客観的に記録するとは、どういうことなのか?
What does it mean to record objectively?
バ
リャドリード論争におけるラス・カサスの対戦相手、フアン・ヒネ
ス・デ・セプルベダ
解説:池田光穂
「ペルシア人メターステネスは、ペルシャ人に関する編年史の冒頭で次のように言っている。 『史実について書かんとする者は、ただ耳にしたこととか、自己の考えとかにのみに基づいて編年史を書いてはならぬ。さもなければ、ギリシャ人の ごとく自己の考えをもとに書くとき、彼らと同様に、自己と他のひとびととを欺き、生涯誤りをおかすことになるからだ』」(pp.4-5)。
「歴史家たる者は学識広く、精神的にすぐれ、畏れ慎み、良心にきびしく、何か個人的な目的と か願望とかを遂げようとすることを厳にいましめるごとき人物でなければならぬのであって、これはきわめて当然の道理である」(p.10)。
「歴史家とは知識を有する人間ではない。歴史家とは探究する人間である。したがって歴史家 は、すでに得られた解答を吟味し、必要とあらば、かつての訴訟を再審理する人間なのだ」リュシアン・ルフェーブル(高橋薫 訳)
★歴史と歴史学において(→「主観性と客観性」からの引用)
歴史学という学問分野は、その当初から客観性という概念と格闘してきた。その研究対象は一般に過去であると考えられているが、歴史家が扱わなければならないのは、現実と記憶に対する個人の認識に基づく、さまざまなバージョンの物語だけである。
レ オポルド・フォン・ランケ(19世紀)のような歴史家は、過ぎ去った過去を復元するために、広範な証拠、特にアーカイブされた物理的な紙文書を使用するこ とを提唱した。 [20世紀には、アナール学派は、影響力のある人物(通常は政治家であり、その人物の行動を中心に過去の物語が形成された)の視点ではなく、一般の人々の 声に焦点を当てることの重要性を強調した。 [24]ポストコロニアル史の流れは、植民地-ポストコロニアルという二項対立に挑戦し、植民地化された地域出身の歴史家が、信頼性を得るために植民地化 した地域で起こった出来事に地元の物語を固定させることを要求するなど、ヨーロッパ中心主義的なアカデミズムの慣行を批判している[25]。上記で説明し たすべての流れは、誰の声が多かれ少なかれ真実を伝えているのかを明らかにし、歴史家が「実際に起こったこと」を最もよく説明するために、どのようにその 声をつなぎ合わせることができるかを明らかにしようとするものである。
人 類学者のミシェル=ロルフ・トルイヨは、社会歴史的プロセスの物質性(H1)と、社会歴史的プロセスの物質性について語られる物語(H2)の違いを説明す るために、歴史性1と2の概念を開発した[26]。この区別は、H1が「客観的真実」の概念とともに経過し捉えられる事実的現実として理解され、H2が人 類が過去を把握するためにつなぎ合わせた主観性の集合体であることを示唆している。実証主義、相対主義、ポストモダニズムに関する議論は、これらの概念の 重要性とその区別を評価するのに関連する。
倫理的考察
Trouillotは著書 "Silencing the past
"の中で、歴史的沈黙が生み出される可能性のある4つの瞬間を概説し、歴史形成に作用するパワー・ダイナミクスについて書いている:
(1)資料の作成(誰がどのように書くかを知ること、あるいは後に歴史的証拠として調査される所有物を持つこと)、(2)アーカイブの作成(どの文書を保
存し、どれを保存しないか、どのように資料を分類するか、物理的あるいはデジタルアーカイブの中でどのように順序付けるか)、(3)語りの作成(どの歴史
の記述が参照されるか、どの声が信頼されるか)、(4)歴史の作成(過去とは何かという回顧的な構築)である。 [27]
歴史(公的なもの、公的なもの、家族的なもの、個人的なもの)は、現在の認識や、現在をどのように意味づけるかに影響を与えるため、誰の声がどのように歴
史に含まれるかは、物質的な社会歴史的プロセスにおいて直接的な結果をもたらす。現在の歴史叙述を、過去に展開された出来事の全体像を公平に描写したもの
と考え、それを「客観的」とレッテルを貼ることは、歴史理解を封印する危険性がある。歴史は決して客観的なものではなく、常に不完全なものであることを認
識することは、社会正義の取り組みを支援する有意義な機会となる。この考え方の下で、沈黙されてきた声は、世界の壮大で一般的な物語と同等の立場に置か
れ、主観的なレンズを通した現実に対する独自の洞察が評価される」「主観性と客観性」)。
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上の引用はラスカサス『インディアス史』序文より
自筆原稿(クリックすると拡大します)
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