果たしてラテンアメリカは身体を持ちうるのか?
Can Latin America really have a body?

☆ ラテンアメリカは、アングロアメリカに対する概念で、アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて存在する独立 国及び非独立地域を指す総称である[田中高, 1997『ラテンアメリカ研究への招待』新評論]。 ここでの「ラテン」という接頭語は「イベリア(系)の」という意味であり、これらの 地を支配していた旧宗主国が、ほぼスペインとポルトガルであったことに由来している。 多くの地域がスペイン語、ポルトガル語、フランス語などのラテン系言語を公用語として用いており、社会文化もそれに沿ったものであったことから名付けられ た(→「ラテンアメリカという概念」)。
| 「中
南米入門」と題する本講座に、帝国医療や身体論というテーマがふさわしいのか講師自身が当惑しています。本演題にあるように、ラテンアメリカという領域あ
るいは文化範疇が実際に〈身体〉をもつというのは全くの冗談であるかあるいは知的に高度な比喩的表現に他なりません。 私ができるのは、中央アメリカにおける私自身の経験から、現地の保健医療は今どんな状態におかれているのか、またどのようにして人々の生活の中に保健医療 が組み込まれているのか、そしてまさにラテンアメリカの〈身体〉とはいったい何なのかについてご紹介し、それについて考察することでしょう。文学・文化・ 政治など第一級の諸先生のハードコアな講演とは違う、儚くもまたか弱いソフトな肌をもつ〈身体〉という観点から入る、これまでとは違ったもう一つの中南米 入門になれば幸いです。 |
The
lecturer is himself at a loss as to whether the themes of imperial
medicine and physical theory are appropriate for this lecture entitled
"Introduction to Latin America". As the title suggests, the idea that
the region or cultural category of Latin America actually has a "body"
is either a complete joke or an intellectually sophisticated
metaphorical expression. What I can do is to introduce and discuss what the state of healthcare is like in Central America, how healthcare is incorporated into people's lives, and what the Latin American "body" really is, based on my own experiences there. I hope that this will be a different kind of introduction to Latin America, one that takes a different approach to the topic of the body, which is both fragile and soft, rather than the hardcore lectures given by top-class professors on literature, culture, politics, etc. |
| 私 は1956年大阪市内で生まれました。鹿児島大学理学部生物学科卒業後、大阪大学大学院医学研究科博士課程単位取得済退学。医科学修士。1984年から3 年間、JICA青年海外協力隊員としてホンジュラス共和国保健省に派遣されました。専門は医療援助協力の文化人類学的研究ですが、グアテマラにおいて先住 民が受けた内戦の暴力の社会的効果、コスタリカにおける生物多様性の社会的意味などにも関心を持ち続けています。著書『実践の医療人類学』(2001)世 界思想社、共著『マヤ学を学ぶ人のために』(2004)世界思想社など。 | I was born in Osaka in 1956. After graduating from the Department of Biology, Faculty of Science, Kagoshima University, I left the doctoral program at the Graduate School of Medicine, Osaka University, having completed the required credits. I have a Master's degree in Medical Science. From 1984 to 1987, I was dispatched to the Ministry of Health in the Republic of Honduras as a member of the Japan International Cooperation Agency (JICA) Youth Overseas Cooperation Volunteers. His specialty is the anthropological study of medical aid cooperation, but he also continues to be interested in the social effects of the violence of the civil war suffered by indigenous people in Guatemala, and the social meaning of biodiversity in Costa Rica. He is the author of "Practical Medical Anthropology" (2001, Sekai Shisosha) and co-author of "For Those Learning Mayan Studies" (2004, Sekai Shisosha). |
★Body simple から Body polotic へ
| 政治人類学研究における[研究対象の]不安定性 | |
| 人間のもつ政治性、政治権力、政治体制な
ど、政治(politics)に関わるもの一切を考察の対象にする人類学の分野。関連するものとして、
人類学理論:エスニシティ、植民地主義、法の人類学、宗教と儀礼、象徴の機能などがある。
人類学者と現実の政治について、主に門外 からさまざまな臆測がなされてきた。人類学者が、政治権力に対して距離をとり、相対主義的傾向がつ
よい。逆に、人類学者は人間の普遍的平等性に忠誠をもつので、政治的な人が多い。フィールドワークにおいては、現地の政治体制のもとで調査をおこなうの
で、政治的には保守的で、無関与の人が多い。いや、人びとと接触する機会が多いので、人類学者の多くは全体主義体制のなかで犠牲になりやすかったし、また
調査許可が下りずに長年の調査が困難な人類学者も数多くいる。
すくなくともこれらの「臆測」は個々の ケースにおいてすべてにあてはまる。しかし、それは人類学者という固有の社会的役割から来ているわけ
ではなく、他の種類の多くのフィールドワーカーと同様、現地調査とその土地の政治体制と無関係に仕事ができないこと、つまりさまざまな制約を受けることを
示している。
マルセル・モース、マックス・グラックマ ン、ピエール・クラストル、ジョルジュ・バランディエ、マーシャル・サーリンズ、シドニー・ミンツ、エ
リック・ウルフ、ソ
ル・タックス、ヴェーナ・ダス、ナンシー・シェーパー=ヒューズ、ディビッド・グレイバー、石田英一郎、田辺繁治、清水昭俊など、歴史上、著名な人類学者
で、政治や政治理論と深く関わってき、かつその学問に多大なる影響を与えている人類学者は多い。 |
|
| (1)実体主義= substantibist 的見解)
さて、政治人類学のエピソードの中で、もっとも興味深いのがクラストルのそれであろう。(政治人類学における「政治」の概念を解体する 言わ
ば実体主義=substantibist 的見解)
クラストルは、それまでの政治人類学の理論が(マルクス主義流の)史的唯物論影響を受けて、人類学の政治体制の議論のなかに潜む進化主 義の
弊害に気づいていた。すなわち、彼が調査したアマゾン社会の先住民の政治体制(=国家をもたない人びと)は、歴史的な存在であったアステカやインカののよ
うな王権国家体制という段階まで「進化していない」という偏見をもっているのではないかと批判した。
クラストルは考えた、アマゾンの先住民の諸社会の人びとは、国家権力がもつ暴力性によって社会を維持する制度を十全に理解した上で、自 分た
ちの社会のなかに、そのような異質性(=他者性)をもちこまないように、自分たちの社会を運営していたとすれば、彼らの政治体制はどのように理解すること
ができるのだろうか、と。
そこでは、(国家権力のもつ暴力性を自明視する)我々の政治や社会の運営の仕方が、アマゾンの先住民社会からみたら、道徳的には異様 で、こ
とによれば間違っているように思えるかもしれない。
実際、アマゾンの先住民(男性なのだが)にとってリーダー(首長)になることは、メリットになることはほとんどなく、つねに監視されて い
て、苦役になるほどであった。他方、暴力は、力の差異によって権力を得るためではなく、平等(男女の違いは極めて重要なので、男女間の平等はあり得なかっ
たが)を維持するために——我々からみれば過剰と思えるほど——発動されるのであった。 |
|
| (2)形式主義的見解:西洋社会でみられる政治現象を、文化人類学の研
究対象である「現地」の人々にも見たり、その政治的要素の、土着的ないしは歴史的な「変 形」 を考えるアプローチである。 |
|
| 政治人類学の歴史 |
|
| 政
治人類学のルーツは19世紀にさかのぼる。当時、ルイス・H・モーガンやヘンリー・メイン卿のような思想家たちは、「原始的な」あるいは「未開の」社会
から、より「先進的な」社会への人類社会の進化を辿ろうとした。これらの初期のアプローチは、民族中心主義的で、思弁的で、しばしば人種差別的であった。
にもかかわらず、彼らは近代科学、とりわけチャールズ・ダーウィンが唱えたアプローチに触発された近代的な研究を行うことで、政治人類学の基礎を築いたの
である。この初期の研究は、政治組織を理解する鍵として親族関係に焦点を当て、研究対象として「属」や血統の役割を強調したものであり、後の人類学に大き
な影響を与えた[2]。
近代社会科学の主要な立役者としては、フランスの社会学者エミール・デュルケーム、ドイツの社会学者、法学者、政治経済学者マックス・ウェーバー、ドイツ
の政治哲学者、ジャーナリスト、経済学者カール・マルクスが挙げられる[3][4]。
政治人類学の現代的な文献は、マイヤー・フォルテスとE・E・エバンス=プリチャードが編集した1940年の出版物『アフリカの政治制度』にまで遡ること
ができる。彼らはそれ以前の著者の思索的な歴史的再構築を否定し、「政治制度の科学的研究は帰納的かつ比較的でなければならず、それらの間に見られる統一
性と、社会組織の他の特徴との相互依存関係を確立し、説明することのみを目的としなければならない」と主張した[5]。本書の寄稿者たちは、ラドクリフ=
ブラウンと構造的機能主義の影響を受けていた。その結果、彼らはすべての社会がその均衡と社会秩序を維持しようとする、明確に定義された存在であると仮定
した。著者たちは、「これらの社会のほとんどは、征服されたり、侵略を恐れてヨーロッパの支配に服したりしてきた。そしてこの事実が、ヨーロッパ統治が現
在彼らの政治生活に果たしている役割を決定しているのである」[6]。この巻の著者たちは、実際にはアフリカの政治システムを、彼ら自身の内部構造という
観点から検討する傾向があり、植民地主義のより広範な歴史的・政治的背景を無視していた。
この初期の著作に対して、何人かの著者が反発している。Edmund Leachは、その著作『Political Systems of
Highland
Burma』(1954年)の中で、社会が静的で平衡な状態にとどまるのではなく、時代を通じてどのように変化していくのかを理解する必要があると主張し
た。紛争志向の政治人類学の特別なバージョンは、マックス・グラックマンが始めたいわゆる「マンチェスター学派」で発展した。グルックマンは社会的プロセ
スと、相対的な安定性に基づく構造とシステムの分析に焦点を当てた。彼の見解では、紛争は社会的アクター間の横断的な結びつきの確立と再確立を通じて政治
システムの安定性を維持していた。グルックマンは、社会を維持するためにはある程度の対立が必要であり、対立は社会秩序や政治秩序を構成するものであると
さえ示唆した。
1960年代までに、この移行期の研究は本格的な学問分野へと発展し、ヴィクター・ターナーとマーク・スウォーツが編集した『政治人類学』(1966年)
などの書物で正典化された。1969年には200人の人類学者がこのサブディシプリンを関心分野の一つとして挙げており、イギリスの人類学者全体の4分の
1が政治を研究テーマとして挙げていた[7]。
政治人類学はアメリカでは大きく異なる発展を遂げた。そこではモートン・フリード、エルマン・サービス、エレノア・リーコックといった著者がマルクス主義
的なアプローチをとり、人間社会における不平等の起源と発展を理解しようとした。マルクスとエンゲルスはモルガンのエスノグラファーとしての仕事を参考に
していたが、これらの著者はその伝統をさらに発展させたのである。個別主義的アプローチとして、彼らは社会システムの時間的変遷に関心を寄せていた。
1960年代からは、エージェントの役割を強調する「プロセス・アプローチ」が発展した(Bailey 1969; Barth
1969)。これは、人類学者が植民地システムが解体されつつある状況で仕事をするようになったことを意味する。紛争と社会的再生産への焦点は、1960
年代からフランスの政治人類学を支配するようになったマルクス主義的アプローチに引き継がれた。ピエール・ブルデューのカビル人に関する研究(1977
年)は、この展開に強く触発されたものであり、彼の初期の研究は、フランスのポスト構造主義、マルクス主義、プロセス・アプローチとの結婚であった。
人類学への関心は1970年代に高まった。1973年の第9回国際人類学・民族学会議では人類学に関するセッションが企画され、その議事録は最終的に
1979年に『政治人類学』として出版された: The State of the
Art)として出版された。その後まもなくニュースレターが創刊され、やがて雑誌『PoLAR: Political and Legal
Anthropology Review』へと発展した。 |
|
リ ンク
文 献
そ の他の情報
Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099
☆
☆