癒し論の粉飾決済:オカルト施術から癒しへ
——〈癒し〉の文化人類学(4)——
「癒し」という言葉は流行語であり、その誕生は意外 と新しい。
オカルト施術は、治安当局からかつては危険なもの とみなされていた。しかし、現在オカルト施術のひとつである癒しが社会にとって脅威であると信じる人は少ない■13。現在のオカルト施術つまり癒しが社会 にとって脅威ではなくなった可能性は論理的には二つの側面から説明される。ひとつはそれを監視し取り締まる当局や社会通念が、それに対して寛容になった可 能性であり、他のひとつは、オカルト施術そのものが人畜無害になった可能性である。
第二次大戦後、信教の自由が認められるようになっ
て、数多くの新宗教教団が生まれたり、また戦前から戦争中に弾圧をうけていた教団が公認されるように
なった。そこでの特徴は、かれらの活動が比較的自由に行われるようになって以降明らかになったのは、当局が懸念するような「淫祠邪教」という反社会的な活
動は戦前にも実際にはほとんどなかったということだった。軍国主義的全体主義からみれば、現在では当たり前に思える信教の自由そのものが脅威だったという
ことである——このことを現時点で想像することは容易ならざるものがある。要するにカルト教団が怪しげな施術をおこない、かつその信条が近代医療に対して
脅威を与えるという事態は、明かな医療拒絶事例■14を除いて、昔も今もほとんどみられないということである。また、近代医療概念と抵触する事件を通し
て、問題を避けるように教団の組織が順応していったことも考えられる。教団が認定した「薬」を販売する場合、薬事法にもとづく正式な許可をとっておこなっ
たり、またそれらを「健康食品」——もともと近代医療的には効力が期待できない代物が使われたりするので言葉どおり穏当な表現である——として配布するよ
うな事例である。つまり、経験的に効果が望めないような無茶な治療や奇跡というものが、それほど簡単におこならないことは、その言葉を能天気に受け取る研
究者よりも、当の信者のほうが冷静に理解していることだ。オカルト施術は、経済的あるいは道義的事象が問われなければ、その多くは人畜無害である。ここで
押さえておかねばならないことは、人は人畜無害なことは忘却しやすく、一回限りの幸運や不幸をしぶとく記憶——それも間違ったかたちで——することにあ
る。
このような歴史的経過を通して癒しはマイルド化をと
げてきた。しかし、この種の説明には、つねに言葉によるごまかしがある。癒しという言葉を使うに、オ
カルト施術のうち否定的な事象を取り除いた施術を癒しと称し、あらかじめ癒しを無毒化した上で、その言葉に好ましいイメージがあったのだという言説を弄す
るやり方がある。この種の修辞の使い手に東京大学文学部教授の島薗進がいる。彼は、現代日本の癒しの流行を「癒しの文化」へのニーズが増したのであると現
状を分析し、そのような事態を肯定的にとらえている。またその一派である新屋重彦らは、癒しを宗教の原初的あるいは根本的な活動と規定し、近代化のプロセ
スのなかで教団がもつ癒しの要素を縮減させることをのべている■15。彼らの特徴は、癒しを新宗教運動の原動力ないしは不可欠な活動ととらえ、現代社会の
人びとの癒しへの希求と宗教運動のもつ癒し志向を肯定的にとらえようとしているところにある。
このような人畜無害のようにみえる癒し論は、彼らが
研究対象にしている癒しそのものと同様、オカルト施術の独自性や着眼点のおもしろさ、あるいは彼らが
いう「近代知のオルタナティブ」としての施術の側面ばかりを強調している点で、社会現象を批判的にとらえる観点からみると大いに問題がある■16。これら
の言説はオカルト教団にとっては薬となるかもしれないが、科学的研究にとっては毒である。癒し派と呼べる彼/彼女らの修辞戦略上での最大の問題は、あらか
じめ癒しを問題を含まない善良な意味を内包する定義を与え、そのような定義にかなう癒しの諸事例を列挙し、しかるのちに癒しをすばらしきものとして称揚す
るという、同語反復性にある。そのような論理からは、死後も治療と称して遺体を処理せず、生きていると抗弁するカルト教団の社会問題性を論じることなどで
きない。なぜならば、それらは危険であるがゆえに癒しではないものとして、あらかじめ排除されているからである。
だが、これらの用語法上の欠陥とそれがもたらす議論
の欠陥について、周辺的な誤用=御用研究者を糾弾するだけでは根治治療にはむすびつかない。研究者に
格好の癒しの素材を提供しているオカルト施術活動とそれを活動の基盤にしている団体の問題性を問わねばならない。ところが、癒し論の研究対象となっている
さまざまな宗教団体や整体などを売り物にする団体などの活動の内容について読み、それらの団体が信条としている疾病や身体についての考え方——疾病論、身
体論、災因論などの専門用語で分析される——について知れば知るほど、それらはあまりにも多様であり、概念総体をはたして、癒しという単一の言葉で還元で
きるものであろうかという疑念を誰もが抱かざるをえない。とすれば、怪しげな癒しに従事する個々の教団をバッシングすればよいのだろうか。しかし、癒しと
いう現象の定義の操作性あるいは構築性——以前ならば虚構性という表現もあったが不適切ゆえに使わない——とがあきらかになったいま、個々の教団の癒しの
実践は、われわれにとって真の敵ではない。癒し論の曖昧な論理性(=あるいは論理の無さ)こそが問題なのである。
出典:池田光穂「「癒し論」の文化解剖学」佐藤純一 編『文化現象としての癒し』[共著]、Pp.185-209、メディカ出版、2000年
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