はじめに かならずよんでね

オートエスノグラフィー分析

auto-ethnographic analysis


元サンダカン八番娼館にいた木下クニの思い出のために

山崎朋子『サン ダカン八番娼館 : 底辺女性史序章』研究ノート

解説;池田光穂

オートエスノグラフィ(auto- ethography)とは、自叙伝や闘病記のように、自分自身が参与したことを、自分自身の語りを通して表 現した(広義の)民族誌的メディ アのことである。

この概念は、文化人類学的分析にとって機 能的な定義である。したがって、この資料は、異なった研究者にとっては、異なった資料体になること は明らかである。つまり、犯罪学者にとっては、犯罪分析の資料、心理学者にとっては、本人のアイデンティティや行動特性を理解する資料となる。

オートエスノグラフィーの分析が、人類学 にとって比較的難解であるのは次のようなことからである。つまり、自己と他者との峻別や、この他者 表象をめぐるさまざまな学問的理解という、一般の(狭義の)民族誌的メディアにかかわる資料体そのものの理解が複雑な上に、さらに、自己表象の問題という 新たな分析視角加わるからである。

しかし他方で、オートエスノグラフィーへ の関心とその理論形成についての議論が盛り上がることは、他者表象を中心としてきた、狭義の民族誌 的メディアの議論に対して、さまざまな理論上の刺激を与えることが確実だからである。

もちろん、オートエスノグラフィーという 概念がまったく問題をもたないかというと、なかなか概念的には問題含みの概念であることは確かである。

このばあいの、オートエスノって、なにが オートなのでしょうか?——表象される自己を表象するという意味でループをなしているので、セルフ(= 自己)=オートエスノとなるのでしょうか。自分の心象風景という「吐露」ではなくて、自分を他者の観点から「模写」するという意味なのかな? ひょっとし て、オートの用語にそんなに固執しないのであれば「じぶん流民族誌」なのか、ただたんに「自分の活動をかいた記録」になるでしょうか? エスノ=民族=他 者表象という自明性をはかいするのでオートというよりも「自己を抜け出る」民族誌なのかな?

【実習課題】

【メモリー】

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