ゲッベルスの宣伝術について
On Joseph Goebbeles' Propaganda Art
ゲッベルスの宣伝に精通することは、ファシズムの闘 士になれという意味ではない。ファシズムがもたらす巧妙な宣伝に、市井の人たちが容易に騙されないということが必要だ。そして、かつて、その種のカルトに 属しており、心身の全霊を捧げたあとに、そこから脱却した人ならば、到達することができる「なぜ、あの時に、あのような子供でもわかる馬鹿馬鹿しいことに 熱心に信奉したのか?」ということに反省的かつ冷静に応えることができるかということにある。
Joseph
Goebbels, 1897-1945
ゲッベルスの宣伝手法に関する考察に入る前に、 1933年1月30日政権掌握後のヒトラーの宣伝手法に対してゲッベルスがどのような立場をとっていたかを明らかにする必要がある。彼はその翌日、日記に こう記す:「とうとうここまで来たのだ。我々はヴィルヘルム街に座っている。ヒトラーは帝国首相だ。まるでおとぎ話のようだ」——ヨーゼフ・ゲッベルス (1933年1月31日、日記)。博士号を持っていて教養の高いゲッベルスは、ヒトラーの教養には、その態度には出ないが明らかに見下した認識をもってい たようだ。ベルリンに到着する前にヒトラーから贈呈されていた『我が闘争』(1925, 1927)繙いたが、そのドイツ語文法は破格(=文法どおり正しくない)であり、事実において誤認があった。そこの宣伝の部分にはこのような記述がある。
(宣伝は目的を生むための手段)
「宣伝は手段であり、したがって目的の観点から判断されねばならない。 それゆえ宣伝の形式は、それが奉仕する目的を援助することに有効 に適合していなければならない。目標の意義は、一般的必要の観点から見ればいろいろでありうるし、それとともにまた宣伝はその内面的価値に おいて種々規定されるととも明白である」(第一部、平野一郎ら訳、上:255)。
「まさに決定的な意義をもつ第二の問題は、次のよう であった。すなわち宣伝はだれに向けるべきか? 学識あるインテ リゲンツィアに対してか、あるいは教養の低い大衆に対してか? 宣伝は永久にただ大衆にのみ向けるべきである」(第一部、平野一郎ら訳、 上:258)。
「宣伝の課題は、個々人の学問的な形式ではなく、ある一定の事 実、ある過程、必然性等に大衆の注意を促すことにある。そのために宣伝の意義は、まず大衆の視野にまでずらされねばならない」(第一部、平野一郎ら訳、 上:259)。
「それだからその技術は、すぐれた方法で、ある事実 の現実性、ある過程の必要性、必要なものの正当性等について、一般的確信ができるようにするところにのみもっぱら存する。しかし宣伝はそれ自体必要なもの ではなく、またそうではありえず、その課題はまさしく、ポスター のばあいと同様に、大衆の注意を喚起することでなければならず、もともと学問的経験のあるものや、教養を求め洞察をうるために努力しているものの教化にあ るのではないから、その作用はいつもより多く感情に向かい、いわゆる知性に対してはおおいに制限しなければならない」(第一部、平野一郎ら 訳、上:259)。
「宣伝の技術はまさしく、それが大衆の感情的観念界をつかんで、心理的に正しい形式で大衆の注意をひき、さらにその心の中にはいり込むことにある。これを、われわれの知っ たかぶりが理解できないというのは、ただかれらの遅鈍さとうぬぼれの証拠である」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとする ことは、誤りである」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
(宣伝の連呼の意味)「大衆の受容能力は非常に限られており、理解カは小さいが、 そのかわりに忘却カは大きい。この事実からすべて効果的な宣伝 は、重点をうんと制限して、そしてこれをスローガンのように利用し、そのことばによって、目的としたものが最後の一人にまで思いうかべることができるよう に継続的に行なわれなければならない」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「すべての広告は、商売の分野でも、政治の分野で も、継続とその利用のむらのない統一性が成果をもたらすのだ」(第一部、平野一郎ら訳、上:267)。
(2つの宣伝手法の対比)「オーストリアやドイツの漫画宣伝がまず第一に配慮した ように、相手を噺笑したような例は、根本的に誤りで あった。実際に遭遇してみると、たちまち相手の人々に関してまったく異なった信念をもたねばならなかったから、根底から誤っており、さらに最も恐ろしい報 いがくるからだった」。なぜなら、兵士のほうが敵よりも味方の心証操作が間違いだと気づいたから(——引用者注釈)。それに対して「イギリス人やアメリカ人の戦時宣伝は心理的に正しかった。かれらは自国の民 族にドイツ人を野蛮人、匈奴だと思わせることによって、個々の兵士に前もって宣伝が、戦争の恐怖に対する準備をし、幻滅をおこさせないように努力していた。 いま自分に向けられたどんな恐ろしい武器も、かれらにはただ、かれらにいままで与えられた啓蒙が正しかったことを確認した以上には感じられず、他方、極悪 な敵に対する怒りと憎悪の念を高めると同様に、政府の主張が正しかったという信念を強めたのである」(第一部、平野一郎ら訳、上:260)。
「宣伝の課題は、たとえば種々の権利を考慮することではなく、 まさに宣伝によって代表すべきものをもっぱら強調することに ある。宣伝は、それが相手に好都合であるかぎり、大衆に理論的な正しさを教えるために、真理を客観的に探究すべきではなく、絶えず自己に役立つものでなければなら ない」(第一部、平野一郎ら訳、上:263)。
ちなみに私(=引用者=池田)が感じる、ヒトラーの 「宣伝」に関する根本的な取り扱い方の誤りもあると思われる。その一つが、大衆を「子供」のような不安と猜疑心の塊だとしてみる態度である——ただし、そ のような猜疑心の塊と、責任をとらない責任転嫁の体質を大衆に見抜いたことは、ヒトラーの炯眼である。私にとっては、仮に大衆が子供であっても、真実を見 抜く力や、共同で権威に抵抗するような人間本来の性格も忘れてはならないと思う。そのようなヒトラーの大衆に対して穿った態度は次の文章にみられる。
「大衆は外交官から成り立っているのではなく、また 国法学者のみから成り立っているのでもなく、まったく純粋に理性的判断からでもなく、動揺して疑惑や不安に傾きがちな人類の子どもから成り立っている。一 度、自国の宣伝によって敵側の一抹の権利さえも認められるようになると、すでに自己の権利に疑惑をもたらす根拠を置いたことになる。大衆は相手の不正がどこで終り、自分の不正がどこから始まっているか、その 時判断する立場にはいない。そういうばあいにかれらは不安になり、邪推したりする。特に相手が必ずしも同じように無意味なことをせず、何も かも責任をこちら側に負わせてくる場合がそうである」(第一部、平野一郎ら訳、上:263)。
それでは、ゲッベルスは、ヒトラーの宣伝手法に心酔
した後、いかにして、さらにその宣伝手法を洗練させていったのか? そこがポイントである。
「僕は人にわかりやすく語るということがどんなに大切かをますます理解するように なった。そのために僕はまったく新しいスタイルの政談演説を発展させることになった。この頃になって僕はベルリン時代の演説と比較してみた が、古いのはまったくおとなしく素直だ。僕はまだ大都市の熱気と テンポの虜になっていなかったのだ」(マンヴェルほか、樽井ほか訳:66)。
「街頭を征服するものは、いつか必ず国家を征服す る。なぜならあらゆる権力政治や独裁政治はその根を街頭にもって いるからである」(マンヴェルほか、樽井ほか訳:70)。
宣伝の効果云々の関しては因果論というものをまった
く否定している発言もみられる。このあたりはヒトラーゆずりであるが、論理的には支離滅裂である。
「どのような宣伝がより有効で、どのような種類の宣伝がより効果がうすいか、 ということを決定する理論的根拠はない。望ましい結果を生む宣伝はみなよい宣伝で、それ以外の宣伝は悪い宣伝——たとえそれがどれほどおも しろそうなものであったとしても。なぜなら宣伝の目的は人をおもしろがらせることではなくて「好結果を生む」ことであるから」(マンヴェルほか、樽井ほか 訳:71)。
映画の効用について述べているが、それはヴァルター・ベンヤミンの気散じのなかの宣伝効果というものではなく、内容分析による映像効
果というきわめて古典的な説明に留まっている。つまりゲッベルスの宣伝美学論というのは、ヒトラーが批判してやまないインテリが好きな議論の領域のままに
じつは留まっていたのだ。
「その晩(1933年1月)われわれはルイス・トレ ンカーの映画『反乱』を観に行った。これは芸術映画の一級作品である。この映画から僕は革命的な性格と大衆感覚を備え、生命力に満ちた将来の映画を想像す ることができる。その中の一シーンでは巨大な十字架像が小さな教会から革命家たちによって運びだされるところがあるが、観衆は深く感動させられていた。これを観ればわれわれがフィルムを芸術のメディアに用いて何を成就すること ができるか十分理解できよう」日記より(マンヴェルほか、樽井ほか訳:91)。
このようにゲッベルスの引用をみると、彼が大衆の前 で扇情的に宣伝したのとは、好対照に、そして、ヒトラーの教養のない罵詈雑言よりも、冷静な判断と大衆とのデタッチメントが伺える。全体主義の宣伝とは、このように、それを仕掛けるものの冷静な理解と、それに呼応するものの熱狂と 無理解の混合という、非常に対照的なものがみられるのである。
したがって、ゲッベルスの宣伝術の要衝とは、「ゲッ ペルスは宣伝の天才であった!」という世間に流布しているアホな主張にあるのではない。ゲッベルスの魅力は、知性というものは、知性がその維持伸展のため にはもっとも避けなければならない「愚劣と無知」というものすら学ぶ特殊な能力をもつということであり、(ダース・ベイダーごとく)そのような暗黒面に魅 了されると、悪そのものを完全に模倣することができるという、《よい子が絶対に真似してはならない愚行》をくり返し、やがて人生を終えるということなので ある。
ゲッベルスの宣伝術の要衝とは、知性というものがもたらす、模倣の能力(mimetic faculty)で あったのだ。
リンク集
文献
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絶 頂期の家族写真(中央の長男の写真は後から加えられたものと言われている)
ゲッ ペルスの自殺後に焼かれ、ソビエト軍により発見・撮影されたものと言われている。
For all undergraduate
students!!!, you do not paste but [re]think my message.
Remind Wittgenstein's phrase,
"I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein
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