客観的に記録するとは、どういうことなのか?
What does it mean to record objectively?

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リャドリード論争におけるラス・カサスの対戦相手、フア
ン・ヒネ
ス・デ・セプルベダ
解説:池田光穂
「ペルシア人メターステネスは、ペルシャ人に関する編年史の冒頭で次のように言っている。 『史実について書かんとする者は、ただ耳にしたこととか、自己の考えとかにのみに基づいて編年史を書いてはならぬ。さもなければ、ギリシャ人の ごとく自己の考えをもとに書くとき、彼らと同様に、自己と他のひとびととを欺き、生涯誤りをおかすことになるからだ』」(pp.4-5)。
「歴史家たる者は学識広く、精神的にすぐれ、畏れ慎み、良心にきびしく、何か個人的な目的と か願望とかを遂げようとすることを厳にいましめるごとき人物でなければならぬのであって、これはきわめて当然の道理である」(p.10)。
「歴史家とは知識を有する人間ではない。歴史家とは探究する人間である。したがって歴史家 は、すでに得られた解答を吟味し、必要とあらば、かつての訴訟を再審理する人間なのだ」リュシアン・ルフェーブル(高橋薫 訳)
★歴史と歴史学において(→「主観性と客観性」からの引用)
歴史学という学問分野は、その当初から客観性という概念と格闘してきた。その研究対象は一般に過去であると考えられて いるが、歴史家が扱わなければならないのは、現実と記憶に対する個人の認識に基づく、さまざまなバージョンの物語だけである。
レ オポルド・フォン・ランケ(1795-1886)のような歴史家は、過ぎ去った過去を復元するために、広範な証拠、特にアーカイブされた物理的な 紙文書を使用するこ とを提唱した。 [20世紀には、アナール学派は、影響力のある人物(通常は政治家であり、その人物の行動を中心に過去の物語が形成された)の視点ではなく、一般の人々の 声に焦点を当てることの重要性を強調した。 [24]ポストコロニアル史の流れは、植民地-ポストコロニアルという二項対立に挑戦し、植民地化された地域出身の歴史家が、信頼性を得るために植民地化 した地域で起こった出来事に地元の物語を固定させることを要求するなど、ヨーロッパ中心主義的なアカデミズムの慣行を批判している[25]。上記で説明し たすべての流れは、誰の声が多かれ少なかれ真実を伝えているのかを明らかにし、歴史家が「実際に起こったこと」を最もよく説明するために、どのようにその 声をつなぎ合わせることができるかを明らかにしようとするものである。
人 類学者のミシェル=ロルフ・トルイヨは、社会歴史的プロセスの物質性(H1)と、社会歴史的プロセスの物質性について語られる物語(H2)の違いを説明す るために、歴史性1と2の概念を開発した[26]。この区別は、H1が「客観的真実」の概念とともに経過し捉えられる事実的現実として理解され、H2が人 類が過去を把握するためにつなぎ合わせた主観性の集合体であることを示唆している。実証主義、相対主義、ポストモダニズムに関する議論は、これらの概念の 重要性とその区別を評価するのに関連する。
★メタヒストリー・ゲームより
★倫理的考察
Trouillotは著書 "Silencing the past
"の中で、歴史的沈黙が生み出される可能性のある4つの瞬間を概説し、歴史形成に作用するパワー・ダイナミクスについて書いている:
(1)資料の作成(誰がどのように書くかを知ること、あるいは後に歴史的証拠として調査される所有物を持つこと)、(2)アーカイブの作成(どの文書を保
存し、どれを保存しないか、どのように資料を分類するか、物理的あるいはデジタルアーカイブの中でどのように順序付けるか)、(3)語りの作成(どの歴史
の記述が参照されるか、どの声が信頼されるか)、(4)歴史の作成(過去とは何かという回顧的な構築)である。 [27]
歴史(公的なもの、公的なもの、家族的なもの、個人的なもの)は、現在の認識や、現在をどのように意味づけるかに影響を与えるため、誰の声がどのように歴
史に含まれるかは、物質的な社会歴史的プロセスにおいて直接的な結果をもたらす。現在の歴史叙述を、過去に展開された出来事の全体像を公平に描写したもの
と考え、それを「客観的」とレッテルを貼ることは、歴史理解を封印する危険性がある。歴史は決して客観的なものではなく、常に不完全なものであることを認
識することは、社会正義の取り組みを支援する有意義な機会となる。この考え方の下で、沈黙されてきた声は、世界の壮大で一般的な物語と同等の立場に置か
れ、主観的なレンズを通した現実に対する独自の洞察が評価される」「主観性と客観性」)。
★レオポルト・フォン・ランケ(ウィキペディア日本語)
| レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke, 1795年12月21日[1] - 1886年5月23日)は、19世紀ドイツの指導的歴史家[2]。 |
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| 業績 実証主義に基づき、史料批判による科学的な歴史学を確立した。ランケ以前の歴史研究者を「歴史家」、以降の歴史研究者を「歴史学者」と呼ぶように、ランケ の業績は歴史学の画期となった。また、教育面では演習(ゼミナール)を重視した。「それは事実いかにあったのか」を探究する実証主義的な研究法と教育方法 は、ドイツ国内のみならずイギリス・アメリカ、フランス、日本等の歴史学に大きな影響を与えた。 |
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| 生涯 1795年12月21日にザクセン選帝侯国テューリンゲン地方ヴィーエに代々ルター派の牧師の家に生まれる。長じてライプツィヒ大学に入学して古典と神学 を研究した。この時期に中世の史料講読法を習得した。1818年フランクフルト・アン・デア・オーデルのギムナジウムの教師となる。1825年に、ベルリ ン大学史学科助教授。1834年に同大学教授となる。1865年に貴族に列せられる。1886年5月23日ベルリンで89歳で没した。 ランケは、生家から影響された敬虔なルター派プロテスタントに、フィヒテの理想主義と、ゲーテの人間性の哲学を統合し、独自の歴史哲学を構築していった。 また、他方では、18世紀の世界史観に、人間及び社会の個性と有機的な発展というロマン主義の原理を繋ぎ合わせていった。ランケ史学は、従来の啓蒙主義か ら派生した教訓的、実用的歴史学に対する批判に特徴がある。ランケは、あくまでも実際の事物がどのようなものであったかを発見しようとつとめた。 ランケの処女作である『ラテン及びゲルマン諸民族の歴史』Geschichte der romanischen und germanischen Völker von 1494 bis 1514 (1514年で執筆は中断された。1824年に公刊)には、既に以上のような歴史的思考法によって、ラテン、ゲルマン諸民族の西ヨーロッパにおける共同体 の形成や、キリスト教と人文主義の文化価値の統合、キリスト教的神の世界史における影響などが余すことなく記述されている。この処女論文は彼の以後の歴史 学を規定すると共に、ベルリン大学での50年間の教育活動への道を切り開いたものである。 ランケは、人物の性格研究に優れていた。特に初期の著作である、『ローマ教皇史』Die römischen Päpste in den letzen vier Jahrhunderten, (1834年〜1836年)において顕著である。彼は、近代ヨーロッパ社会の基軸を、教会と国家の関係の変化の中に見出していった。 ランケが記した諸国民史―『プロイセン史9巻』Neun Bücher preussischer Geschichte (1847年〜1848年)、『フランス史』Französische Geschichte, vornehmlich im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert (1852年〜1861年)、『イギリス史』Englische Geschichte, vornehmlich im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert (1859年〜1869年)は、16世紀および17世紀の近代国家の発展期を集中して記述したものである。 青年時代にランケは万国史や列国史ではない歴史叙述としての「世界史」の執筆の望みを持っていた[3]が、晩年に、この作業に着手した。この『世界史』 Weltgeschichte(1881年〜1888年)は、ランケの生前は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世までの記述で(死後、ランケの草稿をもとに15 世紀半ばまで加筆された)断片的である。 また、ランケは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と密接な関係にあり、復古主義に陥り、革命勢力に対しては公正とは言えなかった。『世界史』 においても、時代遅れの観点をさらけ出しており、大英帝国の覇権や、アメリカ独立革命、帝政ロシアの膨張については触れていない。さらに資本主義社会や産 業革命による産業社会の発達についても扱ってはいない。とは言え、彼の歴史像は限定されたものであったが、彼の影響は、ドイツにとどまらず欧米社会に波及 し、近代歴史学研究法の創始者と目される。ランケは古文書学の優れた研究家であり、メッテルニヒ時代の外交政策、特に東方問題について深い見識を有してい た。さらにそれから敷衍し、16世紀、17世紀全般の列強の興隆について研究を拡大していった。 組織者としても辣腕を振るい、1858年にはバイエルン王マクシミリアン2世のもとに「バイエルン学士院歴史学委員会」を創設し、こうした委員会により、文書や書簡の保存や刊行を指導した。 ベルリン大学では、演習(ゼミナール)形式を重視し、史料を方法的に分析し、経験的に解釈・判断するという方法を採り、バルトホルト・ゲオルク・ニーブー ルとならんで近代歴史学の祖といわれる。上述の『ローマ的・ゲルマン的諸民族の歴史』の付録として刊行された『近世歴史家批判』(1824年)は、厳密な 史料批判をとおして科学的な近代歴史学の基礎を確立した著作として、画期的な意義をもつとして今も名高い。その後継者には、プロイセン学派のヨハン・グス タフ・ドロイゼンやハインリヒ・フォン・トライチュケがいる。また、最晩年の教え子にお雇い外国人として日本に実証主義的近代歴史学を伝えたルートヴィ ヒ・リースがいる。 |
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| 批判 科学的で客観的な近代歴史学を確立したとされるランケであったが、早くも20世紀初頭に「科学的歴史学の創始者たちが自ら首唱した規則に従わないことがあ まりにも多く」、「ランケは、次の世代に対して、れっきとしたランケ主義者だとはいえなかった」[4]と批判が起きた。ランケが己の実践で行ったことは、 特定の史料への偏りや恣意的な史料の選択、狭い範囲の史料を活用して多くの隠喩を用いた叙述であり、「ランケの著作はよくいわれるように「無色」などでは なく、隠喩だらけ」[5]であった。 ランケは若い頃、イギリスの歴史小説家ウォルター・スコットの作品に感銘を受けたが、実際に史料を調べて見ると、小説の内容が史実とはあまりにもかけ離れ たものであることに衝撃を受け、厳密な史料批判による実証主義へ向かうことになった。この点ではランケの史料批判は学問的に大きな飛躍だったが、実際の歴 史叙述の段階では、従来的手法が継承されていたわけであった。 ランケの史料批判の方法は、実践面において影響が残っている一方、(文献学だけにとどまらず、社会学、地理学、経済学等を取り入れた)より広範な着想であ る20世紀の歴史学や経験主義については、一部からは時代遅れで最早信用出来ないと看做されるようになった。20世紀半ばにカーや、[6]ブローデルの挑 戦を受けるまで、ランケ歴史学は歴史家を制約して来た。 ヴァルター・ベンヤミンは、歴史家は過去を "wie es eigentlich gewesen"(実際に起きたままに) 説明するべきである、と言うランケの格言の遺産について、「(19)世紀の最強麻薬に等しい」と痛烈に記述した。 |
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| 主要論文・その他 Fürsten und Völker von Süd-Europa im sechzehnten und siebzehnten Jahrhundert Deutsche Geschichte im Zeitalter der Reformation (1845-1847) Die deutschen Mächte und der Fürstenbund (1871-1872) Ursprung und Beginn der Revolutionskriege 1791 und 1792 Hardenberg und die Geschichte des preussischen Staates von 1793 bis 1813 |
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| 日本語訳 『強国論』相原信作訳、岩波文庫 1940(各・岩波版は度々復刊) 『政治問答 他一篇』相原信作訳、岩波文庫 1941 『世界史概観 近世史の諸時代』鈴木成高・相原信作訳、岩波文庫 1941、改版1961 『フリードリッヒ大王』溝辺龍雄訳、白水社 1941 『ランケ選集』下記のみ刊 三省堂 1942-1946 4 十九世紀ドイツ・フランス史、5 伝記、6 小論集、7 世界史論進講録・時代の動因・自伝 『ランケ選集』全4巻 千代田書房 1948(追加刊) 1 歴史・政治論、2 ローマ的・ゲルマン的諸民族史、3 世界史論進講録、4 十九世紀ドイツフランス史 各・訳者は、小林栄三郎・村岡晢・山中謙二・増田重光・村川堅固・祇園寺信彦・西村貞二・堀米庸三・讃井鉄男・林健太郎 『ランケ自伝』林健太郎訳、岩波文庫 1966 『世界の名著続11 ランケ』林健太郎責任編集[7]、中央公論社 1974。中公バックス 1980 『列強論』村岡晢訳、『宗教改革時代のドイツ史』渡辺茂訳 改訂版『宗教改革時代のドイツ史 I・II』中央公論新社<中公クラシックス> 2015。解説佐藤真一 『ドン・カルロス 史料批判と歴史叙述』祇園寺信彦訳、創文社 1975。講談社「創文社オンデマンド叢書」で再刊 『世界史の流れ』村岡晢訳、ちくま学芸文庫 1998 |
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| 伝記研究 村岡晢『レーオポルト・フォン・ランケ 歴史と政治』(創文社、1983年) 佐藤真一『ランケと近代歴史学の成立』(知泉書館、2022年) ジョージ・P・グーチ『十九世紀の歴史と歴史家たち』(林健太郎・林孝子訳、筑摩書房〈筑摩叢書〉上・下、1971-74年) |
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| 脚注 1.^ 20日説あり。 2.^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年2月11日閲覧。 3.^ 「近世歴史家批判」(1824)、『ラテン及びゲルマン諸民族の歴史』附録 4.^ 『歴史学の擁護』pp19-20、ここではランケとモムゼンが批判されている 5.^ 『歴史学の擁護』p19 6.^ カーは、「歴史家は単に事実を報告しないばかりか使用する事実の選択さえするので、経験主義と言うランケの着想はナイーブで退屈で時代遅れ」[要出典]と批判した。 7.^ のち評伝「近代歴史学の父 レオポルト・フォン・ランケ」、「ランケ自伝」訳と併せ『林健太郎著作集 第1巻 歴史学と歴史理論』(山川出版社 1993)に収録 |
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上の引用はラスカサス『インディアス史』序文より
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