「よい」相互作用を引 き出すコミュニケーションを設計する
Planning Communication-Design for “good” interaction among undergraduate and postgraduate participants
Center for the Study of Communication-Design, Osaka University, Mitsuho IKEDA
学部生および大学院生が参加する「よい」相互作用を
引き出すコミュニケーションを設計[デザイン]する:
それはともかく、君のレクチャーを活気づけるのか?それとも君の学生たちを活気づけるのがいいのか?(草稿)
In various parts of
Japanese university campus, we may be bored with
“miracle” recipe stories on effective active learning or interactive
teaching system. The point for which the author would suggest is not
which method can be most effective for learning process of both under-
and post-graduate participants, but why teachers snap up such an “easy”
recipe that seems doubtful according to teachings of history of
behavioral science in pedagogy. The real problem is that most teachers
are forced to follow blindly these methodologies without reflecting in
their own classrooms. We should share the reflection questioning what
happens, when and where occurs, and why happens in active learning
context. The author discusses the process in which specific
context-dependent emergent phenomenon would be transformed into
personalized assumption by misguided generalization without considering
specified contexts in their own classroom. Defining as
Communication-Design, the author suggests that coexisting tension
between situational contingency and facilitator's control can be
metaphorical generator of ‘passion’ for all participants of active
dialogue and learning in our classroom.
1.はじめに
この論文では、昨今の日本の大学で声高にその必要性 が叫ばれている、アクティブ・ラーニング(能動学習)あるいは対話型授業の現場でいったい何が行われ ているのか、その教育学上の含意はなにか、その能動学習は、文部科学省や大学経営者が期待するような学習上の効果を学生たちにもたらすのか、授業のやり方 を変えると学生のひとりひとりの中に、これまでとは変わった中長期的な教育効果が生まれえるのか、そして(最初の点に戻って)はたしてこのようなことは、 操作可能な事実として存在しているのか、などについて筆者は根本的に問うことにする。
しかし紙幅も限られているために、筆者は教育の方法 論がもつ経験主義的な文脈に立ち戻り、能動学習の現場において想定される、リチャード・ワーマン (1993, 2001)の著作にヒントを得た(1)悪い教師の実例の13のパターンを紹介解説し、エリック・レイモンド(1999)の著作からインスパイアされ筆者自 身が考案した(2)よい授業改善法の19のチップスを紹介する。そして、私の過去9年間の経験を積み重ねてきた対話型授業を紹介し、鷲田清一氏が提唱しな がらも具体的な定義づけをおこなわなかった(3)「コミュニケーションデザイン(Communication-Design)」に関する12のテーゼにつ いて、マービン・ミンスキー(1990)の叙述スタイルに範をとった解説をおこない、コミュニケーションデザインを「創発性(emergent)の管理思 想」であると私じしんが定義したプロセスについて、以下に解説しようと思う。そこから、学部生および大学院生が参加する「よい」相互作用を引き出すコミュ ニケーションを設計することには、どのような現場の知であるところの「現場力」が要請されるのか、そして、そこで結局のところ、いったい何が生起しようと しているのかについて見極めることとする。
ここでの能動学習あるいは対話型授業の現場とは、次 のような状況を仮想している。あるいは次のような仮想が、現場において実装されている状態である。 (i)教える側と教えられる側の間の発話が対等なものであるという合意が両者の間にある。(ii)一方的な知識伝達よりも対話を通して各人がもつ知恵の創 出に主眼がおかれる。(iii)成員による発話の資格が対等なだけでなく、各人が腹蔵なく話せる場であるという認識がある。(iv)理念的目標としての 「知恵の創出」に積極的に関わるという性向(性格の状態 hexis)が共有されている。
2.悪い教師の13パターン
■学生と教員から構成される教室という空間を「合意のマトリクス」という観点から分析すると次のような組み合わせの4つの教室の「社会的環境」が想定される。
※ここで示すICとはインフォームド・コンセント(先生の事前の説明により学生が教師の運営趣旨に納得の上同意しているというモデルにもとづく)のことである。
さて、悪い教師は、よい/わるい教室とのマッチングで説明される
ここで言う「悪い教師」は、リチャード・ワーマン (1993:65-73; 2001:98-108)の著作における「悪い上司」から転用されたものである。上司には部下がおり、それらにはそれぞれ良い/悪いを弁別すれば、4通り の組み合わせで職場は構成される。職場が自律的で何かの目的をもった運営形態であるとすれば、その性格や構成要素は教室における、教師と学生に対応するこ とができる。
2.0 以下で述べられることは、上の表の4つのマ
トリクスおける【右の列の悪い教師】の類型を示す。
2.1 失敗したことに対する言い訳を用意するタイ プ
悪い教師の最初のパターンは、授業運営が失敗してい る認識はあるが、それに屁理屈をつけて自己責任を回避するものである。
2.2 俺/私は偉い、君に説明するヒマはないと言 い放つタイプ
学習を強いられる環境にいる学生は授業に参加してい る苦痛を、それに見合う授業目的が高邁でそれに見合うものであることを期待する。このような学生の期 待をはぐらかす教師は悪いものと認定される。
2.3 危機管理のスローガンだけを声高に言うタイ プ
いま学習しないとあるいは怠業すると、事後に災厄が 降り掛かると脅す教師がそれである。しかし、勉強したにも関わらず良い成績が得られなかったり、また 逆に、怠業していても好評価を得た経験のある学生は、教師が吹聴するそのような黙示録的災厄を信じることはない。
2.4 授業が完結する前に、別の話題を持ち出し脱 線するタイプ
教師には学生に詰め込みたい情報やより質の高い授業 にしたいという欲望がしばしばある。そのため授業内容の蘊蓄は掃いて捨てるほどある教師がある。この ような教師は、授業がほぼ成功裏に終わろうとしている矢先に、まだ言い足りないことをもちだして学生を混乱に陥れる。
2.5 学生の理解のレベルを知りたいあまりに詮索 しすぎるタイプ
学生が教師の言うことをどれだけ理解しているのかを 知ることは、授業を運営する上で常に重要な要素となる。しかし、そのことを過度に神経質になると、少 数のインタビューから思わぬ一般化(例、学生は十分に学んでいる/そこそこ学んでいる/全くなにも分かっていない)をしてしまう。多様性や歩留まりという 観点が欠落すると、詮索すぎる性向を生んでしまう。
2.6 ちょっと俺/私にやらしてみなさいと指導し たがるタイプ
教師は元学生には違いないが、そのなかで生き残った 優等生であるという自己イメージが抜け切らないと、自分がかつて授業において成功したやり方が一番だ と思う観念の呪縛から解放されない。学生がどうしてそのような思考方法で今考えているのかについて、自分とは異なる考え方を容認できず、性急に自分にやら せろと言ってしまうのである。
2.7 この授業が好きならできるはず!という根性 中心タイプ
ムードメイカーであるのは好ましいのだが、その元気 の源泉が根性主義を宣教するものになれば最悪である。勉強やその教師が嫌いでも課題を解く能力を具有 する場合もあれば、好きでも思考の技術や想像力が欠けている——一時的に忘却しているとも言える——ために課題が解けないことがある。根性主義は、教室内 における多様性について盲目になる。
2.8 とにかく、おもしろいと連発しすぎて、何が おもしろいのか説明しないタイプ
教師が楽しければ学生も楽しくなるのは、感情の伝染 による場合があり、それは必ずしも共感的状況を両者が分有(シェア)しているとは限らない。「君の発 想は面白いね!」と指摘したあとに、なぜ面白いのか説明できないと、学生には褒められた経験しか起こらず、その指摘(=発想)の掛け替えのなさを合理的に 正当化することができない。
2.9 言葉で説明できずに叱る馬鹿タイプ
アカハラやファカルティ・ディベロップメント (FD)の普及で、このタイプは絶滅危惧種になったが、時間的スケジュールがなかったり、成績判定などの重 要な案件が関わると、教員特に学位取得等の指導をしている教員に、このような非合理的行動が表出しやすい。
2.10 言われたことしかやらないのか?と叱責す るタイプ
これも前項と同様に、虫の居所がわるいだけで、学生 がスケープゴートになる事案である。現在では、多くの教師がこのことが最悪のパターンを生み出すこと を理解している。そのために非合理的なこのような行動がでる状況をプロファイルして、行動学的なフェイルセーフが働くように考案しなければならない。
2.11 以心伝心、学生たちの忖度するのが好き で、その逆に、学生たるものも教師の真意を忖度すべきだとする自己中心タイプ
自分が学生であった経験を大切にする善意の教師が、 学生にあれこれと世話を焼き学生たちに慕われているうちは問題ないが、そのコミュニケーションが齟齬 をおこす時に、「どうして私の気持ちがわかってくれないのだ」と文句を言ってしまう。学生と教師の関係がつねに非対称であることに無自覚であるとこのよう な陥穽におちいるのである。
2.12 あとすこし、あとすこしと励ますが、どこ が終着点かを示さないタイプ
問題点においては、2.7の根性主義での問題に類似 している。このタイプのコミュニケーションを教師が長く続けていると事後的に学生から「嘘つき」だと 認定されてしまう危険性がある。
2.13 失敗がなんだ、どんどん失敗しろ!と励ま しているようで、失敗の原因を解説しないので学生が辟易するドンマイ連呼タイプ
このタイプは、能動学習が一般化すれば今後ますます 増加すると思われるタイプである。なぜなら、能動学習は、現実に起こりえる失敗を体験させて、そこか ら学ばせたりする。あるいは対話型授業のように、反論に失敗しても、それがなぜ失敗したのかを弁証法的に考えさせるために、今日の授業では「失敗の効用」 が大きな存在論的価値を持ち得るからである。だが社会の現場では真逆の事態が待っている。教室の外に出れば、失敗に制裁(sanctions)が加えられ ることが多く、ダブルスタンダードを内面化しない学生はダブルバインドに陥ってしまう可能性がある(ベイトソン 2000)。
3.よい授業改善の19のチップス
前章2.では、悪い教師の性質=性格(キャラク ター)からそれを反面教師として学ぶことで、能動学習をよくする方法について考えた。この章では、オープ ンソースの思想書とも言えるエリック・レイモンドの『伽藍とバザール(The Cathedral and the Bazaar)』(1999)著作からインスパイアされ、筆者自身が考案(パラフレイズ)したよい教育プログラムについて解説する。
エリック・レイモンド『伽藍と
バザール』The Cathedral and the Bazaar, by Eric S. Raymond, |
Cathedral | Bazaar |
Capitalism
and Schizophrenia (1972–1980) project, by Gilles Deleuze and Félix
Guattari |
Three |
Rhizome |
3.1 よい教育プログラムはすべて、教育者 の個人的な悩み解消からはじまる。
教育プログラムの改善は、自分がよいと思ったプログ ラムの失敗から始まる。その意味で前項の2.13における失敗の——節度ある——推奨は誤っていない わけだが、それには反省あるいは内省(reflection or reflexivity)というプロセスを必須という条件が必要である。すなわち、闇雲な失敗の推奨をするわけではないが、より多くの改善とという欲望も 必要となろう。
3.2 なにを教授すればよいかがわかっているのが よい教師、なにを修正すればいいかがわかっているのが、すごい教師だ。
良好に動いているプログラムを教えることは、それな りの資質が必要だが、運営されている良好なプログラムにさらに良くできる助言を与えることは、監督者 (スーパーバイザー)にとっての重要な課題となる。
3.3 捨てる内容をあらかじめ用意しておく。いや でも捨てることになるから。
さまざまな教育経験を積んでくると教師は欲張りにな りプログラムを構成する要素はおのずと増大する。これまで得られたものを取捨選択して「忘れる」こと ができる能力は、何がより重要で何がそれに劣るのかをすでに弁別する能力を獲得した者だけである。
3.4 まともに行動すれば、むこうが問題を持ち込 んでくれる。
これは能動学習において、教師が身体化しなければな らないもっとも重要な気づきのひとつである。とりわけ問題に基づく学習(Problem Based Learning, PBL)においてはそうである。この学習プロセスでは、与えられた問題を解くことは、次の時系列には自らに新たな問題を自ら産出させることであると説くか らである。
3.5 ある教育プログラムに興味をなくしたら、そ れを優秀とおもう教員に引き継ぐべし。
よい教育プログラムは、他の人もそのプログラムに触 れた時、自分もやってみたいと思うような「伝染性(ccontagious)」をもつ。他者が自分が 創案したプログラムを実行してくれることは、遺伝子(ないしはミーム)の拡散・散種に似て創案した社会的意義に一段落することである。後はそのプログラム の進化・改善か、新しいプログラムの創案に着手することである。この項目は、2つの行動選択の後者のことを指摘している。
3.6 学生(生徒)を授業の共同参画者として扱う のは、教育プログラムの高速改良と、プログラム上のエラーを学生じしんが発見してくれる楽な方法だか らだ。
能動学習において非常に重要なことは、授業の進行中 (ongoing)にプログラムの細部に改良を加えることができる利点があることだ——学習者もファ シリテーターとしての教育者も行動や発話において自由裁量の範囲が多数みつけることができる。また、そこでは学習者も教育者もプログラムの改善のための参 与者として平等に機能することが期待されている(1.はじめに、の第三段落での指摘を参照)。
3.7 はやめのプログラムデビュー、頻繁なプログ ラムの改良、そして、学生の声を聴くこと。
座学で知識教授型の従来の学習である「古典的学習」 よりも、能動学習にはスピード感がある。当意即妙な即興(アドリブ)プレイは能動学習にこそ要求され る資質である。このことは前節の3.6で指摘したとおりである。
3.8 第三者の参観とコメント聴取について、広い 心と寛容性をもっておけば、ほとんどの教授法にかんする問題はすぐに見つけ出されて、その改良の方法 は、教員のみならず学生にもわかるようになる。
能動学習の利点は、学習するのは学生であり、ファシ リテーターとしての教育者がそれほど逡巡することなく授業参観が容易なことである。また、授業参観者 もまた、授業の参与者として関与(コミット)することが容易になり、無関与な神の視点あるいは上空飛翔の視点(bird's eyes view)——日本流にはニュアンスの差分はあるが「上から目線」が適当——からの批判が困難になる。授業を運営する者が共有する価値から自由 (Wertfreiheit)になるという利点であり、頻繁な授業参観や参加的介入が、学習者の学習に大きな影響を与えない。
3.9 よく練られた授業の時間構造と、ちょっとま ぬけな解説フレーズ(ユーモア)のほうが、その逆よりもよっぽどまし。
能動学習の利点でもありまた弱点でもある点が、成熟 した議論を磨くには比較的時間がかかる。能動学習はその意味で時間コストが高い授業なのである。その ため、議論を効率化するために、目に見えないファシリテーションが非常にデリケートな要素として絡んでくる。討議時間、発表(プレゼン)時間、ふり返りの 議論の時間など時間を制限時間内で管理したり、時間をまもらせること——より世界的な学識経験者ほどこの技術に長けていることは周知のとおり——は重要で あり、それを学習者も教育者もストレスなく行うことが重要だ。また、さまざまな感情の発露に対して素直になることは重要であるが、公的な場であるため、ど うしても真面目に硬直したものに成りがちである。その時に重要なポイントは当意即妙のユーモアである。ユーモアを派生させる環境とは、心の余裕であり、時 間管理ができているという安心感である。
3.10 第三者の参観とコメント聴取を大切に取り 扱えば、向こう(第三者のスーパーバイザー)も我が事のように真剣に助言することで報いてくれる。
3.8で述べたことと重複するので、当該の項目を参 照のこと。
3.11 良いアイディアを探す次善の策は、いうま でもなく君(=教師)自身だけではなく、学生(生徒)の声に耳を傾けることである。時には、後者のほ うが役立つこともおおいにある。
能動学習の主人公は受講生である学生である。学生の 助言を授業に多いに取り込む際に重要なポイントは、助言者の貢献(名誉)を顕彰してあげることで—— そこでは第1章の(i)で挙げた教師と学生の間の民主主義的原則は一時的に棚上げされているのだが——学生たちに、授業に能動的に参加しているリアリティ あるいはライブ感をより強く与えることに成功するだろう。
3.12 もっとも革命的な解決策のなかには、自分 のそれまでの考え方そのものが間違っていたという認識からやってくることが、しばしばある。
改善のために、それまでやってきたやり方をがらりと 変えることができる能力とは、厚顔無恥なることではなく、変身のための恐怖から自由になることであ る。それまでのやり方を変えることができるためには、授業改善に対する常日ごろからの楽観的な見方が寄与するだろう。
3.13 教育プログラムの真の「完成」とは、もう 何も付け加えることがなくなった時ではなく、なにも取り去るものがなくなった時である。
必要かつ最小限という原則は、あらゆるプログラムや 設計思想の基本的デザインの鉄則に通じる。
3.14 教育で使うツールはすべて期待通り機能し てくれないと困るが、すごいツールは予想もしないことで役立つことがある。
これはすごいツール=奇蹟のツールのことではなく、 誰もが当意即妙のプレイを引き出す創発性を秘めた日常生活のなかにも転がった方法である。日本の能動 学習でしばしば使われるKJ法——川喜田二郎(1920-2009)のイニシャルを取ったキーワードをカードに書き出しグルーピングし、それを構造化する 方法——は、我々が親しんでいる創造的なツールである。しかしながら、くじ引きする際にわれわれがよく使う「阿弥陀(アミダ)くじ」も、例えば黒板を使 い、第三者がマスクしたり加筆するなどの要素を加えれば、ゲーム的な楽しみも加わり、能動的学習にユーモアとエンタテイメントも加味することができる点で 「すごいツール」なのである。
3.15 学生(生徒)とのコミュニケーション技法 を、授業で実装する際には、連続的に与えられ、また時間順に整列されている。そのため時間に追われな いようにするためには、グループダイナミクスを阻害するような(時系列上の)状況への干渉は最低限にするように必死で努力せよ。またそこから得られる実装 時でのデータ収集と(事後的な)分析は怠ってはならない。
3.16 自分の教育プログラムの説明概念や理解が 厳密な意味での論理整合性に叶っていない時には、逆にアバウトな構造を先に伝えることが重要だと思い 直すと、気分が楽になる。
能動学習は、学生参加者の創発性に依存する面が大き い。創発性を管理するようにすれば演出過剰の既製品になりかねない。創発性を自然発生や学生の自発性 にまかせていれば、未経験者には段取りも要領もきわめて難度の高いものに見えてしまう。表現は適切ではないかもしれないが、創発性が発揮されるまでは学生 をソフトに煽てるための演出装置も重要になる。
3.17 自分の教育プログラムが魅力的だと感じ、 それを秘技として特許化するような認識を持ったままだと、それまで自分がさまざまな人たちから助けら れてきた学習の構図に対して無反省になるだけだ。君(=教師)の授業の内容が秘密にするぐらい魅力なのではなく、君のやり方がたぶん魅力になったというこ となのだろう。君の知識は譲渡できるが、君の魅力は譲渡できないからね。授業の魅力の本質を間違ってはならない。このチップが、19の項目の中で、もっと 筆者が声高にして主張したいポイントである。
3.18 面白い授業上の問題や難点を解決するに は、まず自分が授業のなかで見つかった面白い問題の発見からはじめることにしよう。
問題や難点をデバッグするよりも、授業のなかで面白 いと思われることを伸展させるほうが、問題や難点の克服に近道になることが多い。
3.19 授業改善のノウハウは個々の教師のなかに あるので、授業改善について議論するためには、君(=教師)と同じような境遇をもつ人とより多く議論 することが近道になるはずだ。
したがって、能動学習におけるFDの方法論は、座学 による講習のスタイルではなくて、教師集団による参加型のワークショップすなわち教師じしんが課題を あぶりだしそれに回答を与えつつ学習、能動学習ないしは問題に基づく学習(PBL)であるべきだろう。
4.コミュニケーションデザイン・テーゼ
日本で初の大学院の共通教育——高度教養教育——を 実施する組織として2005年4月に発足した大阪大学コミュニケーションデザイン・センター (CSCD)での、これまでの10年間の教育と研究の成果として、これまで、組織のミッション・ステートメントはあったが、定義されてこなかった「コミュ ニケーションデザイン」について、筆者が、以下に12のテーゼと結論をもって応答する。
4.1 現 今のデザイン論的転回について述べる。筆者(私)の役割は、そこで何が能動学習の授業の現場で起こっているのかを思想史的に解明——人類学的 に解釈——することである。
4.2 デ ザイン論的転回の起源や、そこで現代人が何を考えているのかについて抽出する必要がある。思想史家のヴォルフガング・シェフナー(2015 [2010])によれば、自然科学研究はすでに1959年に物理学者リチャード・ファインマンが、ナノテクノロジー——原子レベルへの操作的介入——の可 能性を考えた時に、自然現象を観想的に解釈する知識が、同時に、自然現象を操作可能にするデザインの発想に自然科学を多いに転換させたと主張したことを嚆 矢として、「デザインへの転回(Design turn)」と呼んだ。シェフナーは言及していないが、「デザインへの転回」ないしは「デザイン論的転回」(ともに Design turn )という用語は、哲学者であるグスタフ・ベルグマン(Gustave Bergmann, 1906-1986)の創案よりそれを受けて展開した哲学者リチャード・ローティ(Richard Rorty, 1931-2007)による人文学の転換点の指摘である「言語的転回 (linguistic turn)」という有名な指摘のパロディないしは模倣である。
4.3 デ ザイン的発想の対極にある、エマージェンス(emergence, 創発)/エマージェント(emergent)な事態を、私は「対照化」してみよう。デザインは前節で指摘したように、現象——私たちの組織ではコミュニ ケーション——を、操作可能にする技を事前に設計できるということに由来する。そしてそれとは対極的に、事前に設計せずに立ち現れてくる現象、我々はエ マージェンスないしはエマージェントすなわち創発性と呼んでいるからである。
4.4 人 類史を紐解いてみれば明白なことだが、デザイン的発想の歴史的根源に、超越論的な神の創意をみることは可能である。キリスト教信仰を社会の公 的領域から切り離し内面的な世界の現象として逆に個人の心情の領域として確保した「世俗化」とダーウィン進化論の定着は、結果的にこの宗教における、神の 役割を人間が担うようになったと言っても過言ではない。フランス革命以降における神=超越論的な役割を担ったのは人間の理性(合理性)である。今日、私た ちがデザインをおこなう主体であることを、多くの人たちは疑わないが、キリスト教の歴史においては創造主すなわち神がその位置を占めていた。進化論以降、 神学の存在意義と人間の理性を調停する試みは、ラインホルト・ニーバによる「理性神学」や、創造主たる神の超越性を担保するためものとしてインテリジェン ト・デザインという用語が創案されたが、これらの思想(信念?)には、デザインをする主体は、造りたいものを造ることができるという強い信念が投影されて いる。
4.5 生 命現象、組織現象、情報工学(セルオートマトン等)におけるエマージェントなもの、つまり創発的な思考法と、デザインや制御が可能な「現象へ の合理的介入」という思考法が、二元論的対立図式をみることが可能である。
4.6 コ ミュニケーションデザインという用語と概念は、創発的で結果が予測できないコミュニケーションと、制御可能なデザインという、相異なる2つの 現象を明示する用語が同居している。しかし、それはデザインコミュニケーションすなわちデザインを生み出すコミュニケーション(行為)ではなく、コミュニ ケーションをデザイン(設計・制御)することを意味している。言い換えると、コミュニケーションデザインとは、創発性の管理を端的に意味していることがわ かる。ないしは、そのようにこの用語は創出されたのである。
4.7 し たがって、コミュニケーションデザインとは、創発性の管理が可能である、という信念裏付けられた用語法なのである。その用語法が異様なものでは ないことを証明するためには、それが可能であることを証明しないとならないが、まず必要となるのは、創発性とは何か?ということであり、他方で設計や制御 としてのデザインとはなにか?ということを今一度問うことにほかならない。
4.8 ま ず創発性について考えよう。創発性には必ず「制御できない」「予測できない」性質がある——言い方を変えると、それを人はこれまで創発性ないし は創発的なものと呼んできたのである。創発性は楽観的にはVannervar Bush(1945)の「我々があたかも思うように(As We May Think)」というスローガンで代表されるものであり、悲観的にはカオス、無秩序、そして重大事故のようなメタファーで表現されるものである——コミュ ニケーションデザインの類似のこの種の用語であるリスク・マネジメントという言葉を思い出されたい。さて創発性万歳の思想をつきつめれば、なんでもあり (anything goes)であり、そのことに人は畏れてはならない。またそのことを制御してもできないし、制御できる発想が誤っていることになる(池田 2014)。
4.9 つ ぎに、コミュニケーションデザインのように、なぜ創発性が管理されなければならないのか。あるいはその必要性を主張するコミュニケーションデザ インの用語がなぜ重要な概念として我々の生活の中に浮上するのだろうか。授業における知識伝達と管理・制御の発想を推し進めれば、従来の講義室でのレク チャー一辺倒の授業に戻ってしまうことは、誰でも想像できるはずである。だから、管理を「破壊せよ」(アルバート・アイラー)ということではなく、管理の 代替物として創発性をデザインできるのではないか、あるいはデザインしようではないかという発想が登場する。それを思いつきの発想から一種の思想運動に変 えたのは大阪大学総長(2007-2011年)であった鷲田清一氏である。だが鷲田氏は、コミュニケーションデザインのアイディアを定義するという管理制 御ということを自らに課さず、むしろ後進たるセンターの教職員にその課題を伝えた(と私は信じている)。
4.10 コミュニケーションデザインは、創発性万歳の思想には強い親和性を持たず、むしろ、「よき管理」に傾斜することを余儀なくさせる。それは、なん でもあり(anything goes)への畏れがあるからである。なんでもありという状況は、教育の現場に立ち会う人間にとっては、授業の効果や効力(パフォーマンス)への信頼を失 わせ、授業評価を不能にし、そして文部科学省の監督者たちを当惑させることに繋がるからである。
4.11 したがって、なんでもありへの畏れは、財源を配分し進取の大学院教育を実現したり文部科学省に不孝を買わないようにすると同時に、それらの上級 管理者から制限されたり規模を縮小されないようにするための社会的かつ組織的防衛から生まれざるを得ない。
4.12 しかしながら、創発性を担保しつつ、既存の大学教育にはない能動学習あるいは対話型授業をおこなうための堡塁を築き、その砦の中で、創発性を管 理運営するという宙づりの緊張感をある業務が不可欠になる。それが、コミュニケーションデザインを、管理された中での自由と創発性を「制度的に」保証する 強力な場や環境を形成してきた。なんでもありという創発性もつ無秩序性(アナーキー)を制御し、かつ飼いならし、創発性のエネルギーを管理するためには、 最新のコミュニケーション研究という技術的かつ学問的裏付けのあるデータをもとに、かつ、能動学習や対話型授業で、その都度実装してゆく緊張感が不可欠で ある。また、私は臨床コミュニケーションという授業の運営を通して、そのような意識をこれまで痛感してきた。
4.13 以上をもって「コミュニケーションデザインとは、創発性の管理思想」であり「コミュニケーションデザイン教育の場は創発性と管理がせめぎ合う緊 張感のある場」であったことが証明された。以上で証明を終わる(Quod Erat Demonstrandum)。
以上、Q.E.D. (Quod Erat
Demonstrandum)
この論文のpdf版:SCI-15_Mikeda2015nv-1.pdf
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For all undergraduate
students!!!, you do not paste but [re]think my message.
Remind Wittgenstein's phrase,
"I should not like my writing to spare other people the trouble of thinking. But, if possible, to stimulate someone to thoughts of his own," - Ludwig Wittgenstein