世間的無関心
civil inattention (Goffman 1963:84)出題者:池田光穂
世間的無関心とは、civil inattentionとは文字通り「市民的無関心」つまり、和訳者の語彙を活かせば「形式主義者的な無関心」のことである。例えば、市井(しせい,一般 のこと)の人が、ホームレスを認知しているのだが、目に入らぬよう、視線を外して知らない ふりをして無視しやり過ごすようなことをさす。それは、通りすがりのことに巻き込まれないように無視するような態度でもある。[→実存主義者としてのゴッフマン]。
だが、日本では残念なことに、この世間的無関心と言う用語は、civil inattention (Goffman 1963:84)の訳語として「儀礼的無関心」というヘンテコな訳語 を与えられてきた。これらは ニュアンスが微妙に違う感じがする。
はっきり言いましょう。Civil inattention (Goffman 1963:84)の正しい翻訳は「世間的無関心」「世俗的無関心」とい います/言いましょう。
実際、ゴッフマンは Behavior in public place の別の箇所においてで、乞食(もの乞い)をやり過ごす方法をマナー本から引用し、解説している(counter-control の箇所)。
この場合の無関心的態度は、自我を消す一歩手前の段階ではある。問題は、記憶やアイデンティティがなくなるということではなく、ないように 振る舞い(顧客の依頼に満足できるように)実践できるということだ。
Civil
inattention is the process whereby strangers who are in close proximity
demonstrate that they are aware of one another, without imposing on
each other – a recognition of the claims of others to a public space,
and of their own personal boundaries. - Wikipedia
ゴフマンが、強面でかっこいいのは、このような市民の[巧妙な]やりすごしに対して少しも道徳的非難をすることなしに、客観的な描写を通し て、メタレベルで読者に行為がもつエトスと現実の心証のギャップに対する道徳的感情を逆撫ですることである。このようなレトリックの行使は、ほとんど天才 的であり、舌を巻く。[→実存主義者ロンリーハーツ]
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[文献]
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