かならずよんで ね!

山崎朋子『サンダカン八番娼館 : 底辺女性史序章』研究ノート

On  Sandakan brothel no. 8 : an episode in the history of lower-class Japanese women

池田光穂

この年老いた天草の農婦の声なき祈りを聞き分けること、それが女性史研究を志すわたしの〈仕 事〉なのだ」(山崎 1972:8)——私はここに民族誌の著者の当事者への倫理抜きの〈書く/描く意思〉を読みとることができる。

山崎朋子『サンダカン八番娼館」底辺女性史序説』筑 摩書房、1972年のほうは、歴史の生き証人(サキさん)の住まいまで押しかけ て、貴重な聞き書きと歴史的再現を試みたすばらしい著作である――民族誌家はこの本 を読んで切歯扼腕すべきだと僕は思う(→「私にとっての、倫理の書」)。

このページは、山崎朋子の2つの著作『サンダカン八 番娼館 : 底辺女性史序章』と『サンダカンまで:わたしの生きた道』の2部からなっています。後者のものについて は、下までスクロールするか書名のところでタグジャンプしてください。

01山崎朋子 『サンダカン八番娼館 : 底辺女性史序章』章立て(番号は書籍にはないもの。池田が順番につけ たもの)

■登場人物(ページ数)

++

〈おサキさん〉と〈私〉の突然の演技のはじまり (34)

ボルネオ産の布団に感情移入する山崎(47-48) さらには、その理不尽な恐怖(49)

おサキさんの語り口を筆記する山崎(64-)

再訪とおサキさんとの生活、トイレの話(66)

三菱炭鉱とは、三菱鉱業の運営する炭坑だが、所在地 不明(68)

「1871年三菱合資会社の前身である九十九商会が 和歌山県で炭砿経営を始める。1918年三菱合資会社より鉱山・炭坑部門の業務一切を継承して三菱鉱業(株)設立。国内外へ事業を広げるが、戦後は占領政 策により事業縮小し、1950年金属部門を分離、石炭部門は1969年三菱高島炭砿、三菱大夕張炭砿として分離。他部門は1973年三菱セメント(株)・ 豊国セメント(株)と合併し三菱鉱業セメント(株)となる」出典「三菱鉱業 (株)『三菱鉱業社史』(1976.06)」)

なにがなんでも、ネイティブと同じ生活をするという 意思(57)

インフォーマントは、理路整然と話さず(58)

嫁を偽装することがバレそうになる(59)

おサキさんがより話すようになったのはなぜ (61):ラポールの問題

英訳、52ページより

なんで、おサキさんの話しを移民労働として考えな かったのか?!再読して、72ページになりようやく、氷解。(→「移民・移動の人類学研究ガイド」)

***

からゆきさんの還暦記念の男装写真「もうおなごは嫌 じゃ、わしはもうおなごでなくなったとじゃけん、これからは男になるとじゃ」木下クニ、ドゥー ルズ的実践に喝采!(山崎 1972:211)

木下クニ

木下クニ、こと、おクニさん(還暦写真)211

おサキさんは、ゴーリキー『どん底』の老巡礼ルカの ごとく、「さまざまな醜悪に出逢えば出逢うほど、そのことを学んで他人にたいして寛容になり、人間存在として円熟して行く人」である(254)

●最初の晩餐(The First Supper)

The First Supper 1988 acrylic on panel, 120 x 240 cm by Susan Dorothea White

最後の晩餐ならぬ、最初の晩餐、あるいはヲトコ時代 の終わり(フェミズムの夜明け), The First Supper 1988 acrylic on panel, 120 x 240 cm by Susan Dorothea White

資料レジュメ(4部構成)パスワードがかかっていま す

■著者研究:

02山崎朋子『サンダカンまで:わたしの生 きた道』朝日新聞社、2001年(1932年生まれなので、彼女69歳の時の作品)第四部までは『週刊朝日』連載し、五部を書き下しして出版。

山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日)は、女性史研究家、ノンフィクション作家。夫は児童文化研究家の上笙一郎。

長崎県佐世保市生まれ、広島県呉市と広島市で育つ。呉市立仁方小学校卒 (文芸春秋講演会での発言から)。本籍地は福井県。父は大日本帝国海軍中佐の大畑正、母は若山喜志子門下の歌人で三冊の歌集を持つ大畑晴子。1940年、 父が艦長を務める伊号第六十七潜水艦が沈没し、父を喪う。

1945年、広島市への原子爆弾投下前に母親の郷里福井県に移り終戦を 迎える。1952年、福井大学教育学部二部を2年修了。福井県で小学校の教師をした後、1954年、女優となることを夢見て上京、再度小学校教諭を務める が一年で辞め、演劇の勉強をするうち、知り合った東京大学院生・金光澤と事実婚。しかし金は朝鮮総連学生部の委員長であり、ナショナリズムのゆえに日本人 妻を忌避する風潮が現れ、金の許を去る。

その後喫茶店で働きつつ、写真のモデルなどをしていたが、1958年、 一方的に朋子に執着した男に顔を傷つけられ、女優の夢を断たれる。同年、新宿の風月堂でウェイトレスをしていて、児童文化研究者・上笙一郎と知り合い、 1959年、結婚。上の本名である山崎を姓とする。(以上は自伝『サンダカンまで』に詳しい)

女性史研究者としての勉強を始め、上との共著『日本の幼稚園』で 1966年、毎日出版文化賞受賞。アジア女性交流史研究会を創立し、77年まで『アジア女性交流史』を刊行。九州地方の「からゆきさん」の聞き書き『サン ダカン八番娼館』で1973年、大宅壮一ノンフィクション賞受賞、同作は映画化もされ(『サンダカン八番娼館 望郷』、熊井啓監督)、ベストセラーとなる。『あめゆきさんの歌』では、評論家の山田わかが、若い頃アメリカで娼婦をしていた事実を明らかにした。以後、 女性史研究の第一人者として著書多数。アジア女性交流史研究会を設立、また1990年代にはアジア女性基金を設立、近代女性の著作の復刊「女性叢書」の編 纂などに従事。

2018年10月31日、糖尿病のために死去した[1]。86歳没。

著書
『愛と鮮血 ―アジア女性交流史―』三省堂新書 1970 のち光文社文庫
『サンダカン八番娼館 ―底辺女性史序章―』筑摩書房 1972 のち文春文庫
『サンダカンの墓』文藝春秋 1974 のち文庫
『火種はみずからの胸底に』筑摩書房 1974 のち光文社文庫
『随想 ―胸より胸へ―』筑摩書房 1976 のち光文社文庫
『あめゆきさんの歌 ―山田わかの数奇なる生涯―』文藝春秋, 1978 のち文庫
『随筆 ひとあしずつ』主婦の友社 1980 のち光文社文庫
『鳴潮のかなたに ―伊号第六十七潜水艦とその遺族―』文藝春秋, 1983 のち文庫
『わたし自身をさがす旅』PHP研究所, 1984
『アジアの女アジアの声』文藝春秋, 1985
『引き裂かれた人生』文藝春秋, 1987 のち文庫
『生きて生きて』海竜社 1992
『ひとつ・一枚物語』文藝春秋 1993
『アジア女性交流史 明治・大正期篇』筑摩書房 1995
『わたしがわたしになるために』海竜社 1997
『サンダカンまで ―わたしの生きた道―』朝日新聞社 2001
『朝陽門外の虹 ―崇貞女学校の人びと―』岩波書店 2003
『アジア女性交流史 昭和期篇』岩波書店、2012 
共編著
『日本の幼稚園 幼児教育の歴史』上笙一郎共著 理論社, 1965 のち光文社文庫、ちくま学芸文庫
『光ほのかなれども 二葉保育園と徳永恕』上笙一郎共著 朝日新聞社, 1980 のち光文社文庫
『「女の生き方」四〇選』文藝春秋 1991 のち文庫
『アジアの女性指導者たち』筑摩書房 1997
『アジア女性交流史研究』上笙一郎共編 港の人 2004


https://bit.ly/3vaPUS9


同書の章立て

読書めも

第1部 雨の夜のアクシデント

(顔を切られる事件の顛末)

〈ロン〉のこと()

第2部 潜水艦長の娘

大畑姓(88)

たにんにはやれぬ、の意(92-93)

自分は「母の実の子ではない」疑念(92-95) 異なった解釈もある(120)

二河[尋常]小学校養 護学級に(102)[沿革:http://www.kure-city.jp/~krcs/h26ennkaku.pdf]

父の死は、東京湾南方ではなくウェーク島西と極秘 文書に(109)

亡父は、映画や、殉死のモデルに(114)

県立呉れ第一高等女学校から、広島第二高等女学校 へ(115)

母との複雑な関係(119-120)

広島第二高等女学校(123-)

関千枝子(1932-)『広 島第二県女二年西組』筑摩書房、1985年

1945年6月ごろ、大野に疎開

猫島寿子さんの消息不詳 (132)

第3部 自由へのあこがれ

大野高等女学校

新制大野高校での演劇(144-)

村岡牧師(147)

映画出演の頓挫(150-151)

福井大学教育学部二部に入学(155)

決闘事件(159-160)

小学校教師として採用(162)

君が代に反対し、転勤へ(166-167)

東京都の小学校教員を受験、合格へ(172-)

第4部 民族と思想の壁に

演劇観賞三昧の日々(181)

〈虹の会〉に入会(183)

野坂昭如との出会い(186-187)

鳴海こと、金光澤(きむ・ぐあんてく)187- 189

金の来歴(189)

伊学準(ゆん・はくちゅん)191

朴春日(ぱく・ちにる)192 『近 代日本文学における朝鮮像』(1969)未来社。

小学校をやめて、うたごえ喫茶のレコード解説係へ (195)

福本章(197)

金と結婚(200)

父と酒を酌み交わした朝鮮人青年・瀬尾(202)

母に遭うための、重い新婚旅行(204)

在日コリアン政治運動小史(207--)

朝鮮名、羅敦香(ら・どんひゃん)210-211

義父・金麗澤、義母・梁成舜(やん・そんすん) 213-

藤田省三(219)(245-)

「朝鮮人はこまるんだよ」でクビ、だが〈ウィー ン〉の店主は朝鮮人夫妻で、ウェイトレスが朝鮮人と結婚した日本人ということでクビ 228-229

金と分かれる決意(234)/金のその後(242 -)

強姦未遂事件と事件の顛末(235-237)

示談金の半額を置いて、金の家を出る(237-)

ミコヤン副首相に花束を渡す(240)

金のその後の消息不明(1967年が最後?) 250 北朝鮮とKCIAに翻弄される国際政治学者として

第5部 女性史研究へのあゆみ

日本婦人問題懇話会のこと(298-299):https://sites.google.com/site/fumonkon/

「傷をなぞ」った[事件]のは、赤松良子か? (300)

上の勉強法(301)

アジア女性交流史研究会のたちあげ(307)

アジア女性交流史研究 全1巻[全18号合冊 /1967年11月~1977年2月]

山辺 健太郎(や まべ けんたろう、1905年5月20日 - 1977年4月16日)「歴史家、労働運動家。東京生まれ。小学校卒。1920年、大阪で労働運動に加わる。1925年、日本労働組合評議会に参加する。 1926年、浜松の日本楽器争議を支援する。1929年、四・一六事件で検挙される。1940年、治安維持法違反で検挙され、獄中で敗戦を迎える。 1947年、日本共産党統制委員。1958年、離党し、著述に専念する」ウィキ日本語)

からゆきさんをみたい「欲望」(314)

1968年8月渡九の経緯(316)

中央公論社から筑摩書房からの出版の経緯へ (318-)

臼井吉見との出会い(323-)

1972年5月出版

1973年春、大宅壮一ノンフィクション賞

1974年熊井啓監督『サンダカン八番娼館・望 郷』(東映)

1985年 タイ語

1989年 韓国語

1997年 中国語

1997年 英語に翻訳(325)

からゆきさん、三部作(328)

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リンク(移民労働関係)

リンク(調査法/研究倫理関係)

文献

その他の情報

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