大熊由紀子「ケアの思想」を読む
2009年6月17日現場力研究会:池田光穂紹介: 大熊由紀子「ケアという思想」『ケアという思想』(ケア:その思想と実践1)上野千鶴子ほか編、Pp.1-28、岩波書店、2008年(→叢書の総タイトル一覧)
【池田コメント】 さすがである。著者はジャーナリズム分野からケアの社会問題の領域に参入し、日本ならびに世界の活動・実践家の動きと、国内の行政や御用学者たちの相互関 係について、その歴史的変遷ならびに、それぞれのエージェントの動きについて手際よく、そして彼女自身の独特の[癖のある]用語法でまとめている。重箱の 隅をつつく専門家の個別の反論はあるかもしれないが、まずこの論文が里程標になりゼミナールの場所のみならず社会の片隅(コーナー)において議論が出発す るといっても過言ではない。
.【目次】 0.はじめに 1.「事実誤認三点セット」と「日本型福祉」そして、「日本型悲劇」 2.「寝たきり老人」は「寝かせきりにされた犠牲者」だった、という発見 3.介護をめぐる九つの誤解、そして、神風が吹いて「ゴールドプラン」誕生 4.正反対な二つの自立概念 5.「特別に」レベルを下げた「精神科特例」、そこにいま、認知症の人々が…… 6.「幻覚&妄想大会」、そして、当事者研究 7.縦割りを崩した「このゆびとーまれ」 |
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2009年6月17日→7月1日 現場力研究会 池田光穂紹介:
大熊由紀子「ケアという思想」『ケアという思想』(ケア:その思想と実践1)上野千鶴子ほか編、Pp.1-28、岩波書店、2008年
0. はじめに
・動物はケアをしない。人間だけがなぜケアするのか?という疑問から出発。
・ドーキンス「利己的遺伝子」から人間の共同性へ(→学説的には彼女は誤解している)
1.「事実誤認三点セット」と「日本型福祉」そして、「日本型悲劇」
・1974年[田中角栄→三木武夫]に登場した村上泰亮らの「日本型福祉社会論」が、ネオリベラリズム民営化ならびに犠牲者非難の性格をも たせ、福祉先進国の北欧諸国制度への根拠無き批判をおこなったと解説。しかし、彼女の取材によりこのことの事実誤認が明らかに。(文献:村上泰亮、蝋山昌 一ほか『生涯設計計画:日本型福祉社会のビジョン』日本経済新聞社、1975年)
・福祉社会は「脆弱な人間を作り出す」という言説(→一般的には、優生学と結びついたナチズムとネオリベを重ね合わせてみる修辞戦略)
・事実誤認3点セットとは、「1.日本の福祉は西欧諸国と遜色ない水準に達した。2.福祉が進むと家族の情愛が薄れ、スウェーデンのように 老人の自殺が増える。3.福祉に力を入れると経済が傾く」というもの(p.4)。
・日本型悲劇の原型が、高齢の医療化の促進と老人病院の収容所化(→「社会的入院」)
2.「寝たきり老人」は「寝かせきりにされた犠牲者」だった、という発見
・1984年に朝日新聞論説委員になり「寝たきり老人問題」などを担当。
・寝たきり老人の実態を調べると、医療化による「廃用症候群」の犠牲者であった。
・「「西暦二OOO 年に百万人になる寝たきり老人」という決まり文句が関係文書にあふれ」るという状況(→西暦2000年までにすべての人に健康を!:PHCアルマアタ宣 言、1978年/オタワ憲章「ヘルスプロモーション」1986年)。
・大熊は欧州へ取材旅行:そこには寝たきり老人はいなかった(→「「寝たきり老人」という日常語や役所用語がない」といことの社会システム 的理由、p.7, p.9 に10項目列挙してある。)。
・北欧の専門家を招待し講演させるが、寝たきり防止には「経済性もある」ことを日本のマスコミと役人たちは「発見」する(p.10:→「経 済性」は大熊が批判するネオリベの主張と奇しくも合致する)。
3.介護をめぐる九つの誤解、そして、神風が吹いて「ゴールドプラン」誕生
・ぼけのアルゴリズムの図(p.11)に評者は「感動?!」(→大熊においても「ぼけ」は恐怖の対象)[→関連リンク]
・ただし、女性の課長は、自らが介護経験を通してその苦労を味わい、介護に関する検討会を「当時は無名に近い人々を中心に」立ち上げる (p.11)。
・検討会では「介護をめぐる9つの誤解」(p.12)と、その解説:「「寝たきり」「ぼけ」になるかどうかは、「クジ運」×「介護の質と 量」×「医療の質」×「社会資源の質と量」に左右される。「クジ運」は変えられなくても、その他のファクターは行政と政治の力で変えることができる。個人 の努力では難しい。基盤となる特に重要なファクターが、「介護」」(pp.12-13)。
・その後の厚生省の景気のよいスローガン(「寝たきり老人ゼロ作戦」「ホームヘルパー10万人計画」「ゴールドプラン」=[厚生省「高齢者 保健福祉推進10ヵ年戦略」1989年制定、94年新ゴールドプラン(5カ年)])産出の影には、老人保健課の役人・官僚による大本営発表的な虚言体質が あった(→大友克洋原作・脚本、江口寿史キャラクターによるアニメ『老人Z』1991年公開)。
4.正反対な二つの自立概念
・[趣旨]北欧の福祉研究者や実践者ならびに当事者を招いた検討の結果、(我が国の役所の)自立に関する考え方が大幅に変化した。
・1980年リハビリテーションインターナショナルと、障害者インターナショナルの分裂闘争:82年ミスドが海外留学支援事業開始。障害者 の自立生活運動が活発化。厚生省社会局「脳性マヒ者等の全身性障害者問題研究会」設置。
・問題検討会がいう自立とは、「1.真の自立とは、人が主体的・自己決定的に生きることを意味する。2.自立生活は、隔離・差別から自由 な、地域社会における生活でなければならない。3.生活の全体に目を向けなければならない。4.自己実現に向けての自立が、追求されなければならない。 5.福祉の主体的利用でなければならない」(p.18)。
・「国際障害者年をきっかけに社会的に認められるようになった『自立』の概念と、第二次臨調・行革路線[註:土光臨調1981-、三公社民 営化や総合管理庁(現:総務省)などを提言]で強調された『自立・自助』[註:大熊はここでは説明せず]とでは、同じ言葉がまったく反対の意味で使われる という現実を、私たちは目の当たりにすることになります」(p.19)。
5.「特別に」レベルを下げた「精神科特例」、そこにいま、認知症の人々が……
・さすが「ブンヤ」の面目躍如、この節の記述は生き生きとして面白い。
・精神科病棟が、痴呆老人を受け入れる施設になり、西洋先進国のトレンドを逆に人口あたりの病床数が増した。これは異様な事態である。
・「先進諸国が「収容主義から地域中心へ」と政策転換に踏み切った時期、海外の事情にうとい日本政府は「精神病院を増やさなければ」という 考えにとりつかれました。ただ、地や建物、人手にかける予算は極力倹約したい。そこで、安上がりの「民活」を思いつきました。「医師は他の診療科の三分の 一、看護職員は三分の二で結構。山奥に建ててもかまいません。低利融資いたしましよう」という意味の「精神科特例」が、事務次官名で通知されました。そし て、故武見太郎日本医師会長が「牧畜業者」と名づけた志の低い病院経営者群が参入し、日本の精神医療を支配するようになってゆきました」(p.21)。
・「この精神病院に「患者」として吸い込まれていったのが、当時、脳軟化症と呼ばれていた認知症のお年寄りでした。この現象は、いま、ます ます深刻化しています。統合失調症の人々の入院期間が短くなったために空いたベッドを活用しようという病院の戦略、これに安易に頼ろうとする行政と政治の 怠慢が重なって、精神病院はいまや認知症の人々の「収容施設」になりつつあるからです」(p.22)。
「自身、アルツハイマー の一種を体験しているオーストラリアの元科学技術庁高官のクリステイン・ブライデンさんは、こう述べています。/デメンシアと呼ばれる人々の異常な行動 は、異常な環境と異常なケアへの「正常な反応」なのです」(p.23)
・「自民党員である尾辻秀久元厚生労働大臣が、「社会保障費を削るのは、もう限界です。乾いたタオルを絞っても水は出ません」「経済財政諮 問会議の議論は、社会保障の負担面ばかりに焦点が当てられてきました。国民が安心して暮らすためにどのような社会保障サービスが必要なのかということが基 本にされるべきであります」と福田総理に代表質問で詰め寄るほど、日本のケアは深刻な事態に直面しています」(ibid.)。
6.「幻覚&妄想大会」、そして、当事者研究
・べてるの家の活動を評価し、当事者への復権(? あるいは新たな権利付与)が生まれつつあることを紹介。 ・「べてるの人々は常識をくつがえす様々な活動を展開しています」(p.27)。
・このノリは、M・フーコー『狂気の歴史』(L'Histoire de la folie ? l'?ge classique)の冒頭にある阿呆船の記述にロマン的投影をする多くの「知識人たち」と類似の無邪気な悦びと合致する(グリュックスマン流の皮肉を込 めると……)。
7.縦割りを崩した「このゆびとーまれ」
・「このゆびとーまれ」の活動と行政による「助言」の例:「役所にはこういわれました。「前例がありません」「老人だけにしなさい。そうす ればなんかの制度を引つ張ってきて、補助金を出せるかもしれない」「車での送迎は白タク行為ですから違法です」「不特定の人」をフロに入れたら、公衆浴場 の法律にふれます」「とにかく、行政の範囲でやってください」「困ります」。法律と前例で動く行政にとっては困ったことだらけです。なにしろ、児童祉法、 身体障害者福祉法、精神障害者福祉法、老人福祉法の垣根を越えてごちゃまぜになっているのですから」(pp.25-26)。
・自立性を尊重し、あくまでも地域住民を主体とする「富山型」福祉モデルを賞賛し、「「ケアされる側」「ケアする側」という区分けは……な くなっています。「ケア」の内容や範囲も、日々、広がりつつあります。ケアの思想は、いま転換を迫られてい」ることをのべて論文を閉じる(p.27)。
【池田コメント】
・ ケアの新しい思想的見解について希望を託すという発想で書かれているが、良かれと思っておこなうケアが、なぜかくもまた挫折するのか?
・ ケアの歴史とは挫折の歴史にほかならないのでは? もしそのようなケア観をもてば、ケアをおこなう人間の逆説こそがケアの本質ではないのか? 彼女の議論 はその核心に触れるようなものであったのか?(そうではないだろう)
・ ここで必要なのはケア思想そしてケア概念の相対化であり、ケアの失敗には、ケアをそこなう思想もまた伏在しているという失敗の分析も必要ではないだろう か。
文献・リンク
池田光穂「老人問題・研究叢書」