情動理解のための文化人類学的基礎
(予稿原稿)
Anthropological Foundations for Understanding and Studying on human emotion
(proceedings papar)
〈プレゼンテーション〉
平成21年度生理学研究所研究会 「感覚刺激・薬物による快・不快情動生成機構とその破綻 」[→リ ンク]
日時:平成21年10月1日(木)18:00〜18:40 場所:生理学研究所 1階会議室&5階談話室
〈目的〉
文化人類学者自身が、脳科学を含む生物学研究の成果を理解するための、翻訳領域(translation zone)を確立する。
情動に関する生物学研究がおかれた、文化的ならびに社会経済的文脈を考慮しつつ、情動に関する学術的理解に対して研究者自身がより反省的か つ自覚的になることを通して、研究上のブレイクスルーのための研究者へのエンパワメントをめざす。
これまでの情動に関する諸現象に関する研究史、哲学思想などを渉猟、総括し、人類の情動に関する知的営為の遺産を、生物学研究における情動 理解に役立てる。
〈予稿原稿〉……[本発表はこちらです]
文化人類学者が「情動に関する神経生理学」研究者たちの学術集会に招待された時に、彼/彼女は、生理学者たちの研究発表にどのようにして耳 を傾け(できるか否かは不問にして)どのように理解しようと試み、どのようにコメントをおこなおうとするのか。またこの種の「居心地の悪い客」はどのよう に、その異種[格闘技的]共存の場を平和裡にやりすごそうとするのか、ということが本発表者の最大の関心である。
そこで人類学者は〈異民族に関する文化現象を分析しその社会を理解する専門家〉であるという自己定義を表明する以上に、神経生理学者のため に「役に立つ」存在であることをアピールしなければならない(でないと次回から呼んでもらえない)。人類学という学問分野が神経生理学者たちに具体的にど ういう意味をもつのかを次の3つの観点から論じる。
(1)人類学者は、自らの専門領域の枠組みのなかで人間の情動をどのような観点から研究するのか?
人類学における研究対象である異民族は、その表面的差異という特徴も手伝って、当初は「浅い観察」あるいは「薄い記述」でも十分仕事が できる時代があった。しかし人類学研究が異文化間の相互理解に与する可能性が浮上すると、より「深い観察」による「厚い記述」が求められるようになってく る(Geertz 1973)。
1980年代「表象の危機」と言われた時期以降、人びとの情動をどのように理解するかの問題は、人類学者の理解の公準としての〈社会的 文脈と解釈者主観の尊重〉により複雑な過程のなかでのみ可能であると言われるようになる(Rosaldo 1989)。情動というテーマは客観的記述の邪魔になる雑音ではなく、固有の文化に拘束される人間存在の様式理解の手がかりへと変化したのである。
(2)人類学者のあつかう「人間の情動」と神経生理学者のあつかう「それ」とは、いかなる共通点と相違点をもつのか?
情動をあつかう人類学内部での最大の論点は、文化的様式というものがどの程度まで人間の生物学的普遍性に根ざすものなのか、それとも文 化的修飾によりほとんど無尽蔵の可塑性をもつのかというということである。前者の論点の極北は神経生理学のそれと完全に一致し、後者の南極はすべての情動 は文化で説明できるはずだという極端な文化主義者である(これを「強い文化主義」と呼ぼう)。
多くの人類学者は、人間は生物学的基盤をもつので、「全ての人間にあてはまる合意(consensus gentium)」は、人間の普遍性(共通性)を基盤にして後天的に学びうる文化的修飾の部分を守備範囲とする立場をとる(これを「弱い文化主義」と呼 ぶ)(Kroeber 1953:516)。パラダイムならびに方法論の違いにより、文化的修飾をバイアスか雑音(よくて変数)とみる傾向をもつ神経生理学者と、その探求を学問 上の使命(imperative)に他ならないとする人類学者の違いがあるが、後者の多くは折衷主義者である。なぜ折衷主義者なのかという理由は、人類学 がもともと自然科学から派生した学問であり、いまだ客観性への信仰の痕跡を残しているのだと私は考えている。
(3)神経生理学者は、人類学者の言う「御託」に耳を傾けることで何か役に立つことはあるのか?
人類学者が、ある社会の人びとの「情動」について研究するとは、その社会の人びとがそのように名付けられた経験を具体的にどのように生 きるのかということについて調べることである。これは心や意識について自然科学の観点から探究する研究者にとっては検討に値しない、日常感覚から導き出さ れてきた常識すなわちフォーク・サイコロジーによる説明に他ならない。おいしい純米焼酎をとり出す技術者にとっての麹粕のようなものだ。
全く逆説的な事態ではあるが、ガリレオ『天文対話』におけるアリストテレス主義者のシンプリシオは、研究者は逆説を生み出す科学の〈言 説〉に酔ってはだめで、自然を観察することで〈モノ〉に語らせなければならないと忠告した。
従って本節の問いへの答えは、「役に立つことはない」というのが最初の「浅い結論」である。しかし神経生理学者もまた研究論文という 〈言葉〉を扱う動物である以上、その言語と概念の使用について、辛辣な人類学者の助言により、より正確に〈モノ〉に語らせることができる。つまり「役に立 つこともあるだろう」が最後の「深い結論」になる。
〈内容〉
〈リンク〉
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