でじたる・でばいどとは、なにか?
でじたる・でばいどの英語(えいご)はつぎのように書きます
でじたる = digital
でばいど = divide
でじたる・でばいどとは、こんぴゅーたがつかえるともだちと、つかえないともだちのあいだに、ち がいができることです。
ちがいが、あるのはあたりまえ、なんて、おもわないでください。
このちがいとは、つかえないひとは、つかえるひととくらべて、もうかるおかねがすくなくなる。つかえないひとが、つかえるひと から、さべつされる。もし、そ うなったら、おなじはずのこど もたちが、おとなになったときには、ちがうだけでなく、あるひとたちがそん(ふり)になり、あるひとたちがとく(ゆうり)になる、というこまったことです。
このもんだいは、あめりか(あめりか・がっしゅうこく)のせいふのひとた ちが、さわいで、そのもんだいに ついてしらべることをはじめました。
こんぴゅーたがつかえることが、とくになり、つかえないことがそんになる。
しかし、ほんとうに、それはただしいのでしょうか?
おかねをもったうちには、こんぴゅーたがあり、びんぼうなうちにはこんぴゅーたがないというのは、あたりまえではないでしょうか? こんぴゅーたのかわりに、がいこくのかっこいいじどうしゃと、おきかえてみればどうでしょうか?
ところが、こんぴゅーたと、がいこくのかっこいいじどうしゃのあいだには、おおきなちがいがあります。こんぴゅーたがつかえるということは、せかいのいろいろなじょうほうやちしきをしることができます。がいこくのかっこいいじどうしゃをのりまわしても、みんなは「かっこいい!」とほめてくれるけど、せかいのじょうほうやちしきをしることにはつながりません。(がいこくのじどうしゃのことをよくしることができますが・・)
ということは、おかねをもったひと(つまり、こども)は、こんぴゅーたをつかっていろいろなことをしることができ る。それだけでなく、しったことを、おかねもうけにつかえることができる。そうするともうかったお かねで、こんぴゅーたをつかってもっといろいろなことをしることができる。それによってもっとおかねをもうけることができる。
このようにして、おかねもちはもっとおかねをもうけ、びんぼうにんは、もっとびんぼうになる。このようなことを、こんぴゅーたはたすけている、かもしれません。
もし、そうだとしたら、きみはがっこうにあるこんぴゅーたをこわすでしょうか? そんなおろかなことをするともだちはいません。(おとなのなかには、ときどき、そのようにかんがえるひと がいるから、こまったものです。たぶん、こんぴゅーたがわからないからこわいのでしょう)
たいせつなのはこんぴゅーたが、そのようなさべつをつくりだす、しゃかいのしくみを、よいほうにかえるべきなのです。
そのようなほうほうが、どんなものなのか? おとなもいろいろかんがえているようですが、ぜひ、みな さんも、こどもじしんをまもるた めにも、いいかんがえをだして ください。
(以下は省略版です)
デジタル・デバイト、とはデジタル化された情報が生みだす社会的——とくに経済的——不平等(デバイドには隔離や分別という意味もありま す)のこと。
デジタル・デバイド問題を取り上げると、もともと金持ちだからコンピュータをもちインターネットにアクセスできる、貧乏人はそうではない、 という「経済的格差が、入手したり、操作できる情報の格差につながる」経済階層による情報格差の反映論を思いつくが、その言わんとしているところはそうで はない。いち早く情報を入手し、操作できる能力が、経済的成功のチャンス生み、それがまた情報収集に投下する経済資本を増やし、それがまた利潤の向上に結 びつく、ということを問題にしていることがその指摘のユニークなところだ。
まあ、このような情報錬金術が本当なら事態は深刻ではある。しかし、実態としては、現代の情報化社会にそのような傾向はあるものの、それが 一義的に決定要因を形成しているというものでもないらしい。
デジタル・デバイト問題は、情報のグローバル化にともなう普遍的かつ一般的な側面と、その社会の情報化の進展パターンに応じて特有な変化を とげる側面があるようだ。
Coronavirus: How pandemic pods and zutors are changing home-schooling, By Penny Spiller
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