中央アメリカの民族誌と人類学(2)
Ethnology and Anthropology: Central America,
Part II
解説とノート:池田光穂
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グアテマラにおける人類学調査研究史:history of Ethnology and Anthropology: Guatemala
《前史》
・ヨーロッパにおけるアメリカ先住民の歴史や文化の研究者(自らをAmericanistと名乗る)の最初の会議は1875年フランス・ナンシーで開催。 それから2、3年ごとにヨーロッパの各地でアメリカニストの大会が開催。・1895年新大陸で初めての大会がメキシコで開催(The Eleventh International Congress of Americanistas)。それからヨーロッパと新大陸が交互に開催され、1902,1904がケベックとニューヨークで開催され以降はおもに新大陸 で開催されるようになる。1949年の会議の議事録を中心とした論文集が『征服の遺産』として刊行。30年後にバンクーバーで開催された会議で、「30年 間の充実した年月 in thirty fruitful years」(Sol Tax,1983:viii)を再検証する同名の会議が開催される。《人類学調査のパラダイス》
・1930年代にグアテマラ高地のマヤ系の先住民を対象にするような調査の開始。例えば、ソル・タックスは、30年代の中頃以降グアテマラを、42年以降 メキシコを調査する。
・彼らの動機は先史マヤに対するあこがれのほかに、紐帯の高さ、閉鎖システム、均質で相対的に static な社会(esp."municipio" への着目,Tax,1937)であることが、人類学の調査者の目にかなうものであった。
・1930年〜1970年頃までは膨大でまた少ないとは言えないほどの良質(=それまでの人類学内部で高く評価されるもの)の人類学研究が生産されてき た。
《調査の条件の悪化》
・1960年代の末期([キャロル・]スミスはこの時期を人類学調査のターニング・ポイントと読んでいる)。非常に厳しい政治弾圧が開始される。1966 年モンテネグロ大統領就任以降テロリズムの激化。この当時は、政治的な抗争が中央で行われ、先住民あるいは村落レベルにはまだ波及していなかった。 (R.N.Adams, 1970,Crucifiction by Power.)
・※この時期はチアパス高原ではハーバードチアパスプロジェクトが全盛期だったといわれる。
・1976年地震やCNUSなど社会運動の激化。78年5月のアルタ・ペラパス県パンソンでの百名以上にわたる現地農民の虐殺。
・1970年代末期には、グアテマラの村落に住む先住民たちが、国家経済のなかに大きく組み込まれ社会問題化していたにもかかわらず、それを描く民族誌は まだ登場していなかった。
・実際に、76年当時の13万2千人を組織する510の共同組合が存在していたが、そのうちの57%はグアテマラ高地の先住民であり、組合によって彼らが 市場経済に組み込まれ、農業技術や政治的態度にも大きく影響を受けていたこと示唆する。グアテマラ国軍によるゲリラ鎮圧作戦はこのような共同体が標的にさ れた(Shelton Davis,1988:21-22.)。《村落での研究が実質的に困難になる時期》1980年以降
・軍隊の先住民に対する攻撃は、スタベンハーゲン流に言えば先住民にたいするエスノサイド的様相を呈する。
・80年代初期に村落の治安が悪化した当時に、多くの人類学者がこれを目撃している。
・国家レベルでの出来事や政治研究以外の調査ができなくなる。この時期の調査研究の成果は、刊行された書物のタイトルに反映されている。
1981, Dialectic of Terror,#5 恐怖の弁証法
1982, Revolutionary School of New Men,#10 新人類の革命学校
1982, Dare to Struggle/Dear to Win,#44 闘争への挑戦/勝利への挑戦
1982, Witnesses to Political Violence in Guatemala, Oxfam(by Shelton Davis et al.)
1983, A People in Struggle, #65 闘争のなかの人びと
1983, This Death that We must live 我々が生きなければならないこの死
1983, Death and Disorder, #45 死と無秩序
1984, Tyranny on Trial, #84 審理中の暴虐行為
1984, Garrison Guatemala, #20 守備隊グアテマラ
1985, A Nation in Turmoil, #34 混乱のなかの国家
1986, Bureaucracy of a Guatemalan Village, #118 あるグアテマラ村落における官僚制
1986, Harvest of Violence, #38 死の収穫
1986, Testimony: Death of a Guatemalan Village, #18 証言:あるグアテマラ村落の死
《グアテマラにおけるこの時期の被害》
※要調査:Amnesty International,1987, Guatemala: The human rights record, AI.
・1954年の政変から85年民政移管までの31年間で犠牲者10万。政治的な理由による失踪者が数万人と推定される(Harvest, p.x)。ちなみにエルサルバドルとニカラグアの内戦犠牲者は、それぞれの7.5万人、6万人。
・1982年末で、国境沿いのメキシコ領内の28のキャンプに32,800人の難民が収容され、非難のための移動を余儀なくされた人びとが4人に1人[百 万人対で25万人]いた(Harvest,p.10)。別の推定では国内外の難民は50万(石井,1993:325)。
《調査者のポジションの変化》
・1980年以降の10年間はまともな調査ができないといわれた。
・また米国の研究者の多くは、大量虐殺、政治的難民(亡命)、あるいは人権運動に関わるようになった。(スミスの文献、#45,46)
・スミスによれば、現在(1987年当時)までのところターニングポイント以降の研究において分析的というわけではなく、また以前の研究を解釈するための ための分析的な枠組みもない。《人類学調査とその妥当性》
・初期民族誌家たち(#43,167,176,177)の関心は、宗教的シンクレティズム、民族的アイデンティティ、先住民農民の経済的特異性に関心が あった。後の民族誌家たちもほぼこれに即した議論をしたが、異なった方法論でアプローチした。例えば、宗教の政治性(#58,178)、民族性の象徴的構 成(#76,128,181)、先住民の経済が海外輸出用プランテーションを通して世界経済につながる様子 (#24,25,31,49,128,152,158,159,160,180)、および、先住民共同体とそれ以外の地域との間の経済・人口・政治的差異 についての記述(#25,128,160)やその説明(#152,158)。
自然な”征服の結果”よりも、民族的アイデンティティと時代を通しての現在進行中のアイデンティティの構成を問題にするような研究 (#37,76,104,153,154,178,181)である。
《現実との照応》
以上のような政治的・経済的・歴史的現実について重視するものも、1978年(なぜ78年?)以降の問題には十分に研究を展開できなかった。 1944−54年の改革期にどのように先住民が反応した/反応しなかったかについては困惑し予測を誤り(#3,179)、1970年代に仕事をした人類学 者は、先住民たちが民族的には混成の農園労働者組合に加入し、いわんや70年代後半の非先住民によって引き起こされるゲリラ反乱には支援しないと予測をた てた。
しかし、今日現在同様過去においても先住民の政治的意識の主要な再評価は現在調査中(#32,57,44,62,404,130,153,155)であ るが、あと知恵によって保証されているにすぎない。【文献】
Carol Smith, 1987, Ann.Rev.Anthropol.
●グアテマラ研究史(歴史学)
《概況》
・グアテマラの最近の革命闘争期(1978−82)以降のまとまった現代史はない。
・1984年前にではJones の研究が(#85)、あるいはリーディングスでは, Handy, Gift of the Devil(#74)。
《植民地時代》
・植民地期先住民社会の研究では、Carmack #37, Orellana #125 がある。
・人口学では、#101,172
・サンチアゴ(現アンティグア)における社会史 #102
・植民地王制 #192,193《criticalな19世紀》:プランテーション確立期
・資料不足もあって十分な研究がない(#70)
・歴史解釈の修正主義者たち:強制労働システム(#108-111)
・コーヒープランテーションの形成(#35)
・19世紀の保守層カウディージョ(caudillo)であるRafael Carreraの研究(#33,80,191)。カレラは従来は無知で野蛮で教会の保守的な手先(=道具)とみなされてきたが、(修正主義者たちによっ て?)先住民や下層民を保護に関心のあったポピュリストのゲリラ闘士とみられるようになった。むろん、それによってカレラが完全に無実になったわけではな い
・カレラ、やRufino Barrios などのカウディージョたちは、手工業ギルド、先住民社会、自由市場を保証していた教会など被っていた植民地権力の保護を取り除き、コーヒー輸出システムを 半強制的に作りあげていった。
・バリオスは19世紀の中央アメリカの自由主義独裁者の道をつくりあげ、資本主義的な富裕化を切望した。(Smith,1987:207)《グアテマラ国内の歴史研究》
・1924年以来の、Academia de Geografia e Historia de Guatemala誌
・最近の論争:Martinez Palaez, #106, La patria del criollo,。グアテマラ史における先住民の位置に関する議論(#157)の論争。《20世紀以降の研究》(承前:グアテマラ内戦)
・カウディージョ研究(#69)とくに改革期(1944-54)に先立つ、Jorge Ubico の研究。
・改革期の研究(#150)
・1960年代の反乱(ゲリラ)運動である focista 運動で、これはグアテマラ東部で熾烈な抑圧をともなった(#83,1,64)。この時期に関与した米国の利害に関する研究(#74,79,142)。国家 資本主義の形態のもとでの封建的な反動(#111,170,34)。改革を挫折させた米国のCIA破壊活動(#171)。【注意】次の3項目はデータ[グアテマラ内戦]へ
《軍隊の研究》
《ゲリラおよび反体制の研究》
《軍による巻き返し》
【出典】
Carol Smith, 1987, Ann.Rev.Anthropol.CAのパート㈵
石井章、1993「中米紛争と農業問題」『冷戦後ラテンアメリカの再構成』遅野井茂雄編、アジア経済研究所、pp.313-342.
《20世紀以降の研究》
・カウディージョ研究(#69)とくに改革期(1944-54)に先立つ、Jorge Ubico の研究。
・改革期の研究(#150)
・1960年代の反乱(ゲリラ)運動である focista 運動で、これはグアテマラ東部で熾烈な抑圧をともなった(#83,1,64)。この時期に関与した米国の利害に関する研究(#74,79,142)。国家 資本主義の形態のもとでの封建的な反動(#111,170,34)。改革を挫折させた米国のCIA破壊活動(#171)。《軍隊の研究》
・先駆的なアダムスの研究(#1)。その他(#20,4,5,)
・1960年代以降は米国の援助とあいまって、軍が政治以上の役割を果たすことがグアテマラの常態となってゆく(#144)。1970/80年代に米国が グアテマラと軍事的に密接な関係を深めてゆく(#107)。軍によるコントロールが社会のさまざまなレベルに浸透し、軍が国家の安全装置と化してゆくと指 摘されている(#107)。・ある研究者の指摘(#4)によると、80年代以降の軍がより制度的になった背景には、生産資源のコントロールのほかに、自己 の銀行、信用制度、印刷所などを維持するようになったという。そして、もはや寡頭政治(oligarchy)の後ろ盾を必要としなくなり、経済的富裕層の 有機的なその部分になったといわれる。
・1980−86年の対反乱(ゲリラ)期でのジャーナリストの報告はそれを傍証する。また軍隊に関する人類学的研究(Michael Richards, #136)は、対ゲリラ対策の第二期(建設的/破壊に抗する)の軍隊のイデオロギーについて調査している。それによると、軍隊は、無視されてきた人びと、 すなわち村落の先住民に、「開発の棹・棒」/政治性を還元することを通して、彼らに文明をもたらす唯一の社会的勢力であると主張されていた。「勝利82」 という対ゲリラ計画で、ある軍人は「戦争はすべての前線で戦うべきである。軍事、政治、おしなべてすべての社会経済的な部分で。人心は我々の主たる標的で ある。」と言っている(originai, #20,p.179/Smith,1987:209)。《ゲリラおよび反体制の研究》
・ゲリラ側の研究は非常に少ない。1960年代に始まったゲリラ活動は、当時は制圧されており、農民や労働者のシンパ(collaborator)が殺害 されていた。60年代には foco という小グループ、FAR(Fuerzas Armadas Rebeldes)「武装反乱軍」がチェ・ゲバラ流の活動を始め、現在に至っている(#64:遠隔地および非先住民居住地,#20,107,144)。 FARは70年代には、ORPAとEGPに発展し、グアテマラ西部を中心に活動している(#10,20,62,107,127,130)。 ※ ORPA:Organizacion del Pueblo en Arma?/武装人民組織?、EGP:Ejercito Guerrillero de los Pobres/貧民ゲリラ隊(?以外は石井章の訳による)
・FARの失敗の教訓から、ORPAとEPGは、76年の地震後に作られたいくつかのグループ、例えばカトリック・アクション・グループ、や珍しい農民統 一委員会CUC(Comite de Unidad Campesina)などの草の根抵抗運動と歩調をあわせている(#20,62,106)
・CUCは70年代初期に、コーヒー、綿、サトウキビ・プランテーションの季節あるいは恒久労働者を中心にして、低賃金、低生活条件の改善のために組織さ れた(#32,62)。1980年のストライキのイニシアチブをとった。これは最初一カ所ではじまったサトウキビ農園のストライキが70いくつかの農園ま で広がり、賃上げ要求を主張する7万5千人の労働者を巻き込んだ操業停止の状態にまで引き起こした。当時の新聞報道によると、農園主による死の部隊 (Escuadrones de Muerte,用心棒)、すべての民間活動家への暗殺が続いていた。これに対して政府はそれまでの最低賃金を倍に引き上げることに同意した(#62)。
・1980年には西部高地でゲリラ活動は活発化したが(農民のゲリラ支持は78年Alta Verapaz,Panzo's以降変化する)、革命のための大衆の支持をえることができなかった。1982年FAR、EGP、ORPAおよびPGT (Partido Guatemalteco de los Trabajadores,グアテマラ労働者党)が連合URNG(Unidad Revolutionaria Nacional Guatemalteca,グアテマラ国民革命統一体)を結成。
・それに対する軍隊の西部高原での巻き返しは1983年までにおこなわれた。当時の軍政によるゲリラ鎮圧は次のような政権下で行われた。Lucas Garcia 1978-82, Rios Montt 1982-83 で、とくに後者の弾圧は熾烈を極めた。
・Jeffery Page(#127)の研究によると、グアテマラ・ゲリラの生態的パターンは、ペイジが指摘する初期のベトナムの農民革命論を支持するものだという。つま り、輸出型経済において土地所有がその争点の中心になり、改革主義者の解決策が土地なし労働者にも土地を専有している地主にも有効でないときに、革命がお こるというものである。(※しかし、こんな理論は誰のためにどのように役にたつものなのだろうか?:確かにスミスもこの理論は80年ならともかく今日では 役に立たないと言っている。)スミス(p.210)によると、土地所有が問題ではなく、農業資本家のねらいは、土地ではなく(低賃金などを通して)利潤を あげることにある。また革命を支える勢力はペイジが主張したような季節労働者にあるのではなく、社会の広い範囲の層にある。《軍による巻き返し》
・スミス(p.211)によると、アメリカの援助をうけた個別の革命の試みが抑圧的国家装置である軍隊によって潰されているとまとめる(関連文献 #155)。
・農民の抗議行動は、78年のPanz'os(先住民犠牲者:百名以上)で始まり、80年CUCのストライキで全国レベルになる。それに対する軍隊の新し い対ゲリラ戦が西部高地の先住民地域で始まる。この地域では、非伝統的な組織、ときには宗教組織などが活動を展開していたところであった (#45,50,62,91,107,144)。それまでは、軍隊にはゲリラ理論しか持ち合わせていなかった[※内容不詳:つまりゲリラ戦や破壊活動など クーデタなどのような政府に脅威を与えたりクーデタの技術に関して精通していたことか?]。と同時に、この時期に軍の弾圧によって都市市民に犠牲者が出た (#6,7,8,9,84)。1980−84年には、だいたい毎月10から100ぐらいの拷問されたり切断された死体が公共の場に曝されていた。この比率 は村落部ではより高かったといわれている。[※グアテマラの青壮年の死亡順位の1位を記録していた、というのは昔Lynn Morganの論文で読んだかな?]
・軍によって高地には安全が確保されたが、反乱地域(El Quiche, Chimartenango,Huehuetenango,Alta Varapaz, Baja Verapaz)では、モデル村落(あるいは開発の軸=ポール, polo de desarrollo:開発拠点)が主要な道路沿いに設置された(#71,72,91,92,136)。
・1982−83年に高地の先住民は軍隊によって市民パトロール(Patroles Civiles)が組織された。市民パトロールは、4〜15日に対して4〜24時間の無償の軍務につく徴兵制のこと。86年には反乱地区での半分で実施さ れていた。しかし文民政権になっても、流血が防がれてはいないし、また軍のコントロールも弱まったわけでもない(#123,171)。
・1991年以降、URNGと政府の和平交渉が続けられているが、革命側の要求は開発拠点、モデル村、市民パトロールの廃止である。【出典】
Carol Smith, 1987, Ann.Rev.Anthropol.CAのパート㈵
石井章、1993「中米紛争と農業問題」『冷戦後ラテンアメリカの再構成』遅野井茂雄編、アジア経済研究所、pp.313-342.
中央アメリカの政治経済学
【総説】
ラテンアメリカは、政治学とくにいびつな近代化の見本のように取り扱われてきて、さまざまな政治的体制のモデルがカタログのように生産されてきた。 (→:知子カード「ラテンアメリカの政治体制」/キャメロット計画)。そこでは、文化研究者が描く「言説」(discourse)に貼り付けるのではな く、より操作的で実践的な「教義=主義=政策」(doctrine)へと展開していた。ラテンアメリカ社会のタイポロジー生産に人類学者が関わってきたこ とは、ラテンアメリカ社会体制の理解と操作可能性(=操作の主体は米国あるいは国家権力を担う主体)の概念の生成と無関係ではない。では、この相互作用を どのように証明するか(米国のタイポロジー研究者が、外交政策に関与してきたことで事足りるだろうか?)(→これはある意味で<知/権力>が習合したある 種のオリエンタリズムあったのではなかろうか)
現地の知識人にとってそれは、政治的な操作性の問題ではなく、知識人を含む「国民」のアイデンティティの問題として構築されてきた(のではないか?)。 むろん、知識人の中には先のタイポロジーを「流用」(appropriation)したものもいるが、それは「国民」を創造し、政治的な操作に運用するよ りも(政治家は利用するが)、自分たちはなにものか、ということに主眼が置かれてきたのではないか?《政治経済学》
・トレス・リバスは、はじめて中央アメリカの状況に対して従属論的な見解を出した。(Torres Rivas, 1971, Interpretacion del desarrollo social Centoramericano.)この従属論は現在までの北米での同地域での研究者に影響を与えている。リバスやJuli Cesar Pinto などはその後も中央アメリカを他の第三世界との関連つけてグローバルな観点から研究を続けている(Smith et sl,1987:199)
《経済学》
・John Week,"182,.の経済的分析。であるが、Robert Williams(see Historical Approach)のようには詳細な分析ではないが、経済的な条件の悪さが統治機構を悪化することに繋がる一種の病理モデルとして中央アメリカをとらえ、 それを「反動的独裁 reactionary despotism」とよぶ。彼によると米国の干渉は、中央アメリカが政治的経済的な危機に陥ることを防ぐ機能を果たすという(Smith,1987: 202)。
《革命の不可避性》
・革命が不可避である、という言明の形態は今日では古くさい言い回しであるが、その古典的な見解をもつのが、Walter Lafeber,#93,.である。米国の外交研究から、19世紀終わりから20世紀初頭の強圧的な米国の中央アメリカ政策を検討し、政治的従属/強圧的 な維持/進歩のための同盟などのような更新/革命というオプションを通してのそれまでのシステムの崩壊、などの相互関係を論じた。しかしスミスは、中央ア メリカ内部の相互作用に注目せず、中央アメリカと米国だけの関係にのみ焦点をあてていると批判している(Smith,1987:203)
《反体制武装集団》
・この分野の調査や研究は実は想像されているほど多くない。例えば、Harnecker,#75, Pueblos en armas,.である。
《投資活動と政治》
・米国の投資活動と外交における中央アメリカに対する干渉には深い関係がある(Smith,1987:203-4)。例えば、1954年グアテマラ・アル ベンス体制がCIAに支援されたクーデタによって崩壊したが、その後5年間の米国の同国に対する投資活動の活発化にはあきらかに関係がある。
《冷戦時代の国際関係》
・ソビエトとアメリカの関係において、米国の干渉や援助がおこなわれてきたが、米ソおよび米国ラテンアメリカ外交研究者の分析では、ソビエトの影響はほと んどゼロにすぎなかったという報告がある(Blazier,#21)。
・ベトナムでの対反乱作戦(counterinsurgency)に先立つ軍事関係者の訓練が中央アメリカにおいておこなわれていた(White, #185)。
・むろん、米国とサンディニスタ政権末期のニカラグアの外交関係において、米国の外交政策を指示する文献も公刊されている。
《研究者の政治的見解と実践》
・中央アメリカの政治経済に関して公刊された論文集に注目してみる。そうすると便宜的に(a)(b)(c)の3タイプわかれる。(a)米国の政策に対立す る活動家タイプの学術生産をするグループ。(b)専門家向けの地域研究に徹する研究者のグループ、(c)なんでもありのグループである。しかし、相対的に 米国の政策に対しては批判的なスタイルをとり、オルターナティブなものを要求する(Smith,1987:204)。
・スミスがお奨めの政治学に関する論集はConfronting Revolutions,#19
●人類学者側の変化
【留意点】ポストコロニアルな外部者の視点から人類学に対する冷淡な批判を重ねてもなんら実り多い成果にはつながらない。むしろ、個々の人 類学者の反応の変化を読みとって、人類学の関心はどのようなところにあったのか、そのような変化から、私たちが何かを学ぼうという姿勢がないとだめ だ!!。
【方法論】
・具体的な個人の論文を並べて、その変遷をみる。例えば、John Watanabe, Carol Smith, Robert Carmackらの論文が言及する内容の変化を詳細にフォローすること。《考察》
・調査対象として相手の文化を本質主義的にとらえようとする立場から、文化変容のなかで「進歩への選択」(Redfield, Chan Kon Yucatan,1950の影響?)や「機械時代のマヤ」(Maning Nash,1958)への研究の焦点のシフト、ソノラ研究のような長期データの蓄積、Heritage of Conquest,1949.;Heritage of Conquest:Thirty Years Later,1979のような文化の相互作用を人類学的・歴史的に考えるものへの変化していった。
これらの構図(本質主義的な傾向)は80年代以降のものとは根本的に異なる。
ただし、米国の文化人類学者たちの80年代以降の迅速な対応や人道主義的な主張(例えば Harvest of Violence, 1988 のような)は、Robert Carmack(Harvest of Violence, Preface,p.xvii)が言うように米国内においても学問的な研究業績につながらないという指摘にみられるように、研究の領域における学問的な成 長とみなされないかも知れない。(→これは研究領域そのものが一種の反動的なイデオロギーの領域になっていることを暗に示唆することにつながるかも知れな いが、カーマックのように植民地期のエスノヒストリーなどを中心に研究する人にとっては、という意味かもしれない。)。・政治経済学からは中央アメリカの政治や社会に対する積極的な指摘(それを実践とむすびつけるか否かは別にして)はあったのに、現地の生活 からという視点を少なくとも理念として掲げていた人類学者側からの反応は、むしろ遅いというべきか。もちろん、このような議論における過度の単純化は禁物 である。
・もうひとつよくわからないことは、グアテマラのインディヘニスモなどのような先住民の近代化論の研究というような、アカデミズムが先導す る先住民運動などのような、現地側の非先住民からみた先住民像などの指摘が意外にすくない。もし仮に、このような研究が欠落し、本質主義に対する反省から 直にコミットメントという姿勢に直結する/切断されているならば、いづれまた本質主義に戻るようなことがあるかも知れない。それは本質主義に対する反省 が、論理的に乗りこえられ結果コミットメントの問題に展開したのではなく、現状の火急でスキャンダラスな問題に対処するためにそれがでてきたかもしれない からだ。(要調査)
グアテマラに関与する人びと
《グアテマラ問題に発言する人びと》
1.参与者・支援者・苦しめられた当事者
#10,32,44,118,130
2.研究者
#38,45,46,50,91,92,136
3.国際人権団体
Americas Watch, Amnesty International, Cultural Survival.《リゴベルタ・メンチュ》
・父親がCUCの創設に協力および活動していた。
・本人はほとんど亡命状態で、グアテマラ国内に滞在するときにはテロの脅威にさらされている。《人類学》
1980年代以降、人類学者は中央アメリカにおいて重要な役割を果たさなくなってきた(Smith,1987:198)。
リチャード・N・アダムスをのぞいて、とくにマヤ地域以外を調査している民族誌家が、学問の主流以外のところで発言したり問題に関与してきた、とキャロ ル・スミスはいう(Ann.Revw.Anthropol,1987:198)。
これはマヤ地域を調査している民族誌家は、学問の主流の領域で発言し、それ以外の地域の民族誌家は、人類学以外の領域で中央アメリカに関わっている という事実にほぼ照応した見解だ。
(例:USAIDを通しての援助と研究調査、NGOなどの通しての援助あるいはODAや大国の軍事的関与への批判)。
・メンチュの記録を聞き書きしたのは、フランスの人類学者か?
・セクストン(James Sexton)のライフヒストリー調査は、グアテマラ国内の暴力の以前(#146)と最中(145)での時期におこなわれた。ソノラ(Sonola')出 身の男性の当事者からみた政治の分析はメンチュほど洗練はされていないが、この時期の暴力この男性が多大な影響を受けており、革命勢力にどのように先住民 が対応したかの貴重な資料になっている。(Smith,1987:212)
・『暴力の収穫』(Robert Carmack ed.,Harvest of Violence.)は、暴力の前と後の集落を収録している。この編著に参加した著者たちは、1970年代に調査を行った人類学者で、80年代に再訪ある いは個人的な情報によって暴力の現実の問題に直面した人たち。この著者たちの共通した見解は、新しい社会秩序に直面した高地の先住民社会は、以前とはかな り異なっているというものだ(とくにスミスの論文,#156)。
・Beatriz Manzのメキシコのグアテマラ難民研究の論文は、研究者が過去10年間にグアテマラで起こったことを基礎にした研究者の想定する社会構造や文化には、大 きな問題があると述べている。
【文献】#の数字は、下記文献のリスト参照。
Carol Smith, 1987, Ann.Rev.Anthropol.