意図の表現について
On
expression of our Will
意図の表現について
私たちは、通常は何かをしようという意志(will)をもつことができる、と信じている。そして、それに基づいて日常生活においてあたり 前にその意志を実現していると感じている。例えば、朝起きて、あるいは食事後に、あるいはデートに出かける前に、「歯を磨かなくてはならない」と思い(= 意志をもち)、実際にそれを実現する、つまり歯を磨くことができる。あるいは、歯を磨く必要性は感じるが、すぐに外出しなければならない、面倒くさい、今 日はデートではない、ゆえに私は(意志をもって)歯を磨かないという行為を選択することができる。このようなことは、なにものにも制約されずに、私たちは 自分の意志を自由にコントロールして行為をおこなっていると、表現する。それを我々には「自由意志(free will)」があると言う。つまり、我々の意図したとおり我々は行動することができるとする見解である。
この考え方を敷延すると、我々は思ったとおりの世界をつくることができる。あるいは完全ではないにせよ、意志をもつことで望み通りの世界 に近づくことができると考えるのである(近未来SFはそのような「可能性の世界」で充ち満ちている)。これは一見当たり前のようだが、実際には我々が意志 をもつ以前にさまざまな前提条件が提示があるから、意志を行使するのに、有限な可能性のうちのひとつないしは複数の行為を選択できる自由があると留保せざ るをえない。この我々が意志をもつことを制限する前提条件を限りなく厳しくしてゆくと、我々の行為は、それに先行する条件によって決まっている予めきまっ ており、そもそも完璧な自由意志をもっていることなど信じることはできないという立場をとることもできる(なにせ、完璧な自由意志をもっているという思考 実験をすれば「想像できない意図」すら想像できるという矛盾に突き当たるからである)。
自由意志を突き崩すこのような考え方は決定論(determinism)と呼ばれる。したがって自由意志という考え方は非決定論の立場に 属する。ところで、我々は、〜する運命をもっていた、という考え方は——時に非現実的な見解を多く含むが——典型的な決定論である。決定は、どのように先 行する条件が現在を拘束するのかという性質により、先行する原因により現在が決まるという因果的決定論(例:焔の中に手を入れれば火傷する)と、先行する 条件のなかで確率的に決まったり/決まらなかったりする確率的決定論(例:選挙前の世論調査では与党の確実な勝利を誰もが疑わなかったが、党首の汚職の発 覚と辞任で下野ないしは連立政権を組むことになった)というものに便宜的に分けることができる。
さて、決定論による拘束があろうと、完璧な自由意志をもつことが不可能なことが論理的にわかったとしても、経験的には我々は自由意志を行 使しているように思える。このことを否定すると我々は自己の行為によって生じたことに対して責任をもつことができないからである。
先の党首の汚職による事件の例により、政治秘書の関与の疑いが持たれていることを考えてみよう。党首(国会議員)は「秘書が私の知らない ところで勝手に(つまり秘書の自由意志にもとづく意図により)企業から賄賂を受けたようです」という弁明は、国会議員には責任がない、つまり罪はないこと を表現するものである。他方、秘書は「先生(=国会議員)に命じられて企業から金品を授受しました。先生の命令は私共には逆らえない状況であるし、この件 について先生は法律に照らし合わせて大丈夫だと念を押されました」という表現は、秘書には自由意志にもとづく意図がなかったことを表現している。つまり自 由意志を行使しなければ、その行為について責任を負う認識が生まれないという見解を示している。かくのごとく自由意志をもつことと、それにもとづく意図を 他者に表現する[できる?]ことが、ここでは市民生活を送る上で、非常に重要なこととなるのである。
ここで私は自由意志を前提にして、それを行使する(決定論的な観方をすると「作働させる」)意図は、どのようにして表現することができる のか、あるいは、私たちは自分の意図を本当に/的確に表現しているのか、について検討してみたい。
問題
(1)我々はある種の行為をしている最中にあるいはその後に「なぜその行為をしている/したのですか?」と質問されて、正しく答えることは できるだろうか? その時に答えている内容は、その行為の前に思ったこと(=その行為の前の意図)と照応していると言えるだろうか。(→(4)の問いと関 連する)
(2)動物の行動を見て——以下の「鳥にそっとしのびよる猫の動作」を参照——動物は「意図」をもつと言えるだろうか?
(3)アンスコムによると、動物の行動は「意図の表現」とは呼べない が、それは正しい主張だろうか? 動物を他人と置き換えてみて、他人の 行動もまた「意図の表現」とは呼べないだろうか?
(4)アンスコムの「意図する行為」は、ある意味で用いられる「何故?」という問いが受け入れられるような行為であると言うが、その提案を 受け入れることができるか? 受け入れられるのであれば、なぜ? また受け入れられないのであれば、その理由を説明しなさい。(→(1)の問いと関連す る)
問題解法に関する解説編
資料
「意図はわれわれがそれを表現できるものであるが、(例えば、命令を与え得ない)動物も持ちうるものであるように思われる。しかし、動物に は意図の明確な表現が欠けている。というのも、鳥にそっとしのびよる猫の動作は意図の表現と呼べないからである。もしそう呼べるとすれば、自動車の失速も 止まろうとする意図の表現である、と言うことになろう。意図はその表現が純粋に規約的である点で情緒と異なっている。規約的意味をもつ身体の動作を言語の 内に含めるとすれば、意図の表現は「言語的」であると言ってもよいであろう。ウィトゲンシュタインが「意図の自然な表現」という語り方をしたのは(『哲学 探究』647節)私には誤りであるように思われる」(アンスコム 1984:9 訳文は変えました)。
「647 意図の自然な表現というものはどういうものか。——小鳥に忍び寄っていくときのネコを観察してみよ。あるいは、逃げ出そうとしているときのけものを。《感 覚に関する諸命題との結合》」(ウィトゲンシュタイン 1976:329)
"647 What is the natural expression of an intention? -- Look at a cat when it stalks a bird; or a beast when it wants to escape. ((Connexion with propositions about sensation))"
"647 Was ist der natuerliche Ausdruck einer Absicht -- Sieh eine Katze an, wenn sie an einen Vogel heranschleicht; oder ein Tier, wenn es entfliehen will. ((Verbindung mit Saetzen ueber Empfindungen.))——ウムラウトはue, ae と表現しています
「ところでこの区別[=意図の表現と未来の予測]を次のような仕方で為すことも考えられる。意図の表現とは、その発話者がある意味でその行 為者であるような未来の事態の記述であり、かつ(その記述を正当化する場合には)彼は、その記述が真であるという証拠を述べるのではなく、その行為の理 由、つまりその記述が実現することが何故有益で魅力があるか、の理由を与えることによって正当化する、と」(アンスコム 1984:11 訳文は変えました)。
「何が意図の行為をそうでない行為から区別するのであろうか。私が提案する答えは、「意図の行為とは、ある意味で用いられる『何故?』とい う問いが受け入れられるような行為だ」というものである。ここで言う、ある意味とは、もちろん、その答えが行為の理由与える(肯定ならば)ようなものであ る。しかし、これは十分な規定になっていない。「ある意味で用いられる『何故?』という問いとは何か」という質問と、「『行為の理由』という表現は何を意 味しているか」という質問は同一のものだからである」(アンスコム 1984:17 訳文は変えました)。
リンク
文献
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授業案内(池田) http://bit.ly/biayOv
臨床コミュニケーション1(2011年度) http://bit.ly/g055yw
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