かならずよんで ね!

ディスタンクシオン:趣味判断の社会批判

La distinction : Critique sociale du jugement

池田光穂

ピーエル・ブルデュ『ディスタンクシオン』についてのウィキペディアの記事を検証する。

ディスタンクシオン(仏: La distinction : Critique sociale du jugement)字幕付きの社会的批評の判決 )は、1979年にピエール・ブルデュー[1]によって手がけられた著書。同年に発行され、1984年に英訳が出版された。著者ブルデュー自身による 1963年から1968年にわたる実証研究をもとにした著書であり、フランス文化について社会学的に分析した本である。国際社会学会は1998年にこの 『ディスタンクシオン』を20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊に選出した[2]。
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Distinction: A Social Critique of the Judgement of Taste (La Distinction: Critique sociale du jugement, 1979) by Pierre Bourdieu, is a sociological report about the state of French culture, based upon the author's empirical research from 1963 until 1968. The English translation was published in 1984, and, in 1998, the International Sociological Association voted Distinction as an important book of sociology published in the 20th century.[1]
ディスティンクション。ピエール・ブルデューによる『区別:味覚の判断 の社会的批判』(La Distinction: Critique sociale du jugement, 1979)は、1963年から1968年までの著者の実証研究に基づく、フランス文化のあり方についての社会学報告書である。1984年に英訳版が出版さ れ、1998年には国際社会学会の投票により、20世紀に出版された社会学の重要な書物として「Distinction」が選ばれた[1]。
著者ブルデューは、相対的な地位の社会的空間内で社会的エージェントを 分類した空間は、2つの軸に沿った多次元統計分析から構築され[3] 文化的資本、つまり経済的手段を超えた社会的移動を促進する教育などの非金融的な社会的資産を多く持つ人々が、社会の中で何が嗜好を構成するかを決定する ことができると指摘している。全体的な資本の量が少ない人々は、この嗜好、および文化の高低の区別を正当かつ自然なものとして受け入れ、それゆえに、様々 な形態の資本(経済的、社会的、文化的)間の変換に対する既存の制限を受け入れる。全体的な資本が低い人々は、そのために必要な手段を欠いているため、よ り大量の文化資本にアクセスすることができない。これは、例えば、彼らの生息地の特徴などから、古典的な芸術作品を説明するための用語や理解する方法を欠 いていることを意味しているかもしれない。この点でブルデューは、「労働者階級の人々は対象物が機能を果たすことを期待している」のに対し、経済的必需品 から解放された人々は、日常生活から切り離された純粋なまなざしを操作することができると主張している[4] 。 味覚の「支配的な」形態の受容は、ブルデューは「象徴的暴力」の一形態であると主張している。さらに、下位の社会階級が何が良くて何が良くないかについて 独自の考えを持っているように見えても、「労働者階級の美学は支配階級の美学であり、支配階級の支配的な美学の観点から自己を定義することを常に余儀なく されている」ということ[5]を指摘した。
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Summary
As a social critique of the judgements of taste, Distinction (1979) proposes that people with much cultural capital — education and intellect, style of speech and style of dress, etc. — participate in determining what distinct aesthetic values constitute good taste within their society. Circumstantially, people with less cultural capital accept as natural and legitimate that ruling-class definition of taste, the consequent distinctions between high culture and low culture, and their restrictions upon the social conversion of the types of economic capital, social capital, and cultural capital.

The social inequality created by the limitations of their habitus (mental attitudes, personal habits, and skills) renders people with little cultural capital the social inferiors of the ruling class. Because they lack the superior education (cultural knowledge) needed to describe, appreciate, and enjoy the aesthetics of a work of art, ‘working-class people expect objects to fulfil a function’ as practical entertainment and mental diversion, whilst middle-class and upper-class people passively enjoy an objet d’art as a work of art, by way of the gaze of aesthetic appreciation.[2]

The acceptance of socially dominant forms of taste is a type of symbolic violence between social classes, made manifest in the power differential that allows the ruling class to define, impose, and endorse norms of good taste upon all of society.[3] Hence, the naturalization of the distinction of taste and its misrepresentation as socially necessary, deny the dominated classes the cultural capital with which to define their own world. Moreover, despite the dominated classes producing their own definitions of good taste and of bad taste, "the working-class ‘aesthetic’ is a dominated aesthetic, which is constantly obliged to define itself in [the] terms of the dominant aesthetics" of the ruling class.[4]
概要
味覚の判断に対する社会批判として、『区別』(1979)は、教育や知性、話し方や服装などの文化資本を多く持つ人々が、その社会で良い味覚を構成する明 確な美的価値の決定に参加していることを提案している。文化資本の少ない人々は、支配階級による趣味の定義、その結果として生じる高い文化と低い文化の区 別、そして経済資本、社会資本、文化資本といった種類の社会的転換に対する制限を自然かつ正当なものとして受け入れているのである。

ハビトゥス(精神的態度、個人的習慣、技能)の制限によって生じる社会的不平等によって、文化資本の乏しい人々は支配階級の社会的劣位に置かれる。彼らは 芸術作品の美学を説明し、評価し、楽しむために必要な優れた教育(文化的知識)を持たないため、「労働者階級の人々は実用的な娯楽や精神の気晴らしとして 対象が機能を果たすことを期待し」、一方、中流と上流の人々は美的鑑賞という視線によって芸術作品としてオブジェを受動的に楽しんでいるのである[2]。

社会的に支配的な味覚の形式を受け入れることは、社会階級間の象徴的な暴力の一種であり、支配階級が社会全体に対して良い味覚の規範を定義し、押し付け、 支持することを可能にする力の差に現れている[3]。 したがって、味の区別の自然化とその社会的に必要としての誤った表現は、支配階級が彼ら自身の世界を定義する文化資本を否定しているのである。さらに、支 配階級が良い味と悪い味の独自の定義を生み出しているにもかかわらず、「労働者階級の『美学』は支配階級の美学であり、支配階級の美学の[用語]で自分自 身を定義しなければならないことを常に強いられている」[4]。
理論
人の美的選択は、階級的分派(階級に基づく社会集団)を形成し、ある社会階級と他の社会階級との間に積極的な距離を置く。したがって、特定の種類の食べ 物、音楽、芸術に対する素因は、子供に教えられ、植え付けられ、これらのクラス固有の(特定でも個人でもない)嗜好は、子供を彼らの「適切な」社会的地位 に導くのに役立つ。したがって、クラスフラクションへの自己選択は、与えられた社会階級のメンバーとして彼または彼女のために適したオブジェクトや行動の ための好みの子供の内在化を促すことによって達成され、また、他の社会階級の好ましいオブジェクトや行動に対する嫌悪感の開発が行われます。実際には、男 性や女性が他の社会階級の文化や芸術に出会うと、「嫌悪感、恐怖によって誘発されたもの、あるいは他の人の嗜好に対する内臓的な不寛容(「気分が悪くな る」)」を感じる。

したがって、『味』は文化的覇権の重要な例であり、階級的分断がどのように決定されるかを示す重要な例である。それは、社会資本や経済資本の保有だけでな く、文化資本の保有でもある。文化資本を植え付け、獲得することは、支配階級の文化的再生産だけでなく、社会的再生産を確実にするための陰湿なメカニズム として利用される。また、人は幼少期に自分の嗜好を教えられるため、嗜好は深く内在化される。味覚のための社会的再コンディショニングは非常に困難であ る。植え付けられ、後天的に獲得された味覚は、その人がある社会階級の出身者であることを恒久的に特定する傾向があり、それが社会的な流動性を阻害するの である。このようにして、支配的な(支配的な)階級の文化的嗜好が他の社会階級の嗜好を支配する傾向があり、経済的にも文化的にも支配的な階級の個々の男 女は、支配的な美的嗜好に適合するか、あるいは「社会的」(しかし実際には小数の支配的な)不支持を受ける危険性があり、粗野で下品で味気ないように見え るのである。
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Theory
In the development of social-class identity, the aesthetic choices that people make for themselves also create social-class factions, which are in-groups that distance members of a social class from each other and from other social classes. The cultural capital taught to children, a predisposition towards a certain cuisine, certain types of music, and a certain taste in art are the distinctions of taste that then guide children to their places in their social class and within the hierarchy of social classes. Such self-selection into a social class is achieved by the child's internalization of preferences for objects and behaviours particular to a given social class, and the internalization of a cultural aversion towards the other social classes, a feeling of "disgust, provoked by horror, or visceral intolerance (‘feeling sick’) of the [bad] tastes of others."[5]

The cultural tastes of the ruling class (communicated through the dominant ideology) determine what is good taste and what is bad taste for the middle class and for the working class. Therefore, the concept of good taste is an example of cultural hegemony, of how a ruling class exercise social control by their possession of the types of capital (social capital, economic capital, cultural capital) that ensure the social reproduction and the cultural reproduction of themselves, as a ruling class. Because persons are taught their cultural tastes in childhood, a person's taste in culture is internalized to their personality, and identify his or her origin in a given social class, which might or might not impede upward social mobility.
理論
社会階級的アイデンティティの形成において、人々が自分自身のために行う美的選択は、社会階級の構成員を互いに、また他の社会階級から距離を置く内集団で ある社会階級派閥も作り出す。子供たちに教えられた文化資本、特定の料理、特定の種類の音楽、特定の芸術の好みに対する素因は、その後、子供たちを社会階 級や社会階級のヒエラルキーの中での自分の位置に導く味覚の区別となるのである。このような社会階級への自己選択は、子どもが与えられた社会階級に特有の 物や行動に対する好みを内面化し、他の社会階級に対する文化的嫌悪感、すなわち「他人の[悪い]味覚に対する嫌悪、恐怖による誘発、あるいは内臓の不寛容 (「気分が悪い」)」の感情を内面化することによって達成される[5]。

支配階級の文化的嗜好(支配的イデオロギーを通じて伝達される)は、中産階級と労働者階級にとって何が良い味であり、何が悪い味であるのかを決定してい る。したがって、良い味という概念は文化的ヘゲモニーの一例であり、支配階級が支配階級としての自分たちの社会的再生産と文化的再生産を保証する資本の種 類(社会資本、経済資本、文化資本)の所有によっていかに社会支配を行使するかを示しているのである。人は幼少期に文化的嗜好を教えられるので、文化的嗜 好はその人の人格に内面化され、ある社会階級での出自を特定し、それが社会的上昇を阻害することもあれば、しない場合もある。
方法論
構造主義に影響を受けたブルデューは、現代社会学における回帰分析への伝統的な依存を超えて、より厳密な量的アプローチを実現しようとした。ブルデュー は、複数の独立変数の相関関係に頼るのではなく、「そのような相関関係の中に記録された効果に固有の力と形態の真の原理を構成する関係の完全なシステム」 を見ることができるような枠組みを開発することに関心を持っていた。『La Distinction』の分析のために、ブルデューは、統計技術者であるサラ・ブーヘジャと共同で、1963 年の「コダック調査」と 1967 年の「味覚調査」という 2 つの調査から得られたデータを用いて、複数回の対応関係分析を行った。この分析に加えて、ブルデューは、ブルデューが「支配階級」と「小ブルジョワジー」 と呼んだデータのサブセット、すなわち「支配階級」と「小ブルジョワジー」の回答にも対応関係分析を適用した。この種の研究は、幾何学的データ分析、特に 多重量分析の初期の試みを代表するものであり、これはブルデューの後の研究において重要な方法論的枠組みとなった[6]。
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Methodology
The sociologist Bourdieu developed an analytical framework that allowed viewing "the complete system of [social] relations that make up the true principle of the force and form specific to the effects recorded in such and such correlation." In La Distinction: A Social Critique of the Judgements of Taste (1979), Bourdieu and the statistician Salah Bouhedja employed correspondence analysis of the data from two surveys: (i) the "Kodak survey" (1963) and (ii) the "Taste survey" (1967). In addition to those analyses, Bourdieu applied correspondence analysis to a data subset from the "dominant classes" and from the "petite-bourgeoisie." The research was a geometric data analysis, specifically a multiple correspondence analysis.[6]

方法論
社会学者ブルデューは、「このような相関関係に記録された効果に固有の力と形の真の原理を構成する(社会的)関係の完全なシステム」を見ることができる分 析的枠組みを開発した。ラ・ディスティンクション』(La Distinction: ブルデューと統計学者のサラ・ブヘジャは、『ラ・ディスティンクション:味覚判断の社会批判』(1979年)において、(i)「コダック調査」(1963 年)と(ii)「味覚調査」(1967年)という二つの調査データの対応分析を行っている。ブルデューは、これらの分析に加えて、「支配階級」と「プチブ ルジョワジー」のデータの部分集合にコレスポンデンス分析を適用した。この研究は幾何学的なデータ分析であり、具体的には多重コレスポンデンス分析であっ た[6]。
評価
1998年、国際社会学会は、ピーター・L・ベルガーとトマス・ラックマンの『現実の社会的構築』(1966年)に次ぐ、20世紀の最も重要な社会学書 10冊のひとつとして『ディスタンクシオン』を選出した。一方で、現代アメリカの評論家カミーユ・パリーアは、嗜好が場所や時代や階級といった社会的前提 に応じて変わるというブルデューの主張はもっともだが、それは50年前当時においても自明のことだったはずだと指摘した[7] 。
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Reception
In 1998 the International Sociological Association voted Distinction as one of the ten most important sociology books of the 20th century, behind Peter L. Berger and Thomas Luckmann's The Social Construction of Reality (1966), but ahead of Norbert Elias' The Civilizing Process (1939).[1] The critic Camille Paglia expressed agreement with Bourdieu's conclusion that taste depends on changing social assumptions, but suggested that it should have been obvious, and dismissed Distinction.[7]


受容
1998年に国際社会学会は『区別』を20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊として投票し、ピーター・L・バーガーとトーマス・ラックマンの 『現実の社会構築』(1966年)に次いで、ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』(1939年)を上回った[1]。 批評家のカミーユ・パリアは、味が社会的前提を変えることに依存しているというブルデューの結論に同意を示しながらも、それは明らかだったはずであり区別 は否定した[7]と示唆した。


石井洋二郎訳『ディスタンクシオン:社会的判断力批判  I,II』、藤原書店、1990年
改版『ディスタンクシオン〈普及版〉  I,II』、藤原書店、2020年


https://bit.ly/3I19vvr

La Distinction (sous-titré Critique sociale du jugement) est un ouvrage publié en 1979 par Pierre Bourdieu1 qui élabore dans une perspective sociologique une théorie des goûts et des styles de vie. En 1998, l'Association internationale de sociologie a désigné La Distinction comme l'un des dix livres de sociologie les plus importants du xxe siècle2.
La Distinction』(副題:Critique sociale du jugement)は、ピエール・ブルデュー1が1979年に出版した、社会学的観点から嗜好やライフスタイルの理論を展開した書物である。1998年、 国際社会学会は『La Distinction』を20世紀の最も重要な社会学書10冊のうちの1冊に選出した2。
Bourdieu classe les agents sociaux à l'intérieur d'un espace social des positions relatives. Cet espace est construit à partir d'une analyse statistique multidimensionnelle selon deux axes3. Le premier représente le volume global de capital qu'un agent possède, tous capitaux confondus (capital social, capital culturel, capital économique). Il croît de bas en haut. Le second axe représente le rapport entre le capital culturel et le capital économique des agents.

L'espace social est défini dans cet ouvrage comme un champ de forces dans la mesure où les propriétés retenues pour le définir sont des propriétés agissantes.

Dans cet ouvrage, Bourdieu définit également ce qu'il appelle la lutte pour la distinction et qui transforme des différences très faibles en différences radicales puisque hiérarchisées.

Dans un champ social spécifique, les agents sont constamment pris entre deux intentions contradictoires. Pour être reconnu dans un champ, il faut s'y distinguer, mais s'y distinguer conduit aussi à en être écarté. Les agents doivent donc s'ajuster à la juste mesure entre la distinction et la conformité. Avoir du style, c'est suivre la mode tout en s'en détachant par quelques touches personnelles.

Le rapport à l'alimentation qu'entretiennent les classes supérieures et les classes populaires diffèrent en plusieurs points, que ce soit dans les aliments consommés que dans les manières de les consommer. Cependant, nous pouvons constater qu'ils diffèrent non seulement selon le capital économique mais également culturel. En effet, les groupes ayant un faible capital culturel se rejoignent dans l'abondance de nourritures. Là, la "bouffe" est opposée à la "grande bouffe". La quantité et la richesse de la nourriture s'accroissent parallèlement au capital culturel. A contrario, les groupes qui ont un fort capital économique mais également un fort capital culturel vont se distinguer par de la nourriture plus fine, rare et raffinée. La qualité contre la quantité, les mets originaux et exotiques sont préférés aux mets authentiques et familiaux.

En effet, là où la classe ouvrière préférera les soupes, plats en sauces (...) les marmites posées au centre de la tablée, où chacun se sert avec la même louche, (évoquant le partage d'une même substance, une incorporation à la cellule familiale par la nourriture), peut se resservir plusieurs fois (surtout les hommes, les femmes auront tendance à se priver) ; la classe supérieure préférera les portions individuelles de viandes ou poissons ou légumes grillées. En cellule familiale restreinte ou avec des invités, le rapport à la nourriture change selon la classe sociale, chez les premiers l'accent est mis sur la force apportée par cette nourriture, la substance même ingurgitée est incorporée et donne force au corps. Pour les classes supérieures, l'accent est mis sur la forme. Les portions individuelles sont préférées, la nourriture saine remplace la nourriture nourrissante, la vision du corps est hygiéniste. L'abondance et la grosseur sont considérées comme vulgaires. Le repas est mis en scène, rythmé, l'habitus d'ordre et de convenance se déploie également dans cette cérémonie sociale. La nécessité de se nourrir est mise à distance et par là, la nature elle-même est censurée. Le culturel devient plus important, les bruits, la précipitation sont proscrits au profit de la retenue, le repas se transformant en art-de-vivre, se détache de l'utilité au profit de la futilité, du corps au profit de l'intellect.

La vision de la femme est également importante pour comprendre ces distinctions. En effet, moins cantonnée au domestique dans les classes dominantes, la femme change de statut, elle perd son statut de mère nourricière qui prend le temps de faire des plats nécessitant plusieurs heures de travail pour acquérir celui de femme active, la valeur de son temps étant maintenant capitalisé : il compte plus et devient donc plus précieux.

D'après l'historien et libertaire américain Larry Portis, Bourdieu y a développé les idées défendues par Edmond Goblot cinquante ans plus tôt « en exploitant des techniques statistiques, des documents photographiques, des interviews et des diagrammes »4.
ブルデューは、社会的主体を相対的な位置づけの社会空間の中に分類して いる。この空間は、2つの軸に沿った多次元統計解析から構築されている3 。1つ目は、エージェントが保有するすべての資本(社会資本、文化資本、経済資本)を合わせた総量を表すものである。下から上へ向かって増えていきます。 第二軸は、エージェントの文化資本と経済資本の比率を表しています。

この作品では、社会空間を定義するために保持されている性質が作用的性質である限り、社会空間は力の場として定義される。

また、ブルデューはこの著作の中で、非常に小さな差異を階層的であるがゆえに根本的な差異に変えてしまう、区別のための闘争と呼ぶべきものを定義している。

特定の社会的な場において、エージェントは常に2つの矛盾した意図の間に挟まれている。ある分野で認められるためには、自分を際立たせなければならない。 しかし、自分を際立たせることは、同時に排除されることにもつながるのだ。そのため、エージェントは区別と適合のバランスを適切に調整する必要がありま す。スタイルとは、ファッションを追いかけると同時に、自分らしさを加えてファッションから切り離すことです。

食に関する上流階級と下層階級の関係は、食べるもの、食べ方などいくつかの点で異なっている。しかし、経済資本だけでなく、文化資本によっても違いがある ことがわかる。確かに、文化資本の低い集団は、豊富な食料の中で出会います。ここでは、「グラブ」は「大食い」に対抗するものである。食の量と豊かさは、 文化資本と並行して増加する。一方、経済資本が高くても文化資本も高い集団は、より繊細で希少価値の高い洗練された食品で自らを差別化する。質より量、本 格的な家庭料理よりオリジナルでエキゾチックな料理が好まれる。

実際、労働者階級がスープやソースを使った料理を好むのに対し、テーブルの中央に置かれた鍋は、誰もが同じレードルで自分の分を取り、何度もおかわりする ことができる(同じ物質を共有すること、食事を通じて家族の一員になることを連想させる)。少人数の家族単位や来客がある場合、社会階層によって食との関 係は変化する。前者の場合、食によってもたらされる力が重視され、物質そのものが組み込まれ、体に力を与えてくれるのだ。上流階級の場合は、形が重視され ます。個食が好まれ、健康食が滋養食に代わり、身体観が衛生的である。豊かさと太さは下品とされる。食事は演出され、リズミカルで、秩序と礼儀のハビトゥ スはこの社会的儀式にも展開される。食の必要性が遠ざけられ、その結果、自然そのものが検閲されてしまうのです。文化的なものがより重要になり、騒音や急 ぐことが禁止され、抑制が効くようになり、食事は生活の芸術となり、実用性から無益性を、肉体から知性を切り離すようになる。

また、こうした区別を理解する上で、女性のビジョンも重要です。何時間もかけて料理を作る育ての母としての地位から、活動的な女性としての地位へと、女性の地位は変化し、その時間の価値は資本化され、より重要で貴重なものとなった。

アメリカの歴史家でありリバタリアンでもあるラリー・ポーティスによれば、ブルデューは、エドモンド・ゴブロが50年前に擁護した考えを「統計的手法、写真資料、インタビュー、図表を駆使して」発展させたというが4。








ブルデュのスキーム:文化資本と経済資本はトレーオフの関係になってる!!

●ピエール・ブルデューさんの「資本と階級の区別(ディスタンクシオン)の理論」より

ブ ルデューは、生産的利用に供される特定の資産の合計として定義された資本の概念を導入した。ブルデューにとって、このような資産は様々な形をとり、経済 的、象徴的、文化的、社会的な資本のいくつかの主要な形を常に言及していた。ロイック・ワカンは、ブルデューの思想をさらに次のように説明している。

資本には、経済的、文化的、社会的な3つの主要な種がある。第4の種である象徴的資本は、人々が資本をそのように認識していない場合の、あらゆる形態の資本の効果を示すものである。

ブルデューは、1979年に発表した『Distinction』で、美的嗜好に基づく社会的階層化の理論を展開した。ハーバード大学出版局から出版された 1979年の著作『Distinction: A Social Critique of the Judgment of the Taste』(仏語:La Distinction)では、美的嗜好に基づく社会的階層化の理論を展開している。ブルデューは、自分の社会的空間をどのように世界に提示するか、つま り美的傾向をどのように選択するかによって、自分の地位が決定され、より低い集団から自分を遠ざけることになると主張している。具体的には、ブルデュー は、子どもたちが幼少期にこのような感情を内在化し、そのような感情が子どもたちを適切な社会的地位へと導き、自分たちに適した行動へと導き、他の行動へ の嫌悪感を育むという仮説を立てている。

ブルデューは、階級分数が若者に美的嗜好を教えていると理論化している。階級区分は、社会的、経済的、文化的資本の程度の違いの組み合わせによって決定さ れる。社会は「象徴的な商品、特に優れた属性とみなされるものを(区別の戦略における理想的な武器として)」組み込んでいる。彼は、「文化資本の違いは、 階級間の違いを示すものである」と述べることで、文化資本の支配を早くから強調している。

美的傾向の発達 は、時間をかけて蓄積された資本や経験というよりも、社会的な出自によって非常に大きく決定される。文化資本の獲得は、「人生の早い時期から家族の中で行 われる、総ての、早い時期の、感知できないほどの学習」に大きく依存している。ブルデューは、主に、人々は文化的態度、すなわち、長老が彼らに提供する受 け入れられた「定義」を継承すると論じている。

ブルデューは、社会資本と経済資本は、時間をかけて累積的に獲得されたものではあるが、それに依存していると主張し、社会的出自と文化資本の優位性を主張 している。ブルデューは、「人は、幼少期から(統計的に)高所得か低所得かに関連し、これらの条件に適応した嗜好を形成する傾向のある社会的条件のすべて の特性を考慮に入れなければならない」と主張している。

ブルデューによれば、食品、文化、プレゼンテーションの嗜好は階級の指標であり、その消費の傾向は社会における個人の適合性と一見相関しているように見え るからである[6]。異なる社会的地位に基づく多数の消費者の関心は、各分派が「独自の芸術家や哲学者、新聞や批評家を持っているのと同じように、美容 師、インテリアデコレーター、仕立屋を持っている」ことを必然的に必要とする。

しかし、ブルデューは文化資本の形成における社会資本と経済資本の重要性を無視しているわけではない。例えば、芸術の制作や楽器を演奏する能力は、「芸術 や文化の世界に長く定着していることに関連している 態度だけでなく、経済的な手段や余暇も前提としている」。しかし、自分の好みに基づいて行動する能力に関係なく、ブルデューは、「回答者は、正当な... 文化に対する地位に起因する親近感を表明することだけが求められている」と規定している。

「味覚」はある種の社会的志向、「自分の居場所の感覚」として機能し、与えられた...社会的空間の占有者を、自分の特性に合わせて調整された社会的地位、そしてその地位の占有者にふさわしい慣行や商品へと導く。

21]:65 これらの「認知構造は...内在化された『具現化された』社会構造であり、個人にとって自然な存在となる」。このようにして、異なる嗜好は不自然なものと して見られ、拒絶され、その結果、「他人の嗜好に対する恐怖や内臓的な不寛容(『気分が悪くなる』)によって引き起こされる嫌悪感」。ブルデュー自身は、 階級の区別や嗜好は、日常生活の中での日常的な選択の中で最も顕著であると考えている。

家具、衣服、料理などの日常的な存在の普通の選択の中で最も顕著に表れているが、それらは教育制度の範囲外にあるため、いわば裸の味覚と対峙しなければならないため、深く根付いた、長年に亘っての傾向を特に明らかにしている。

実際、ブルデューは、「幼児の学習の最も強力で最も忘れがたいマーク」は、おそらく食べ物の味になると考えている。ブルデューは、特別な日に提供される食 事は、「ライフスタイル(家具も一部を果たしている)を『見せびらかす』で採用された自己表現のモードの興味深い指標であると考えている」。アイデアは、 彼らの好き嫌いは、関連付けられたクラスの分数のものをミラーリングすべきであるということである。

社会階層の下端からの子供たちは、夕食のレイアウトで「重くて脂肪分の多い太りやすい食べ物を選び、それも安い」と予測され、「独創的でエキゾチック」な 食べ物とは対照的に、「たっぷりとした良い」食事を選ぶことになる。これらの潜在的な結果は、下層階級の特徴である「歓楽的な耽溺」とは対照的な、ブル デューの「社会階層の最高レベルで最も認識されている、痩せのための禁酒の倫理」を強化することになるだろう。

社会的出自がこれらの嗜好に影響を与える程度は、教育資本と経済資本の両方を超えている。本能的な物語は発達の初期段階から生まれるので、自分の社会環境 をどのように記述するかは、社会的起源と密接に関係している。また、労働区分を超えて、「経済的制約は、支出のパターンに根本的な変化がなくても緩和され る傾向がある」。この観察は、経済的能力に関係なく、消費パターンが安定したままであるため、経済的資本よりも社会的起源の方が美的嗜好を生み出すという 考えを補強している。


象徴的な資本
ブルデューは、象徴的資本(威信、名誉、注目など)を権力の重要な源泉と見なしている[7]。象徴的資本とは、ロイック・ワカンの言葉を借りれば、「その ように認識されない」が、代わりに社会的に植え付けられた分類スキームによって認識される、あらゆる種類の資本のことである。象徴的な資本を持つ者が、そ れよりも少ない資本を持つ者に対してこの力を行使し、それによって自分たちの行動を変えようとするとき、彼らは象徴的な暴力を行使する。

象徴的暴力とは、基本的には、支配された社会的エージェントに思考と認識のカテゴリーを押し付けることであり、その結果、社会秩序を正当なものとすること になる。それは、支配者の行動の構造を永続させる傾向のある無意識の構造の組み込みである。支配された者たちは、その後、自分たちの立場を「正しい」とす る。象徴的な暴力は、ある意味では物理的な暴力よりもはるかに強力であり、個人の行動様式や認知構造そのものに埋め込まれており、社会秩序の正当性のスペ クタクルを課している。

ブルデューは理論的な著作の中で、社会的・文化的な再生産の過程を分析するために、経済学で使われてい る用語をいくつか用いて、さまざまな形態の資本がどのように世代から世代へと移行していくかを分析している。ブルデューにとって、正式な教育は、このプロ セスの重要な例である。ブルデューによれば、教育の成功とは、あらゆる文化的行動を伴うものであり、それは、身のこなしや服装、アクセントなど、表向きに は学問的ではない特徴にまで及んでいる。特権を持つ子どもたちは、教師がそうであるように、この行動を学んできた。恵まれていない背景を持つ子どもたちは そうではない。特権を持っている子供たちは、それゆえに、教師の期待のパターンに 明らかに「簡単に」適合し、「従順」である。恵まれていない子供たちは、「困難」であり、「課題」を提示することがわかっている。しかし、どちらも育った 環境の指示通りに行動している。ブルデューは、この「容易さ」、つまり「自然な」能力の区別を、実際には、大部分が親の側にあ る大きな社会的労働の産物であると見なしている。それは、彼らが教育制度の中で成功し、より広い社会制度の中で両親の階級的地位を再現することができるこ とを保証する思考と同様に、マナーの気質を彼らの子供に装備させる。



文化資本
文化資本とは、文化的権威を動員することを可能にする能力、技能、資格などの資産のことであり、誤認識や象徴的な暴力の源にもなり得るものである。例え ば、労働者階級の子どもたちは、中産階級の子どもたちの 教育的成功を常に正当なものと見なすようになり、多くの場合、階級に基づく不平等を、勤勉さや「天性の」能力の結果であると見なすようになる。このプロセ スの重要な部分は、人々の象徴的または経済的な継承(例:訛りや財産)が、文化的資本(例:大学の資格)に変換されることである。

ブルデューは、文化資本は経済資本に対抗して発展してきたと主張している。さらに、文化資本を多く持つ者と経済資本を多く持つ者との対立は、芸術とビジネ スという対極的な社会分野に表れている。芸術の分野とそれに関連する文化の分野は、歴史的に自律性を求めて努力してきたと見られ、それは時代や場所によっ て多かれ少なかれ達成されてきた。芸術の自律的な分野は、「ひっくり返った経済世界」として要約され、経済資本と文化資本の間の対立を強調している。

社会資本
ブルデューにとって、「社会資本とは、多かれ少なかれ制度化された相互の知り合いや認識の関係の持続的なネットワークを持つことによって、個人やグループ が得 る、実際のものであれ、仮想のものであれ、資源の総和である」。ある種の家庭では、文化的投資戦略を採用し、それを子供たちに伝えていくことで、文化的資 本が何世代にもわたって蓄積されていく。これにより、子供たちは教育を通じて自分の可能性に気づく機会を得て、同じ価値観を子供たちに伝えていくのであ る。このような家庭では、時間の経過とともに、個人が文化的通貨を獲得することで、他の集団よりも先天的に優位に立つことができるようになり、それが、社 会階層の異なる子供たちの学業成績に差が出る理由となっています。このような文化的通貨を持つことで、人々は経済的資本の不足を、社会の中で一定レベルの 尊敬と地位を与えることで補うことができるのである。ブルデューは、個人が政治などを通じて社会の中で権力や地位を追求するときには、文化資本がその役割 を果たすことがあると考えている。ブルデューの主張によれば、社会資本と文化資本は、経済資本とともに、私たちが世界で見ている不平等に貢献しているとい う[8]。

言語
ブルデューは、言語を単にコミュニケーションの方法ではなく、力のメカニズムであると捉えている。使用する言語は、その場や社会空間における関係者の立場 によって指定される。異なる言語の使用は、それぞれの参加者のそれぞれの立場を再掲する傾向がある。言語的相互作用は、社会空間における参加者のそれぞれ の立場と理解の範疇の表れであり、したがって、社会的場の客観的構造を再現する傾向がある。これによって、誰が話を聞いたり、中断したり、質問したり、講 義したりする「権利」をどの程度持っているかが決定される。

言語の形態におけるアイデンティティの表現は、言語、方言、アクセントに細分化することができる。例えば、ある地域で異なる方言を使用することで、個人の 社会的地位の多様性を表すことができる。その良い例がフランス語の場合であろう。フランス革命までは、方言の使い分けが社会的地位を直接反映していまし た。小作人や下層階級の人々は地元の方言を話し、貴族や上流階級の人々だけが公用語であるフランス語を使いこなせるようになっていました。アクセントの違 いは、その地域の人々の中での階級や権威との葛藤を反映している。

言語が権力のメカニズムとして機能する理由は、それが客観的な表象として認識され、気づかれている精神的表象の形態、すなわち記号やシンボルとして認識されているからである。したがって、これらの記号やシンボルは、言語を権力の機関へと変容させる[9]。











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