マンガの読解は意外と難し
How do you "read/interpret" your
favorite MANGA?
0. はじまりのワーク
1.マンガを読解するという“試練”
2.わかりやすい外部表象化の議論
3.解釈という“独善性”を超えて
【はじまりのワーク】
問い
以下の2つの吹き出しにセリフを入れて、この絵で描かれている情景(文脈)について自由に解 釈してください。
注意:この設問は、回答を通して回答者の精神状態や心理状態を推測するものではありません。 むしろ自由な解釈を通して、理解の多元性や各人の回答のおもしろさの理由を探るものです。気 楽に答えてください。
こたえ
出典:森下裕美「恋愛[前編]」『大阪ハムレット I』双葉社 2007年 p.84
1.マンガを読解するという“試練”
2007年4月23日オレンジカフェにおける衝撃の出会い――「私はこのマンガのどこが面白いのかわからない!」
少年ジャンプ連載、うすた京介『ピューと吹くジャガー』におけるピヨ彦とジャガーさんのやりとりをめぐる解釈者たちの根本的対立。
そもそもマンガとは何か? 私の暫定的定義:「コマ割のなかで絵と吹き出しのセリフで構成するものが基本となる物語。世界各地にあるが、 1950年代以降日本で大量に流通普及し、1980年代以降、海外で翻訳されて manga と呼ばれるようになり、グローバルな大衆芸術のひとつになった」。Wikipedia (英語版)では、1 Origins; 2 Osamu Tezuka; 3 Gekiga; 4 Cultural importance; 5 Manga format ;5.1 Do~jinshi; 6 Classification of Manga; 6.1 Types of manga; 6.2 Genres; 7 International influence; 7.1 North America; 7.2 Europe; 7.3 Influence; [ 8 Language notes; 9 See also; 10 References;11 External links]の項目で説明されている。
現在のマンガの解釈は、(1)マンガと図像=テキスト一般とみるテキスト派と、(2)テキスト以上にマンガ表象の表現や展開に関心をもつ 図像学(イコノロジー)派、に大きく大別でき、評論家のみならず、マンガをめぐって読者が談議を始めると、この2つの議論のどちから、あるいはその両方が 混じった議論が展開するようだ。
マンガファンには、さまざまなジャンルを幅広く読むタイプ[マンガや劇画の雑誌がそうであるように]と、特定の作家や物語のジャンルに 偏って読むのが好きというタイプ[後者にはマンガ雑誌のみならず単行本などがその消費欲望に応えている]にわかれる。
マンガ作品が大量に産出されることに伴い、マンガの古典的名著(例:手塚治虫の作品)の確立や、物語の相互引用や、読者が inter-textual な読み、あるいは図像そのものの inter-texual な理解を生み、多様な鑑賞態度を生むことになった。
出発点がマージナルな芸術様式であったので、マンガ有害論が伝統的にあった。しかし、流通量の増大、芸術様式の洗練化、および教育的意図 もったマンガ(『はだしのゲン』や日本歴史漫画など)の普及などで、マンガ一般に対する有害論は陰をひそめ、今日(講義当日現在)では外務大臣[麻生 Online]すらが日本独自の芸術あるいはその知財の保護などを奨励するに至った。
マンガをめぐる状況について理解することは容易い。しかし、個々のマンガが、自分にとってなぜ面白いのか/つまらないのかについて、腑に 落ちる説明をできるものはいない。(→マンガ評論という市場の誕生)
2.わかりやすい外部表象化の議論
解釈には、心理学主義と社会学主義の2つに大別できる。外部表象化の理論は、後者の知的伝統に位置する。
マンガの解釈の理論は、先に述べたように(1)テキスト派、と(2)図像学派に分かれる。およびその両者の融合を目指す(3)総合派とい うものも想定できるだろう。聖書がさまざまな絵画として書かれたように、図像の中に複雑な読みをする“眼の肥えた”読者=図像解釈者が出てきた。
このような非常に細かい芸術表象の読み方は、アニメーションやCGの普及により、より複雑で多様性が広がった。このことは、インターネッ トによる多種少量の生産が可能になった(デジタル化は表象生産の多寡にかかるコスト問題を無化してしまった)ことで、いよいよその状況[=複雑で多様性] を加速させた。このために、作品の消費サイクルの短命化と同時に、古典的作品の復刻流通など、マンガがもっていた一元的な時間的陳腐化は解体しつつある。
マンガはマルクス主義美学者=哲学者のW・ベンヤミンが映画の解釈に求めたように「気散じ」(=アウラを必要としない)の中で芸術様式を 消費すると同時にイデオロギー強化のための教育ツールになる(消費=気楽な学習=イデオロギー注入)。
テキスト派のマンガの解釈では、これまでのテキスト派の文学理論の栄枯盛衰をきちんと押さえておかないと、おなじような轍を踏むことにな る。テキスト派の文学理論の栄枯盛衰とはこうである。(a)印象主義から(b)新批評/(c)構造主義へ、(b)新批評/(c)構造主義から(d)脱構築 へという経路である。簡単にまとめてしまうと、(a)思いつきの読書感想文や余韻余情的解釈、(b)隠喩表現や象徴解釈などの彩の研究で技巧に着目してい たため構造主義への道を拓く、(c)文学作品の構造を二項対立からなる構造体として解釈し、時に深層構造の発見にも関心、(d)二項対立の否定、テキスト 外部の否定、という流れ。
図像派の分析は今のところ停滞している。それは、現代の美術評論家なども万人に通用する議論には高尚な美学で攻めるか、他方では話芸一発 で論証抜きの印象批評で終わっているから。また、図像派の議論に研究者が参戦しにくいのは、漫画家じしんが、自作や他者の作品について評論をおこない、そ れが妙に説得力があるからだ(「作品のことは作家がもっとも良く知っている」という本質主義的な正統化)。これにアニメーションによる評論のジャンルにな ると、映画監督、コンピュータアーチスト、原作者さらには声優(例:『攻殻機動隊』草薙素子役の田中敦子)などが制作当事者側からのコメント――メイキン グ映像というジャンルがある――をして、議論が高度になるばかりでなく、局所限局的ないしは多声的になる。あるいは、そのような意図を持たなくても作品事 態が開かれたものになる。
3.解釈という“独善性”を超えて
問題集
_作品の解釈は、皆さんの頭のなかで捻られたものであっても、それは皆さんじしんのものなのだろか?
_正答がない世界とは、はたしてカオス=異常なのだろうか?
_対話的理性を通した合意(コンセンサス)がない解釈とは、そもそも社会的産物としての解釈の資格を失うのでは?
※他にももっと議論したいが、今日はここまで。
●リテラシー
情報リテラシー(information literacy)あるいは 情報論的リテラシーと
は、情報論上の情報を見つけ
だし、解釈し、分析し、それらを統合し、評価し、リアルおよびヴァーチャルなコミュニティへ伝達する能力のことをいう。リテラシーとはもともと、識字(文
字の読み書き能力)に由来するので、情報リテラシーとは、単に情報理論および情報学について知っているだけでなく、情報理論および情報学が使える状態のこ
とを言う。
資料
麻生太郎「文化外交の新発想」http://www.aso-taro.jp/lecture/kama/2006_6.html (2007年6月7日)
文献