はじめに よんでください

癒しの受容と排除:政治的側面

——〈癒し〉の文化人類学(3)——

池田光穂

「癒し」という言葉は流行語であり、その誕生は意外 と新しい。

 オカルトは今日では反科学の代表とされ、科学主義 の立場から目の敵にされている■9。

■9.例えば早稲田大学理工学部で教鞭をとられた大槻義彦名誉教授は、科学主義の立場を標榜し、その異端的なオカルト信仰の異端審問を自らかって出てマス メディアで活躍している。大槻義彦『「火の玉」の科学——なぞの正体にせまる』大日本図書、一九八九年。

ところが歴史をひもとけば、今日でいうオカルトサイエンスと自然科学という間の溝というものは必ずしも明確に区分することは難しく、自然科学として受容さ れなかったものが事後的にオカルトとして認定され、さらにバッシングされる経緯をたどるものが多い。このような歴史的相対主義にたつと、近代思想が大衆化 する過程のなかでは、事後的にラベルされうるオカルト・ブームというものがおこりうるのだ■10。

■10.十八、九世紀のヨーロッパや北アメリカで流行するスピリチュアリズム——肉体と遊離した霊魂を信じる思潮——や霊媒を中心におこなう降霊会はその 好例である。

 今日の日本で忘れられたオカルト・ブームとして霊術の大流行があった。

 霊術は、皇道大本の出口王仁三郎や太霊道の田中守平らが当時創出した超自然的能力のことをさす。霊術は、西洋の最新の科学として日本に輸入された催眠術 とその社会的受容という先行社会現象をおさえておかねばならない。催眠術は心理学の一分野であり、催眠現象を暗示から説明する。催眠術は機能的疾患と悪癖 矯正を目的とされていた。ところが、明治維新以降、反近代化の中で国家からしばしば弾圧をうけながらも生き残ってきた新宗教の諸教団は、催眠術を、たんな る暗示以上の現象として、神通力すなわち超能力のひとつとして解釈しつつ、当局の弾圧に対するカモフラージュもかねて積極的に催眠術あるいはそれに関する 用語法を受容するにいたる。この日本的受容の中で、催眠現象は心理学的な暗示ではなく一種の超常現象を説明する概念として信者ならびに非信者のあいだに広 く流通することになった。

 ところが二十世紀以降、医師法(昭和二十三年法律第二百一号)や按摩術・針灸術営業取締規則などの近代医療中心の国家制度が整備されるにつれ、催眠術が金儲けや犯罪に抵触するという事 態が問題化されるようになる。もっとも近代医療といってもその科学的水準は、霊術の説明体系よりは多少なりともまともという程度であった。

 一九〇八(明治四十一)年の「濫リニ催眠術ヲ施シタル者ヘノ処罰」によって、催眠術は宗教者が使える技術体系からは排除されてしまう。ところがその二年 後、東京帝国大学文科心理学助教授・福来友吉と京都帝国大学医科大学教授・今村新吉が透視能力をもつ女性について指摘し、これが当時の新聞雑誌等のメディ アに取り上げられ透視や念写実験がおこなわれた。福来は『透視と念写』を一九一三年に出版したが、当然のことながら大学内部では非科学の烙印をおされ同年 大学の職を辞している。他方、催眠術から表向きに決別した新宗教のオカルト的癒しは「霊術」というあたらしい衣をまとうことで、見事に復活をとげる。これ からおよそ十数年間はオカルト的治療は大流行する。

 一九二〇年代は霊術全盛時代となり、医師免許取得者総数約四万人に対し、霊術家は約三万人とまでいわれたほどのブームになった■11。霊術は表面的には 多様であったが、いくつかの共通点をもっている。その最大の共通点は、伝統的な宗教的要素が少なく、代替科学的特徴をいろこくもつことである。また、近代 医学の唯物論的な特徴に対して攻撃的で、その信奉者たちは、おおむね心身一元論を主張してきた。たとえば明治の終わりから隆盛をきわめ昭和三(一九二八) 年に創始者の死去によって活動が消滅した太霊道は、生命の実体を「霊子」と呼んで近代医学の精神・物質の二元論を否定し、霊子一元論の立場に立つオカルト 治療——現在でいう癒し——をおこなっていた。しかし一九二七(昭和二)年の「療術行為等取締規則」が施行されるにいたって、近代医療に類似したり対抗す る治療行為は法的に規制されることになり、霊術もまた歴史の表舞台から姿を消した。

■11.オカルト研究者兼その実践者である井村の次の本は資料的にも読み応えのあるものである。井村宏次『霊術家の饗宴』心交社、一九八四年。

 しかし、近代科学によって粉飾し自己の正当化をはかるこのようなオカルト的施術の伝統は、容易に根絶できるものではない。かつての大本の宣教師——「宣 伝使」——であった岡田茂吉は、大本を脱退後の一九三四年東京の麹町に応神堂という施療院を開設し岡田式神霊指圧法という施術をおこなっていた。翌年に大 日本観音会を結成し「浄霊」という治療を始める。医師法違反に問われた大日本観音会は二年後に大日本健康教会へと改称するが、やはり療術行為等取締規則に よって、最終的に療術行為禁止処分を受けるのである。岡田は、一九三七年に宗教と施術を分離して、後者に専念しようと正式許可を受けるが、三年後に医師法 違反(医療妨害)の疑いで検挙され、最終的に療術院を廃業し東京玉川警察とあいだに医療行為を行わない旨の誓約書を交わしたりもした。しかしオカルト施術 への情熱はつづき、四二年には『明日の医術』を発刊するが、これも二年後には発禁処分になる。岡山では三七年に龍神天道会という団体が医療妨害の疑いで検 挙され、詐欺と業務上過失致死(治病行為で信者の死亡)として送検されている。それにもかかわらず、このようなオカルト的施術の伝統は、電気療法・指圧な どの物理療法、食養生・身体鍛錬の健康道——例えば西医学、マクロビオティクス、自彊術、野口整体——、信仰治療を行う新宗教などへと分化し発展し、その 後もなお引き継がれていった。第二次大戦後は、それらは健康ブームという形でさらに継承されてゆく。今も昔もそのスタイルは変化してもオカルト的性質は変 わらないというわけである■12。

■12.高木学「健康法」『戦後日本の大衆文化』鵜飼正樹・永井良和・藤本憲一編、pp.175-197、二〇〇〇年。この論文は、怪しげな健康法や関連 食品の栄枯盛衰を要領よく整理してくれているが、そのことが、なにゆえに盛衰するものかという説明においてはいささか迫力不足を感じる。

 このように解説すると、戦前のオカルトと戦後のオカルトの違いは何であったのかという疑問が生じる。ひとことで言うと、戦前のオカルトブーム——とくに 大正から昭和初期にかけて——はしばしば治安当局に監視されるほどの脅威を与えたが、戦後のそれはほとんどなかったということだ。また戦前の新宗教教団や 団体への弾圧のほとんどは治安維持法への抵触が理由とされており、医療業務妨害という理由での検挙事例も、治安維持を目的とした処罰の中で派生したものと 考えることができる。先の岡田茂吉は戦後、日本浄化療法普及会という組織の後に大日本観音教団(後の世界救世教)という名称の宗教団体をたちあげ、また手 かざしによる浄霊という治療行為を軸に派手に布教をはじめたが、脱税や贈賄で罪に問われることこそあれ施術そのものが問題になることはなくなった。つまり 戦後の新宗教において、カルト的な中小教団で偶発的に起こる医師法や薬事法違反事件を除けば、近代医療と問題をおこすことはほとんどなくなったといえる。

出典:池田光穂「「癒し論」の文化解剖学」佐藤純一編『文化現象としての癒し』[共著]、Pp.185-209、メディカ出版、2000年

リンク

インデックス

    1. 癒しを定義する——〈癒し〉の文化人類学(1)
    2. 癒しをうむ社会的文脈:宗教的側面——〈癒し〉の文化人類学(2)
    3. 癒しの受容と排除:政治的側面——〈癒し〉の文化人類学(3)
    4. 癒し論の粉飾決済:オカルト施術から癒しへ——〈癒し〉の文化人類学 (4)
    5. 癒しを見る眼——〈癒し〉の文化人類学(5)

文献


Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 2015-2099

池田蛙  授業蛙  電脳蛙  医人蛙  子供蛙