状況を「過ごしてきた」これまでのやり方をすっかり見直さなければならなくなることは言うま でもない」 | ||
75-76 |
7 |
・「ある出来事への忠実さのリアルな過程
だけど「真理」——ひとつの真理——と呼ぶ」 ・ひとつの真理とは、出来事的な代補作用により痕跡化される物質的道程 |
|
76 |
8 |
・ラカン的に言えば、真理の過程は知に穿
たれた︎空隙ー孔 |
|
9 |
・真理の過程の担い手を主体と呼ぶ |
||
10 |
|||
77 |
11 |
・「革命政治の主体は戦闘的個人でもなけ
れば、ましてやひとつの「階級—主体(clss-sujet)」こといった怪物でもない。それは特異な生産産出であって、そうした生産産出がさまざまな名
称(「党」である場合も、そうでない場合もあるが)を有することになるのだ。もちろん活動家はこうした主体の構成へ入り込んでゆく。とはいえこれもまた、
個別の活動家を超出している(まさにこの過剰によって、主体は〈不死なるもの〉として出来するのだ)」 |
|
12 |
|||
13 |
|||
14 |
|||
15 |
2.真理の倫理の形式的定義 |
||
16 |
|||
17 |
|||
18 |
|||
19 |
|||
20 |
|||
21 |
|||
22 |
|||
23 |
|||
24 |
|||
25 |
|||
83 |
26 |
・ラカンの「己の欲望について諦めること
なかれ」を倫理の格律とする |
|
27 |
|||
28 |
|||
29 |
|||
30 |
|||
31 |
|||
32 |
|||
33 |
|||
34 |
|||
35 |
|||
36 |
|||
37 |
|||
38 |
|||
39 |
|||
40 |
|||
41 |
・真理の倫理は、コミュニケーションの倫
理の対極に措かれる |
||
42 |
|||
43 |
|||
44 |
|||
45 |
|||
46 |
|||
47 |
|||
48 |
|||
49 |
|||
50 |
|||
51 |
・主体は知り得ない(俺の言葉では「主体
は頼りない」)というラカンの楽天主
義で行こう |
||
5.〈悪〉の問題 LE PROBLÈME DU
MAL
頁 |
パラグラフ | ||
99 |
1 |
・「これまで私たちは、現代の倫理という
イデオロギーがいかに深く〈悪〉についての合意にもとづく自明性にその定礎を有しているかを強調してきた。私たちは、さまざまな真理のポジティブな過程
を、主体のありうべき構成の核芯であり、この真理の構成に入ってゆく「任意の何者か」にとっての弛むことなき倫理の特異な出来の核芯でもあるものと規定す
ることによって、〈悪〉についてのこうした合意にもとづく判断を顛倒させてきた」99) |
|
2 |
|||
100 |
3 |
・生、複数の真理、善(大文字の_) |
A/ La vie, les
vérités, le Bien |
4 |
|||
5 |
|||
6 |
|||
7 |
|||
8 |
|||
9 |
|||
10 |
|||
11 |
|||
12 |
|||
105 |
13 |
・悪の実在について |
B/ De l'existence
du Mal |
14 |
|||
15 |
|||
106 |
16 |
「根源的な〈悪〉という観念は(少なくと
も) カントに遡因するが、その現代版は体
系的なやり方で、ある「事例」をその拠り所としている。すなわちナチスによるヨー
ロッパでのユダヤ人絶滅がそれである。私たちは事例という語を軽率に用いることを
しない。一般的に事例とは反復ないし模倣されるべき模範を指していることは言うま
でもない。ナチスによるユダヤ人絶滅に関して現代の倫理は、是が非であってもこの
虐殺の模倣や反復を阻止する必要性を指示することで、根源的な〈悪〉を範例化して
いる。あるいは、より精確に言えば、この根源的な〈悪〉の非反復がさまざまな
状況をめぐるあらゆる判断にとっての規範となるよう、この倫理は指示するのだ。し
たがってそこにあるのは、犯罪についての「範例」、否定ー陰画的な範例なのだ。と
ころが、こうした範例の規範的機能は依然として消え去りはしない。つまりナチスに
よるユダヤ人絶滅が根源的な〈悪〉であるのは、それが、純粋でシンプルな〈悪〉に
ついての唯一無二の、またその意味で超越論的な、あるいは言語では表現しえない、
判断基準を私たちの時代に与えているという点においてである。レヴイナスの〈神〉
は他性の価値評価に措かれるが(〈他者〉が共軛不能な尺度としての〈まったくー他
なるもの〉とされるという意味で)、ナチスによるユダヤ人絶滅は歴史的諸状況の価
値評価に措かれるのだ(〈悪〉が共親不能な尺度としての〈まったき悪〉とされる
という意味で)」(pp.106-107) |
・根源的な悪の規範化の「問題」 |
107 |
17 |
「虐殺やナチスは唯一無二の特異な出来事 であって、およそどのような事態であれ、この出来事と比較することは冒涜だということを想起することもまた執拗に強いられるのだ」(108)。 | |
108 |
18 |
「至高の否定的事例である限りにおいて、
この犯罪は模倣不能だが、またどのような犯罪もその模倣であるような犯罪、それがナチスによるユダヤ人絶滅なのだ」(108) |
|
19 |
|||
20 |
|||
21 |
|||
22 |
|||
23 |
|||
111 |
24 |
「倫理というイデオロギーの信奉者たちは
ユダヤ人絶滅の特異性を〈悪〉の内部にじ
かに局所化することに執着するあまり、ナチズムがひとつの政治であったということ
を範曙として否定してしまう。だがこれは意志薄弱であると同時に勇気に欠けた立ち
位置である。ここでの意志薄弱とは、政治の見取図としてユダヤ(人)という語を構
築的に統合する「集合的」主体性においてナチズムを構成することこそ、ユダヤ人
絶滅を可能にし、さらに必然とした当のものだということを、それは看過しているか
らだ。またここでの勇気に欠けるとは、その有機的範時や主観的法規が犯罪を構成す
るような政治がさまざまにありうるということを直視するのを断念すれば、政治を徹
底的に考えることなどできなくなってしまうということを、それは看過しているから
だ。「人権の民主主義」の擁護者たちは、ハナ・アーレントともども、政治を「全体
集合的な存在(総体-存在 etre-ensemble)」の舞台として定義するのがたいそうお気
に入りである。だがそもそもこうした定義から見てしまうからこそ、彼らはナチズム
の政治的本質を捉え損なってしまうのだ。こんな定義はおとぎ話だ。全体集合はまず
問題となっている全体総体を規定しなければならないのであって、またそれが問い
のすべてなのだ。ヒトラーほどドイツ国民という集合存在を欲望していた者は他に/
いない。「ユダヤ(人)」というナチスの範時は、ドイツ内部の「ユダヤ」人という内
側から監視することが可能だったあるひとつの外部の(恋意的だが法規的な)構築に
(人)的な/という内面に全体集合(集合存在)の空間という名称よって、ドイツ
を与えることに役立ったが、ちょうどそれは「われわれフランス人」という確信がこ
こフランスで「不法滞在移民」という範障に突き落とされた人びとへの迫害を前提と
しているのとまったく同じ事態を指しているのだ」111-112) |
|
25 |
|||
26 |
|||
27 |
|||
28 |
|||
29 |
|||
113 |
30 |
——悪は実在する |
|
31 |
|||
32 |
|||
33 |
|||
34 |
|||
35 |
|||
36 |
|||
37 |
|||
115 |
38 |
・出来事、忠実さ、真理への回帰 |
Retour sur
l'événement, la fi.délité, la vérité |
39 |
|||
40 |
|||
41 |
|||
42 |
|||
43 |
|||
44 |
|||
45 |
|||
46 |
|||
47 |
|||
119 |
48 |
・真理は知に孔を穿つ、というラカン的
テーマがでてくる |
|
49 |
|||
50 |
|||
51 |
|||
52 |
|||
53 |
|||
54 |
|||
122 |
55 |
D. 悪の理論——素描 1. シミュラークルとテロル |
D/ Esquisse d'une
théorie du mal 1. Le simulacre et la terreur |
56 |
|||
57 |
|||
58 |
|||
59 |
|||
60 |
|||
61 |
|||
62 |
|||
63 |
|||
64 |
|||
65 |
|||
66 |
|||
67 |
|||
68 |
|||
132 |
69 |
2. 裏切り |
2. La trahison |
70 |
|||
71 |
|||
72 |
|||
73 |
|||
74 |
|||
75 |
|||
76 |
|||
77 |
|||
136 |
78 |
3.
名づけ得ぬもの(L'innommable) |
3. L'innommable |
79 |
|||
80 |
|||
81 |
|||
82 |
|||
83 |
|||
84 |
|||
85 |
|||
96 |
|||
87 |
|||
88 |
|||
89 |
|||
90 |
|||
91 |
|||
92 |
|||
93 |
|||
94 |
|||
95 |
|||
96 |
|||
97 |
|||
98 |
|||
99 |
|||
100 |
|||
101 |
|||
102 |
|||
103 |
|||
104 |
|||
105 |
結論(再掲)
頁149 |
パラグラフ番号1 | 【テキスト邦訳】 「私たちは、「倫理という」イデオロ ギーとその社会化された亜種、すなわち人権の 教義、〈人間〉を犠牲者と捉えるものの見方、人道的介入、生-倫理、「混乱に陥っ ている民主主義原則」、さまざまな差異の尊重にもとづく倫理、文化相対主義、道徳 という姿を採って現れた異国趣味などへの、根源的な批判から出発した」 |
倫理のイデオロギー性——、人権、人間観、人道介入、バイオエシックス、民主主義の「原則」論、多様性の倫理、文化相対主
義、道徳が塗り込まれたエキゾティシズム。 |
|
149 |
2 |
「私たちは、この時代における倫理をめ
ぐる知的諸傾向が、せいぜいモラリスト的で
宗教的な布教の亜種、最悪の場合は保守-保全主義と死の欲動の恫喝的な混請で
ある
ことを明らかにした」 |
||
3 |
「絶えることなく「倫理」を喋々する世
論の流れに、私たちは、人間という種を人間
もまた同類である生ける捕食者から区別する唯一の点の断念、すなわち永遠なる複数
の真理の構成とそれらへの生成変化へ参入する力能の断念と
いった、深刻な兆候が潜
んでいることを見た」149-150) |
倫理という言葉の、連呼やインフレーショ
ン。「永遠なる複数
の真理の構成」や「生成変化へ参入する力能の断念」は
害悪だというのか? |
||
150 |
4 |
「こうした視点から私たちは、次の点を指
摘することに何ら跨踏しなかった。すなわ
ち、「倫理という」イデオロギーとは、私たちの社会にあっては、それがどのような
ものであれ、思考することへの権利を航りだそうと努力しているあらゆる人びとに敵
対する原理(過渡的とはいえ)である、と」 |
・
「倫
理という」イデオロギー ・「倫理」がイデオロギー化するときに、真理という暴力の中であえて思考するという契機が失われてしまう、というのか? |
|
5 |
「次いで私たちは、その格律が複数の真理
への生成変化の許にある倫理についての容
認できる概念の再構成に素描を与えた。この格律は、その一般的形式において、次の
ように宣言する——「継続せよ!」と。この「任意の何者か」であるこ
とに踏み留ま
れ。他の者たちとしての人間という動物、とはいえ真理の出来事的な過程に捕獲され
置き換えられているみずからを発見する人間という動物であることに踏み留まれ。僥倖
--偶発的に私たちの許を訪れ、私たちを生成変化させる、ひとつの真理のこの主体
の受取人であることに踏み留まれ」 |
※「その格律が複数の真理
への生成変化の許にある倫理についての容
認できる概念の再構成」カントの定言命法のパロディ。 ・カントの定言命法のようには決して普遍化せず、いつも個別の何者かであることに踏み留まれとおっしゃるわけです。 ・我々は主体などではなく、(私たちを生成変化させる)主体の受取人である。 |
||
151 |
6 |
「〈善〉(複数の真理)に凭(もた)れ掛
かかりな
がら三種の形式を採って現れる〈悪〉の真の
形象に遭遇したのは、まさにこの格律のさまざまな逆説の核芯においてであった。す
なわちシミュラークル(偽の出来事の恐るべき追随者)、裏切り(みず
からの利害--
関心を名称(=口実のルビ)に真理に背を向けること)、名づけ得ぬものへの名称の強制、あるいは災
厄(真理の潜勢力は全体的だ、と信じること)の三つである」150-151) |
悪の三様式とは、「偽の出来事の恐るべき追随者としてのシュミュラークル」「みずからの利害--
関心を名称(=口実のルビ)に真理に背を向ける裏切り」そして「名づけ得ぬものへの
名称の強制=真理の潜勢力は全体的だと信じること」 |
|
7 |
「〈悪〉とはまた〈善〉との邂逅によって
のみ開かれる可能性である。私たちがそうで
あるこの「任意の何者か」に存立を与えるためだけに到来し、真理の主体が示す時間
とは無縁に永続する固執をみずからの動物的な固執の裡に持続させねばならないこと
に気づかせてくれる複数の真理の倫理とはまた、真理の過程へのその実効的で粘り強
い包含によって、〈悪〉に備えるものでもある」 |
・〈悪〉とはまた〈善〉との邂逅によって
のみ開かれる可能性 ・「複数の真理の倫理とはまた、真理の過程へのその実効的で粘り強 い包含によって、〈悪〉に備える」こと |
||
8 |
「倫理は、こうして、「継続せよ!」とい
う定言命法の許に、識別(シミュラークル
に引っかからないこと)、勇気(諦めないこと)、留保(全体性の極限に身をゆだねな
いこと)を撚り合わせる」 |
・単一の普遍的な真理ではなく、複数の真理の倫理を求めよ ・そのための戦術:シミュラークル に引っかからない「識別」、諦めない「勇気」、全体性の権限に身を委ねない「留保」の精神。 |
||
9 |
「複数の真理の倫理は、世界を〈権利--法〉といった抽象的な支配に従属させること
も、外的で根源的な〈悪〉に抗して闘うことも、その責務としない。反
対にそれは、
みずからの複数の真理への固有な忠実さによって〈悪〉に備えよう、と試みるのであ
る。この倫理は認めた——〈悪〉とは、これらの真理の裏側、影の顔で
ある、と。」 |
複数の真理の倫理(を生きることから)か ら導かれる我々の禁じ手は次のようなものである→「世界を〈権利--法〉といった抽 象的な支配に従属させること」、そして「外的で根源的な〈悪〉に抗し て闘うこと」 |
Links
Bibliography
Other informations