愛の新世界
Le Nouveau monde amoureux
エピグラム:「振り返ってみれば、20世紀の諸々の言説は、愛や情欲を交換不可能なものとして語 りつづけてきた。愛には相手を殺すサディズムか自分を殺すマゾヒズムしかないと言ったサルトルや、あらゆる愛はナルシスティックであると断言したジャッ ク・ラカンをおそらく理論面での頂点として、他者を絶対の〈外〉として立てつづけるレヴィナス亜流の思想家たちや、他者を欠いたナルシスティック なシミュ レーション世界を追認するメディア論者たち、さらには「ひとと触れあうことができない」と嘆きつづける『エヴァンゲリオン』の登場人物まで、いたるところ に同じ不可能性の言説が、時には通俗的に、ときには高/尚に、しかしいつも同じように暗いまなざしで徘徊していると思うのは筆者[=兼子、引用者]だけだ ろうか」。——兼子正勝「訳者解説」クロソウスキー『生きた貨幣』pp.160-161,青土社、2000年
"For the philosopher, the question “what is love?” generates a host of issues: love is an abstract noun which means for some it is a word unattached to anything real or sensible, that is all; for others, it is a means by which our being—our self and its world—are irrevocably affected once we are ‘touched by love’; some have sought to analyze it, others have preferred to leave it in the realm of the ineffable." - Philosophy of Love, by Internet Encyclopedia of Philosophy.
「ラカンは、エディプス・コンプレックスを言語という視点から解釈し直 している。そこでは、エディプス的な敵対者は、母親の愛情の獲得をめぐって争っている生物学的な 意味での個体ではなくて、ラカンが「父の名」と呼ぶもの、すなわち今や言語の機能とみなされた、 家父長的権威として描かれているのである。われわれがここから学ぶことのできるのは、精神病、特 に精神分裂病は、幼児が発話的、言語的な役割の中に、うまく入っていくことができないことから生 じるという考え方である」(ジェームソン 1987:215)。
この授業は「文化人類 学的想像力」を培い、それを明日を生きる学生のみなさんの 活力の源にすることを目的としてつくられました。大学に入ってちょっと元気や目標 を失った学生、ここらでリフレッシュしたい2年生を対象にしたのはそのためです。
授業はまず想像力に冠されたことば「文化人類学」とは何かについて学びます。そ こでの4つのキーワーヅは、異文化経験、フィールドワーク、民族誌、そしてモラル です。
授業は、それと平行しながら3つの著作『ゲバラ戦記』(チェ・ゲバラ)、『苦海 浄土』(石牟礼道子)、『闇の奥』(J・コンラッド)の読解に入ってまいります。 これらの著作は、すべて秀逸な文学作品ではありますが、それぞれ一見まったく異な ったジャンルに分類されているものです。しかしながら、これらの著作は文化人類学 的想像力を介して、じつは相互に深くむすびつく著作なのです(対位法的読解, contrapuntal reading)。
あらゆる文学作品は呼びかけ(appel)である。書くとは、言語を手段として私が企てた発 見を客観的な存在にしてくれるように、読者によびかけることである。——サルトル「文学とは何か」加藤周一訳
後半では社会的想像力を人間の活きる源泉としてとらえた思想家——その中でも私はシャルル・フーリエには大きく影響を受けております——の著作などを織り交ぜな がら授業は展開していきます。もっとも、最後の部分は、このシラバスを書いている 私にも、よくわかりません。
みなさんの積極的な参加をお待ちしております。
A pastiche combining elements of two paintings (original 1 and original 2), using Photoshop
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現在テキストにしたいと考えているものは以下のとおりです。
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[事後学習]