苦悩体験の理解
On
understanding of other's suffering experience
「苦悩とは、このように何よりもまず業績であるということができます」——ヴィクトル・フランクル(Das Leiden kann
also fürs erste einmal eine Leistung sein. - V. Frankl (1950:64))
05 苦悩体験の理解
“人びとが病者に接する態度には、民族差があるのですか?”このような質問を私は時に受ける。いろいろな経験的事実や調査の報告から判断す るかぎり、この質問の答えはイエスである。しかしながら、病者に接する人びとのなかで何らかの固有の“感情体験”があり、それが他者にも共有されることが あるという点で、“病者に接する態度”には共通する特徴があることも否定できない。
今回は、病者に接する態度について考える手がかりとして、“病者の訴えを理解すること”について考えてみよう。
「私は本当にわかりません。夫には問題がないのです。彼は酒も飲まないしタバコも吸いません。家では本当に静かなのです。わたしはどうして (その病気)なのかわからない。自分自身に聞きます。どうして?」
彼女は35歳になるフエンテス夫人(仮名)。生まれ故郷の中央アメリカ・エルサルバドルから友人と一緒に米国に1980年代初頭にやって 来た。そして、その病気とは「ネルビオス」。ネルビオスとは、スペイン語で「神経」のことをさすが、ここではエルサルバドル人のみならずラテンアメリカの 人びとが感じている不安を伴う病的なある身体の状態のことをいう。グアルナチアらが80年代後半に行なった調査は、ネルビオスに苦しむ米国在住のエルサル バドル人——その多くは非合法入国難民——に行なわれた聞き取り研究であった。
ネルビオスという病気に罹ったとき、フエンテス夫人は頭痛に襲われ、眼が熱くなり、首を締められるかのように心臓の下が痛くなると言う。 たいした問題ではないと本人は言っているが、これに罹ると痛みのために床に臥すようになる。診療所に相談に出かけると、英語を話す医者は鎮静剤をくれる が、医者がネルビオスを理解することは有り得ないと彼女は思っている。彼女の母国語はスペイン語なのである。
「私がこの病気になることなんて、ありえません。なぜなら、わたしはひどい生活をしていないからです。夫が妻に対してひどい生活を強いるな ら、そのとき問題は起きます。けれど、私の夫はそんなのじゃない。彼はいつもここにおり、私たちは決して言い争いません。なのに私はいつもネルビオスにな るのです」。
彼女は、家庭不和がないにもかかわらずネルビオスになったことをたいへん不思議に思っている。これは、中産階級あるいは貧困層のあいだで は、夫が妻に暴力をふるったり、彼女の子供たちがひどい病気や事故にあったときに、ネルビオスになることが広く知られているからである。
彼女は母国がたび重なる内戦で、もはや荒廃してしまったと感じていた。すでに父は家族を捨てていたし、母は彼女が9歳の時に死んでしまっ て、祖父も彼女の最初の発症の3年前に亡くなっている。当時、エルサルバドルには姉妹が残されていたのみである。彼女は不法入国による難民であるが、米国 の工場に職を得ており、夫と8歳の息子と共に二部屋のアパートに住んでいる。彼女がネルビオスになったのは、もう一人の子供を宿している頃であり、その時 にスペイン語でインタビューがおこなわれたのである。
彼女には、母国に置き去りにした祖父に対して強い自責の念があった。親代りに育ててくれた祖父の死とこの病気の関係が深いとグアルナチア たちは指摘している。また、エルサルバドル内戦での正規軍ならびにゲリラによる電線や水道の寸断といった生活不安、テロリズム激化による死の恐怖、そのこ とに起因する難民化による家族そのもの崩壊が、彼ら難民の記憶のなかに刻印付けられていることも指摘している。事実、フエンテス夫人の義兄弟の家族は内戦 のために全員が殺害されているのだ。
彼女は母国エルサルバドルへの帰還を夢みない。そして米国での生活を選択する。しかし、ラテンアメリカ出身の労働者への待遇は、多くが非 合法入国であるという事情も手伝って大変悪い。さらに工場の経営者や現場監督の民族的な偏見や、英語とスペイン語という言語の壁によって彼女がネルビオス に陥ったときに、その苦悩感が増幅されるのである。
病気という煩いが解消する時について彼女は言及する。夫がかつて世話になり、現在では役員にもなっている“断酒の集い”に彼女が出席した 時のことである。彼女は、アルコール依存者たちの反省を聴きながら、自分もそれに感化され、自己の協調性の無さを反省したと言う。これは“断酒の集い”が 福音主義的なキリスト教の宗派によって主宰され、神の恩寵に背く飲酒を戒め、家族関係の調和を説くことと、明かに関係があるようだ。「神のみがネルビオス を癒す」と彼女が言うからである。
ネルビオスは、身体と感情に関する多様なイディオム——特有の表現のしかた——を通して語られる。ネルビオスは身体の痛みであると同時に 精神の痛みでもある。また別のレベルでは、その原因が家族をめぐる問題としてとらえられている。人びとはネルビオスを語ることで、彼らが社会生活のなかで 感じているストレスをさまざまなレベルで表現しているのだ。
このようなエルサルバドル難民の病気=苦悩の事例から私たちはいったいどのようなことを学ぶことができるであろうか? そして、日本の文 化にもネルビオスに相当する語彙や概念がないだろうか? 例えば日本の「自律神経失調症」は、その用語が近代医学の病気のラベルであるにもかかわらず“自 己の苦悩”を表現するのに頻繁に患者自身から用いられる。その際、患者側に主体的に取り込まれた“患者個人によるその病気の独自の解釈”が行なわれている 点ではネルビオスに共通している。
看護学の領域において、患者の病歴を採取し、そこで得られた情報や知識を、その実践において活用することの重要性が常に強調されている。 これは、患者の病気を生物学的な知識という観点からとらえ、それを合理的に管理してゆく方向性とは異なる。むしろ、病気に込められた“病者の苦悩”を社会 的あるいは心理的な文脈から“理解”するための方法論になり得るのである。
ネルビオスの事例は、日本における看護実践にとっては直接に役に立たないかも知れない。しかし、それが示唆するように“病者の全体的な理 解”のために、ある方法を知るという点でたいへん教訓になるだろうと、私は思うのである。
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このコーナーでは、「いのち」に 関する世界のさまざまな民族や社会でみられる興味深い慣習や信条 を紹介します。そのねらいは、周囲から消え去ってゆく「変わった習慣」を面白がったり、懐かしむことではありません。むしろ「いのち」の多様なあり方につ いて読者の皆さんとともに考えたいのです。いろいろなテーマについて多角的に取りあげますので、皆さんからのご意見をお待ちしております。
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