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トゥキュディデスと戦記について

Thucydides and his History

池田光穂

はじまり

ツュキュディデス(あるいはトュキュディデス, B.C.ca.460 - B.C.395)は、27年にわたるペロポネソス戦争そのものを一貫して同じものだという認識を最初からはもっておらず、戦役の終了後からその「歴史観」 を抱くようになったといわれている。ニキアスの和平(BC421)移行、ある種の、そして今日でいうところの「冷戦」の概念に到達したと言われている(小 西 2013:373)。

タキトゥス(Publius Cornelius Tacitus)は、ラインの西およびドナウの北に住むゲルマン諸民族の地理風俗を描いた西暦98年頃『ゲルマニア』(De origine et situ Germanorum)を執筆した。(その資料としての重要性は前50年頃書かれたカエサル『ガリア戦記』Caesar,"De bello Gallico"と並ぶ)。タキトゥス自身は、彼の地に赴いたのではなく、ポシドニウス、カエサル、リウィウスらの著述から引かれているという。この書の 執筆<動機>についてはさまざまな議論が交わされたが、その叙述にもみられるように、当時の腐敗したローマに警鐘をならすために、自立と独立の精神をもっ たゲルマニアの蛮族を描くことに専心しているようにも受け取れる。

この場合、タキトゥスは、異文化・異民族を、自分と は異なるものとして単に珍しい風俗を描こうとしているのではなく、むしろ“自分たちの堕落”を写す素材として、ゲルマニアの人びとの生活を、より賞賛すべ きものとしてとらえているのである。この記述における〈レトリック〉は、他者の肯定ないしは賛美とい う描写を通して自分たちのあり方を否定的に描こうとすることであり、その〈動機〉はモラル的なものである。つまり、自己についての意識を自覚=喚起させる ために、他者が使われているからである。

ツヴェタン・トドロフは、自文化から距離をおくこと が、いかに困難であるかについて論じている。そのためには自分が属している場所から自分を(多分に認識論的な意味 あいにおいて)引き離すこと=非・所属(エクゾトピー)が必要であると述べて、トゥキュディデスについて触れている(→エクゾトピー)。前5世紀頃の『歴 史』Historiaiの著者トゥキュディデスは、彼自身アテネ人でありながら、アテネとペロポネソスとの戦争の歴史を書く資格があるかについて弁明した 根拠は次のようなものである。“自分はアテネ人だが、20年を祖国から離れて暮らした”というのだ(トドロフ『歴史のモラル』p.35)。こちらは、歴史 における事象を記述するものがもつ〈権利〉や〈資格〉について語っている。また『戦史』のスタイルは、資料を収集する態度、厳密な編年 体、出来事の因果性に関する鋭い視点など今日の歴史学が採用する態度と共通する点も指摘されている(このようなライティングのスタイルはソフィストやヒポ クラテス派などの影響によるものと言われる)。ヒポクラテス派の影響は、トュキュディデスも感染した、紀元前429年:流行病蔓延と、それに関する詳細な 「病理記述」から影響しているという(小西 2013)。

ペロポネソス戦争クロニクル(ウィキペディア[日本 語]より)

リンク

文献

Copyleft, CC, Mitzub'ixi Quq Chi'j, 1996-2099

Thucydides, ca. 460- ca. 400 BC

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