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ハンナ・アーレントの『カントの政治哲学講義』ノート

Lectures on Kant's political philosophy

池田光穂

●この講義の特徴

完訳カント政治哲学講義録  / ハンナ・アーレント原著 ; ロナルド・ベイナー原著編 ; 仲正昌樹訳 ; 浜野喬士訳書編, 明月堂書店 , 2009./  "Lectures on Kant's political philosophy, edited, and with an interpretive essay by Ronald Beiner" (University of Chicago Press, 1982) の全訳(→関連:「 政治哲学講義・アーレント」「カントの判断力批判ノート」「政治的判断力として読むハンナ・アーレント」)

判断力批判』 は 第一部の美的判断批判と、第二部の目的論的判断批判の2部に分かれる。アーレントは、第 一部の美的判断力批判、すなわち、反省的判断力の働きに基づく趣味 判断は、「関心」ないし「利害関心」と結びついていてはならず、趣味判断は、知的欲求、感覚的・感性的欲求や道徳的意志などと関わる実 践的判断でもないのである、とカントの議論をうける。そこから、美的 判断力が(その判断をする人にとって)自由な判断でなければならないことが明らかにな り、これは、政治への嗜好もまた、趣味的判断に委ねられるべきであり、それを可能にする社会空間の担保をまず主張している。さて、第二部の 目的論的判断批 判には、目的論が全体論的カテゴリーを志向することから、個人の自由や道徳性が、この目的論的な志向によって否定されること危惧した。(「文化の危機」 1960;THE CRISIS IN CULTURE, pdf)。他方、ゲオルク・ピピト『い ま、ここで』(1980)は、ヒロシマやアウシュヴィッツなどを考察する上で、判断力の第二部の読解がもたらす歴史哲学は欠かせないと主張する。

つまり、(政治を)判断する観察者の視点は、(デモクラシーと他者に危害を齎さない限りでのその多元的価値が達成された状態のもとでは)趣味の 現象であると見てよいからである。

『判断力批判』 第一部の美的判断批判 美的情感的判断(プロネーシス, Klugheit) 趣味判断——利害関係からの自由 趣味判断が働く共通感覚(プロネーシス, Klugheit) 美的空間
判断力批判』第二部の目的論的判断批判 政治的判断(プロネーシス, Klugheit) 趣味判断としての政治判断 政治的判断が働く共通感覚(プロネーシス, Klugheit) 政治空間

●牧野英二説

「まず反省的判断力の働きに基づく趣味判断は、「関心」ないし「利害関心」と結びついていてはな らないということが重要です。カントの言い方では、あらゆる関心は趣 味判断を損ない、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪う、ということになります。この見解は、この判断が存 在の認識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならない、という帰結 をもたらします。つまり、趣味判断は、知的欲求、感覚的・感性的欲求や道徳的意志などと関わる実 践的判断でもないのてす。したがって、趣味判断があらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、 こうした意味で趣味は自由であることになります。ここから、美感的判断力が自由な判 断でなければならないことが明らかでありましょう」牧野英二『カントを読む』Pp.258-259、岩波書店、2003年(→「政治的判断力として読むハンナ・アーレント」)

  • 1)反省的判断力は、関心や利害関心として結びつい てはならない
  • 2)心や利害関心として結びついてはならない理由 は、趣味判断か らその不偏不党性、つまり判断の公平性を奪うからである
  • 3)この判断は認 識に関わる理論的関心も、実践的行為に関わる道徳的な関心ももってはならないからである。
  • 4)趣味判断は、実践的な判断ではない。つまり、趣 味判断はあらゆる目的とは分離された観想的な性格をもち、 こうした意味で(のみ)趣味は自由である。
  • 5)美感的判断力は自由な判断から生じる(アーレン トはフランス滞在中にSSの将校に捕まって尋問を受けるが、その時、その将校がとても「ハンサム」であったことを述懐している)
  • 6)趣味の要求が、特定の共同体のなかで、排他的な 基準でなされることは「不道徳」をうむ——このような間主観的認識が「普遍性」をもつことは今後きちんと証明されなければならない。
  • 7)美感的判断は、多様性をもつことが予測され、か つ、その「優劣をめぐって」論争的性格をもつが、潜在的には「その価値判断が多元性を担保する限り」は、調停可能である 8)調停可能という属性には、政治的判断も含まれよ う。美感的判断における反省的判断力は、政治的判断における判断のプロセスにも「応用」可能となる(→以上の出典:「政治的判断力として読むハンナ・アーレント」)。
  • ●アーレント自身の言及(同じく同一の出典:「政治的判断力として読むハン ナ・アーレント」)

    美は公的意 味を帯びる、政治的判断も美的判断も主観により世界を眺め判断するという意味で客観的な与件、すなわちそこに住まう人々にとって共通のものだ

    「しかしながら、『判断力批判』におけるカント の諸命題のまったくの新しさ、それどころか驚くき斬新さは、次の点にある。カ ントが他者との世界の共有という現象をそのすべての威容において発 見したのは、まさに趣味の現象、つまり、美的=感性的な事柄にのみ関わるがゆえに、理性の管轄範 囲はもとより政治の領域の外部にあるとつねに見なされてきた判断の一つにすぎないものを検討して いたときであった、という点にある。カントは、趣味については論議するあたわず(de gustibus non disputandum est) ——当然これは私的な特性には完全に当てはまるの恣意性とか主観性といわれ るものに困惑せざるをえなかった。というのも、この恣意性はかれの政治的感覚——美的感覚ではな いを損なわずにはいなかったからである。 カントは、たしかに美的なものへの溢れんばかりの感 受性の持ち主ではなかったが、美 のもつ公的な性質は大いに意識していた。カントが、ありふれた格 言に対して、趣味判断は「われわれは同一のよろこび[適意]が他者によつても共有されるのを望 む」がゆえに論議しうるものであり、趣 味はそれが「誰であれ他者による合意を期待する」が論争に服しうると強く主張したのも、美的なものが公的な意義を具 えるからにほかならない。それゆ え趣味は、他の判断と同様、共通感覚に訴えるかぎりで「私的感情」のまさに対極をなす。政治的判 断に劣らず美的判断においても何らかの決定が下される。たしかに、この決定はつねに一定の主観によって、つまり誰もがそこから世界を眺め判断する自分自身 の位置をもつという単純な事実によっ て規定されている。しかし、この決定は同時に、世界そのものは、客観的な与件すなわちそこに住ま う者すべてに共通のものである、という事実を拠りどころとするのである。趣味という活動様式は、 この世界が、その効用とかそれにわれわれが抱く重大な利害関心から切り離して、どのように見られ 聞かれるべきか、人びとが今後世界のうちで何を見、何を聞くかを決定する。趣味は、世界をその現 われと世界性において判断する。趣味が世界に抱く関心は純粋に「利害関心なき」ものであるが、 これは、趣味のうちには生命への個人の関心も道徳への自己の関心も含まれないことを意味する。趣 味判断にとっては、世界こそが第一のものであって、人間、つまり人間の生命あるいは人間の自己は 第一のものではないのである」アーレント「文化の危機:その社会的・政治的意義」『過去と未来の間』 引田・斎藤訳、Pp.300-302, 1994年

    「さらに、一般に趣味判断が恣意的であると考えられているのは、立証可能 な事実とか、論拠をもっ て証明されている真理が合意を強制するという意味では、趣味判断は合意を強制しない ことによる。 趣味判断は、説得を試みるという性格を政治的意見と共有する。カントがこの上なく見事に描き出し たように、判断する者は、最終的には他者との合意に達する望みを抱きながら、ただ「あらゆる他者 の同意を請い求める」ことができるだけである。この「請い求め」いいかえれば説得は、ギ リシア人 がペイテインと呼んだものにぴったり一致する。ギリシア人は、ペイテインすなわち他者 を納得させ説得する言論を、人びとが互いに語り合う典型的に政治的な形式と見なしていた。説得が ポリス市民の交わりの基調をなしたのは、それが物理的暴力を排除したからである。のみならずギリ シアの哲学者は、説得が、もう一つの、暴力によらない強制の形式、つまり真理による強制とも異な ることを意識していた。アリストテレスに おいては、説得は、ディアレゲスタイすな わち哲学の言論の形式に対立するものとして登場する。それはまさに、この種の哲学的な論証が認識 や真理の発見に関わり、それゆえ強制的な証明過程を要求したからである。こうしてみると、文化と 政治は同じものに属する。というのは、問題となるのはともに認識や真理ではなく、むしろ、判断と 決定——すなわち、公的生活の領域や共通世界についての賢明な意見交換と、今後世界はどのように見られるべきか、どのような類の事物がそこに現れるべき か、同様にそこでどのような行為の様式がとられるべきかの決定——だからである」アーレント「文化の危機:その社会的・政治的意義」『過去と未来の間』 引田・斎藤訳、Pp.300-302, 1994年

    カント政治哲学講義録(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・ リサーチにて、一九七〇年秋学期)

    1, 18-
    ・カントの法哲学に関する貢献はそれほどな く、カントよりも、プーフェンドルフ、グロチウス、モンテスキューに取り組むほうがまし(19)
    ・歴史を勉強するなら、カントよりも、ヴィーコ、ヘーゲル、マルクスのほうがまし(19)
    ・カントにとって歴史は自然の一部。
    ・カントは一度だけ、気まぐれのように「社交性(Geselligkeit)」こそが人間の使命の最大の目的という(20)
    ・神秘の概念は人間にとっては悲しい内容をともなう(20-21)
    ・晩年の『判断力批判』と初期の『美と崇高の感情にかんする観察』を対位法的に読むと、社会的なものから峻別される政治的なものが人間の基本的条件である と気づくのは晩年だ(21)
    ・判断力批判の執筆の自発性。
    ・理性のスキャンダル——理性が自分自身と矛盾する、思考が知ることができる限界を超越し、自己自身と二律背反(アンチノミー)に陥ること(22)
    ・人間の認識能力とその限界の発見=1770年(22)
    ・躓きの石であり、途上の石だ(22)
    ・『純粋理性批判』(1781)『人倫の形而上学』(1785)
    ・趣味の背景に判断力を発見した、それが『判断力批判』
    ・判断力の能力の格上げ(23)
    イ マヌエル・カント.[カントの判断力批判ノート
    2, 24-
    ・2つの問題:1)人間の社交性(24)、2)判断力批判の中心にある もの(26)
    ・美と崇高の二分法
    ・カントの思考実験の長い長い引用(24-26)——寓意的でイミフ
    ・判断力批判の第一部と第二部のあいだの著しい違い。ボイムラーは老人のきまぐれと厳しい(26)
    ・人間の存在理由=人間とはなにか?は、何を知りうるか、なすべきか、なにを望むことがゆるされるかの、審問の第四番目のものだという(26)
    ・無ではなくなぜあるものがあるか?は、ライプニッツやシェリング、ハイデガーの問いでもある。
    ・ライプニッツの解放は、なぜ存在するのかに答えるのではなく、一切のことがおこった目的を探求する。超越論の召喚(27)
    ・カントの第2部からの答えは、志向的存在者は、自然に属する、目的を有する存在者だから、というもの(28)
    ・これは始まりの契機でもある(28)
    ・人間の存在理由の問いと、カントの主体とその欲望を位相をとり結ぶ関係については??のまま。
    ・だが、この2つを結びつけるのは政治的なものである(28)
    ・2つの結びつき。1)認識的存在者、2)人類について語ること。とくに、後者は、『実践』は道徳法則が認識論的存在者に訴えるが、『判断力』は、地上に 生きる人間について問われれいるから(28)
    ・さらに後者は、判断力が、普遍的なものをみつつこの地上の偶然的なものを含んでいる(28-29)。
    ・第一部は、美それ自体には含まれないが、美しいと感じるものを、扱っている。
    ・特殊な自然の所産を、ある一般的な原因から引き出すことの不可能性。(29)
    ・機械的=自然、という用語法。
    ・目的論を原因論として考えること(29-30)
    ・人間の判断力の源泉を、自然の能力だけでなく、人間の精神能力のために、人間の社交性に依存していることを、解明しようとするのがカントの目論見だ (30)
    ・もともとは、美的判断力は、カントの道徳哲学のなかにはなかった。
    ・実践理性は、3つの問いかけに、推論をとおして答え回答する、すなわち実践理性は、法則を措定するゆえに、実践理性は意志でもある。だが、判断力は別物 だ(31)
    ・フランス革命に対する関心があったは、それはゲームを見守る観客のような感覚。
    ・しかし、晩年に、判断力批判のなかで、政治的なるもの、国家体制的なものへの関心が浮上する。(31-32)
    ・1789年=65歳のときに、それがマックスになる。(32)
    ・国家体制すなわち憲法的なものへの関心、政体の組織化、立憲的な政府。
    ・判断力批判の65節をみよ。
    ・65節の注にある、ひとつの民族はアメリカ合衆国のこと。彼はひとつの民族をひとつの国家にまとめあげるという課題に取り組んでいた。
    ・「永久平和」のなかにある訪問権は、今日でいう観光をする権利のようなもの。ホストは、歓待をする権利もある。そのなかに、自然=偉大な芸術家が、永久 平和を保証すると主張する(33)
    ・このことが『人倫の形而上学』が法論からはじまっていることの理由を説明する。
    ・諸学部の争い——この時には認知症がすすんでいたが——で、憲法を考案することは甘美であると語る。(33)
    ・この甘美なことが、国家元首にとっては義務だとカントはいう。



    3, 34-
    ・カントの晩年は、アメリカ革命、フランス革命の時期であった。
    ・自分の道徳哲学が役立たずであることに、カントは自覚していた。
    ・なぜなら、道徳性から国家体制がうまれるのではなく、よき国家体制からその道徳性がうまれる(34)
    ・よい人間は、よい国家体制のもとで、よき市民になれる(アリストテレス)→しかし、カントは「永久平和論」で、悪魔からなりたつ民族であっても、国家樹 立は可能であり運行しうるという。ということは、悪い人間でもよい国家においては、よい市民たりえることになる。
    ・定言命法は、汝の行為の格率がつねに普遍的法則になりえるようにせよ、であった。だが、「悪い人間でもよい国家においては、よい市民たりえることにな る」は、自分の格率が普遍法則となるべきことを自分でも意欲できる、という以外で、私は為すべきでないということになる。
    ・つまり、こういうこと。嘘をつきたいと思っても、嘘を普遍法則にしたいとは思わない。なぜなら嘘だらけでは、約束というものが成り立たなくなるから。盗 みを普遍法則にすると、所有というものが成り立たなくなる。
    ・カントの悪い人間は自分自身のために例外を設定する人のこと(→悪を志向するもののことではない)
    ・カントの悪の種族は、悪人の集団のことではなく、自分自身を密かに免責にしようとする人たちのこと。(35-36)ここでのポイントは、「密かに」で、 その反対語は公然となので、政治における悪は、公然とおこなうことができない、ということである。
    ・美と崇高の中にも、このような例外をもとめる人の性格から、よき人は少数派だと主張。利己的であることは、本人にとっては叶っていることだからと述べる (36)
    ・必要悪としての悪の種族。このように論理が破綻してしまうのは、人々の背景ではたらく自然を想定していること。政治における改善は、革命も道徳的改心も 不要なものである。国家体制が公共性を前提にすること(=誰の目にも公然なこと)※このあたりのアーレントの修辞はわかりにくい(37)
    ・悪しきものは密やかなものだ。
    ・カントの主張における人間はZoon politicon  ではない。
    ・カントは「活動」を想定していない。38
    (中抜き)
    ・ スピノザの哲学する自由(libertas philosophandi)——『神学・政治論』-- Libertas philosophandi sive libertas academica est iudicium, secundum quod libertas exquaesitionis a discipulis professoribusque maximi momenti sit institutionum fini eruditionis, et eruditi res docere et communicare possint, utrum hae gregibus civilibus accipiantur annon.


    4, 44-
    ・前回、パスカルの引用
    ・カントにおける人間観=「その憂鬱までのデタラメさ」(47)
    ・弁神論へのカントのコメント(48)
    ・人間の把握の3つの相:1)人類とその進歩、2)道徳的存在者かつ目的自体としての人間、3)複数形の人々(51)
    ・人間の議論は、『純粋理性批判』と『実践理性批判』で、人々の議論は『判断力批判』第一部「美的判断力」で(52)


    5, 53-
    ・『純粋理性批判』は、感性の賛美ではないものの、感性は正当化してい る
    ・『純粋』の最後(55)
    ・カントの政治的姿勢(56)
    ・カント内に政治哲学は存在するが、彼自身はそれを書かなかった(59)
    ・批判の一方には「独断論的形而上学」があり、他方に、懐疑論がある(61)
    ・なぜ、批判という文字がタイトルに入るか?(63)

    6 , 64-
    ・マルクスの批判概念(68)
    ・『批判』を通俗化すること(73)

    7、76-
    ・事実に対する問い(quqestio facti)と権利に対する問い(quaestio juris)
    ・精神の拡大は、『判断力批判』には大きな意味がある(80)「判断力」第40節
    ・「すなわち、趣味性がそう名づけられるよりも多くの権利をもって、センスス・コンムニスと名づけられうるし、また、人がほかならぬ感官という語を心にお よぼすたんなる反省の作用について用いようとするなら、そのときには感官は快の感情を意味するから、知性的判断力よりもむしろ美感的判断力が共通的惑官と いう名称をつけられることができると。人はさらに趣味を、或る与えられた表象での私たちの感情を概念の媒介なしで普遍的に伝達可能ならしめるものの判定能 力と定義しうるかもしれない」(理想社版、原訳、199-200ページ)
    ・最後に『諸学部の争い』を紹介する。

    8
    ・「民衆の諸権利」(88)
    ・革命に対して次第に慎重になるカント(88)
    ・行為の基準になる原理〈対〉判断の基準になる原理(89)
    ・公共性という超越論的原理(90)
    ・政治と道徳のあらそい(92)
    ・格率の私秘性(プライバシー)に固執することは悪
    ・人間は立法者
    ・悪は自己破壊性(95)




    9
    ・『永久平和のために』
    ・ヘーゲルのフランス革命(106)——「歴史哲学」


    10
    ・「カントは政治哲学を書いていないわけですから、この間題について彼 が考えていたことを知る最良の やり方は、彼の「美的判断力の批判」に当たることでしょう。ここでカントは、芸術作品の制作=産出 を、作品について判定する趣味との関係で論じていますが、ここでも同じような問題に直面 しています。私たちには、ある光景について判断するためにまず自分がその光景に立ち会わねばならない と考える傾向があります——それには理由がありますが、その理由について立ち入って論じる必要はない でしょう。つまり、注視者=観客は、行為者=演技者に対して二次的な位置しか占めていないと考える傾向がある、 ということです」(114-115)


    11

    ・キケロ「沈黙の感覚(silent sense)」——誰しも、芸術の良し悪しを判断できるのに、芸術を制作できるものはほとんどいない。
    ・グラシアンは、この感覚を趣味と名付ける(122)
    ・「私たちは味覚と嗅覚 が感覚の内で最も私的な感覚であること、つまり、これらが感受する対象ではなく感覚(sensation) であり、しかもこの感覚は対象に拘束されず、想起も不可能であることに言及しました(バラの香りや特殊 な料理の味は、もう一度感受すればそれだと認識することができますが、そうしたバラや食べ物が不在の場合、現前 させることはできません。かつて見たことのある光景や聴いたことのあるメロディーであれば、たとえそれらが不在で も、現前させることはできますが、同じ様にはいかないのです。言い換えれば、香りや味は再現前化できない感覚なの です)。同時に私たちは、何故趣味が他のどの感覚にもまじて、判断力の器となるかについても検討し ました。その理由は、味覚と嗅覚のみがまさにその本性からして排他=判別的(discriminatory)であるこ と、そしてこの2つの感覚のみが、特殊としての特殊へ関係するのに対して、客観的感覚に与えられる対 象は全て寸他の対象とその属性を共有すること、つまりユニークなものではないということにありました」(p.122)

    ・「美しいものが関心をひくのは、経験的に社会においてのみである」(『判断力批判』第41節、理想社版、原訳、201ページ)
    ・カントは「道徳的趣味批判」を書く計画だった。

    12
    ・「構想 力」(127)
    ・判断力批判、39節、感覚の伝達可能性について(129)
    ・判断力批判、40節、一種の
    共通感覚としての趣味







    13
    ・判断力批 判、41節、美しいものに対する経験的関心について(135)



    ・カントの 4つの問い


    ◎カントの自由概念

    カントの自由とは、意志の自由、意志の自律という自由。他者からの制約からの自由(→消極的自由)ではない。自ら道徳的法則を立てて、それに従う、自己拘束の 自由(→積極的自由:積極的自由(positive liberty) とは、個人が自己実現や能力を発揮するときに、まさに自分の思うままにその能力を発揮する時の自由である。後者の積極的自由には、積極的自由が発揮される ような「他者の権力」というものが想定されていない。)。この自由は「構想力の自由」とも呼ばれる。

    これを政治的自由の概念に外挿すると、(カントの美的判断のレパートリーである)趣味の判断である、価値表現の自由は、自分の責任におい て、他者において主張することであり、それにおいて他者との対話を通して、自己の主張と通したり、あるいは逆に変更を可能にする自由をも保証している。な ぜなら、各人が各人において責任を担うことが合意されているからである。

    ただし、この意志の自由の概念は、フランクフルト学派(例えば『啓蒙の弁証法』)によると、当初の普遍主義に出発しながら、やがて独断論に 陥り、原理主義的な考え方にいたる時に、最初の意志の自由を蝕む可能性がある(→「アイヒ マンの態度」参照)。

    カントは、『判断力批判』において、「他のあらゆる人の立場にたって考える」ことは「視野の広い考え方」だとした。判断力は(趣味判断ゆえ に)自分自身に頼らなくてはならないのに、独断論から回避するような考え方をももつ。

    ◎ハロルド・ベイナー

    ◎アーレントは、趣味判断を政治的判断とするために、何を克服しなければならないか?

    アレントの独自性は、カントの判断力批判のなかに、政治的な含意を読み取ろうとしたことにある。

    『思考』への補遺(『精神の生活』第一巻より)

    カント政治哲学講義録(ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチにて、一九七〇年秋学期);この時に、ハンス・ヨナスとの議論のなかで 反省的判断力は、手すりなき(Without a Banister)思考の時代に、哲学することのヒントを、カントの判断力批判における美学的反省的判断能力のなかに「手すり(Banister)」の可 能性を見出します。

    構想力(一九七〇年秋、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで行なわれた、カントの『判断力批判』についてのセミナー)

    ハンナ・アーレントの判断論(判断・袋小路の解決;理解と歴史的判断力;アイヒマンを裁く ほか)

    訳者解説 アーレントの判断力論

    ◎雑多な情報

    ・カントの構想力=イマジネーションは、不在のものを現前させる能力(162)

    ・過去を現前させる能力=記憶『人間学』

    第1部 アーレントのテキスト(カント政治哲学の講義(カントに政治哲学があるか;『判断力批判』の問題性;哲学者の政治的関心 ほか);構想 力)
    第2部 解釈的試論(ハンナ・アーレントの判断作用について(ロナルド・ベイナー)(判断作用—袋小路の解決;理解と歴史的判断力;アイヒマンを裁く ほ か))

    リンク

    文献

  • 完 訳カント政治哲学講義録  / ハンナ・アーレント原著 ; ロナルド・ベイナー原著編 ; 仲正昌樹訳 ; 浜野喬士訳書編, 明月堂書店 , 2009
  • カ ント政治哲学の講義 / ハンナ・アーレント著 ; ロナルド・ベイナー編 ; 浜田義文監訳 ; 伊藤宏一 [ほか] 訳, 法政大学出版局 , 1987.
  • カントを読む : ポストモダニズム以降の批判哲学 / 牧野英二著, 岩波書店 , 2014.
  • アーレント「文化の危機:その社会的・政治的意義」『過去と未来の間』引田・斎藤訳、Pp.300- 302, 1994年
  • その他の情報


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