アリストテレスの倫理学入門
Aristotle's ethics
Mitzub'ixi Qu'q
Ch'ij/ 藤井義夫『アリストテレスの倫理学』p.137, 岩波書店, 1949
講義目的
実践知、とくにアリストテレスの実践知(プロネーシス)について理解します。アリストテレスの著作には初期の『エウデモス倫理学』および後 期の『ニコマコス倫理学』、ならびに『大道徳論(Magna Moralia)』があり、第三番目のものは真贋が不明。一般的にアリストテレスの倫理学と言えば、『ニコマコス倫理学』をさす。アームソンの説による と、『ニコマコス倫理学』の5,6,7巻は、『エウデモス倫理学』の4,5,6巻と同じで、前者はもともと『エウデモス』由来の ものであると推測されるそうだ。『アリストテレス全集 16 大道徳学 エウデモス倫理学 徳と悪徳について』(新版)新島龍美・荻野弘之訳、岩波書店、 2016年にニコマコス以外のものが含まれている。
講義内容
● 『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの議論の進め方
アリストテレスは人間の徳を、性格の徳(エティケー・アレテー)と思考の徳(ディアノエティケー・アレテー) にわける。前者には、気前の良さ、節制がある。また後者には、知恵、理解力、思慮(=実践知)がある。まず 「人生の目的」という仰々しいタイトル[いったい誰がつけたのか?]による第1巻からはじまり、第2巻から第 4巻までは「性格の徳」について議論がなされている。第5巻は「正義と不正」つまり今日でいうところの司法的 判断に関わることに議論が費やされている。第6巻が、我々が焦点をあてたい思慮などについて書かれている。つ まりアリストテレスによるところの「思考の徳」に関する議論がここにある。第7巻は抑制のなさについて書か れ、これは10巻で述べられる快楽の議論と関連しているようである。他方、第8巻と9巻は友愛について書かれ ており、古代ギリシャの人たちが友愛ひいては、性格の徳[すくなくとも私=解説者はそう分類されると信じる] に深くかかわる実践行為をどのように理解していたのかについて有益な議論を提供するだろう。第10巻は、ニコ マコス倫理学の講義が、次に『政治学』に連なることを示唆して「それでは最初のところから論じることにしよ う」(1181b, p.496)という言葉で終わる。
● ここでいう実践知とは、思慮あるいはプロネーシス(φρονησιζ)のことである。
● 魂(たましい)には、理性的な2つの部分がある(1139a*)
(1)エピステーモニコン(知識的部分)
他の仕方でもありうる[→技術的な知に関する?]
(2)ロギスティコン(理知的部分)
熟慮**することに関係、(学問的知識は)他の仕方ではありえない。
* この表記はアリストテレスの解説本によく登場する校注の入った底本であるベッカー版のページ数と欄 (a[左]とb[右]に分かれる。またこの表記の後には行数が入ることもある。私は、2002年の朴一功 [ぱく・いるごん]訳の参照にしたので、ベッカー版の行数については記載していない。)
**熟慮すること=ブーレウエスタイ
● たましいの中には、人の行動と真理を支配するものが3つある。
1. アイステーシス(知覚)——動物はもつが、人間のプラークシス(行為)には与らぬ
2.ヌース(知性)
3.オレクシス(欲求)——これには、追求と忌避がある
● 2つの思考
1.観想に関わる思考(テオーレーティケー・ディアノイア)—善し悪しは真偽にあり!
2.行為(プラークシス)に関わる思考—真理が正しい欲求に一致するか(1139a30)
● 魂が肯定/否定することにより、真理に到達する際の状態を5つ想定しよう。(1139b)
1.技術(テクネー)→「真理」には与らない。1140aより解説が始まる
2.学問的知識(エピステーメー)*
3.思慮=実践知(プロネーシス)*
4.知恵(ソピアー)* →技術の卓越性(アレテー)p.269
5.知性(ヌース)* →原理を直接把握する能力で、直観的なもの。p.269
*:われわれを真理に到達させ、決して誤らせないようにする魂の4つの状態(学問的知 識・思慮・知恵・知性)。p.268
朴は、知恵=ソピアーとは「制作にも行為にもかかわらない、純然たる観想知」と言い (p.271)、ロスは、ソピアーを哲学的知恵(philosophical wisdom)と翻訳しているとい う。
● 第6巻第5章 思慮=実践知=プロネーシス(1140a)
「『思慮(プロネーシス)』については、われわれがどのような人々を『思慮ある人たち』と呼 んでいるかを見きわめたなら、それによって把握できるであろう」(朴一功訳, p.264)
→思慮=プロネーシス=実践知は、思慮ある人たちの、経験に由来しているようだ。
→他方で、これは現在の経験的方法では方法論的には限界がある。なぜなら、われわれは 古代ギリシャの人たちの生活の実際について、十分に知らないからだ[本ページ末の解説のア ームソンの主張を参照のこと]。しかし、ひるがえってみると、これはアリストテレスの生き た時代の同じ人間にとっても、同様のジレンマを提示する。つまり、偉大なる師(アリス トテレス)が仮に私たちに対して「この人たちは思慮ある人たちである。思慮ある人たち を見きわめ、思慮のなんたるかを把握しなさい」と言ったとしても、私たちが、その思慮 ある人たちを観察し、対話し、教えを乞うても、私たちにとって「思慮=実践知」とはな んたるかを、十分に把握できないことすらあるからだ(もちろん、上のような活動を積み 重ねれば、同じくらい把握できる可能性もあるのだが……)。
適切に熟慮する能力=思慮ある人の性質
たとえば、健康に生きることを考えるのに、部分的なこと(例:体力をつける)を考える のではなく、よく生きること(エウ・ゼーン)全体のために考えること。これは、より思 慮が深いと考える。
● 全体について考えるだけでなく熟慮する人(ブーレウティコス)が、思慮ある人(プロニモス:φ ρονιμοζ)である。
● 思慮は学問的知識ではありえず、また技術でもない(1140b)
学問的知識は、他の仕方ではありえない。技術は他の仕方でもあり得る。思慮は、他の仕方でも あり得るものなので、学問的知識ではない。他方、行為(プラークシス)に属する思慮は、制作 (ポイエーシス)に属する技術と類において(分類のカテゴリーが別なので)異なる(p.265)。
● 技術(第6巻第4章,1140a〜)
他の仕方でもあり得るものには次の2つがある。
(i)つくられるもの=制作=ポイエーシス
ロゴスをそなえた、制作にかかわる魂の状態。
「そもそも『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態でないような技術など何ひとつ 存在せず、逆に、技術でないような『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態という のもありえないのだから、『技術(テクネー)』とは、『真なる理論(ロゴス・アレーテ ース)』をそなえた、制作にかかわる魂の状態と同じものである、ということになる… …」(p.262)。
「技術の行使というのは、存在することも存在しな/いことも可能な事物、そしてその原 理がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がど のようにすれば生じるのかを『理論的に考察する(テオーレイン)』ことを基礎とする」 (pp.262-263)。
アリストテレスがもしこの場にいたなら?一度、我々の社会にあるハイテク・オートメーションの工場へ 連れていきたいものである。
(ii)おこなわれるもの=行為=プラークシス
ロゴスをそなえた、行為にかかわる魂の状態。思慮との関係を示唆。
◆ 暫定的結論:
実践知(=思慮)は、全体について考える、思慮ある人の、考え行っている状態のなかにある、 あるいはそのような行為の状態そのものをさすのではないだろうか。なぜ行為実践の中にあるか というと、それは「他の仕方ではありえる」ものに関わるからだ。
だからアリストテレスは次のようにいう。
「思慮とは、人間にとっての善悪にかかわる行為を行うところの、道理をそなえた、魂の『真な る状態(ヘクシス・アレーテス)』である、ということになる」(1140b)朴訳p.265
「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方 をそなえていなければならない」(1141b) p.273
● 善き行為(エウプラークシアー)そのものが、行為の目的になる(思慮ある状態にあるときには ・・)
● 技術には徳があるが[=技術の行使には、そのための徳が必要だが]、思慮(実践知)にはそれの 徳がない 。1140b, p.266
→この言明はちょっと奇妙だが、思慮そのものが徳である、ないしは徳のひとつであると、すぐ に、彼は付け加えている。つまり、思慮は(理性をもつ2つの部分のうち)「思いをなす部分 (ドクサスティコン)」の徳である pp.266-267。
● 知性との対比のなかで、思慮の一般的性格を浮かび上がらせる(1141b)
「『思慮』は、人間的な事柄にかかわり、熟慮の対象となるものごとにかかわる」p.272
「無条件によく熟慮する人とは、行為において達成されるところの、人間にとって最善のもの を、理知的な思考に基づいて目指す人のことである」ibid.
「『思慮』は行為にかかわるものであって、行為は個別的な事柄にかかわる」ibid.
● 統括的なもの(アルキテクトニケー)=政治に関わる思慮つまり政治術ないし政治学
「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方 をそなえていなければならない。だが、この場合にも何か『統括的なもの(アルキテクトニケ ー)』が考えられるだろう」(1141b) p.273
● 思慮という共通の名前
「一人の人間自身にかかわる思慮が、とりわけ思慮であるとも考えられる。そして、個人にかか わる思慮が『思慮』という、全体に共通の名前をもっているのである。他方、個人に関わらない 思慮のうち、その一つは『家政術(オイコノミアー)』であるが、他は『立法術』であり、『政 治術』である。そして、『政治術』はさらに二つに分かれ、そのうちの一つは『審議術(ブーレ ウティケー)』であり、他の一つは『司法術(ディスカスティケー)』である」p.274。
● 加齢と思慮を身につけること
(i)思慮は、個別な事柄からなる。(ii)個別な事柄は、経験から知ることができる。(iii)若者に は経験がない。(iv)若者やこどもは、思慮をつけにくい。(1142a)p.276。
● 思慮は知識(エピステーメー)ではない!
「思慮が学問的知識ではないことは、明白である。……思慮は『最終的なもの(エスカトン)』 にかかわるから」p.277
● 理解力との対比によって明らかになる思慮
「『理解力(シュネシス)』というのは、つねに存在する不変のものにかかわるのでもなけれ ば、何か生成するものごとにかかわるものでもなく、人が疑問を感じ、熟慮する可能性のあるも のごとにかかわるからである。それゆえに、『理解力』は思慮と同じ対象にかかわるが、しかし 『理解力』が思慮と同じものというわけではない。」
「思慮は『指令的なもの(エピタクティケー)』だから……。人に何をなし、何をなすべきでな いかを指令することが、思慮の目的なのである。それに対して、『理解力』の方は、単に『判断 的なもの(クリティケー)』であるにすぎない。……『理解力』とはしかし、『思慮』をもって いることではなく、またそれを手に入れることでもない」(1143b, p.282)。
● 思慮=実践知とは、知ることではなく、おこなうことにある
「『思慮』というのは人間にとってもろもろの正しく、美しく、よい事柄にかかわるものである にしても、そうした事柄は、善き人が、実際に行うべき事柄なのであって、そもそもさまざまな 徳が、行為を実現するための状態であるとすれば、単にそうした事柄を知るだけでは、われわれ がそれによっていっそうよく行為できるようになる、という保証は全然ないからである」 (1143b, p.286)。
※【復習】
思慮=実践知が、魂の理知的部分(ロギスティコン)ないしは思いなす部分の徳である一方、知 恵(ソピアー)は知識的部分(エピステーモニコン)の徳である。第6巻1章と5章を参照せ よ。
● まとめにならない[=相互に矛盾する?]まとめ(1144a, p.288)
(i)知恵も思慮も何もつくりださないけれど、それ自体では望ましいものである。
(ii)知恵も思慮も何かをつくりだすが、それは医療が健康を作り出すようなことではなく、健康 が健康をつくりだすようにである。
(iii)人間のはたらきは、思慮および〈性格の徳〉により果たされる。徳は目標を正しくし、思慮 はその目標のための物事を正しいものにする。
● 才能(デイノテース)について
「『才能』というのは、設定された目標に寄与する事柄を行い、その目標を達成するような能力 のことである。そこでもし目標が美しければ、『才能』は賞讃されるが、しかし目標が低劣であ るなら、その『才能』は単なる『狡猾(パヌールギアー)』にすぎない。それゆえに、われわれ は思慮ある人たちでさえも、『才能』があるとか『狡猾』であると言うのである」(1144a, p.290)。
● ソクラテスの誤り方から、思慮のあり方について知る
「ある人々はあらゆる徳は思慮であると主張しており、またソクラテス[→プラトン『メノン』 88A-89A]はある点では正しく探求していたが、ある点では誤っていたのである。というのも、 徳はすべて『思慮』であると考えていた点で、ソクラテスは誤っていたけれども、『思慮』なし には徳はありえないと言っていた点では、彼は正しかったからである。……徳とは単に『正しい 道理』に基づく状態ではなく、『正しい道理』をそなえた状態こそが、徳だからである。そし て、徳の事柄に関する/『正しい道理』とは、『思慮』にほかならないのである。かくして、ソ クラテスはさまざまな徳はもろもろの『道理(ロゴス)』であると考えていたが(彼によれば、 すべての徳は知識だからである)、それに対してわれわれは、徳とは『道理』をそなえたもので あると考える」(1144b, pp.292-293)。
● 思慮なしには徳はありえないが、また思慮=実践知だけがすべてではない!
「『思慮』は『知恵』を支配するのではなく、また魂のよりすぐれた部分を支配するわけでもな い……。それはちょうど、医術が健康を支配するものでないのと同様である。なぜなら、医術は 健康を用いるのではなく、健康が生じるようにはからうものだからである。それゆえ、医術は健 康のために指令するのであって、健康に対して指令するわけではない」(1145a, p.294)。
● 徳の2つの分類(1103a, pp.53-54)
(i)思考の徳(ディアノエティケー・アレテー)
知恵(ソピアー)、理解力(シュネシス)、思慮(プロネーシス)
(ii)性格の徳(エティケー・アレテー)
気前の良さ(エレウテリオテース)、節制(ソープロシュネー)
「われわれは知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて賞讃するのであ る。そしてわれわれは、人々のさまざまな魂の状態のうち賞讃に値するものを、徳と呼んでいる のである」(p.54)
◎ 解説 comment
アリストテレスの著作理解の困難さをジェームズ・O・アームソンは次の3にまとめている。ひとつは、アリストテレス の生きていた時代の概念や生き方が我々のものとは根本的に異なるものであるという「異文化」ないしは「文化の相違」 に由来するもの。2番目は、翻訳の問題で、これは、ローマ帝国の人たちがギリシャ語を理解する時に自分たちの文化概 念にもとづいて翻訳している。したがって、この問題は最初の困難と関係しており、我々はギリシャ語と、それを解釈す るラテン語の翻訳から影響をうけ混乱している可能性があるという。そして、三番目はこと『ニコマコス倫理学』に関し ては、首尾一貫し完結した本というよりも、アリストテレスが講義のための準備したノートのような著作だというのであ る(これは現代の我々が、ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが生前に出版せず、学生の講義ノートと彼自身の膨大な メモ下書きなどを手がかりに、LWの思想を理解しようとしていることに似ている)。
ニコマコス倫理学の5,6,7巻は、エウデモス倫理学の4,5,6巻と同じで、前者はもともと『エウデモス』由来の ものであると推測されるとアームソンは指摘する(翻訳 p.10)。
Aristotlea s ethical writings are among the worlda s greatest, but are easily misunderstood by the inexperienced. Professor Urmson, after 50 years of study, provides a clear account of the main doctrines in an easily intelligible way and without dwelling on matters of mainly scholarly interest. - from Kinokuniya books Co. Ltd.
●エウデモス倫理学の内容——アリストテレスの弟子の1人であったロドスのエウデモス(Eudemus of Rhodes)が編集したとされることからこの名が付く。
"The Eudemian Ethics (Greek: Ἠθικὰ Εὐδήμεια; Latin: Ethica Eudemia[1] or De moribus ad Eudemum) is a work of philosophy by Aristotle. Its primary focus is on ethics, making it one of the primary sources available for study of Aristotelian ethics. It is named for Eudemus of Rhodes, a pupil of Aristotle who may also have had a hand in editing the final work.[2] It is commonly believed to have been written before the Nicomachean Ethics, although this is controversial.[2][3]" - Eudemian Ethics.
「第1巻 【Α巻】 - 全8章。
第1章 - 序論。幸福について。
第2章 - 幸福という目的とそれを達成する手段。
第3章 - 幸福と人間の性質・行為。
第4章 - 人間の3つの生活 - 政治的・哲学的・享楽的生活。
第5章 - 諸論検討。
第6章 - 哲学的考察と原因(理由)・結果(事実)。
第7章 - 「人間の幸福」についての境界策定。
第8章 - イデア論に対する考察・批判。
第2巻【Β巻】 - 全11章。
第1章 - 霊魂との関わり。
第2章 - 徳性(エートス)と習慣(エトス)。
第3章 - 超過・欠乏と中庸。
第4章 - 霊魂の「有理的部分の徳」(思惟的徳)と「無理的部分の徳」(倫理的徳)。
第5章 - 倫理的徳と快楽・苦痛の中庸。
第6章 - 行為と原因・端緒。
第7章 - 自発性と欲求。
第8章 - 自発性と強制。
第9章 - 自発性と思惟。
第10章 - 選択。
第11章 - 徳と目的。
第3巻【Γ巻】 - 全7章。
第1章 - 勇敢。
第2章 - 節制。
第3章 - 温和。
第4章 - 鷹揚。
第5章 - 矜持。
第6章 - 豪壮。
第7章 - 義憤、廉恥、親愛、厳正、真実、頓知。
第7巻【Η巻】 - 全12章。
第1章 - 親愛。
第2章 - 親愛にまつわる諸問題解決。
第3章 - 親愛と均等性・卓越性1。
第4章 - 親愛と均等性・卓越性2。
第5章 - 親愛の一般的意味。
第6章 - 自分自身にとっての親愛。
第7章 - 協和と好意。
第8章 - 施恩者と受恩者。
第9章 - 各種の共同関係。
第10章 - 血族的、同僚的、共同体的・国民的な親愛。
第11章 - 「善なる友」と「有用の友」。
第12章 - 自足と親愛。
第8巻【Θ巻】 - 全3章。
第1章 - 使用の正・不正と知識、思慮と徳。
第2章 - 幸運。
第3章 - 善美。」
●大道徳論(大道徳学)の内容
"The Magna Moralia (Latin for "Great Ethics") is a treatise on ethics traditionally attributed to Aristotle, though the consensus now is that it represents an epitome of his ethical thought by a later, if sympathetic, writer. Several scholars have disagreed with this, taking the Magna Moralia to be an authentic work by Aristotle, notably Friedrich Schleiermacher, Hans von Arnim, and J. L. Ackrill. In any case, it is considered a less mature piece than Aristotle's other ethical works, viz. the Nicomachean Ethics, the Eudemian Ethics, and Virtues and Vices. There is some debate as to whether they follow more closely the Eudemian or the Nicomachean version of the Ethics." - Magna Moralia.
「第1巻 【Α巻】 - 全34章。 第1章 - 序論。徳について。 第2章 - 善の区分1。 第3章 - 善の区分2。 第4章 - 霊魂の徳。 第5章 - 霊魂の有理的部分と無理的部分。その後者に生じる倫理的徳。 第6章 - 倫理的徳と快楽・苦痛。「倫理的性格」(エートス)と「習慣」(エトス)。 第7章 - 霊魂の内における「情意」「能力」「状態」と中庸。 第8章 - 中庸2。 第9章 - 中庸3。 第10章 - 自然物における始原的性質と生成。 第11章 - 人間における始原的性質と生成。 第12章 - 随意性・自発性。欲求(欲望・激情・願望)の内、欲望についての検討。 第13章 - 前章の続き。激情と願望についての検討。 第14章 - 強制について。 第15章 - 必然について。 第16章 - 随意性・自発性と思惟の同伴。 第17章 - 選択について。 第18章 - 徳と目的・手段。 第19章 - 徳の目的と美・行動。 第20章 - 勇敢。 第21章 - 節制。 第22章 - 温和。 第23章 - 鷹揚1。 第24章 - 鷹揚2。 第25章 - 矜持。 第26章 - 豪壮。 第27章 - 義憤。 第28章 - 厳正。 第29章 - 廉恥。 第30章 - 頓知。 第31章 - 親愛。 第32章 - 真実。 第33章 - 正義。 第34章 - 正理。 第2巻【Β巻】 - 全17章。 第1章 - 衡平。 第2章 - 良識。 第3章 - 良思量。 第4章 - 自制と無自制。霊魂に生じる三悪としての悪徳・無自制・獣性。 第5章 - 度を越した悪徳としての獣性。 第6章 - 自制・無自制についての詳論。 第7章 - 快楽。 第8章 - 幸運。 第9章 - 善美。 第10章 - 霊魂の無理的部分(情意)と思量的部分(理性)。幸福と活動。 第11章 - 親愛1。 第12章 - 親愛2。 第13章 - 自愛1。 第14章 - 自愛2。 第15章 - 自足。 第16章 - 親友1。 第17章 - 親友2。」 ウィキペディアより)
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