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ハンナ・アーレント の『カントの政治哲学講義』ノート

Lectures on Kant's political philosophy

池田光穂

『判断力批判』 第一部の美的判断批判 美的情感的判断(プロネーシス, Klugheit) 趣味判断——利害関係からの自由 趣味判断が働く共通感覚(プロネーシス, Klugheit) 美的空間
判断力批判』第二部の目的論的判断批判 政治的判断(プロネーシス, Klugheit) 趣味判断としての政治判断 政治的判断が働く共通感覚(プロネーシス, Klugheit) 政治空間
1, 18-
・カントの法哲学に関する貢献はそれほどな く、カントよりも、プーフェンドルフ、グロチウス、モンテスキューに取り組むほうがまし(19)
・歴史を勉強するなら、カントよりも、ヴィーコ、ヘーゲル、マルクスのほうがまし(19)
・カントにとって歴史は自然の一部。
・カントは一度だけ、気まぐれのように「社交性(Geselligkeit)」こそが人間の使命の最大の目的という(20)
・神秘の概念は人間にとっては悲しい内容をともなう(20-21)
・晩年の『判断力批判』と初期の『美と崇高の感情にかんする観察』を対位法的に読むと、社会的なものから峻別される政治的なものが人間の基本的条件である と気づくのは晩年だ(21)
・判断力批判の執筆の自発性。
・理性のスキャンダル——理性が自分自身と矛盾する、思考が知ることができる限界を超越し、自己自身と二律背反(アンチノミー)に陥ること(22)
・人間の認識能力とその限界の発見=1770年(22)
・躓きの石であり、途上の石だ(22)
・『純粋理性批判』(1781)『人倫の形而上学』(1785)
・趣味の背景に判断力を発見した、それが『判断力批判』
・判断力の能力の格上げ(23)
イ マヌエル・カント.[カントの判断力批判ノート
2, 24-
・2つの問題:1)人間の社交性(24)、2)判断力批判の中心にある もの(26)
・美と崇高の二分法
・カントの思考実験の長い長い引用(24-26)——寓意的でイミフ
・判断力批判の第一部と第二部のあいだの著しい違い。ボイムラーは老人のきまぐれと厳しい(26)
・人間の存在理由=人間とはなにか?は、何を知りうるか、なすべきか、なにを望むことがゆるされるかの、審問の第四番目のものだという(26)
・無ではなくなぜあるものがあるか?は、ライプニッツやシェリング、ハイデガーの問いでもある。
・ライプニッツの解放は、なぜ存在するのかに答えるのではなく、一切のことがおこった目的を探求する。超越論の召喚(27)
・カントの第2部からの答えは、志向的存在者は、自然に属する、目的を有する存在者だから、というもの(28)
・これは始まりの契機でもある(28)
・人間の存在理由の問いと、カントの主体とその欲望を位相をとり結ぶ関係については??のまま。
・だが、この2つを結びつけるのは政治的なものである(28)
・2つの結びつき。1)認識的存在者、2)人類について語ること。とくに、後者は、『実践』は道徳法則が認識論的存在者に訴えるが、『判断力』は、地上に 生きる人間について問われれいるから(28)
・さらに後者は、判断力が、普遍的なものをみつつこの地上の偶然的なものを含んでいる(28-29)。
・第一部は、美それ自体には含まれないが、美しいと感じるものを、扱っている。
・特殊な自然の所産を、ある一般的な原因から引き出すことの不可能性。(29)
・機械的=自然、という用語法。
・目的論を原因論として考えること(29-30)
・人間の判断力の源泉を、自然の能力だけでなく、人間の精神能力のために、人間の社交性に依存していることを、解明しようとするのがカントの目論見だ (30)
・もともとは、美的判断力は、カントの道徳哲学のなかにはなかった。
・実践理性は、3つの問いかけに、推論をとおして答え回答する、すなわち実践理性は、法則を措定するゆえに、実践理性は意志でもある。だが、判断力は別物 だ(31)
・フランス革命に対する関心があったは、それはゲームを見守る観客のような感覚。
・しかし、晩年に、判断力批判のなかで、政治的なるもの、国家体制的なものへの関心が浮上する。(31-32)
・1789年=65歳のときに、それがマックスになる。(32)
・国家体制すなわち憲法的なものへの関心、政体の組織化、立憲的な政府。
・判断力批判の65節をみよ。
・65節の注にある、ひとつの民族はアメリカ合衆国のこと。彼はひとつの民族をひとつの国家にまとめあげるという課題に取り組んでいた。
・「永久平和」のなかにある訪問権は、今日でいう観光をする権利のようなもの。ホストは、歓待をする権利もある。そのなかに、自然=偉大な芸術家が、永久 平和を保証すると主張する(33)
・このことが『人倫の形而上学』が法論からはじまっていることの理由を説明する。
・諸学部の争い——この時には認知症がすすんでいたが——で、憲法を考案することは甘美であると語る。(33)
・この甘美なことが、国家元首にとっては義務だとカントはいう。



3, 34-
・カントの晩年は、アメリカ革命、フランス革命の時期であった。
・自分の道徳哲学が役立たずであることに、カントは自覚していた。
・なぜなら、道徳性から国家体制がうまれるのではなく、よき国家体制からその道徳性がうまれる(34)
・よい人間は、よい国家体制のもとで、よき市民になれる(アリストテレス)→しかし、カントは「永久平和論」で、悪魔からなりたつ民族であっても、国家樹 立は可能であり運行しうるという。ということは、悪い人間でもよい国家においては、よい市民たりえることになる。
・定言命法は、汝の行為の格率がつねに普遍的法則になりえるようにせよ、であった。だが、「悪い人間でもよい国家においては、よい市民たりえることにな る」は、自分の格率が普遍法則となるべきことを自分でも意欲できる、という以外で、私は為すべきでないということになる。
・つまり、こういうこと。嘘をつきたいと思っても、嘘を普遍法則にしたいとは思わない。なぜなら嘘だらけでは、約束というものが成り立たなくなるから。盗 みを普遍法則にすると、所有というものが成り立たなくなる。
・カントの悪い人間は自分自身のために例外を設定する人のこと(→悪を志向するもののことではない)
・カントの悪の種族は、悪人の集団のことではなく、自分自身を密かに免責にしようとする人たちのこと。(35-36)ここでのポイントは、「密かに」で、 その反対語は公然となので、政治における悪は、公然とおこなうことができない、ということである。
・美と崇高の中にも、このような例外をもとめる人の性格から、よき人は少数派だと主張。利己的であることは、本人にとっては叶っていることだからと述べる (36)
・必要悪としての悪の種族。このように論理が破綻してしまうのは、人々の背景ではたらく自然を想定していること。政治における改善は、革命も道徳的改心も 不要なものである。国家体制が公共性を前提にすること(=誰の目にも公然なこと)※このあたりのアーレントの修辞はわかりにくい(37)
・悪しきものは密やかなものだ。
・カントの主張における人間はZoon politicon  ではない。
・カントは「活動」を想定していない。38
(中抜き)
・ スピノザの哲学する自由(libertas philosophandi)——『神学・政治論』-- Libertas philosophandi sive libertas academica est iudicium, secundum quod libertas exquaesitionis a discipulis professoribusque maximi momenti sit institutionum fini eruditionis, et eruditi res docere et communicare possint, utrum hae gregibus civilibus accipiantur annon.


4, 44-
・前回、パスカルの引用
・カントにおける人間観=「その憂鬱までのデタラメさ」(47)
・弁神論へのカントのコメント(48)
・人間の把握の3つの相:1)人類とその進歩、2)道徳的存在者かつ目的自体としての人間、3)複数形の人々(51)
・人間の議論は、『純粋理性批判』と『実践理性批判』で、人々の議論は『判断力批判』第一部「美的判断力」で(52)


5, 53-
・『純粋理性批判』は、感性の賛美ではないものの、感性は正当化してい る
・『純粋』の最後(55)
・カントの政治的姿勢(56)
・カント内に政治哲学は存在するが、彼自身はそれを書かなかった(59)
・批判の一方には「独断論的形而上学」があり、他方に、懐疑論がある(61)
・なぜ、批判という文字がタイトルに入るか?(63)

6 , 64-
・マルクスの批判概念(68)
・『批判』を通俗化すること(73)

7、76-
・事実に対する問い(quqestio facti)と権利に対する問い(quaestio juris)
・精神の拡大は、『判断力批判』には大きな意味がある(80)「判断力」第40節
・「すなわち、趣味性がそう名づけられるよりも多くの権利をもって、センスス・コンムニスと名づけられうるし、また、人がほかならぬ感官という語を心にお よぼすたんなる反省の作用について用いようとするなら、そのときには感官は快の感情を意味するから、知性的判断力よりもむしろ美感的判断力が共通的惑官と いう名称をつけられることができると。人はさらに趣味を、或る与えられた表象での私たちの感情を概念の媒介なしで普遍的に伝達可能ならしめるものの判定能 力と定義しうるかもしれない」(理想社版、原訳、199-200ページ)
・最後に『諸学部の争い』を紹介する。

8
・「民衆の諸権利」(88)
・革命に対して次第に慎重になるカント(88)
・行為の基準になる原理〈対〉判断の基準になる原理(89)
・公共性という超越論的原理(90)
・政治と道徳のあらそい(92)
・格率の私秘性(プライバシー)に固執することは悪
・人間は立法者
・悪は自己破壊性(95)




9
・『永久平和のために』
・ヘーゲルのフランス革命(106)——「歴史哲学」


10
・「カントは政治哲学を書いていないわけですから、この間題について彼 が考えていたことを知る最良の やり方は、彼の「美的判断力の批判」に当たることでしょう。ここでカントは、芸術作品の制作=産出 を、作品について判定する趣味との関係で論じていますが、ここでも同じような問題に直面 しています。私たちには、ある光景について判断するためにまず自分がその光景に立ち会わねばならない と考える傾向があります——それには理由がありますが、その理由について立ち入って論じる必要はない でしょう。つまり、注視者=観客は、行為者=演技者に対して二次的な位置しか占めていないと考える傾向がある、 ということです」(114-115)


11

・キケロ「沈黙の感覚(silent sense)」——誰しも、芸術の良し悪しを判断できるのに、芸術を制作できるものはほとんどいない。
・グラシアンは、この感覚を趣味と名付ける(122)
・「私たちは味覚と嗅覚 が感覚の内で最も私的な感覚であること、つまり、これらが感受する対象ではなく感覚(sensation) であり、しかもこの感覚は対象に拘束されず、想起も不可能であることに言及しました(バラの香りや特殊 な料理の味は、もう一度感受すればそれだと認識することができますが、そうしたバラや食べ物が不在の場合、現前 させることはできません。かつて見たことのある光景や聴いたことのあるメロディーであれば、たとえそれらが不在で も、現前させることはできますが、同じ様にはいかないのです。言い換えれば、香りや味は再現前化できない感覚なの です)。同時に私たちは、何故趣味が他のどの感覚にもまじて、判断力の器となるかについても検討し ました。その理由は、味覚と嗅覚のみがまさにその本性からして排他=判別的(discriminatory)であるこ と、そしてこの2つの感覚のみが、特殊としての特殊へ関係するのに対して、客観的感覚に与えられる対 象は全て寸他の対象とその属性を共有すること、つまりユニークなものではないということにありました」(p.122)

・「美しいものが関心をひくのは、経験的に社会においてのみである」(『判断力批判』第41節、理想社版、原訳、201ページ)
・カントは「道徳的趣味批判」を書く計画だった。

12
・「構想 力」(127)
・判断力批判、39節、感覚の伝達可能性について(129)
・判断力批判、40節、一種の
共通感覚としての趣味







13
・判断力批 判、41節、美しいものに対する経験的関心について(135)



・カントの 4つの問い


◎カントの自由概念

◎ハロルド・ベイナー

◎アーレントは、趣味判断を政治的判断とするために、何を克服しなければならないか?

アレントの独自性は、カントの判断力批判のなかに、政治的な含意を読み取ろうとしたことにある。

『思考』への補遺(『精神の生活』第一巻より)

カント政治哲学講義録(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて、一九七〇年秋学期);この時に、ハンス・ヨナスとの議論のなかで 反省的判断力は、手すりなき(Without a Banister)思考の時代に、哲学することのヒントを、カントの判断力批判における美学的反省的判断能力のなかに「手すり(Banister)」の可 能性を見出します。

構想力(一九七〇年秋、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで行なわれた、カントの『判断力批判』についてのセミナー)

ハンナ・アーレントの判断論(判断・袋小路の解決;理解と歴史的判断力;アイヒマンを裁く ほか)

訳者解説 アーレントの判断力論


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1997-2099