中央アメリカの民族誌と人類学(1)
解説とノート:池田光穂
これは池田光穂は研究用に1993年ごろに作成した自分用の研究ノートです。このノートを利用される皆さんは、現在の研究水準からいっ てすでに過去のものになっている研究もあることを留意して、批判的に利用してくださるようお願いします。くれぐれも、無批判に流用するだけだと、無反省の 誹りを他の学徒から受けるかもしれません。また、皆さんがこの研究ノートを利用して勉強されて、根本的な誤りを発見したり、何か新しい事実を発見した場合 は是非とも制作者までご一報ください。皆さんの貢献で、次の利用者がこの研究リソースをさらに有用なものにしてくれるかも知れないからです。(2003年 6月16日)
●《人類学上の主要3冊》1980年代までの
(1)R・アダムス:農民と国家、エスニシティの問題、階級関係など、今日における理論研究関心を当時に持ち合わせていた。 (2)E・ウルフ:メキシコが中心だがメソアメリカとくにグアテマラ研究の基礎文献 (3)M・ヘルムス:周辺グループ(ミスキトゥ、クナ、ガリフナなど)と中央の権力との関係を描写した。
- 1)Richard N.Adams, 1957, Cultural Surveys of Panama- Nicaragua- Guatemala- El salvador- Honduras, Washington DC: Pan Ame.Sci. Publ.No.33.
- 2)Eric Wolf, 1959, Sons of the Shaking Earth, Chhicago: University of Chicago Press, 303pp.
- 3)Mary Helms, 1975, Middle America: A culture history of hartland and Frontiers, Englewood Cliffs,NJ: Prentice-Hall.367pp.
《通史》[黒田,1986:280-]
1)機能主義の時代/20〜70年代
・1920年代に実地調査研究が開始される(eg.Redfield)。黒田悦子先生によると、北米の研究が一応の形がつき「人類学界のエネルギーは中米 に」向かっていったという。(※今福の議論(『クレオール主義』)だと、1920年代はサウス・ウエストへのインディアン・ツアーの人気が高まった時期で もある。)
・1922年マヌエル・ガミオ『テオティワカン盆地の集落』。ガミオはボアズの弟子で、この作品はメキシコにおけるフィールド・ワークにも とづく報告の初 期のものである。
・1926−7年、ローバート・レッドフィールドにおけるテポストラン研究が嚆矢となって、未開社会ではない民俗社会の理解のために小共同体研究が唱道 されることに なった。そのあと、ビジャ・ロハスと知遇を得てユカタンのマヤ調査(1931年)へと導かれる。
・ドナルド・コードリー(米国の民族衣装・仮面の研究家)は1930年にクエルナバカに居住するようになる。・中米研究(メソアメリカ地域 の先住民の実地 調査研究)の報告書の刊行には、スミソニアン研究所、カーネギー財団、シカゴ大学がその援助をした。
・1937年メキシコ人類学会。1938メキシコ人類学学校?。1939年国立人類学・歴史学研究所。1940年米州インディヘニスモ大会 (パツクァ ロ)。1948年国立インディヘナ研究所の開設。
・1943−48年ルイスのテポストラン再調査。ルイスは、50年以降テポストランから都市に出た人びとの研究を、やがて都市の貧民研究 を、66年の著作 において「貧困の文化」の概念を提出する。
・ジョージ・フォスターは、1944年以降チンツンツァンを調査。
Robert Redfield, 1897-1958
Guide to the Robert Redfield Papers 1917-1958(University of Chicago Library)
2)機能主義から象徴・儀礼研究へ
・1957年、エヴォン・ヴォートによるハーバード・チアパス・プロジェクトが始まる。
・Frank Cancian,1965, Economic and Prestige in Maya Community.(機能主義的経済人類学研究の頂点)
・69年以前の民族誌:ポサス『チャムラ:チアパス高地のインディヘナの村』1959、ギテラス=オルメス『魂の危機』1961年。
・プロジェクトは69年に中断したほかは(その理由はシナカンタンとサンクリストバルで教会の聖具が盗難され、その嫌疑が人類学者にふりか かったため。 Vogt,1979:288-9)継続して調査が進んでいる(関連文献:Vogt, Evon Z.,1979, The Harverd Chiapas Project 1957-75, in "Long-Term Field Research in Social Anthropology"G.M.Foster et al. eds.,New York: Academic Press, pp.279-301.)ヴォートの回顧によると、70年代初期には民族誌資料がそろい、各村落の比較も可能になっていた。調査者の数は18年の間に延べ 136人、27のモノグラフ、21の博士論文、100の論文が生産。つまり、チアパスとくにシナカンタンは研究調査の密度のもっとも濃い地域になった。
3)機能主義批判
・スミスはグアテマラ高地の共同体の祝祭研究において、それが村落の機能を維持するという見解を批判し、植民地支配の経済体制の部分としての祝祭のシステ ムとして理解する必要性を説く(Smith, Waldemar, 1977, The Fiesta System and Economic Change, New York: Columbia University Press.)
《その他》
・古典的なインディオ/ラディーノ定義の崩壊
その前提として、インディオはいずれ経済変化のなかで文化変容をとげてラディーノ化するという見解。
インディオは一枚岩ではなく、各地域集団に帰属するアイデンティティから形成される。
・古典的な前提を転倒させたのは、(1)ある種の国内植民地化ともいえる国家レベルでの経済がインディオ社会を節合し、労働力を吸収するか たちでかなり直 接的な影響をおよぼした。(2)軍隊によるあからさまなインディオ抑圧、である。このことが、結果的に共同体レベルでの社会生活を分裂させるとともに (例:市民パトロール)、難民キャンプでの「マヤ人」相互の扶助、共同体レベルを超えた統合を指向する文化運動グループの登場(eg. Academia de las Lenguas Mayas de Guatemala,1986//Centro de Documentacion Maya, Centro de Investigacion Social Maya, Coordinadora Cakchiquel de Desarrollo Integral, Escritores Mayaenses, Mayab' Ajtz'ib' Jun Iq[Jun Iqに設立されたマヤ作家集団,Quiche], Mayahuil[夜明け,Mam])。
・グアテマラの人類学的研究は→グアテマラ研究史(人類学)参照
・人類学はマヤに対してどのような研究をおこなってきたのか?
・(現地の人類学者たち)グアテマラ現地の医者・人類学者トドス・サントスのアセベドやビジャトーロのようなモラリスティクな態度::(米 国のマヤ研究者 たち)→→"The Harvest of Violence"などの刊行。
【文献】
- ・黒田悦子,1986「解説」ブリッカー『カーニバル』黒田・桜井三枝子訳、pp.280-285、人文書院。
- ・黒田悦子,1988『フィエスタ——中米の祭りと芸能』平凡社。
- ・黒田悦子,1987「解説」マリノフスキーとデ・ラ・フエンテ『市の人類学』信岡奈生訳、pp.244-282、平凡社