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私のモンゴル三昧

Mongolia y mi professión Antropología


池田光穂

私のモンゴル三昧、あるいは新モンゴル学の提唱について(2013-2014年)さあ、僕のモンゴル経験について語ろう!——(詳細 クレ ジットはこのページの最後にあります!)

→「草原研究所と国連の持続可能な開発目標」「モンゴル草原文明研究所(構想案)

■俺の蒙古狂い!

 私の話は私の蒙古狂いということで、メキシコや中央アメリカのグアテマラというところでフィールドワークをしておりますので、自分の調査言語であるスペ イン語で「Mi Locura Romantica Academica Mongoliana」というタイトルをつけさせて頂きました。私のモンゴル体験というのは昨年、2013年の8月の環境研修旅行と、モンゴル教育大学創 立二十周年記念、まあ、桜美林大学と深い関係があるところの記念シンポジウムへの参加で、奥野先生、バイカル先生、副学長の足立先生と三人で参加させてい ただきました。10日、2週間前後の参加でした。今年は2014年の8月の末から9月にかけて、モンゴル環境会議、モンゴル環境研修旅行ということで、文 化人類学の学生とともに、桜美林大学の学生、教員非常に同行多数で、私のモンゴル経験というのは大阪大学とは違った異文化経験というか、私はどちらかとい うと大学院生の授業を主に授業しておりますので、そういう桜美林大学という異なった経験ということです。


■広いぞ蒙古!

 私にとってモンゴルというのは、風景 が広大で豊かで、非常にインパクトのある空間というのが最初のイメージです。これはヤギですけれども、放牧されてい たりですとか、ゲルというものが見えたりですとか、非常に広大な ところで2、3時間バスに揺られ、寝て起きてもまた同じ風景だということで、全然動いてな いじゃないか!とそういう感じです。

モンゴルに行った人たちはご存知かもし れませんが、 ガソリンとか、ディーゼル、軽油とかを売ってるんですね。このポリタンクは大変大きなポリタンクです。ガソリンスタンドとかはありませんのでこのようにポ リタンクをドカンと置いて売ってると。安全基準から考えると危険極まりないですけれどもね。途上国、特に奥野先生とレンタカーで四輪駆動を借りまして、 ニューギニアへ行きましたけれども、やはり同じように山の中の村々で同じようにポリタンクがありまして、20ℓ、何ℓという感じのポリタンクが置いてあり ます。これは、ものすごく広大な風景の中にポリタンクがあるんですけれども。
それからハイウェイですね。近代化、こういうルートから人とか文化がやって来ると同時に、モンゴルの若者たちがウランバートルあるいは中国の北京を経由し て世界に飛び立っていくそういう場でもあります。私にとってもこれが近代化のシンボルでもあるわけです。

■さらりとしたエキゾチズム!

 これはバイカル先生とオボーというか、ハラホリン(カラコルム)に行ったときの写真が左の写真で、仏塔とかが見えますね。
それからゲルの中で歓迎会があるということで、家の造りなどは伝統的な移動式家屋ですが、現代風のたくさんのひとが一堂に会することができる、非常に立派 な伝統文化の精髄というような風景であります。手前には、中国製の魔法瓶のようなものが見えますね。
■羊を解体!と動物の風景! こちらのスライドは羊の解体の光景なのですが、(先ほどSさんが屠畜と乳製品の利用について御発表されてましたように、)血を一滴も流さない見事な解体 をするわけなんですね。そのようなシーンをここで見て、上手に血をとって、皮をとって、解体のプロセスが進んでいきます。30分で物の見事に何もなくなる という、そういう風景であります。
五畜、つまりラクダ、牛、馬、ヤギ、羊 という五つの獣と共に、モンゴルの文化、遊牧文化はあるわけです。これは、ハラホリンの、チベット仏教の寺院の中に あった壁画のようなものなのです。野生動物や犬も見えますけれども、動物の表情が非常に豊かに描かれています。これはシンボルというよりも、非常に写実的 なものですね。この動物の目をみると非常に生き生きとして、(発 表にもありましたが)モンゴルの人たちが自分たちの身の回りにある、人との関係、人と動物 との関係というものが、このような図像の中にもよく現れていると思います
■研究者マフィア! これは、今年の8月に北京(ペキン)についたばかりの調子がいいところの写真です。少々強面な、非常に楽しい同行三人組でありました。嬉しそうでしょう?  研究にいく、学生を引率するというよりも、俺たちは楽しむんだという雰囲気でいいんじゃないかと思います


■正藍旗の自治政府庁舎はすごい!

これは中国内蒙古なんですけれども、正藍旗というところに長い時間をかけて、(Sさんの話にも発表ありましたけれども、)行った時に泊まったホテルの隣 に西南の自治政府の建物があったわけなのですが、非常に立派ですね。これは中国とモンゴルの人々との、政治的、あるいは自治政府との様々な関係。あるいは ここは世界遺産になったところですので、経済投資や、世界文化遺産という関係が見事に表象されています。非常に大自然豊かな空と、先ほどのポリタンクのガ ソリンとは好対照な近代的なものが見えます。四輪駆動の自動車というのももちろん見えます。
■ゲルというすばらしい住居! 我々はゲルに学生たちと宿泊したのですけれども、遊牧に伴って移動をするゲルを解体するところを見学させてもらうと同時に、我々自身も学生たちも一緒に解 体するところを手伝いました。そうすると、建物の構造がよく見えてくるわけです。なので、見て、泊まってだけでなく(実際の構造を)見ることによってこん なふうになってるんだ! とわかる。例えばいちばん天井の部分は丸く、取れるようになっている。さらに、一本、一本と木を組み合わせていてほとんど釘を 使っていないんですね。というわけで、このような貴重な体験をさせて頂きました。
■女性のライフコースに触れる感動! こちらは、(Oさんの発表にもありましたが、)乳製品の搾乳をして、チーズを作っているところですけれども、チーズを作りながらいろんなことを話してく れるわけです。学生に対して何か質問はないかといってくれて、バイカル先生が通訳をしてくれるわけですけれども、その中では単にチーズのつくり方だけでは なく、女性としてどのような生き方をしてきただとか、お子さんはどのように育てたのだとか、そんな語りをしながら、寒いところですから火に当たりながら、 刻々と変化していく乳製品の甘酸っぱい香りを嗅ぎながら、そういう質問をしていきました。こういう風景をみると、未だに私はその当時の臨場感を思い出して 胸が熱くなるんですけれども、多分一緒にいた学生もそのおばさんの語りとか、喋り方とか、それから語ってくれた内容を断片的に覚えてらっしゃるかと思う し、ひょっとしたら(フィールドノート)とか、最近の学生はスマホでどんどんとテキストを作っていきますので、そういう時のデータがみなさん一人一人の記 憶の中に残っているのではないかと思います
■政府高官から/に接待される! 先学期では、後ろの方に学生が桜美林モードで盛り上がっておりますけれども、手前はですね、日本で言うところの文部科学省、非常に高官の偉い方たちに招待 して頂いて、交流会をしたわけです。その時の写真です。非常に著名な詩人、作家の人たちが来てお酒飲みながらご自身で即興の詩をつくって語ってくれたんで す。あと、馬頭琴ですね、即興で歓迎の意を表してくれるんです。こういう文芸従来は我々の社会の様に、村上春樹に代表されるような出版物になったり、メ ディアで紹介されているということではなくて、芸術とか文化というものがその現場で沸き上がってくる瞬間というのをみることができる。こういう人たちが政 治や文化につくと、日本の文部科学省、有名大学や国立大学を卒業した、官僚と呼ばれるような人たちが、文化は社会はこんなものだと政治をつくるのとは全く 違うタイプでした。ご自身がクリエーターの人たちですからね、そういう違いみたいなものが出ると。それから、日本で教鞭を取ってらっしゃる バイカル先生 が、知的レベルで同じ知識人として、交流をしてモンゴルの文化が日本に伝わっていく。バイカル先生が、(モンゴルの)著名な作家さんの著作集をまとめられ たということもあるかと思いますが、やがてそういうものが日本語になって伝わっていく。こういう現象はトランスカルチャリゼーションと言いましょうか、ト ランスカルチャー化と言ったり、トランス文化化と言います。


■ふるい万里の長城の存在感!

これで写真は最後ですけれども古い万里の長城で私が自撮りした写真と、明時代の新しい万里の長城よりももっと古い万里の長城ですけれども、結局ここを境に して漢民族と蒙古の人たちが民族的な境界のかたちである。この境界も現在では、どんどんと北へ移動してるんだという話を聞くことができて、国境というのは みえないけれども文明とか、文化というものが人工的に、衛星からも(万里の長城が)見えるぐらいですから、こういうふうに見えるということです。

こんどは、モンゴルの基本的な知識、私 は専門家ではないのでここで紹介するのは、教科書的な話となります。モンゴルという世界でも類まれなるユニークな文 化を持ってる社会見る眼というのがあります。アルカイックモデルと書きましたが、古くはウィット・フォーゲルという有名なマルクス主義の経済史学者が中国 の古代国家というのは水利政策にもとづく農業生産をコントロールすることによって、強大な権力を持ったと主張しました(『オリエンタル・デスポティズム』 新評論、1995年)。国家というのは、強力な生産手段を所有も しくは、独占している、そこから権力が生まれるんだということです。そのモデルからみる と、草原で生産性が無く、家畜は畑みたいなものですよね、生産性があるとしても畑みたいなものです。そういうものと中国のもの時代によっては中国そのも の、全体を統治した、支配したという歴史があるんですね。これはもう世界史の謎みたいなもので、なぜこういう騎馬民族が、大きな権力を持ったのかという議 論があったりします。あるいは、もっとフィールドワークをして今度は我々の文化人類学だとか、生態学というような学問に近いんですけれども、遊牧パラダイ ムというものがあって、生態とか環境が権力を文化をつくるんだというよう議論もある(ドゥルーズとガタリ『千のプラトー(下)』の第12章 「1227年 ——遊牧論あるいは戦争機械」参照、河出文庫、2010年)。
それから、最近は持続可能型の社会の可 能性として、遊牧とか遊牧文化のエネルギーフローというものを見る立場もあります。それから、直近の課題としては、 サスティナブル(持続可能)な地球環境問題をどう考えていくのかということで、今必死に経済学や、開発学の人たちが、近代国家がどのようにして、伝統的な 過去に逆戻りするのではなくて現代社会をリニューアルするにはどういうふうに社会やエコロジーを変えていこうかとかそういう動きがある。

文化人類学の楽しさ

 それからこちらはどちらかというと奥野(克巳)先生と私の専門領域なのですが、固有の文化、一人一人の人間にフィールドワークをしてアプローチしてイン タビューを行い、各社会固有の文化、またはそれぞれの共通点と多様性を見出していく。そういう積み上げ型で社会の在り方、歴史的変遷を考えるのが文化人類 学のアプローチがあります。また最近は民族アイデンティティーとかもですね。あるいは(先ほどバイカル先生が紹介された)文芸や演劇などを 通してそれを演 じたりしている人がどのように感じているのか、または音楽などが時代の変化によってどのような借用、貸し借り関係があるのかなどの研究もありますね。

■みんなで草地学研究所を作ろう!

 それから地域研究としてのモンゴルで す。モンゴルに関心を持った研究者が同一地域の観察に基づき、ちょうどこの前の時間の講義のようなものがより専門化 するといわゆる地域研究的アプローチという形になります。それこそ桜美林大学の今日、私もバトルという形で参加させていただいている民族文化DAYになる のではないかと考えます。


 今回省略させていただきますがハンド アウトにある ように、文化人類学や生態学の先達に今西錦司先生という方がいらっしゃいました。この方は1902年生まれ、90歳ですでに亡くなっています。二十世紀を 生きた 偉大な探検家であり文化人類学者、あるいは自然人類学者でありました(『遊牧論そのほか』平凡社、1995年)。この人は1944年、太平洋戦争と呼ばれ る戦争が終わる直前ですね、長くモンゴルでフィールドワークを行 い、草原学という学問を構想しようとしました。学問というものは皆バラバラになっている。 社会科学も経済のことは経済学者。畜産のことは畜産学者。風俗についてはエスノロジーといった民族学者、現在でいうところの文化人類学者。こういったのを 皆バラバラにして生活現象を一括して研究するというような学問が無いんだとおっしゃっています。ではどうすればいいのかということで今西錦司先生は「関係 性」を見るんだと。その関係性のキー概念になるのが「エコロジー=生態学」であると


(僕の後にお話しされる片山先生がヴァ ンダナ・シヴァ というユニーク な先生、民主的で地球に優しい環境)経済学、開発学、生活学的発想で関係性を明らかにしようということを、極めて原始的萌芽的ではありますが、今西錦司さ んもまたおっしゃっています(Shiva, Vandana. 2005, Earth Democracy: Justice sustainability, and peace. Cambridge, Mass: South End Press)。この今西さんの発想を非常に抽象化してスピリット を吸い上げるとすると学びたい、知りたいという欲望が皆さん一人一人の夢に向かって行動を 起こすのではないかと考えます。今西さんも同じようなことを言っていて、1944年にモンゴルの草原のどこかに立派な草原学のような総合的な学問を研究す る「草原研究所」を作ってみたいという風におっしゃっていました。その夢は実はですね、京都大学における人類学教室という形で戦後結実するわけです。 今西 先生の経験、そして現在我々や桜美林大学の学生が経験から何がまとめることができるかといいますと、モンゴルから何かを学びたいという欲望が一人一人の心 の夢であると。その中でもしかしたら何か新しい学問が生まれるかもしれない。そのように思います。ご清聴ありがとうございました」

■まず、みんなの心のなかに草地学研究所を つくるのだ!

「まずどのようにやるべきなのでしょうかというのを(学生が)先生に聞くっていうのが全然ダメな発想ですよね(笑)。なぜなら最後にオレは一人一人、自分 が持つ夢はなんだろうってのを明確化すること。その夢を実現させるために自分たち一人一人が、草原研究所やあるいはモンゴル研究所を持たなくてはならない ということなんですよ
俺は俺で、片山先生は片山先生でもそれぞれあると思います。片山先生が言われたのはいわゆる資本主義は豊かさを追求してると言ってるけども、片山先生の考 える豊かさは資本主義が有している貨幣だとか、富の多さといっただけではない、もっと豊かな沃野が広がるものだと。生命や命がもつ本来の《豊かさ》である とか、命の内実であるとか。あるいは人間が生まれ変わって別の人生に転生していったときに、お金を溜めて幸せになって家族をたくさん作って、というような ものが本当の人間にとっての幸せではない。自然に還っていく、つまり永遠の命のようなものを持つ。そういうような豊かさを持つ。つまり我々が持ってる善悪 だとか道徳みたいなものを突破しているということを言ってるように思うわけですよね。
だからそういうのは(幸せを享受するみなさん)一人一人考がえればいいっていうのが私の結論なのですが……そういうことを言うととり付く島が無いし、私自 身がそういうことを言ったとしてもじゃわ、KSさんの夢はKSさんの夢、オレの夢はオレの夢、ということになるとみんながバラバラですよね。バラバラに なっ てるんだけども、そこにつけこむのがまさに資本主義ですよね—— 俺とお前は違うんだ、違うためには、いろいろなものを消費したり身に付けたりして差異化し なくちゃならならないと考える「強制的な思考習慣」制度を押し付ける。バラバラなものにブリッジするのがいわゆる貨幣であるとか、あるいは商品の魅力です よね。



要するにユニクロでもなんでもいいんで すがそうし た共通の通貨、貨幣、あるいはシンボル。そういうものをどんどん我々の前に提示してこれを所有するのが我々にとっての幸せだと共通化させていく。このよう な中で重要なのはやはりメディアの力ですよね。私も片山先生もどちらかというと、みなさんがモンゴルの世界よりも家の中でインターネットをして 『Youtubeは楽しい!』としているところへ無理やり首に縄を付けてモンゴルへ突撃! ということをするためには、まさに私とKSさんの間にあるそれ ぞれの夢を追いかけていくうちにどこかの部分で『俺の夢も聴け!』と越境していくかもしれないし、そうしていかないと駄目だと思います。これがひょっとし たらバトルの意味じゃないかなと思うんですね。要するにバトルっ ていうのはただ単に違う意見がガチンコするのがバトルではなくて『俺とお前の夢。どこか共 通点でどこが相違点なんだろう』とか、あるいは二人共通している部分があれば力を合わせて『我々の夢』という第三項の夢が出来るわけですからそのためには 何をしようかというそういう発想が出てくるんじゃないかという風に思います

学生とモンゴルの犬(→「狗類学ギャラリー」)

■同盟軍は強いゾッ!

「今日は知のバトルということで、実は学生たちの企画案としては私と片山先生がガチンコをして学者同士が面白い話で盛り上がったら、学生たちも知的刺激を 受けておもしろがるんじゃねえか、みたいな作戦だったようなんですけれども、実は片山先生と私の間ではお互いに共通するトークン(=共通のコイン)、共通 する項目があって、それはどちらかというと同盟軍というものだったんですね。結局、モンゴルは知識を吸収するためだけの対象ではなくてモンゴルに行ってモ ンゴルの経験、異文化経験、あるいは異社会経験、異次元経験。そういう経験を通して自分が変わっていくというところだとおもうんですよね。だから最終的に は自分が変わるっていうことは、ほかの人——つまり学生が替わる——も変わりうるということなんだと思うんですよ。
 だから、どちらかというと学生さんたちの方は我々から何かを得るという、あるいは、異分野の人があるテーマをめぐってガチで議論してそっから何かを得 るっていうのはどちらかというと観察者の眼っていうかな、だとおもうんですよね。あるいは実験する人の眼。つまり、ある原子とある原子をぶつけて、どうな るのかな、みたいな。加速器があってそこの窓から覗いて、あるいは写真を撮ってというような学者の眼だと思うんですよ。自分の視点とか自分のあれっていう のは不動で、変わんないわけですよね。世界がこういうふうに変わって、それをウォッチするみたいな。ところが、片山先生とか、私はどちらかというと片山先 生のモンゴル経験というのは私なんかと比べるともっとドラスティックで、わたしの発表というのは、どちらかというとまだ学生たちと共通して、観察して、な んかすごい心打たれる経験というか、そういうものがあって、そういう経験の一端をお話しよう、で、その、今西錦司というそういうひとの話を見ると紐解く と、今から半世紀以上前にそういう経験をした方がいたと。だから、今西さんの追体験とか体験とか今西さんが語ってることっていうのが、いまだ実現されてい ないとしたら、同じことをやっている。だから、今西先生の経験を通して、我々は更に、今西さんの夢をうけついで、さらにもう一歩進めなきゃいけないという ことで。まあ、昔だったらどこか文科省からお金をとってきてとか、桜美林大学の学長を動かしてそれで金をとってきてなんか研究所をつくると か、教育プログ ラムを作るとかそういうことだけれどももはやそういう段階ではなくてひとりひとりの生き方の問題なんだみたいな。あるいは、一人ひとりの生き方、見方が変 わんないと世の中変わんないんじゃないかみたいな。いろいろ外側から圧力を加えて、革命だとかそういうもの、みんなを教育して、お前ら間違ってる、資本家 に騙されてる!

■熱く桜美林大学の学生を(知的に)煽動する!

 そういう発想じゃなくて、いや、騙されてるのは俺だったんだ、みたいな。そういう、目からウロコの経験を通して生き方を変えてみる、っていう段 階に来て るんじゃないかなあって思うんですね。で、そう言う意味から言うと、じゃあ、これは多分片山先生も僕も、皆さんもそうかもしれませんけれども、僕の経験 を、今度は葛西くんにガチで話して、これからじゃあ、桜美林の学生どうやってかえていくんだ! みたいな。そのときやっぱり、新聞作ってとか、イベントやってとか、いやアントロポロギっていうのをつくってみんなに配りましょうとか、でも、そんなの読 むか? とか、webページ作ってみんな見るか? とか。いや、妄想やない、みんなモンゴル人の格好してキャンパスの中歩いてあいつらなんや?! みたいな。もう俺たちバーチャルモンゴル人! みたいなね。もう日本人を(在日外国人の人はその国籍人を)やめよう! みたいな。そういうなんかこう、もう日本人やめてもいいと思うんですよ。日本人やめてもういっかい(自分のなりたい、)日本原人に生まれ変わる、新しい日 本人に生まれ変わったらいいと思うんですよ。モンゴル人の中にエイリアンみたいに入って、モンゴル人の栄養吸収して、モンゴル人の腹の中からキキッーーと こうでてくるようなエイリアンになればいいと思うんですよね(会場は爆笑の渦)。まあ、いいすぎですけどなんかやっぱりひとりひとりの生き 方を変えるには どうしたらいいか考えないといけない。たぶんそういうことをひょっとしたらなんだろう、香港の、21歳の学生運動のリーダーの女の子だとか、台湾の反原発 運動、とうとうあれですよね、与党の党首が辞任しましたよね、ああいう学生たち、国会とかそういうところにのりこんでああいう連中が何をやっているか、単 に、政治的に過激になるということじゃなくて、あいつらがなんかやっていることっていうのは、なんか目が違うし、言ってることが、なんか、俺たちが教えて いる日本の学生となんでこんなに違うんだろうみたいな。そういうふうになれという意味じゃなくて、なんでこいつらがこんなことを言っているんだろうみたい なことを考えることを通して、自分たちにも何か出来ることはあるだろうか、みたいな。べつにそれは政治のアリーナでなくてもいいと思うんだよね。趣味の現 場でもいいし、あるいはクリエイションでもいいし、なにか変わったことをやってみる、なにか生まれ変わってみる。そういうことが重要なんじゃないかなと僕 は思います」

■コミュニケーションデザイン・センターというところ!——コミュニケーションデザイン革命のふるさと!

えっと俺はね、大阪大学でコミュニケーションデザインセン ターってところにいるんですよ。そこで人とのコミュニケーションとか、人間と人間のコミュニ ケーション、人間と機械のコミュニケーション、人間と動物のコミュニケーションとか、そういういろんな題材を下にして、コミュニケーションの現場で一体何 が起きているのかなっていうことを検討して教育の場でやるんですね。それで他方、僕が大学でやってるのはコミュニケーションデザインという一種の学問とい うか領域なんだけれども、それこそAmazonの本をみるとコミュニケーションデザインっていうのはみんなマニュアルなんだよね。コミュニケーションのや り方とか、極端な場合はたとえば、営業やってる人がどうやってクレーマーにコーピング(=対処して丸め込む)するとか、あるいは企業がどんな形で顧客と、 良好なコミュニケーションをするにはどうしたらいいのかとか。みんなマニュアルなんですよ。そのポリシー、哲学っていうのは、いわゆる商品化されて流通し ているコミュニケーションっていうのはみんな自分があるんだよね。自分があって、自分が成長するとか、あるいは自分が変なクレーマーにやられない、アン ガーコントロール(=怒りの自己制御技法)もそうだよね。自分があって、自分が殻とかそういうものに守られているような自分があって、それをいかに大切に するか。自分が持っている素質をどうやってボトムアップ、自己陶冶していくか。そうすると自分が就活とか、自分を商品として売り出した時にどうやって高く 評価されるのか。あいつは挨拶ができるとか、あいつとは腹を割ってしゃべれるとか、そういう印象を持たれましょうねみたいなね。実はそういうマニュアルが いっぱいあるんですよね。それはそれでいいと思うんです。だって我々は生きていかなきゃいけないし、嫌な奴やと思われるよりいいやつと思われたほうがい い。だけどそれがあんまり過度になると、自分と他人というのがあまりにも分けてしまう。そこで何かって言ったら、コミュニケーションという話題が出てくる わけですよね。で、その時に自分が何か、確固とした一人ではないんだと。実は自分の中に他人があると考える。プラトンの議論の中でも思想というのは、実は 自分との対話なんだみたいな、思想というのは自分と対話することから生まれるんだみたいな、そういう、プラトンの対話篇にでてくるひとがいったんだか記憶 が定かじゃないんだけれども、そういうことを言ってるわけですよね思想っていうのは実は自分との対話。あるいは、思想の出発点 というのは自分との対話か らでてくるっていうふうなことがあるんですね。で、その時には、同じ自分でも、自分を見る眼、G・H・ミードだったら、「I」と「Me」とかね、そういう 他者から見た自分、そして自分から見た自分みたいな、そういう二重の自分があるっていう。で、それのもっと外側に出て行くと、他人と私っていうのがある。 それから自分が一個の存在として固有の存在であるということは実はないんだ。「他人が変わるためには自分が変わっていくみたいな。そういうところで、変化 の媒体になるのはまさにコミュニケーションだとおもうんですよね。だから、そのどうすべきかと言う時に自分自身が読むようなマニュアルがあ るとすれば、そ れは友人とか先生だとかあるいは後輩だとか同僚だとか、そういう人たちの対話の中から生まれてくるもので、それが変われる為の何かきっかけになるんじゃな いかなという感じがします」。

■学生は徒党を組め!

「徒党を組めというのは全然難しい言葉でも実践でもないんですよ。自分が他者に話しかけることだけではなく、他者の支えに乗ると言うことなんです。非常に つまらないことですが、今年の夏にモンゴルに行った時、最後に万里の長城に行ったんですね。すっごい高い、千メートルくらいのところで僕やバイカル先生と か年寄りはみんな下に残って『僕、もうダメだから、もうやめるわ。』って言ってたんだけど、ここにいるSK君が『先生、あそこまで行きましょうよ!雲がか かっているところまで行きましょうよ!』とか言われたので行ったら、途中くらいからランニング・ハイになったのか、結局、俺が途中から猛ダッシュして一番 最初に上ったんだよね。自分も『馬鹿もおだてりゃ木に登る』かなって、っあっ登るのは『豚』か。この時はすごくSK君に助けられた。絶対1人だといけな かった。SK君の、馬鹿な俺いや(羽根の生えた)豚の俺への誘い、それにおだてられて行 けた。そういうもんですよね。だから人からの何気ない誘いに実は宝 がある。もちろん甘い言葉には気を付けないといけないけれども、そういうことだと思うんですよね。だから自分が変わるのは自分の力で変わる のではなくて、 他人の何気ない一押しが変えてしまったという事もあるから、それがカオスとか複雑系の妙だと思いますので、みんなひょっとしたらそこでつまずいて、明日に なったら天才になっているかもしれないから、夢をもちましょう!以上です」。

《クレジットと註》

この講演の内容の完全版は、桜美林大学人類学研究会 (学生組織)編による定期刊行誌『アントロポロギ』第6号、Pp.1-31、2015年、に収載予定の「【民族文化DAY対談】リベラルアーツから「モン ゴル」を語る」(片山博文・桜美林大学教授とのリレー講演と対談)から抜粋したものです。なお、対談そのものは、2012年12月4日に、桜美林大学で開 催された「民族文化DAY」イベント講演会でおこなわれました(参加者:学生・院生・教員・市民を加えて約60数名でした)。



Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Taizu, better known as Genghis Khan. Portrait cropped out of a page from an album depicting several Yuan emperors (Yuandjai di banshenxiang), now located in the National Palace Museum in Taipei. Original size is 47 cm wide and 59.4 cm high. Paint and ink on silk.

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