癒しを見る眼
Look at the laughing eyes on believers of healing cult !!
——病 人を癒したり、死者を甦らせたりするキリストは、キリストの使命の中でも、見窄らしく、人間臭く、低級と言ってもいい部分である。超自然的な部分は、血の 汗であり、人間の側に慰めを求めても得られなかったことであり、できることならかぬがせてほしいと切なる祈りであり、神から見捨てられているという思いで ある——シモーヌ・ヴェイユ「十字架」『重力と恩寵』より
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「癒し」という言葉は流行語であり、その誕生は意外 と新しい。
癒しという用語が人口に膾炙されるようになったの は一九八〇年代以降であり、癒しという言葉が恥じらいもなく近代医療者においても使われるようになったのは九〇年代、それも後半であるといえる■17。繰 り返しになるが、この時期に癒しがつねによい意味合いをもたせて使われ始めており、それが流行語として爆発的に流通するようになった。癒しという用語と、 それが指し示す言葉のイメージは、バブル経済の崩壊が明らかになった一九九一年後半と時期を同じくして、経済的な熱狂を反省するかのように、我々の社会の 中に浸透しだす。近代医療者が癒しを無節操に使うようになるのはこの時期である。また世界的には冷戦終結後の世界的な混乱、とくに非イデオロギー的な要因 による民族紛争や内戦の激化などによる精神的外傷あるいはストレスの病理研究が進み、ベトナム帰還兵の研究から出発したPTSD(Post- Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス傷害)の用語と概念の普及もまた癒し概念の社会的受容と並行しておこった類似の社会現象と言えよう。癒しは現代社会の人々が現在必要と 感じている現象であり、世の中に登場したさまざまな癒しについての実践運動や解説を中心とした——前節で批判した研究者たちによる——書物などは、さらに その癒しブームという火に油を注ぐものとなっている。
■17.脚注(1)、■注1を参照せよ。癒し言説を普及させる側の当事者からの発言はどうだろうか。癒し派のイデオローグの一人の上田紀行の言動をチェッ クすることは興味深い。彼の一九九〇年の著作ではすでにサブタイトルに「癒し」の用語が現れているが癒し概念についての具体的言及は乏しい。しかし九七年 の論考では、癒しブームを煽った張本人の側からの自己主張と——今さらという感はあるが——わずかな反省が見られる。上田紀行『スリランカの悪魔払い—— イメージと癒しのコスモロジー』徳間書店、一九九〇年:上田紀行『癒しの時代をひらく』法蔵館、一九九七年。もっとも、近代医療における癒しの問題をもっ ともシビアに検討した癒し慎重派ともいえる議論も数少ないがある。佐藤純一による先駆的でかつちょっと怪しげで多少長いタイトルの以下の論考を参照せよ。 佐藤純一「現代医療における<癒し>の概念について——<マハトロス>への治療戦略を事例にした医療思想史的一考察」『医療哲学 医学倫理』9:68-82.一九九一年。
現代医療は、近代医療で説明可能な癒しを取り込もうとしている。ところが治療と癒しという境界線上では、春山茂雄『脳内革命』(一九九五)のような近代 医学用語を駆使した生活改善マニュアルが横行することになる。医師である春山の主張はさまざまな批判をあびているが、それが道徳的に批判される理由は、科 学者たるべく医師が稚拙な言説をもてあそび、またその書物の売り上げによって怪しげな経営コンサルタントと結託して莫大な利益を得たことにあるようだ。も しそうであるとすれば、非合理的な言説を弄する宗教家が説く生活改善マニュアルは山ほどありそれらについては非難されることがなく、春山があえて糾弾され なければならない根拠は何であろう。近代医療の医師が非科学的言説を弄したことなのだろうか。それとも診療以外の宗教まがいの活動をおこなったことが非難 されるべきなのであろうか。そこで不問にされているのは、騙されて春山の本を購入した教養のない無節操な読者には責任がないのだろうか。そもそも一般にト ンデモ本を出版し、それを購入し、読むということが、特に非難されないのであれば、なぜ春山だけがバッシングされなければならないのか。そうすると宗教家 春山某が『脳内革命』を出版しても何ら問題がなかったが、医師が怪しげな生物医学をベースに妄言を吐くことが問題になったということである。したがって、 春山をバッシングする人たち■18は、医師や医学というカテゴリーには非科学があってはならないという点を問題にしているのである。
■18.春山批判の書籍には、永井正史『医者からみた「脳内革命」の嘘』データハウス、一九九八年。北貞夫『「脳内革命」の大嘘』日新報道、一九九七年な どがあるが、管見の許すかぎり本邦初でかつ適切な春山批判は、医療人類学者の矢野和男「『脳内革命』はオカルト・トンデモ医学本である」『常識やぶりの健 康読本』別冊宝島二八五号:36-47.一九九六年である。もっともこの批判、愚者を装う確信犯の春山の犯行に対して床屋相手に真面目に解説を垂れる善良 な矢野刑事という感は拭いきれぬ。
ところが、このような一見まっとうと思われる「行為と理念の一致させる」という行動原則は、現実には守られているどころか、現実には一致する例を見つけ ることのほうが難しい。こと宗教的な事柄に関しては、それらの不一致の傾向は強い。日本の新宗教教団が公表する信者を合計すると日本の宗教人口は相当なも のになる。公称信者数というものはいい加減でこれに科学的合理性をもとめるのは不可能であるとしても、実際に動員されている信者の数はかなりの数にのぼ る。また、それらの教義や実践も多様であり、奇妙奇天烈なものも多い■19。そのような非合理な実践を信者が受け入れているからと言って、信者が無知蒙昧 であると決めつけるのは現実にはできない。科学的な説明体系が通用する世界と非合理的な宗教実践が共存することは一般的に可能なのである。現在まで登場し てきた癒し論を概観するにあたり、宗教的な癒し賛美の主張を除いて、一見科学的な議論をしている論者の歯切れの悪さは、この理念と行動の不一致という現象 に対して、論理的には整合性をもたせつつ、結果的には折衷的な機能主義的な見解を与えることで満足せざるを得ないところにある。
■19.このことに興味のある方は、我が国における新宗教に関するエンサイクロペディアたる、井上順孝・孝本貢・対馬路人・中牧弘允・西山茂編『新宗教事 典』弘文堂、一九九〇年を参照せよ。その事典には、編者たちの明かな意図があると思われるが、奇妙奇天烈でエキゾチックな新宗教各派の諸儀礼の美しい写真 が冒頭に収載されていることに気づくはずである。
そのように考えると、おかしいのは、研究対象となるさまざな宗教的色彩のある「けったい」な癒しの実践者の主張のほうではなく、治療と癒しにもっともら
しい定義を与えて、理念と行動を一致を前提に木に竹を接ぐような癒し論を展開する科学主義者のほうである。われわれの社会現象は、論理整合性によって説明
できる部分はきわめて少ないものであると考えるのが、社会科学の正しい議論のはじめかたである。
かつて社会人類学者エヴァンズ=プリチャードは、妖術を信じる中央アフリカのザンデ人の一見非科学的な主張を論理的に説明し、西洋人にも理解可能なかた
ちで提示したことがある■20。こういうことだ。ザンデ人は、シロアリによって弱くなった高倉の柱の崩壊による犠牲者が発生したばあい、それを他の人間が
仕掛けた妖術で説明し、加害者である妖術師を探し出すことに専念する。この行為実践はザンデの人々が共有する不幸に関する一貫した因果論的な説明体系を提
供してくれる。つまり、シロアリによる直接理由の知識を前提にして妖術の因果論は偶然ではなく他ならぬその犠牲者がなぜ死んだかを必然的なかたちで説明し
てくれる。シロアリによる浸食による柱の崩壊という直接原因よりも、間接的だが人々に明示的である妖術のほうが、理解可能な解釈として提供されるのであ
る。さらに妖術告発とその認定は、一般の人々に制御不可能な託宣——鶏に致死量すれすれの毒を飲ませ神に審判を仰ぐ——という社会慣習をもつことによっ
て、反論を容易には受け付けない信条の体系をつくりあげ、それが社会統制の機能をもっていることを、我々にも理解可能なかたちでエヴァンズ=プリチャード
は見事に説明したのだ。
■20.Evans-Pritchard, E.E., 1937. Witchcraft, Oracles and Magic among the Azande. Oxford: Clarendon Press.
ザンデ人としての我々の社会の中にあるまったく非合理にみえる癒しの社会現象において、われわれはいまだ自分たちのエバンズ=プリチャードを見いだして
いないのである。
出典:池田光穂「「癒し論」の文化解剖学」佐藤純一編『文化現象としての癒し』[共著]、Pp.185-209、メディカ出版、2000年
クレジット:池田光穂「〈癒し〉の文化人類学(5):癒しを見る眼」
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