意図の表現について(解説編)
On Statement of one's Intention: Commentaries
問題:問題背景の説明を先に読んでください!(以下はその設問)
(1)我々はある種の行為をしている最中にあるいはその後に「なぜその行為をしている/したのですか?」と質問されて、正しく答えることは できるだろうか? その時に答えている内容は、その行為の前に思ったこと(=その行為の前の意図)と照応していると言えるだろうか。(→(4)の問いと関 連する)
(2)動物の行動を見て——以下の「鳥にそっとしのびよる猫の動作」を参照——動物は「意図」をもつと言えるだろうか?
(3)アンスコムによると、動物の行動は「意図の表現」とは呼べないが、それは正しい主張だろうか? 動物を他人と置き換えてみて、他人の 行動もまた「意図の表現」とは呼べないだろうか?
(4)アンスコムの「意図する行為」は、ある意味で用いられる「何故?」という問いが受け入れられるような行為であると言うが、その提案を 受け入れることができるか? 受け入れられるのであれば、なぜ? また受け入れられないのであれば、その理由を説明しなさい。(→(1)の問いと関連す る)
グループディスカッション後の各グループによるブレゼン
グループ:れもん
1)正しく答えることができる、照応している(ただし意図を言語として表現できる場合)
2)意図をもつと言える
3)および4)時間内に議論できませんでした。
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グループ:タンブラー
1)意図を持っていれば答えられる。意図があれば照応しているはず。
2)後天的にできるようになった場合は意志(例:食わず嫌い)。後天的にできる行動は意志ではない(例:鳥にそっと[近づく猫])
3)生理的行動(本能、条件反射)と意図を区別できなければ、意図とは呼べない、猫であっても確認できればOK。
4)受け入れられる。考えて行動していれば、答えられるはず。
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グループ:がんむし
1)正しく答えられるもの、答えられないものがある。(後者として「無意識の行動」)
2)ネコの行動は本能 → 意図でない。
3)アンスコムは正しい。他人の行動を意図と呼べるため。
4)受け入れられる。「正しく答えられる」理由を説明できる。
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1)答えられるものもあれば、答えられないものもある。例)空腹を感じたこと。
2)猫の「しのびよる」という行為自体に「気づかれないため」という意図があるのでは? → 動物も意図をもつ?
3)人間でも動物でも共通して「ぼ〜っとする」……意図のない行為?/「なにもしたくない」という意志の表れ
4)自分の意図しているだろうと思っている。行動でも外部の要因が重なり、その行動に導かれたと考えると、受け入れにくい。
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グループ:「意図って何?」
1)[意図の有無]×[行動の前後]のマトリクスで説明する:[意図のある/ない]×[行動が変わる/変わらない]
【意図がある+行動が変わる=口さみしいから食べる(本能)】 【意図がある+行動が変わらない=生きるために食べる(本能)】
【意図がない+行動が変わる=変化後の口さみしいから食べる(反射)】 【意図がない+行動が変わらない(反射)】
3)意図:そのものの定義は脇に置き、自分にそれがあると仮定→ならば他人にもあると考えられる→すべての動物は意図をもつ→その行動は意 図の表現(本能や反射を除き)
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授業の主宰者の推論
1)正しく答えることができる/できない、の2つの結論をそれぞれ認めると、どのような論理的過程が必要になるのか、という推論をする。
正しく答えることができる:これは本人の主張と、外部から観察された事実の一致で証明できる。あるいはコンセンサスがあれば、このことに異 論を挟む人はいないだろう。
正しく答えることができない:完璧な答えが出るまでさまざまな反証例(無意識のような分からない動機あるいは少なくとも初めは隠されている 動機や、当初の意図と反した行動が生起した時の事後的なこじつけなど)をチェックするといつまでも答えることができない。これは正しく答えることができな い証明をしたようだが、正確には答えを留保して、すべての反証例を撃破しないと答えれないとする、ちょっとした無理難題。先のコンセンサスのような「常識 的推論」を否定せんがためのねじ曲がった議論の論法。あるいは論点先取(begging the question)。
結論:「本人の主張と、外部から観察された事実の一致で証明」されたと判断するという定義を策定すれば、自分の意図について正しく答えるこ とができると思える。
2)動物は「意図」をもつ/もたない、の2つの結論をそれぞれ認めると、どのような論理的過程が必要になるのか、という推論をする。
動物は意図をもつとは言えない:アンスコムの主張を受け入れて彼女の前提「動作だけでは意図とは言えない」および「意図は言語的に説明され る必要がある」を首肯すれば、この場合「動物は意図もつ」とは言えないことになる。
動物は意図をもつとは言える:アンスコムの主張を受け入れずに、動物の意図を人間による「外部観測のデータだけで判断できる」と想定すれ ば、動物は意図をもつと言える。ただし、これはアンスコムの定義や前提とは別個の、動物の意図に関する定義の変更や修正をおこなう必要がある。つまり、規 則を変えれば「〜を言うことができる」とは、結論を誘導のために、規則を変えるわけだから、正しい主張とは言えない。
結論:動物は「意図」をもつとは言えない。ただし、動物が「動作を意図を合致し、そのことについて動物じしんが『何故?』を説明することが できれば」動物は意図をもつことができると言える。
3)2)での推論に従い「動物の行動は『意図の表現』とは呼べない」。
しかし、アンスコムはウィトゲンシュタインの説明を本当は否定しているというよりも、修正改変しているのではないだろうか。もちろん、その 修正は首肯できるものであり、正しい修正のように思える。そうすると「動物が「動作を意図を合致し、そのことについて動物じしんが『何故?』を説明するこ とができれば」動物は意図をもつことができると言える」推論は、人間と動物がコミュニケーションできない時に初めて有効になるものである。これは、むしろ 人間と動物の区分はコミュニケーション能力の有無あるいは、相互にコミュニケーションしていない、ということから来ているのでないか。
4)意図する行為を「何故?」という問いが受け入れられる行為だと、アンスコムの主張を認めると、その「何故?」という問いに対する説明の妥当 性を証明することが必要になるという、これまでの議論とは違った議論を招来する。
しかし、我々は、その新しい議論は、この問題の解明にとって重要な素材であり,受けれざるを得ないように思われる。
資料
「意図はわれわれがそれを表現できるものであるが、(例えば、命令を与え得ない)動物も持ちうるものであるように思われる。しかし、動物に は意図の明確な表現が欠けている。というのも、鳥にそっとしのびよる猫の動作は意図の表現と呼べないからである。もしそう呼べるとすれば、自動車の失速も 止まろうとする意図の表現である、と言うことになろう。意図はその表現が純粋に規約的である点で情緒と異なっている。規約的意味をもつ身体の動作を言語の 内に含めるとすれば、意図の表現は「言語的」であると言ってもよいであろう。ウィトゲンシュタインが「意図の自然な表現」という語り方をしたのは(『哲学 探究』647節)私には誤りであるように思われる」(アンスコム 1984:9 訳文は変えました)。
「647 意図の自然な表現というものはどういうものか。——小鳥に忍び寄っていくときのネコを観察してみよ。あるいは、逃げ出そうとしているときのけものを。《感 覚に関する諸命題との結合》」(ウィトゲンシュタイン 1976:329)
"647 What is the natural expression of an intention? -- Look at a cat when it stalks a bird; or a beast when it wants to escape. ((Connexion with propositions about sensation))"
"647 Was ist der natuerliche Ausdruck einer Absicht -- Sieh eine Katze an, wenn sie an einen Vogel heranschleicht; oder ein Tier, wenn es entfliehen will. ((Verbindung mit Saetzen ueber Empfindungen.))——ウムラウトはue, ae と表現しています
「ところでこの区別[=意図の表現と未来の予測]を次のような仕方で為すことも考えられる。意図の表現とは、その発話者がある意味でその行 為者であるような未来の事態の記述であり、かつ(その記述を正当化する場合には)彼は、その記述が真であるという証拠を述べるのではなく、その行為の理 由、つまりその記述が実現することが何故有益で魅力があるか、の理由を与えることによって正当化する、と」(アンスコム 1984:11 訳文は変えました)。
「何が意図の行為をそうでない行為から区別するのであろうか。私が提案する答えは、「意図の行為とは、ある意味で用いられる『何故?』とい う問いが受け入れられるような行為だ」というものである。ここで言う、ある意味とは、もちろん、その答えが行為の理由与える(肯定ならば)ようなものであ る。しかし、これは十分な規定になっていない。「ある意味で用いられる『何故?』という問いとは何か」という質問と、「『行為の理由』という表現は何を意 味しているか」という質問は同一のものだからである」(アンスコム 1984:17 訳文は変えました)。
文献
G.E.M. アンスコム『インテンション:実践知の考察』菅豊彦 訳、産業図書、1984年
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(ウィトゲンシュタイン全集8)藤本隆志 訳、大修館書店、1976年
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