科学の民族誌とはなにか
What is the Ethnography
of Science?
実験室における社会実践の民族誌学的研究
Ethnographic Study of Social Practice in the Laboratory
[研究計画]
【ご注意】
このページは平成18年〜19年度に採択された科学研究費補助金(萌芽研究)「実験室における社 会実践の民族誌学的研究」(池田光穂と佐藤宏道による共同研究)の研究申請当初(すなわち平成17年10月時点)で作成されたものをそのまま掲載したもの です。実際の研究も、この枠組みに従って遂行されましたが、研究途上でさまざまな新しい課題——とくにより上位の研究申請をするに値するいくつかの重要な 発見に関する文化的解釈の必要性——に遭遇していますが、それらのことについては、随時論文やこれにリンクするウェブページで公開していくつもりです。こ のページの閲覧者は、以上の点を留意してから以下をお読みくださるようお願いします。(池田光穂)
[報告書全体の目次]
[科学人類学]
1.1 研究の全体構想
この研究は、科学論とりわけサイエンススタディーズにおける近年の成果を踏まえつつ、我が 国の大学における神経生理学研究の実験室の民族誌研究(ethnographic study)を試みるものである。研究課題名の「社会実践」とは、どのような実験室状況においても参与者の社会性が投影されるという科学社会学上のテーゼ を反映させたものである。この研究の動機は(i)我が国における実験室の科学研究に関する民族誌調査がほとんど皆無であること、(ii)1980年代に華 開く欧米の民族誌研究以降の科学論研究の展開、特に1990年代中葉に始まり1998年に終焉したサイエンス・ウォーズ(SW)以降[Sokal and Bricmont 1998]、つまりポストSW時代の科学論研究の成果を反映した「新しい民族誌」が、科学者コミュニティと社会との良好な関係が模索される現在において、 まさに求められている、という2点に集約される(これらを含めた学説史的な経緯については以下の図1を参照してください)。
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1.2 本研究課題の具体的な目的
本研究の主目的は(従来の文化人類学研究のように異邦の少数民族を対象とするのではなく) 神経生理学[Kida et al. 2005; Ozeki et al. 2005]の実験室を対象にして、フィードワークと民族誌の作成[Bernard 1998]をおこなうことである。科学の民族誌研究が欧米で盛んにおこなわれた1980年代以降変化があるように、人類学研究における民族誌の学問的位置 づけもまた変化している。本研究では過去20年間の科学論と人類学理論の成果を盛り込んだ「新しく」かつ「実験的」な民族誌の作成を構想している。具体的 には(i)社会的事実の発見的技法(heuristic arts)としての民族誌手法、特にマルチメディア等を利用した表現=記述法とその理解の洗練を試みること、(ii)実践コミュニティ研究[Lave and Wenger 1991]に示唆を受けた対象科学への応用的貢献を試みるアクション調査研究(action research)の可能性を模索する、という2点を試みるものである。
1.3 何をどこまで明らかにするか
科学者集団内で流通する知的権威や知識の水準の確立過程には動態的かつ偶発的要素が介入す ることが経験的研究から指摘されている[Latour and Woolgar 1979:75]。この事実を明らかにするためには、よりミクロでダイナミックな行為者の相互作用の研究が必要とされる。本研究は、視覚の高次神経機能に 関する神経生理学的手法の学問展開[佐藤 2004a,2004b]を押さえ、関係者にインタビューをとり、参与観察手法などを動員して、「実験活動の社会的記録」としての民族誌を作成する(より 詳しい人類学的方法論は次項 研究計画・方法 を参照してください)。
2.1 この研究の学術的特色および独創的な点
科学者たちの営為を理解するためには、社会文化的場(環境)において彼/彼女らがどのよう に発話し、考察し、行為しているのかが具体的に明らかにされなければならない。しかしながら我が国における科学とりわけ自然科学の民族誌調査は、2,3の 外国人研究者のもの[Traweek 1988; Coleman 1999]を除いて僅少であるため、本研究(が成功すればそれ)は実質的に本邦におけるこの分野の先導的成果のひとつになる。我が国の科学論研究の多くは 久しく文系の科学史・科学哲学に分類され、社会実証的な文化人類学と接点を持ちにくかったこと。また日本の文化人類学者の多くは海外の異民族研究に勤し み、本邦の科学者コミュニティに関心をもたなかったために、この研究は等閑視されてきた分野になっている。これらを克服する本研究は(常道であるにもかか わらず)本邦では極めて独創的であると言える。
2.2 本研究の予想される結果と意義
予想される4つの成果と意義について指摘する。(i)視覚研究に与する神経生理学研究室の 「実験活動の社会的記録」すなわち民族誌という成果を得ることができる。また研究の過程では(ii)本研究対象領域に関する学説史資料ならびに関係者への インタビューや個人的回想記録などデータベース化基礎資料(DB)を産出できるという利点がある。研究がスケジュールどおりに進めば(iii)文化人類学 における新しい研究対象の獲得という先駆的実例となり、(iv)科学論において喫緊の課題である科学技術コミュニケーション研究への重要な貢献にもなると 考えられる(その理論的背景は上の図1を参照してください)。
2.3 萌芽研究にふさわしい点
文化人類学者の民族誌研究を篤実なものにするには調査対象者との協働作業が不可欠である。 本研究は対象となる専門家(神経生理学者)自身が研究者として調査に参加するというきわめて稀な事案である。また本邦では試みられたことのない実験室の民 族誌研究は野心的な試みである。現時点では論文業績も少なく、100%篤実な成果が得られる保証はなく研究にまつわるリスク(研究計画・方法で詳述)もあ る。そのため研究期間を2年と短くし(1年では不可能)、より長期的な成果を期するための基盤研究へと確実に繋げるために萌芽研究として今回申請するもの である。
3.1 国内外の研究動向
欧米ではLatour and Woolgar [1979], Knorr-Cetina [1981] らが実験室の民族誌研究の火蓋を切り、エスノメソドロジー研究や社会構築主義の豊富な実証例、アクターネットワーク理論[Callon1986]等の科学 論的成果につながる貢献をしている。本研究もその先行研究に理論的に多くを負っている。他方、本邦では科学論の平川[2002]らによる秀逸なレビューは あるもの、彼らは民族誌調査をおこなってはいない。
3.2 着想に至った経緯
研究代表者(池田)は1980年頃に脳の代謝生化学研究にも従事しつつ、研究分担者(佐 藤)の属する神経生理学教室において参与観察する機会を得た。その後、池田は国際医療協力の人類学的研究でキャリアを積み、かつ生物多様性や熱帯生態学に 関する社会分析の研究業績[1996,1998, 2000, 2002]を重ねた。2005年5月に佐藤の主催する市民向けの脳神経生理学の講演会に池田が参加して以降、本研究の構想について(人類学と神経生理学分 野の)2人は対話を重ねてきた。科学者の営為を理解するためには、彼/彼女らが社会文化的場(環境)においてどのように発話し、考察し、行為しているのか が具体的に明らかにされなければならない。この着想は両名の対話的良識(dialogical commonsense)から生まれた。同時に両名は所属大学における脳のイメージングを軸とする「知と行動研究センター」設置構想の企画提案者の一員で もある。
3.3 主要文献
Callon, Sociology of an Actor-Network theory,1986 in “Mapping the Dynamics of Science and Techonology,” MacMillan.;Kida, H. , Shimegi, S. and Sato, H. (2005) Similarity of direction tuning among responses to stimulation of different whiskers in neurons of the rat barrel cortex. J. Neurophysiol. 94: 2004-2018.;Knorr-Cetina, K., 1981. The Manufacture of Knowledge. Pergamon.; Latour B. and S. Woolger, 1979,1986 Laboratory Life. Princeton Univ. Pr.; Lave J. and E. Wenger, 1991, Situated Learnig. Cambridge Univ. Pr.; Ozeki, H., Sadakane, O., Akasaki, T., Naito, T., Shimegi, S. and Sato, H. (2004) Relationship between excitation and inhibition underlying size tuning and contextual response modulation in the cat primary visual cortex. J. Neurosci.. 24: 1428-1438.; Sokal A. and J. Bricmont, 1998. Fashionable nonsense. Picador.; 池田光穂『日常的実践のエスノグラフィ——語り・コミュニティ・アイデンティティ』[共著]田辺繁治・松田素二編、世界思想社(担当箇所:第6章「外科医 のユートピア」,Pp.168-190,2002;池田光穂, 2000, エコ・ツーリストと熱帯生態学『熱帯林における生物多様性の保全と利用』地域研究企画交流センター;平川秀幸, 2002, 実験室の人類学『科学論の現在』勁草書房; 佐藤宏道(2004a)一次視覚野の機能構築、神経研究の進歩 48(2): 159-166、医学書院;佐藤宏道(2004b)一次視覚野の情報処理、Clinical Neuroscience 22 (12) : 1373-1375. 中外医学社.
I. 研究計画・方法
1.1 総論
研究期間の全般にわたり、次のような6つの作業をおこなう。この作業には、(i)当該研究 分野に関する研究レビューの完成、(ii)実験や研究室行事への参与観察、(iii)関係者へのインタビュー、(iv)研究当事者(佐藤)が観察者(池 田)と共同でおこなう想起法による個人研究史編纂など、ルーティン作業の他に、(v)研究資料のデータベース(DB)化、ならびに(vi)調査結果を総合 する民族誌の作成がある。平成18年度は(i)から(iii)までの作業が、平成19年度はそれに加え(vi)から(vi)までの作業を予定している。
実験室の民族誌研究を実施する際に、その研究対象を我々は Lave and Wengar (1991)の提唱した実践コミュニティ(community of practice)ならびにCallon(1986)のアクターネットワーク理論における動態的状況参与者(物)である「アクター」の概念を援用して取り 扱う。実践コミュニティならびにアクターの配列状況は調査発足の時点では図2.のように想定している。
研究対象を焦点化する際には、本研究が最も焦点を当てる(a)ミクロな実験室状況から、 (b)教育の現場としての授業やゼミあるいは専門研究者の学術集会である研究会やワークショップなどの中間領域(meso context)さらには(c)学説や理論を定義するより大きな科学者のコミュニティの社会的動態があり、それぞれにふさわしい個別方法論がある。本項冒 頭で説明した(i)から(vi)の作業行程は、研究初年度と次年度におこなうものに大きな隔たりはないが、実験室にかかわる研究状況の一般的把握を目論 む、観察民族誌調査研究(池田)においてはミクロレベルからメゾレベルへと展開[(a)→(b)]し、学説史や研究の社会史から研究者自身の個人史にいた る自省的民族誌調査研究(佐藤)はマクロレベルからメゾレベルへの研究の視座を移動[(c)→(b)]させることになるだろう((a)(b)(c)の記号 は図3に対応します)。
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1.2 年次計画
以下2年次に分けて、その業務の配分を記載する。
【平成18年度】
研究初年度にまず着手されなければならないのは、佐藤がおこなう(i)当該研究分野に関す る研究レビューの完成である。他方、池田は佐藤が主宰する(ii)実験や研究室行事への参与観察、ならびに(iii)佐藤を含む関係者へのインタビューが おこなわれる。これらの作業には(i)文献および論文抜刷購入などがあり、設備備品費ならびに消耗品費から充当される。(ii)および(iii)において は、談話データやインタビューなどの録音・録画およびそれらのデジタルアーカイブ化などが行われ、設備備品費ならびに消耗品費が充当される。また大学外の 研究機関に属する関係者に対する資料収集やインタビューには旅費が使われる。資料(DB)の整理には割当てられた謝金を使う。
これらの作業に伴う予想される問題点は、調査者(人類学者)と被調査者(神経生理学者)の 間の信頼関係(ラポール)の維持の困難さがあるが、本研究は、被調査者そのものが計画に参与しており、それによる利害の衝突は起こりえない。より注意深く 留意しなければならない問題は、佐藤の主宰する研究室の構成員ならびに所属組織とのラポールおよび研究遂行上の倫理問題であり、これに関しては採択決定後 に当該機関への調査申請や、教室員への説明同意(インフォームドコンセント)を試みる予定である。
【平成19年度】
研究2年目でありかつ最終年度では、上記のルーティン作業((i)から (iii))の他に、(iv)研究当事者(佐藤)が観察者(池田)との共同でおこなう想起法による個人研究史編纂が開始される。また本研究の最終目的とさ れる(v)研究資料のデータベース(DB)化、ならびに(vi)それらの作業にもとづいた調査結果を総合する民族誌の作成に着手することになる。前年度と 同様に、談話データやインタビューなどの録音・録画およびそれらのデジタルアーカイブ化などが行われ、設備備品費ならびに消耗品費が充当される。また大学 外の研究機関に属する関係者に対する資料収集やインタビューには旅費が使われる。資料の整理には謝金を使う。
【研究終了時以降の計画】
この萌芽研究は、以上の実験的民族誌の作成の過程を施行当事者(池田・佐藤)が常に自己評 価すると同時に、第三者の専門研究者による他者評価を受けるように心がける。また篤実な研究手法の確立のための将来の展開について、次のような構想を立て ている。
従来は、調査対象の社会や行動を研究し、それを正確な記録としてアーカイブ化されることが 主目的であった民族誌研究を、研究対象になった人たちが内省的に自分たちの行動のリストを眺め、それを自らの「良識ある研究」の進展(=本研究課題では、 神経生理学の学問的展開および学問的知識の社会的還元がそれにあたる)に有用な将来の構想に役立てるものとする。具体的には、この研究成果をいち早く公開 し、その重要性について広報する。将来的には科学研究費補助金・基盤研究など規模を拡大した申請を通して、研究組織を拡大し「科学の社会貢献のための」人 類学者と自然科学研究者とのジョイントプログラムを構想することが挙げられる。
II. 研究倫理上の遵守事項
社会調査に関わる研究者倫理の遵守ならびに得られた個人情報の管理は、研究代表者が分担者に より適宜報告をうけつつ責任を負うこととし、データは研究グループ全体で適正に管理する。
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