エルネスト・チェ・ゲバラ
Ernest 'Che' Guevarra, June 14,1928
- Oct. 9, 1967
未来に対する不確実性が我々を解放するのだ
1928年6月14日 アルゼンチン共和国ロサリオ市で生まれる(父:エルネスト・ゲバラ・ リンチ、母:セシリア・デ・ラ・セルナ)
1930年 ブエノスアイレスに転居後に、喘息の発作に襲われる
1934 コルドバ州アルタグラシアに転居。
1941-44 コルドバで医学の勉強をはじめる。学生運動。グラナドスと知り合う。
1945年 ブエノス・アイレ ス大学医学部入学
1945-51 医学生、アレルギー研究所で無償で研究に従事。しばしば自転車旅行に出る。
1947年
1948年
ペルーの経済学者イルダ・ガデア・ アコスタはアメリカ革命人民同盟の全国行政委員会の経済担当書記官だったが、海外追放される。
1950年 両親が離婚
1951年 友人グラナドスと10ヶ月の南米オートバイ旅行(終着地はマイアミ)
1952 1〜6月 期間中ペルーイキトスのハンセン病施設で働く
1952年3月 フルヘンシオ・バチスタによる軍事クーデタ。バチスタ政権の発足
7月 マイアミ
1952年8月 アルゼンチン帰国
1953年3月 大学卒業、卒業論文はアレルギー。卒業後にカラカスに戻り、グラナドスが働 くカポブランコのハンセン病施設を再訪する。
1953年7月26日 モンカダ兵営襲撃事件(→カストロ逮捕:7月26日運動の出発)
秋。ボリビア・ラパス市で亡命アル ゼンチン人弁護士Ricardo Rojoに出会う(Ricardo Rojoはブエノスアイレスのグアテマラ大使館に逃げ、グアテマラへ向かう。ロホは、グアテマラに「真の革命がある」ことをチェに告げる。)
12月 チェ、イルダとはじめて出 会う。
12月24日、ホロ、チェ、エドワ ルド・ガルシアとともにグアテマラに到着
1953年 サン・ホセ(コスタリカ)でキューバ人たちから 'el che'のニックネームをもらう。
このキューバ人は、1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃の生存者たち。フィゲーレ ス、アイヤ・デ・ラ・トーレ、レオニーノ、ベタンクール、ボッシュ、等々
1954年
1-6月 医師としての働き場を見 出せず、グアテマラを行商人として徘徊。亡命ペルー人イルダ・ガデア(Hilda Gadea, 1925-1974)と出会い。上掲のモンカダ兵営襲撃の生存者たち。フィゲーレ ス、アイヤ・デ・ラ・トーレ、レオニーノ、ベタンクール、ボッシュ、等々と親交をふかめる。
6月18-27日 カスティー リョ・アルマス大佐によるグアテマラ首都制圧。チェたちは、戦闘参加を申し出るが許可される7.26運動のキューバ革命家たちと民兵組織に加わる。
8月アルゼンチン大使館に亡命。最 初の政治論説「ハコボ・アルベンスの没落を私はみた」を執筆。
9月メキシコに入国。ニコ・ロペス と再会、その際に、ラウル・カストロと識る。
10-12月フリオ・ロベルト・カ セレスと公園で写真を撮影販売し糊口を凌ぐ。
1955年
メキシコ市中央病院アレルギー病棟 で医師として職をえる。マルクス=レーニン主義の著作に触れる。
イルダに妊娠がわかり、夏に結婚。
ユカタン半島への新婚旅行(1955年9月ごろ)
1956年
1-5月ラウル経由で、フィデル(Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926-2016)と 出会う。
2月イルダ・ベアトリス・"イル ディタ"・ゲバラ・ガデア(Hilda Beatriz "Hildita" Guevara Gadea)が生まれる。彼女は1995年に死去。
6月首都郊外のサンタロサ農場でメ キシコ官憲に捕まる。サンタロサ農場では、スペイン共和派アルベルト・バヨ少佐がキューバ革命家たちに軍事教練をおこなっていた。アルベンス時代の経済大 臣アルフォンソ・バウエル・パイスが弁護人を申し出るが、チェはそれを拒絶。
7月 キューバの新聞に「チェ」の 名前で報道。フィデルに捧げる歌をつくる。
11月25日 トゥスパン河口より グランマ号出航。82名の同志たち(→)。
12月2日コロラーダス到着
12月5日バティスタ政府軍により 襲撃をうけ首に重症。
12月20日フィデルのグループに 合流。総勢17名。
11月末 カストロとメキシコで出 会い意気投合する。
ゲバラ選集 / 選集刊行会編訳、青木書店、1968-1969、第1巻《1956年〜1961年4月》
1957年
1958年
Guevara atop a mule in Las Villas province, Cuba, November 1958
1959年
1月1日 サンタクララ制圧。1月 2日ハバナ市入場。
「政府軍の敗北が決定的となった1958年12月31日夜、バティスタはコロンビア兵 営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日、クバーナ航空機でキューバを脱出し、独裁者のラファ エル・トルヒーヨ率いるドミニカ共和国へ亡命した。数時間後、政府軍の将軍カンティーヨが「臨時政府」の成立を宣言したが、カストロはこれを認めずカミロ にハバナ突入を命じた。まもなくハバナは革命軍が制圧し、8日にはカストロがハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。新生キューバの首相には、 ハバナ大学の教授であったホセ・ミロ・カルドナ(Jose Miro Cardona, 1902-1974 - サングラスの男性)が就任したが、カストロとの意見の食い違いは早々に鮮明となり、在任2か月で退任。カストロ自らが首相に就任した[2]」キューバ革命)
「カミロ・シエンフエゴス・ゴリアラン(Camilo Cienfuegos Gorriarán, 1932年2月6日 - 1959年10月28日)は、キューバの革命家。ハバナで生まれる。 両親はスペイン内戦において共和国派に属しキューバへ亡命する。カミロ・シエンフェゴスは独裁者フルヘンシオ・バティスタに対する地下活動を行い、キュー バ革命に重要な役割を果たした。カミーロはフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびチェ・ゲバラと共にキューバ革命を主導した一人で、富裕層であった カストロ、ゲバラに比してカミロは庶民階層出身の人物として知られる。はじめは画家を志していたが、1953年のモンカダ兵営襲撃に参加し、革命の間 チェ・ゲバラと一緒に反乱軍を率いた。革命の勝利後にシエンフェゴスは軍隊の最高指揮官に就任し、反革命的な暴動と戦い農地改革の実施に大規模に関与し た。シエンフェゴスは共産主義者ではなく、無政府主義者だった。また革命の間彼が率いた軍隊も共産主義ではなかった。 しかし特にチェ・ゲバラから敬愛され、ゲバラは自分の息子(長男)に「カミロ」の名をつけている。1959年10月28日にセスナ事故で死んだ。」
5月 農地改革法(第一次)。イル ダ・ガデア(Hilda Gadea, 1925-1974)と離婚
7月15-27日来日。25日に広 島原爆碑に献花。
1959年1960年10月 アメリカ人資産の国有化
1961年 フランツ・ファノン (1925-1961)死亡
1961年1月 米国との国交断絶
1961年4月 社会主義宣言
ゲバラ選集 / 選集刊行会編訳、青木書店、1968-1969、第2巻《1961年4月〜1962年10月》
1962年 アルジェリアの独立
1962年10月 キューバ・ミサイル危機
ゲバラ選集 / 選集刊行会編訳、青木書店、1968-1969、第3巻《1962年12月〜1964年3月》
1964年12月 アフリカ歴訪(〜1965年3月14日)
ゲバラ選集 / 選集刊行会編訳、青木書店、1968-1969、第4巻《1964年3月〜1967年10月》
1965年2月 米ベトナムで北爆開始
1965年2月24日 アルジェリアの第2回アジア・アフリカ経済セミナーにおける演説 (「社会主義諸国は、幾ばくかは帝国主義的搾取の共犯者である」タイボ II 2001b:83)*註参照
この社会主義国=共犯者という修辞の解釈は、むつかしく、もし先進工業国と第一次産品を 輸出して工業製品を購入する国という構図があるかぎり、帝国主義的搾取に加担するという意味で、これには、社会主義も資本主義も、それぞれの国のイデオロ ギーには無関係だということになる。この 文意を汲み取り、青木書店版では、このような関係がある限り共犯者とみされても「仕方がない」と意訳されてい る。しかし、実際は、debemos convertir とあるように、必然的に共犯者に変貌してしまうと、強い調子の文脈的ニュアンスというところが、ちょっとちがうのだ。
1965年4月2日 キューバ出国
1965年10月 キューバ共産党結成:ゲバラ「別れの手紙」をカストロが朗読公表(10月 3日)。
1966年11月 ボリビア入国
1967年
Juan Pablo Chang Navarro-Lévano (Lima, Perú, 12 de abril de 1930 - La Higuera, Bolivia, 9 de octubre de 1967) fue un político comunista peruano, participante de las guerrillas del Perú y Bolivia en los años sesenta.
10月8日 イグェラス2キロ、バ ジェ・グランデより30キロのユロ渓谷で政府軍に包囲され捕縛、
10月9日 René Barrientos がボリビア大統領令による処刑したことになっている。(処刑の状況は英語版Che Guevaraウィキペディアを参照)
1974 イルダ、ハバナで死去
Rolando Morán(変 名: Ricardo Arnoldo Ramírez de León)を司令官としてメキシコでグアテマラの革命軍事組織 Ejército Guerrillero de los Pobres, EGP が組織される。アルタベラパスからイシュカン経由でウェウェテナンゴまで活動地域を広げる。
1991年 ソビエト崩壊
註
*当該の箇所は、Ernest Che Guevara, Obras Escogidas 1957-1967, 1977[2001], tomo 2, p.574, Ciencias Sociales, Habana.にある。原文は以下のとおり。
¿Cómo puede significar "beneficio mutuo" vender a precios de mercado mundial las materias primeras que cuestan sudor y sufrimientos sin li'mites a los países atrasados y comprar a precios de mercado mundial las máquinas producidas en las grandes fábricas automatizadas del presente?
Si estableblecemos ese tipo de relación entre los dos grupos de naciones, debemos convertir en que los países socialistas son, en cierta manera, cómplices de la explotación imperial...Es una gran verdad, pero no elimina el carácter inmoral del combio.
Los países socialistas tienen el deber moral de liquidar su complicidad tácita con los países explotadores del Occidente (Guevara 1977:574).
文献
- Che Guevara, by Wikipedia
- リウス 1997 『リウスの現代思想学校 チェ・ゲバラ』西沢茂子・山崎満喜子訳、 東京:晶文社
- 加茂雄三編 1973『ドキュメント現代史11 キューバ革命』東京:平凡社
- K・S・カロル 1972『カストロの道——ゲリラから権力へ』(弥永康夫訳)、東 京:読売新聞社
- H・マシューズ著 1971『フィデル・カストロ——反乱と革命の創造力』(加茂雄三 訳)、東京:紀伊國屋書店
映像
ヴェロニク・ラビュト制作『El Che / 伝説になった英雄』1997年
リンク
- 実践共同体としてのゲリ ラ部隊︎▶︎グア テマラ革命▶樋口聡 キュー バ人名辞典(2002年6月28日)︎︎▶︎ゲリラ部隊の組織化について▶愛の新世界︎︎▶︎グアテマラ革命▶︎︎グアテマラ内戦関連年表▶︎▶︎︎▶︎▶︎
Lo Revolutionario Posmoderno, Che
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